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あんさんは小倉あんという芸名だから、和菓子の差し入れをもらうことが多い。洋菓子より低カロリーだし、どうせもらった差し入れのほとんどを声優仲間でシェアしているから、いくらもらっても処理に困ることはないようだ。
名前を覚えてもらいやすいのもよかった。あまりイベントに出たがらない人だけど、義理で断りきれずたまにイベントに出演すると、あんこだあんこだと子どもたちが文字通り押し寄せてくる。
「あざとい芸名をつけやがって!」
と陰口を叩かれることがあることも知っている。別に芸名で人気を取ろうとこの芸名に決めたわけではないそうだ。
「一言で言えば戒めかな」
その芸名がどんな戒めになっているか分からないけど、あんさんは遠い目をして微笑んでいた。
あんさんは公称32歳。公称通りなら私よりちょうど十歳年上だけど、少女役の声の仕事がほとんど。声優だから見た目は関係ないけど、女優の仕事もできそうなくらいきれいな人。性格も温厚でいつもにこやかな笑顔を浮かべている。嫉妬して陰口を叩く同業者は一部いるけど、あんさんを根拠なく誹謗中傷する輩がいたら私が許さない!
あんさんとは一度だけ、もう五年以上続いている人気長寿テレビアニメ〈魔法少女カレン〉のアフレコ収録でいっしょに仕事したことがある。いっしょに仕事したといっても、あんさんはレギュラー。私はその回だけ登場する悪役の女王役、正義の魔法少女を苦しめてお約束のように最後に倒される。ちなみにあんさんは三人いる魔法少女の一人で、物語の主人公でもあるカレン役。
駆け出しの私にはほかに仕事がなかったから、一週間前に台本をもらってひたすらセリフを覚えた。魔法少女に敗れて涙を流すシーンの練習では本当に涙が出てきたくらい作品世界に没入した。
完璧に仕上げたと自信満々で収録スタジオに乗り込んだ私は、あんさんのセリフを一言聞いただけで頭が真っ白になった。一言で言えば完璧だった。あんさんの完璧と比べたら、私の完璧は穴だらけのただの自己満足だったと思い知らされた。
目をつぶれば魔法少女の姿がリアルに頭に浮かんだ。あんさんの収録を聴くのに夢中になって、自分のセリフを言う場面に気づかず、何度も注意された。このシーンではこう話すとあらかじめ考えていた決め事をみんな忘れてしまったから、棒読みみたいになってしまい、
「台本もらって一週間何してたの? プロという自覚ある?」
と監督に怒られる始末だった。
「有栖宮さん、緊張しちゃったんだよね? 私も最初の頃はそうだったよ」
そうかばってくれたのはあんさん。それまで魔法少女に見えていたあんさんが女神にも見えるようになった。迷惑をかけてしまったけど、あんさんといっしょに仕事ができて本当によかった。
私のせいで収録時間が予定より三十分ほど長引いてしまった。収録後、勇気を出してあんさんに声をかけてみた。
私は声優学校を卒業してまだ一年の声優のたまご。あんさんは何年も前からレギュラーを何本も抱える売れっ子声優。アニメ化される作品にマセた女の子のキャラがいれば、真っ先にあんさんに声がかかると聞いたことがある。そんな声優に私もなりたい――
「あんさんを声優として尊敬しています。少しでいいので二人でお話したいです」
月とスッポンほどの身分差があるから、
〈忙しいからまた今度ね〉
と適当にあしらわれることも覚悟していた。この世界、売れればちやほやされるけど、売れてない声優などゴミ扱いだ。
「尊敬? そんなふうに言われたら断れないな。いいよ。スタジオ出て少し話そうか」
やっぱり女神だと思った。仕事ができる人は性格もいいらしい。今の私にはどちらもない。あんさんと話して、少しでもあんさんに近づきたい。あんさんのようになりたいんじゃない。私はあんさんになりたい。そんな恥ずかしいことを心の中で思っていた。
スタジオのそばにカフェがあったが、関係者が来たらゆっくり話せないと言うので、なんとあんさんの自宅に連れて行ってくれた。しかもあんさんに運転してもらって、あんさんの車で。
すっかり恐縮してしまった。
「そんなにしてもらっても、私、何もお返しできません」
「お返しが目的なら、そもそも新人のあなたと話そうなんて思わないよね」
ごもっとも。専門学校時代から六畳一間のアパート住まい。引っ越したいけど、声優としての仕事が少なすぎる。アルバイトを掛け持ちで頑張ってるけど、所詮アルバイトだからいくら頑張ってもお金は全然たまらない。
それでも少しは声優の仕事の話が回ってくるだけ、私は恵まれている。声優学校を昨年いっしょに卒業した同期は百人近くいるけど、今、報酬ありの声の仕事をもらえてるのは私を含めてたった三人しかいない。学校では一番の成績で絶対成功すると先生たちにも太鼓判を押されていたのに、実際はこんなありさま。舐めていたつもりはないけど、想像以上に現実は厳しい。
