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雨上がりの夜、俺はひとりでバーにいた。場所は渋谷の裏通り。目立たない扉の奥にある、カウンター席だけの小さなバー。
「こんばんは」と小さく挨拶して、俺はカウンターの端に腰を下ろす。
「アイリッシュ・コーヒーを。甘くないやつで」
それは俺の“終わった恋”の味だった。
仕事に追われ、すれ違って、愛は静かに消えていった。
別れたあとの夜、心にぽっかりと空いた空白を埋めるように、俺はこのバーに通うようになった。
そこに、アイツが現れたのは、そんなある日のことだった。
スーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖をまくったアイツは、俺の隣に座った。
「この店、初めてなんです。よく来るんですか?」
そう尋ねる声は、低く落ち着いていて、どこか寂しさを含んでいた。
俺は微笑んで、グラスを軽く傾ける。
「よく来るけど、誰かと話すのは久しぶやな。あなたは?」
「…俺も、似たようなもんです」
ふたりは、それ以上過去を深く語ることはなかった。
だが、話さなくてもわかることがある。
失恋の余韻、満たされない孤独、誰かをまだ完全には忘れられない感情。
それでも、不思議と会話は自然と続いた。
映画の話、本の話、仕事の愚痴、そしてたまにお互いの沈黙。
2杯目を飲み終えたとき、アイツが言った。
「また、ここで会えるかな」
俺は、少しだけ笑って答えた。
「それは、あなた次第。俺は変わらず、ここにいるからな」
その夜、ふたりは名前も、電話番号も交わさなかった。
ただ、同じ空気を吸い、同じ時間を過ごし、アイリッシュ・コーヒーの苦味と甘さを共有した。
次の雨が降る夜、俺はまたそのバーにいた。
そして、隣の席が静かにふたたび埋まったとき、俺はようやくこう言った。
「紅茶、って言います。あなたは?」
「…ウマヅラハギ。はじめまして、紅茶さん」
恋の始まりは、案外こんなふうに静かで、大人しくて、けれどどこまでも深くなるものなのかもしれない。