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小さな砂利を多く含む土壌は、重く伸し掛かる重圧により踏み鳴らされ、たったの一歩で悲鳴を僅かに上げる。多くの対戦した者達を震え上がらせて来たであろうその荘厳たる巨体は、戦巧者であるヴェインを恐怖で委縮させるどころか歓喜雀躍《かんきじゃくやく》の如く心を躍らせて魅せた。
互いの息が触れ合う距離で対峙する。既にヴェインの間合いの範疇では有るが、漸《ようやく》く露になった稀有《けう》な存在の全貌に、剣を構える事すら忘れ、唯々《ただただ》その生命力溢れる姿に見惚れてしまっていた。
「あんた! 何してんだよ、やられちまうよ⁉ 」
老婆の声でハッと我に返ると、何故かヴェインは独り言をブツブツと唱え乍《なが》ら無防備のままマルチャドの足元に膝を落とし―――
「そうだな、これから一戦交えるのに、こいつぁおめぇに不利だよな」
四つ足全てに足枷《あしかせ》が食い込み、そこから切断した鎖の半端を引き摺《ず》っている。これだけでもかなりの重量になると予測したヴェインは、恐れる事も無くマルチャドの足首の足枷を取り払おうと行動を起こす。
「クソッ こんなもの嵌《は》めやがって」
その様子を黙って見下ろしていたマルチャドは、暴れる事も無く、暫くヴェインを観察すると、鼻を鳴らし匂いを嗅いだ。すると何かに納得した様子で徐《おもむろ》にヴェインが足枷を外そうと奮闘している脚を軽く上げて見せた。
「お⁉ おめぇ、わかってんじゃねぇか、助かるぜ」
手先の器用で無いヴェインが汗だくになりながら、息を切らせ全ての足枷を外し終わる頃には、マルチャドの荒かった息遣いも、不思議と何故だか落ち着きを見せていた。
「さてと、んじゃそろそろ、おっ始《ぱじ》めようぜ」
ヴェインが大剣を今正に構えようとした時だった。突如、粘着したドロドロした酷く臭う物質でベロンと視界が奪われると、マルチャドが辺りを響かせる程の雄叫びを上げる―――
「グモオオオオォ――― 」
続けて又しても、ベチャリと分厚い牛タンがヴェインの顔面を容赦無く洗う―――
「ぶっへぇ、クソッ‼ てめぇやり方が穢《きたな》いぞ、いやマジで汚ねぇぞ…… ぺッぺッ」
視界を奪われたヴェインは、傾いた形勢を立て直そうと必死に顔面を拭うが、濃厚な牛の唾液が絡みつき目が開けられない。
「てめぇ、こんちくしょー、勝負ってなぁ正々堂々と…… くっ臭ぇ」
そんな様子を一人、冷静に傍観していた老婆は深いため息を付き呟いた。
「何してんだかねぇ、アンタ達は」
するとマルチャドは、視界を遮られ危機に慌てるヴェインの股間にいきなり鼻を差し込むと、勢いよくブンっと空に屈強な男の身体を軽々と搗《か》ち上げた―――
「どわあぁぁぁぁ――― 」
身体を打ち上げられた瞬間に致命を覚悟したヴェインがドスンと着地した場所は何と、短く硬い毛が生い茂るマルチャドの背中であった。
「ぐへぇ」
「ブモオォォォォ――― 」
「何なんだこいつ、なんだっつうんだ⁉ 痛てて」
「まさかこんな事があるなんてねぇビックリだよ。そいつはアンタに感謝をしてるのさ、アブドゥルさんに命は救われたものの、余程此処の生活は苦しかったんだろうね」
「だったら最初から素直に乗せてくれりゃぁ良かったじゃねぇかよ」
「そんな訳いくかい、身の危険を察知して警戒するのは動物の本能さ、アンタの事は一時《いっとき》でも危険だってマルチャドは判断したんだよ」
「…… 」
「良かったじゃないか、やり合ってたら間違いなくアンタは死んでるよ? 」
「まぁ…… ちげぇねぇや」
ヴェインはマルチャドの鼻環から垂れ下がる二つの切断した鎖の半端を自分の手元に怖《お》ず怖《お》ずと手繰り寄せると、腕に絡め握りしめた。
「へへへ、丁度いいぜ。これで振り落とされずに済みそうだ。しかし馬と違ってケツが半端なく痛てぇぞ」
「牛は全くの別物だからね、その子専用の鞍でも作らなきゃ腰をやっちまうよ? 」
「そうだな、行き場がねぇっつうなら俺様の愛牛にしてやっても良いんだがな」
「グモオォォォォ――― 」
「つうかよぉ、今思ったんだが、マルチャドから降りたらもう乗れねえよなコレ…… 背中が高過ぎて跨げねぇよ」