あんさんの自宅マンションは分譲マンションで、しかも部屋から海が見えるタワーマンション。売れるとこんなすごいところに住めるんだ。私ももっと頑張ろうと思ったけど、自分がこうなれるまで売れるイメージが持てなくて沈黙した。
「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
「緑茶で」
「お茶と言ったのは紅茶のつもりだったけど、いいよ。緑茶を淹れてあげる」
女神に余計な気遣いをさせてしまった。今日は仕事もプライベートも全然うまくいかない。
魔法少女役の女神の部屋は白を基調とした質素でシンプルな外観だった。派手な装飾がゴテゴテしてるような部屋を勝手に想像していた。内装に限らず、そういえばあんさんはブランドものの服とかバッグとかジュエリーとか、興味ないのか何も持ってないようだ。
「何もない部屋でごめんね」
「そんな! 部屋から海が見えるだけですごいです」
「あなたの部屋からは何が見えるの?」
「隣のアパートの住人が干してる洗濯物が見えます」
「何それ? ウケる!」
受けを狙ったつもりはなかったけど、あんさんが喜んでくれてよかった。
「有栖宮万里衣さんって本名じゃないんだよね?」
「もちろん芸名です。考えたのは事務所の社長です。名家のお嬢様が両親に反抗して声優の道に進んだ、という設定で私を売り込みたいからこの名前で行こうと言われて」
「それは勝手な話ねえ」
私は自分の芸名が嫌いだ。私は名家の出ではないし、私は故郷で暮らす両親が大好きだ。私の両親は共働きの普通の夫婦。声優として成功して早く二人を安心させてあげたいけど、まだ当分無理みたいです。本当にごめんなさい――
「私もあんさんみたいに子どもに喜ばれる芸名がよかったです」
「そういう意図でこの名前にしたわけじゃないんだけどね」
「そうなんですか。じゃあ、どんな意図でと聞いてもいいですか?」
「一言で言えば戒めかな。この仕事を始める前に、ある人に大変な迷惑をかけてしまってね。その人が小倉さんという人だったの。今からでも努力すれば声優として成功できるかもしれない、という気持ちにさせてくれたのもその人。二度と過ちを犯さないために、その人の名前を借りることにした。おかげさまで声優として少しは人さまのお役に立てる仕事ができるようになったけど、どれだけ成功してもすべてをなくして途方に暮れていた頃のことは忘れないように心がけてる」
これ以上深く事情を聞くのはさすがにはばかられた。一言で言えば覚悟を感じた。覚悟なら私にもある。でもあんさんの覚悟には到底及ばないと感じた。
あんさんの淹れてくれたお茶を飲んだら、なかなか仕事をもらえない焦りがすうっと消えていくようないい気持ちになれた。
「おいしいです」
「お菓子も食べてね。売るほどたくさんあるから」
そういえばあんさんはその芸名ゆえにいろいろな人から和菓子を贈られているんだった。そう考えると、緑茶にしたのは悪くない選択だったのかもしれない。さまざまな和菓子が用意されていたけど、その中からきんつばとどら焼きをチョイスした。
声優としての心構えも教えてもらった。あんさんが特に強調していたのは、枕営業だけはするなということ。
「私がそれを言うのはつまり、いまだにそうしてでも仕事を取ろうとする馬鹿な女が後を絶たないから。そんな女がいるから、仕事を餌に女を食い物にする悪い男もいなくならない。声優なら声で勝負しなさい! 体を武器にするなら声優なんてやめちまえ! って本気で言いたい」
雲の上の人の家にお邪魔して雲の上の人との会話。緊張しすぎて話の流れを覚えてないけど、そのうち女子トークらしく結婚が話題になった。
「いつか今の彼氏と結婚して、結婚しても声優を続けたいです。ウエディングドレス着るのって子どもの頃から憧れてました。あんさんはどうですか?」
「私、ウエディングドレス着たことあるよ」
「えっ、あんさん、既婚者だったんですか?」
「ううん。控室でドレスを着たけど、披露宴の会場に行く前に結婚がキャンセルになっちゃってね」
それってどういう状況? あんさんは寂しそうに笑っているから、ジョークを言ったわけではないようだ。
そのあとあんさんはまた車を運転して、アパートまで私を送ってくれた。
夢のような時間だった。もとからあんさんを尊敬していたけど、もっともっと好きになった。あんさんとLINEでも友達になった。万里衣と名前で呼んでもらえるようになって、いつでもまた来ていいよとも言ってくれた。最高にいい気分でその日はぐっすりと眠ることができた。
でもその日の仕事ぶりについて監督から事務所に苦情が入り、翌日、事務所の社長からぐちぐちと文句を言われた。すべてを失って途方に暮れていた時期があんさんにもあったらしい。私だってこんなことで負けるわけにはいかない!
