何でこう月末というのは、仕事に追われてしまうのだろうか。今月も例にもれず、残業覚悟の仕事量をただひたすらにこなしていた。別に仕事を辞めたいわけではない。ただ月末だけはどうしてもストレスがたまるという話だ。大量にたまった仕事を何とかさばき切り、自宅に帰れるめどが立ったのは、終電こそあるが日付が変わりそうな夜遅くの時間だった。
疲労の限界とはまさに今みたいな状況だな、となかば自嘲気味に笑ったわたしは自宅に向かう道のりを足早に進める。それと同時に悟、もっぱらわたしよりも忙しいで有名な彼としばらく顔を合わせていないな、なんてことを考えていた。
会えないことを寂しいといつから言えなくなったのだろうか。そんな感情に現を抜かす暇があるなら、お互いの休息を願うような言葉を口にするようになってしまった。全くもって可愛らしさのかけらもない彼女だ。本音を言えば、今まさに悟に会いたくてたまらなかった。抱えきれない責任や重圧に耐えてきたわたしを笑って受け止めて、彼の大きな体でこれでもかというほど甘やかしてほしい。願望ばかり膨らむが、彼が今仕事しているのか、それとも休んでいるのかもわからないため、ひとまず使い慣れたスマホを立ち上げ「何してる?」とメッセージを飛ばすことにした。
悟からの返信はわたしに対して気を遣っているのか、それとも誰に対してもマメなのかわからないが、基本的に速いほうだと思う。それでも何回かに一回は音信不通になるときもあるが……それでも決まって一週間したら謝罪文が返ってくるのだった。
今回はいつもに比べれば返信速度は遅い方だったが、きちんと「家にいるよ。仕事終わったの?」と帰ってきた。この通知を見た後「僕の家来る?」と立て続けにメッセージが入ってきた。久しぶりに悟と会える機会なのに行かないという選択肢はない。それに対して何の迷いもなく「行く」と即答した。沈みかけていた気分は自分でも単純すぎて呆れるが、一気に晴れやかなものとなった。履きなれたヒールから奏でられるコツコツという音が、夜道には妙に心地がよかった。
会社から悟の家まで片道30分弱。途中コンビニで甘いものを買ったりしたため、予定より少し遅れて到着した。合鍵は彼と付き合いだしてすぐに渡されたが、使ったことはない。今回も例にもれず、それはカバンの中にしまわれたままでインターホンを鳴らした。高いマンションに住んでいるからか、高級感のある音が鳴り終わる前に扉が開き、いつもよりか気が抜けた姿の彼が眠そうに立っていた。「おかえり。仕事お疲れ様だったね。」労いの言葉をかけてくれた彼は、わたしの持ち物をさらっと手に取り、冷蔵庫に片づけてくれた。何気ない優しさが、心の毒を中和してくれる。わたしの居場所は、彼の隣だと改めて感じた。
リビングは大好きな彼のにおいに包まれていた。
些細なことだった。本当に。冷静になってみて考えてみてもしょうもない内容だと思う。はじめは彼の軽い冗談からだんだんとヒートアップしていき、売り言葉に買い言葉。どちらが悪いというわけではないが、どちらも大人げなかった。ただそれだけのことだ。しかし頭に血が上っていたわたしには謝罪という言葉が頭の中からすっかり抜けており、怒りのまま言葉を発してしまった。そうした結果、彼が学生時代に戻ったかのような口調で「もうお前帰れよ」と発して、本当にわたしは自宅に向かって帰っている。
こんなはずではなかった。甘えようと普段考えないことをした自分への罰だろうか。だとしたら神様ってやつはたいそう性格が悪い。
履きなれたヒールから奏でられるコツコツという音が、夜道には妙にうるさく今すぐ脱ぎ捨ててしまいたかった。
喧嘩をして一日が立った。経験上こういうのは長引かせてはいけない。それくらいは分かっている。そのためには相手の機嫌を探らないといけなくて、そんな時に便利なのがメッセージのやり取り。ひとまず今日会えると聞いてみたら今回はすぐに返信が返ってきた。「いいけど、外雨降ってるよ。ちなみに僕はまだ怒ってはいるから」文面とは裏腹に彼の機嫌は想像よりも穏やかに感じ取れ、ひとまず胸をなでおろし安堵した。問題は雨だ。天気予報では晴れだったし、雨が降ることなんてみじんも予想していなかった。普段なら迎えに来てくれるよなぁと思いながら、冗談半分で「迎えに来てくれたり?」と送ってみたら、「は、めんどくせぇよ。濡れて帰れ」となんとも冷たい返信が返ってきた。