「だからまた股間に鼻面《はなっつら》差し込まれて、搗ち上げて貰えばいいじゃないか」
「何回もやられりゃ股間が腫れちまうじゃねぇか」
「アハハ、どうせロクに使ってもしない股間なんて腫れさせときゃいいだろ」
「いっ――― 言ってくれるようになったじゃねぇか」
ヴェインは少し恥ずかしそうに頬を染めるとボソリと呟く。
「ブモオォォォォ―――」
「アタシだってね学ぶんだよ。アンタにはこれくらい辛口の方がいいだろ? ほら早く、もたもたしないで行っとくれよ」
「チッ――― 」
「誰かぁ‼ 大変だよ、来ておくれ~ 牛泥棒だよ~ 」
「おっおいテメェ、このっババァ覚えてやがれ」
「アンタがもたもたしてるからだよ。いいかい? 頼んだよ」
「誰かぁ~ 牛が盗まれたよぉ~ 」
「クソッ――― 」
「立派な言い訳が出来るように、きちんとお役目を果たして来るんだよ? 」
「うるせぇババァ余計なお世話だ、行け‼ マルチャド――― 」
「グモオォォォォ――― 」
踵で脇腹に拍車《はくしゃ》を当《あ》てると、ドンッと気流が奔《はし》り、感じた事も無い瞬発力がヴェインの背中を引っ張った。手綱《たづな》代わりの鎖が掌の中を滑り出し、身体を持って行かれぬよう必死に堪えると、押し迫る風圧が頬を歪ませる。慌てるヴェインをよそにマルチャドは何故か牛舎へと猛烈に突っ込んで行く―――
「ちっ⁉ 違う、そっちじゃねぇええええ――― 」
―――どわあぁぁぁぁ―――
ドガンと牛舎を突き破るとマルチャドは、騒ぐヴェインを人質に、大穴だけを残して砂埃と倶《とも》にあっと言う間に消えて行った。
「気を付けなよアンタ~ そいつは馬とは違うんだからね~ 」
―――うぎゃあぁぁぁぁ―――
少し前―――
錬金科学研究所内部ではフードを深く被り、全身を黒い外套で隠した者達が、この奇襲の最後の仕上げに取り掛かっていた。
「アタイの方は終わったよジン。地下の方は片付いたかい? 」
「サイラはどうした? まだ三階か? 」
「油が余ったって言ってたから、まだきっと撒いてんだよ」
「隠れてる奴も居なかったか? 」
「あぁ、生存者は勿論。猫の子一匹だっていやしないよ」
「レイ。彼奴等はどうした? 」
ジンと呼ばれた人物は深く被ったフードを上げながら、気の強い少女に瞳を交差させる事無く答えを求める。
「隊長達なら人質達と疾《と》っくに離脱したよ」
「そうか…… 」
「ねえ、ジン…… もういいだろ? サイラと三人で逃げよう。きっとこれが最後の機会《チャンス》だよ? ねえってば――― ジン‼ 」
男は淡々と手にした残りの油を床に撒いて、希望の湧かない返答を少女に返した。
「彼奴等よりも先に帰還すれば、見捨てて帰って来たと言われ頭を吹き飛ばされる。何故先に犠牲にならなかったってな。そして任務を与えられ帰還しなかった場合もだ、分かるか? 俺達はもう死んでいるんだよレイ…… 」
「そ…… んな…… 諦めちまうのかよジン――― きっとこの呪隷紋《じゅれいもん》だって解除出来る錬金術師が何処かにいるはずさ、取り敢えず術が届かない所まで逃げよう」
「俺達は殺し過ぎた…… 殺し過ぎたんだ。いつか罪を償わなければならない」
「これがソノ罪だって言うのかよ? ふざけんな‼ 囚われて生きる為に仕方なく剣を覚えさせられ、人を殺させられてただけだ。望んだ訳じゃない」
「それが今はどうだ? お前は笑いながら人を殺している…… 」
「うっ――― 」
「どうしたレイ…… 」
―――顔色が悪いぞ?―――
「うるさい うるさい うるさい 黙れ 黙れジン」
―――違う―――
「俺達はもう…… 壊れちまってるんだよ」
悲し気な瞳でジンが呟く……
「違う 違う 違う――― アタイは殺しを楽しんでなんか居ない」
肩を落とし床に言葉を吐き捨てるレイの後ろから、階段を下って来た一人の女が声を掛けた―――
「あら? 随分な雰囲気の所に来ちゃったみたいね? 」
「サイラか……終わったのか?」
「ええ。さっさと火を放ってこの場からおいとましましょうよ。首を飛ばされる前にね」
愚かなる悪意は何時の世も、諍《あらが》えぬ者達を悪魔に変える。宵闇の如く迫る叢雲《そううん》は、 釁《ちぬ》り払えぬ手を染める。嘲笑う幽世《かくりよ》に住まうは、神か仏か己自身か。