雲の上の人と友達になれて気分がよかったので、彼氏の大内夏樹にそのことをさっそく報告した。
夏樹とは二年前にアルバイト先の居酒屋で知り合った。夏樹は私と同い年で、背の高いスポーティーなイケメン。しかも誰でも名前を知っている一流大学の四年生。すでに卒業後の就職先も決まり、夏休みの小学生みたいに自由気ままに生きている。就職したら休む暇もないくらい忙しくなるそうだから、今はちょっと自由すぎに見えても大目に見ている。
人気声優になるという私の夢を笑わず、心から応援してると言ってくれたことが交際のきっかけ。居酒屋ではもちろん芸名ではなく、芸名のイメージからかけ離れた、山田みのりという本名で働いている。だから夏樹からもみのりと呼ばれている。
季節は夏。ビールがおいしい季節。アルバイト先とは違う居酒屋に夏樹と二人で来ている。でも私は駆け出しでもプロの声優。のどを傷めるからアルコールのような刺激物は極力口にしないように気をつけている。
「そんなすごい人と知り合えてよかったじゃないか」
夏樹はいつも私の話に真剣に耳を傾けてくれる。
「その人を通じて大きな仕事をもらえたりしないの?」
「そういう打算で仲良くしてるわけじゃないから。なんていうか、ただ話してるだけで勉強になるんだ。声優の勉強よりも主に人生の勉強になったかな」
お互いお金がない身だから、飲食費はいつも割り勘。私が枝豆をちまちまと食べ続けてる隣で、夏樹は生ビールをジョッキで豪快に飲み干している。どう考えても今日も私が損してるなと思いながら、枝豆が終わったから次に冷奴を注文した。注文したあとでどっちも原料が同じじゃんと気がついたけど後の祭り。
「へえ、その人といると勉強になるのか? おれといるときはどうなんだ?」
「勉強になるならない関係なく、夏樹がそばにいてくれるだけで私は心が安らげる」
「いっしょにいても勉強にならないってこと? おれ、馬鹿みたいだな」
「そういう意味じゃなくて、特別な存在だということ」
「うまく言いくるめられた気分だ」
最近、すぐに夏樹の機嫌が悪くなる。ここはもう少しおだてておいた方がいいかもしれない。
「嘘じゃないよ。夏樹、いつか私と結婚したいと言ってくれたよね。私も同じ気持ちだから。あんさんと話したとき結婚の話になってさ。そのときウエディングドレス着て夏樹の隣で歩く自分の姿が頭に浮かんで、思わず照れ笑いを浮かべちゃったよ」
「え、結婚?」
あからさまに夏樹の口調が変わった。酔いが一気に覚めたような表情もしている。
「ベッドの上でしたピロートークを本気にされても困るんだけど」
「本気じゃなかったということ?」
「おれとみのりじゃ学歴だって全然違うだろ? 対等じゃないのは分かるよな? みのりが声優として成功できれば別だけどさ。無理無理。才能ないおまえは小倉あんにはなれねえよ」
「確かに学歴は全然違うけど、夏樹は私の夢を全力で応援してくれると言ったじゃん!」
「それは、そう言えばやらしてくれそうだったからさ。おまえ、単純すぎるんだよ。競争激しい世界で生きてるから、不安で不安でたまらなかったんだろ? それまでずっと処女だったくせに、ちょっとおれが褒めたらイチコロだったもんな。目の前の男が本気かヤリモクかの区別もつかない馬鹿な女相手に、おれが本気になるわけないじゃねえか! ちょうど飽きてきたとこだし、おまえとは今日でバイバイな」
その後、夏樹と別れて、アパートまでどうやって帰ったかまったく覚えていない。帰宅してすぐにあんさんに、フラれちゃいましたとLINEのメッセージを送信した。恋人だと思ってたのは私だけで、相手の男は体目当てで私に近づいただけだったこともあとから伝えた。
夜にもかかわらず、あんさんはすぐに迎えに来てくれた。あんさんの部屋であんさんの豊かな胸に顔を沈めながら、私は一晩中泣き通した。
「私かあんさんが男ならよかったのに」
「どういうこと?」
「あんさんが異性なら、あんさんと恋をしたのに……」
「またうれしいことを。万里衣に褒められると天にも昇る気分になれる。つまり私もヤリモク男に引っかかるタイプということかもね」
「あんさんを泣かせる男がいたら私が殺してやります!」
「ありがとう。でもそうなることはないかな」
「あんさんの恋人なら、あいつなんかとは比較にならないくらい素晴らしい人でしょうからね」
「恋人なんていないよ。というか、もう誰とも恋なんてしないと決めてるから」
「そんな! もったいない!」
「私はかつて、万里衣を振った男以上にひどい女だった。私の過去を許してくれる男の人なんていないだろうし、何より私自身が過去の私を許せない! 死ぬまでずっとお一人様でいいかな。そうすればもう誰も傷つけずに済むからね」
そのとき抱きついていたから、あんさんがどんな顔をしていたか分からない。それきり黙ってしまったから、もしかしたら泣いていたのかもしれない。
卒業した専門学校の後輩に、高橋明日香という子がいた。後輩といっても、私と入れ違いで入学した子だから、学校で顔を合わせたことはない。卒業生にすごい人がいたと聞いて、私のXのポストに明日香の方からコメントをしてきたのが知り合ったきっかけ。
明日香は秋に二十歳になるけど、体が小さいし童顔だから見た目は中学生でも十分通用しそう。真面目な性格で、自分が納得できるまでひたすら努力するタイプ。今まで男の子と交際したことはないし、当分交際したいとも思わないという。今は声優として世に出ることしか頭にない。
オーディションに出れば最終候補まで残るくらいの実績をすでに残している。明日香も来春で卒業。一つでもいいからお金のもらえる声の仕事を卒業前に取りたいです、というのが彼女の口癖。真面目で努力家の彼女のことだから、意外とすんなりと夢を叶えてみせるかもしれない。
先輩先輩と私を慕ってくれるのもうれしい。私は彼女をともに切磋琢磨する対等のライバルだと思っている。彼女と週一で会って、夢を語り合う中でモチベーションを高めるのが大切な習慣になっている。
ところが、この数週間、明日香の表情が暗い。本人はなんでもないと強がっていたが、事情をようやく聞き出すことができた。あるオーディションの審査員だった太平洋テレビの前田虎雄プロデューサーから愛人契約を求められているそうだ。応じれば毎月のお手当てだけでなく声優の仕事も融通してもらえると言われ、明日香の心が揺れていた。
「まさかその話に乗るつもり?」
「できれば断りたいです。でも、実は会社員だった父がリストラされて学費も滞納してる有様で……。このままでは私は声優になるどころか、学校まで退学になってしまうんです」
前田プロデューサーは太平洋テレビにおけるアニメ番組制作スタッフのトップ。確かに彼には無名の声優を抜擢することができるだけの権力がある。愛人契約に応じれば仕事がもらえ、断れば太平洋テレビから仕事をもらうことを未来永劫あきらめなければならない。売れっ子声優のあんさんだって前田プロデューサーにたてつけば、数百万単位の仕事を一気に失うことになるだろう。あんさんに迷惑はかけられない。かわいい後輩のために一肌脱いで、私が前田プロデューサーと会って話をしてみることにした。
明日香が前田と会う約束をして、そこに私も付き添うことにした。指定された時間は夜の七時。指定された場所はシティーホテルの目の前にあるカフェ。会ってすぐホテルに連れ込む気なのだろう。
前田はすでに五十歳。もちろん既婚者で三人の子持ち。三人とも娘で、すでに成人しているという。
愛妻家で有名だった。恐妻家という評判も聞いたことがある。でも裏では、性欲の赴くままに声優のたまごを毒牙にかけるような悪魔だった。おそらく今までもこんなふうに立場を利用して、自分の娘よりも若い女の子たちを自分の思い通りにしたことが何度もあったに違いない。
カフェには約束の時間の三十分前に着いた。週末だけど時間が遅いからお客さんは少ない。シロップを入れすぎて甘くなりすぎたアイスティーを飲みながら、前田の到着を待った。
十分遅れで前田は現れた。若作りしてラフな格好で来たが、明日香の隣にいる私を見て、不機嫌そうにドカッと向かいの椅子に腰を下ろした。貫禄は十分だ。会社の社長だと言われても信じてしまうに違いない。ただ脂ぎった赤ら顔から加齢臭が漂ってきて、席を立ちたいという気持ちが加速度的に増してゆく――
「明日香君、一人で来るように言ったはずだが」
「すいません! すいません!」
立ち上がって必死にペコペコ頭を下げる明日香。最初から私たちは前田の迫力に圧倒されていた。
「私が無理を言って同席させてもらったんです」
そう言った私の全身を舐め回すように見てきて、目で犯されているような不快感に必死に耐えた。
「君は?」
「紅プロダクション所属の有栖宮万里衣と申します。明日香の通う声優学校の卒業生です」
「君も声優?」
「はい」
「そんな名前、聞いたこともないな」
鼻で笑われて、明日香を助けに来たはずなのに、人目をはばからず泣きじゃくりたくなった。
「僕は明日香君に用があるんだ。部外者は席を外してくれないか?」
「前田さん、お金と仕事を引き換えに、明日香に愛人になるように求めたそうですね?」
「おいおい、人聞き悪いこと言わないでくれよ。僕は明日香君の努力と能力を買ってるから、その能力にふさわしい仕事を与えようとしてるだけだ。それとは別に、僕は明日香君を女性としても気に入っている。僕と明日香君が交際するとしても、それは自由恋愛だよ。無名の声優の君にとやかく言われる筋合いはない」
前田の迫力に押されうまく言い返せない。おそらく涙目になっている私を見て、前田はさらに畳みかけてきた。
「僕は別にいいんだよ。明日香君と交際しないことにしても。ただお金がなくて学校を退学になりそうなんだよね? 僕は好きになった女性が不幸になるのを見たくないだけなのになあ!」
前田にはしごを外されそうになって、明日香が不安そうな目を私に向けてくる。彼女の目はもういいですと私に訴えていた。学校を続けるためには前田の女になるしかないんだ。明日香の覚悟を感じて、私も覚悟を決めた。
「前田さん、私と交際しませんか。仕事とお金は私はいりません。明日香に渡して下さい」
「先輩!」
そう叫ぶなり明日香が絶句した。実はこうなる気がしていた。少なくとも明日香の汚れない心と体をこんな男に汚させるわけにはいかない。どうせ私はさんざん夏樹の性欲処理に使われて、きれいとはとても言えない身。次は前田のおもちゃにされたとしても、それほど傷つかずにいられる自信もある。
「ほう。君は僕が好きなのか?」
「はい。前から好きでした」
「君の年は?」
「先月22歳になったばかり。学年は明日香の二つ上です」
「本当は十代がよかったが、まあいいだろう。僕に愛されたければ、けして僕に逆らわず誠心誠意僕に奉仕するんだ。できるかい?」
「何でも言われた通りにします。だから明日香のことは――」
「約束は守るよ。明日香君に渡すお小遣いは毎月十万。また毎月それ以上の報酬がもらえる声優の仕事も与えるよ。それでいいね?」
「はい」
私はにっこりと笑ってみせた。明日香は私と前田の会話を泣きそうな顔で聞いているだけ。
「それが利口だ。小倉あんみたいな天才は別だが、君たちのような才能のない貧乏声優は金と力のある男にすがるのが生き残る道だ」
好き放題に言われているが、実際その通りになってるから何も反論できない。
「すぐそばのホテルにちょうど部屋を取ってある。朝になって君の自尊心も羞恥心もなくなってるくらいまで一晩中責め抜いてあげるからね。僕は君のような生意気そうな娘を一切逆らわなくなるまで調教するのが何より大好きなんだ。文句はないね?」
前田は立ち上がり、無言でうなずいた私の右手を取って店から出ていこうとする。
怖い! 調教って何をされるんだろう? その様子を撮影されたりもするの?
でも大丈夫! 精一杯の笑顔を作って、青ざめた顔の明日香にそう目で合図したが通じてはいないようだ。
これでいいんだ。明日香は前田に言われるまでもなく、優秀で努力家でもある。仕事をもらうに値する声優だ。私は今日で声優をやめるつもりだ。何よりあんさんに合わせる顔がない。
枕営業だけはするな。あんさんが声を大にして訴えていたことを私は自分の意志で破ろうとしている。自分のためではないけれど、後輩の明日香のために自分の体を差し出すというのも、誰が見たって枕営業だ。
あんさん、ごめんなさい。謝られてもうれしくないだろうけど、心の中で何度も頭を下げた。とそのとき――
なぜか右手が自由になったと思ったら、視界から前田の姿が消えた。
「?」
前田がいなくなった代わりに、帽子からワンピースまで紫ずくめの魔法少女カレンの衣装をまとった背の高い女が私の右隣に立っている。ちなみにカレンの声を担当しているのはあんさん。もしかして関わってはいけないたぐいの人? と身構えたが、よく見たらその人はあんさん本人だった。
「万里衣、見損なったよ。こんな男の言いなりになろうとして」
「あんさん、言いつけを守れなくて本当にごめんなさい!」
「被害者面しないで! この男に奥さんがいることはあなたも知ってるでしょう? 前田に〈私と交際しませんか?〉と持ちかけたとき、奥さんの気持ちも少しは考えた? この男の奥さんにとっては、あなたは被害者じゃなくて加害者なの。不倫なんて人間のすることじゃない! 〈何でも言われた通りにします〉じゃないよ。悪魔に魂を売ったらあなたも悪魔なの! よく覚えておきなさい!」
「あんさん、私が間違ってました。本当にごめんなさい!」
「分かればいいけど、謝る相手が違う」
慌てて駆け寄ってきた明日香にも、あんさんは怒りの矛先を向けた。
「お金がなくて困ってるあなたのために万里衣が前田の愛人になると申し出たとき、どうしてあなたは止めなかったの? お金がないのはあなたの家の問題。万里衣に甘えすぎなんじゃないの!?」
「そう思います。先輩が私の身代わりになってくれると言ってくれて、ホッとした気持ちになったのは確かです。私は人間のクズです」
あんさんはまた私の方に向き直った。まだ顔は怒っているが、口調はだいぶ落ち着いてきた。
「もう私と会えなくなるかもしれない、というLINEを見たとき、こういうことじゃないかとは想像した」
そうだった。明日香の身代わりに前田プロデューサーの愛人になることを、私は今朝の時点でもう覚悟していた。だから覚悟したと同時に、声優をやめもうあんさんとも会えなくなるかもしれません、とあんさんにLINEでメッセージを送っていたのだった。
前田はあんさんに吹っ飛ばされたらしい。前方のテーブルに顔から突っ込んで頭を抱えている。そばの客席のカップルが目を丸くしている。遠くから複数の店員が駆け寄ってくる。気にせずあんさんはうずくまる前田の尻を蹴り上げた。
店員が二人がかりで後ろからあんさんを羽交い締めしたのを、あんさんは気合いであっさりと振りほどいた。
「太平洋テレビプロデューサー、前田虎雄! おまえが以前からお金と仕事を餌に、駆け出しの声優の女の子を食い物にしていたことは聞いていた。絶対に許さない! 天に代わっておまえを成敗する!」
魔法少女カレンの決めゼリフそのものだ。こんな非常事態なのに、なんだかワクワクしてきた。やっぱりあんさんの声には私の声にはない光るものがある。その光は今、真っ暗だった私の心を明るく照らしていた。
「小倉あん?」
不意打ちを食らってからずっと床に転がっていたが、前田はようやく体勢を立て直した。痛そうに片手で頭を押さえながらも、立ち上がりゆっくりとあんさんににじり寄る。
「ちょっと売れてるからって調子に乗らない方がいい。カレンは他局のアニメだが、君の事務所の社長は僕の言いなりさ。君を解雇してもらうよ。そうなればカレン役の声優も交代だ」
「〈魔法少女カレン〉に出てくるどの悪役もあなたの悪どさには勝てないわね」
「褒め言葉をどうもありがとう。人気声優になった君なら知ってるだろう。この世界は食うか食われるかさ。弱者を食い物にして何が悪い? 優勝劣敗、弱肉強食こそ世の摂理。僕はその摂理に従って生きているだけさ」
「弱者を食い物にしてぶくぶくと焼け太りした怪物は今すぐ滅びなさい!」
そのとき一瞬世界が真っ白になった。大きなカメラを持った中年の男が現れて、フラッシュが焚かれたのだと知った。
「前田プロデューサー、はじめまして。僕は週刊文秋の記者の新井と言います」
途端に、あれほど饒舌だった前田が沈黙した。
「今朝、小倉あんさんにスクープ写真が撮れるかもと声をかけられたときは半信半疑でしたが、こんなにすごいスクープが撮れるとは……。〈貧乏声優は金と力のある男にすがるのが生き残る道だ〉。これ、記事の見出しに使わせてもらいますよ。この記事が載れば、雑誌はふだんの倍の売上も期待できそうです。大々的にやらせてもらいますね」
前田は目もうつろで、立っているのもやっとの状態。強者が弱者に転落した瞬間だ。でも食べませんけどね。まずそうだし。
ふと後ろを振り返ると、店員に通報されて駆けつけてきた警官たちに、あんさんがペコペコ頭を下げていた。カレンの服装のままで。この人は弱者ではないと思うけど、強者なのかというと今一つ分からない。
翌週発売の週刊文秋はふだんの週の三倍近い売上を記録した。太平洋テレビには読者から抗議が殺到。上司に要求された依願退職を拒否した前田虎雄は諭旨免職処分となった。懲戒免職ではないから退職金は支給されたが、本人を素通りして慰謝料としてそのまま奥さんへと流れていった。
奥さんとは離婚。成人して家を出ていた三人の娘は虎雄に絶縁を宣告。虎雄は自宅を追い出され、一人ぼっちになった。
虎雄は芸能プロダクションを設立し代表に収まった。経験と人脈を活かして巻き返しを狙ったが、いかんせんイメージが悪すぎて仕事が全然取れず、赤字を垂れ流している状態。設立から半年も経たないうちに事務所の家賃さえ滞納しているという噂まで立つ始末だった。
私は奥さんを訪ねて、進んで虎雄の愛人になろうとしたことを謝罪した。
「真面目な人ね。あの人が悪いんだから謝らなくていいのよ」
そう言ってもらえた上に、帰りに奥さん手作りのシフォンケーキをお土産として渡された。もちろんシフォンケーキは翌日あんさんと明日香の三人でおいしくいただいた。
私はあんさんに誘われて、あんさんの所属する紙ひこうきプロダクションに移籍した。それを機に私は有栖宮万里衣の芸名を捨て、本名の山田みのりで芸能活動を続けることにした。
明日香も学生の身分のまま同じ事務所に入ってきた。私と同じで本名の高橋明日香で活動するという。週刊文秋の記事が出て以来、明日香のXアカウントには寄付の申し出が殺到。おかげで明日香は滞納していた学費を支払った上で、卒業までの学費と生活費まで確保することができた。
記事が出て私と明日香はちょっとした有名人になった。ただしそれは声優として名前が売れたわけではなく、愛人にされそうになった人として有名になっただけだ。
街でときどき知らない子どもに、
「あっ、愛人の人だ!」
と指をさされる。〈愛人の人〉ではない。〈愛人にされそうになった人〉だ。言葉は正しく使ってもらいたい。
週刊文秋のサイトでは前田虎雄の証拠音声ばかりでなく、カレンの姿のあんさんが前田を吹っ飛ばした際の動画なども公開されていて、ものすごい勢いで再生回数を増やしている。
吹っ飛ばし方があまりにかっこよかったというたったそれだけの理由で、魔法少女カレンの実写映画化が決まった。もちろんカレン役はあんさん。私と明日香も悪役にいじめられる役をもらえた。枕営業で取った役ではないが、実力で勝ち取った役でもないだろうから、少し複雑な気分。
その年の十二月、早くも実写映画の撮影が始まった。声優だってまだ駆け出しなのに女優の仕事なんて無理がある、ありすぎると思ったが、あんさんの演技は声優の仕事をしているときと同様に、見る者すべての目を釘づけにする勢いで躍動していた。圧巻とはこのことだ。問題は本職の俳優のくせに悪役の男まであんさんの演技に圧倒されていることだ。監督もなかなかOKを出さない。撮影は最初から予定より遅れがちになっていた。
遅れがちな撮影日程を心配したか、映画のスポンサーの会社のお偉方が激励に来ることになったそうだ。視察でも激励でも大歓迎だ。彼らは絶対に手ぶらでは来ない。先日視察に来た人たちは役者とスタッフ全員に一個二千円の高級弁当を差し入れてくれた。今度の人たちは一体何を? 卑しいよとあんさんにたしなめられそうだけど、楽しみなものは仕方ない。
とそのとき――
「ひいいいいいい……!」
寒空の下、断末魔のような悲鳴が鳴り響いた。この独特なハスキーボイスはあんさん? 私と明日香は慌ててあんさんのもとに駆けつけた。あんさんは一人で、スポンサーの人たちから激励を受けていたようだ。悲鳴を上げるなんて、いったい何があったのだろう?
「明日香、今日来たスポンサーはどんな会社?」
「東証プライム上場企業の原商事です。社長夫妻自ら激励に来ると聞いてます」
大企業の社長さんか。私たち声優とは無縁の人たちだけど、怖いものなしのあんさんが大企業の社長と会うからといって萎縮する姿はとても想像できない。
社長夫人がチラリと私の顔を見た。お嬢様としてお金の苦労なんて一度もせずに育てられてきて、社長夫人の座に収まったあともずっと優雅に暮らしてきたかのような上品な顔立ち。ただの嫉妬だと分かっていても無性に腹が立った。
「あんさん、悲鳴が聞こえましたけど何があったんですか?」
「ななななんのこと? ななななんにもないよ……」
あんさんがどもるのを初めて聞いた。何もなかったわけがない。
「ね、サキさんでしょ」
「驚いた。君は声を聞いただけでよく分かったね」
目の前の社長夫妻がひそひそとそんな会話をしている。二人は五歳くらいの小さな女の子を連れてきていた。上場企業の社長夫妻にしてはずいぶん若く見えるが、気品と才智があふれる二人。暴言や暴力をしてくるような人たちには見えないけれど――
何があったか知らないが、今まで助けてもらう一方だったあんさんに少しでも恩返しする絶好のチャンス。黙ってるわけにはいかない!
「私は小倉あんさんと同じ事務所に所属する声優で、山田みのりと言います。声優としてだけでなく、人間としてもあんさんを尊敬している者です。あんさんがこんなに取り乱してるのを初めて見ました。あなた方はいったいどんなひどいことをあんさんに言ったんですか? 会社を経営されてるあなた方から見れば、声優なんてまともな仕事に見えないかもしれません。でも、これでも私たちは命がけでこの仕事に立ち向かってるんです。売れっ子声優のあんさんはどうせ派手な暮らしをしてるんだろうって偏見を持っていませんか? でもそばで見てる限りあんさんには男の人の影はまったくないし、お金はあるのだからブランドもののバッグの一つでも買えばいいのにってこっちがやきもきするくらい質素な生活を好む人なんです。私が妻子ある男性と間違いを犯しそうになったときは、不倫なんて人間のすることじゃないって全力で止めてくれました。今は道徳という言葉を口にすると笑われる悲しい時代ですけど、あんさんは枕営業をなくそうと訴えたりして、声優としてはもちろん人間としても素晴らしい人なんです。お願いします。そんなあんさんを傷つけないで下さい。傷つけたなら謝って下さい!」
「みみみみみみみのり、おおおおおおお願いだから黙って……」
加勢したのにあんさんのどもりがひどくなったのはどういうことだろう?
「にゃにゃみさん、すすすすいません。ここ後輩が失礼なことを言ってしまって……」
社長夫人の名前はにゃにゃみ? 猫?
いまだにこの三人の関係はさっぱり分からない。あんさんだけが取り乱しているのは相変わらず。
「不倫なんて人間のすることじゃない、か……」
社長が過去を回想するかのように、私の言葉をしみじみと繰り返した。この人、不倫経験者なのだろうか? 上場企業の社長さん、しかもよく見れば芸能界でも通用しそうなダンディーなイケメン。もしかすると不倫することが日常になっている鬼畜男なのかもしれない。もしそうなら目の前にいるあんさんの高い道徳性に感化されて、せいぜい生き方を悔い改めればいい。
「すすすすいません! あああ穴があったら入りたいです!」
あんさんはなぜか目の前の二人に、どもりながら謝り続けている。あんさんにこんなに卑屈な態度を取らせるなんて、社長夫妻が本気で憎たらしい!
社長夫人が社長夫人にふさわしい優雅な笑みを浮かべながら、あんさんに優しく語りかける。
「こんなに後輩たちに慕われて、いい人生を送れてるみたいね。ホッとした。私のせいで人生が終わったって叫ばれたことがあるから、これでも少しは気にしてたのよ。一発くらいなら殴らせてあげてもいいと約束した覚えもあるけど、その約束ももうなかったことにしていいのかしら?」
「ももももちろんです。私がすべてを失ったのは全部私のせいなのに、逆ギレしてすいませんでした。あのときナナミさんに努力すれば声優になれたはずと言われて、すべてなくしたけどこの声だけはまだなくしてなかったなと思い直して、声優の道をまた志すことにしたんです。そそそそれからナナミさん、お願いしたいことが一つあるんですが」
「あら、何かしら?」
「私の芸名の小倉あんの小倉はあなたの名字をお借りしたものなんです。私が傷つけたあなたのことを忘れて、また同じ間違いを犯すことがないようにするためにこの芸名にしました。これからもこの名前を使わせていただいてもよろしいですか?」
「小倉? 私の旧姓ね。そういえば、あなたに内容証明を送った頃は離婚直後でその名字だったわね。今はこの人と再婚して原ナナミになってるけどね。小倉あんはもうあなただけの名前だから、使い続けるもやめるもあなたの自由。過去と決別して素晴らしい人に生まれ変わったあなたに、私がとやかく言うことはないから安心して。それより私からもあなたに一つお願いがあるのだけど、聞いてもらえないかしら?」
「おおおお願いですか? いいい言ってみて下さい」
どもりがなくなったと思ったら、また始まった。何を言われるんだろうと明らかに不安そうな表情。無茶な依頼をしてくるようなら私が止めなければと身構えた。
社長夫人は女の子をあんさんの目の前に立たせた。
「この子、魔法少女カレンの大ファンなの。サキ……あんさんとどうしても握手したいと言って聞かないんだけど、握手してもらえるかしら?」
「わわわ私なんかがナナミさんの娘さんと握手? ぎゃぎゃぎゃ逆にいいんですか?」
「いいに決まってるじゃない。今のあなたなら、私だって握手してほしいくらいよ」
「そそそそれなら……」
あんさんがおずおずと差し出した手を、娘さんが両手でがっちりと包み込んだ。タレントとファンの立場が逆みたいだけど、あんさん本人が涙ぐんで見えるほど感動しているから口出しはやめておこう。
「あの、カレンの決めゼリフを聞きたいんですけど」
「ヒカリ、それはさすがに図々しい……」
「ナナミさん、大丈夫です。やりますから!」
あんさんの顔が仕事モードに戻った。
「天に代わっておまえを成敗する。絶対に許さない!」
「かっこいい!」
社長親子三人による拍手はいつまでも鳴りやまなかった。声優の仕事はお客さんの前ですることは基本的にない。だから、演技をお客さんに目の前で喜んでもらえて思わず泣き出したあんさんの気持ちが、私にもよく理解できた。
それから実写版魔法少女カレンの撮影は順調に進み、翌年の春に無事クランクアップした。劇場公開は八月からの予定。
今、ゴールデンウイークの連休の真っ最中。今日は都内の遊園地での宣伝イベント。中身は実写映画の主演のあんさんと監督による対談、その後あんさんのサイン会。
遊園地でのイベントだからといって、聴衆が子ども連ればかりとは限らない。大きなお友達の人たちも大勢でやってくる。大きなお友達とはつまり成人男性のこと。私は彼らが苦手。純粋にアニメを楽しんでくれるならいいけど、性的な目で女性タレントを見てくる者も少なくない。私たちと反対にイベントの主催者側は彼らを歓迎する。物販でたくさんグッズを買ってくれるから。今日のサイン会も物販で何か買ってくれた人だけが対象。
今日来る大きなお友達の一番の目当てはきっとあんさんだ。大きなカメラを持ち込む者までいる。パンチラ盗撮などの不法行為が発生しないように目を光らせるのも今日の私の大事な役割だ。そうしろと誰かに頼まれたわけではないけどね。
事件はサイン会が始まって二十分ほど経った頃に起こった。
それまで気軽にサインや握手に応じていたあんさんが、突然フリーズしたみたいに動かなくなったという。もしやまた原商事社長夫妻かと思って駆けつけるとそうではなかった。
意識のなくなった人を見たことは今まで何度かあったけど、笑顔のまま意識をなくした人を見るのは初めてだ。笑顔のままフリーズしているあんさんの前に立っていたのは一人の中年男性。リュックを背負って首にはカメラをぶら下げた、いかにもなオタク系の風貌の男。私は人混みをかき分け突進した。
「あなた、あんさんに何をしたの?」
「いや、僕は何も……」
「何もしてなくて、あんさんがこんなふうになるわけないじゃない!」
「驚いたんだと思う。僕もまさか小倉あんがサキさんだっただなんて……。あんなに恨んでたはずなのに、なぜか分からないけど今は自分のことのようにうれしい」
「あんなに恨んでた? あなた、やっぱりあんさんに危害を加えようと……」
突然始まった私たちの口論に、あんさんはハッとわれに返ったらしい。
「ソウヘイさん、ごめんなさい。あとでこの番号にかけてもらっていいですか?」
あんさんは色紙にサインペンで電話番号を走り書きして、なぜか目に涙を浮かべながら男にそれを手渡した。なるほどデタラメな番号を教えてとりあえず迷惑な客を追い出すわけかと思ったけど、チラッと見えたその番号は間違いなくあんさんのプライベートスマホの正しい電話番号だった。
「女の人を信じられなくなった僕は二次元の世界に逃げ込んだ。マンガやアニメの中の女性は絶対に僕を裏切らないからね。そうしたら君と再会した。僕に逃げ場所はないということかな?」
ソウヘイと呼ばれた男はそんなことをつぶやきながら去っていった。
あんさんが一般男性との電撃入籍を報告したのはそれから三ヶ月後。実写映画の公開からまもなくの、順調な興行成績が伝えられた直後のことだった。相手は東京から飛行機の距離の県庁に勤務する、青木草平という四十歳の男性。結婚式はしないそうだ。あんさんに紹介されて一度草平と会わせてもらった。遊園地でのサイン会であんさんを泣かせたあの冴えない男だったから、私はさらに衝撃を受けた。
結婚したといっても、週末になると草平が上京してあんさんに会いに来る通い婚というスタイル。
「そんな不自由な生活をしてまで彼と結婚したかったんですか?」
「違うよ。彼と結婚できて、私はやっと自由な心を手に入れることができたんだよ」
あんさんはいつものように屈託のない笑みを浮かべている。あんさんがそれでいいならいいか、と私も明日香も穏やかな気持ちであんさんの新たな門出を祝福することにした。