本来ならコンビニとかで傘を買う判断が正しい。しかしまたしても頭に血が上ったわたしは、せめてもの反抗として本当に塗れることにした。悟なんて罪悪感で苦しんでしまえ。
彼のマンションについたころには何もかもがぬれていた。いつもより水分を含んだ洋服たちは体にまとわりつき、不快感を覚えたが自分がとった行動に後悔はしていなかった。ただ、この格好で人様の家に上がるのは多少の申し訳なさを感じ、払える雨粒は払い落とすことにした。体からぽたぽたと水滴が垂れ落ち、やがてそれらは広がって彼のドアの前に小さな水たまりを作る。それを無心で眺めた後、意を消したようにインターホンに手をかけた。合鍵は今日もカバンの中。日の目を浴びせることはなかった。軽くボタンに触れいつも聞こえるチャイムの音が鳴り響いたが、家主が出てくる気配はない。お風呂にでもいるのだろうか。それとも、わたしに会いたくなかったか。どうしてもよくない方向に物事を考えてしまうのは悪い癖だ。合鍵を濡れたカバンの中から取り出し、鍵穴の中にそっと入れてみた。それを回転させるとガチャと音が鳴りドアが開く。当たり前のことだが、なんだか不思議な気分になった。今までさんざん彼のテリトリーに自分の意志で踏み入れることをためらっていたが、案外悪いものではないのかもしれない。自分の居場所はここだと合鍵が示してくれるように感じた。
ドアを開けると目の前にはタオルを大量に抱えた悟が片足重心で立っていた。予想外の登場であっけにとられ、人形のように動かなくなったわたしに彼は「濡れて帰れとは言ったけど、愛がないわけじゃないよ」といいながら、一枚大きめのバスタオルでわたしの頭を乱雑に拭き上げた。ところどころ髪の毛が引っ張られ、つっとした痛みを感じたがこれが彼の不器用な愛し方だと気が付くと嬉しくなった。そのままタオルを代え、首やら腕やらあらかたわたしの体をふき終えた彼は、一度わたしの顔を見て舌打ちをしたかと思えば、大きな体を少し折り曲げ、優しく一度だけ唇を合わせてきた。その流れるような作業にわたしは固まるしかできなかったが、そんなわたしを見かねて彼は「隙を見せた方が悪い」と言いながら今度は額に唇を近づけて触れる。それは意志を持ったかのようにだんだんと頬、首へと下がっていき鎖骨にまでたどり着いたときに、動作はぴたっと止められた。彼は思い出したかのように「風邪ひく。風呂入って」と言ってわたしの背中を軽く押した。突然やめられた行為に少しさびしさを感じ、動くことをためらっていると、「何、僕も一緒に入ってほしいの?」といたずらそうに問いかけてきた。別に何度もそういうことはしているし、今更体を見せることに大きな抵抗はないが、今二人でお風呂に仲良く入るのは違うと思い、わたしは急いで脱衣所に向かった。ドアを開けると、もわっとした空気に一瞬で変わり浴槽には暖かいお湯が貼ってあった。わたしが濡れて帰ることは悟にはお見通しだったのだろう。彼の気遣いに胸がいっぱいになったが、手のひらで踊らされている感じがしてなんだかむかついた。
芯から温まったところで風呂を上がると、いつの間にか脱衣所には着替え一式とスキンケア用品など諸々用意されていた。先ほど彼が言っていた愛がないわけじゃないという言葉が突然頭にフラッシュバックしてくる。こういう些細なとこから愛されていると感じた。
長い髪をドライヤーで乾かす元気はなく、濡れた髪を簡単に拭き廊下へと進んだ。途中数滴ほどしずくが垂れたかもしれないが、もとより大雨で帰ってきたときに家を汚しているのだ。少しは見逃してくれるだろう。髪が濡れたまま登場したわたしに悟は再び呆れたような顔をし、溜息を一つついた後、「髪とドライヤー貸して」と大きな手のひらをこちらに差し出してきた。いわれるがまま行動すると彼は先ほどとは違う丁寧な手つきで髪の毛を乾かしてくれた。
「そういえばなんでインターホン聞こえていたのに出てくれなかったの」
ドライヤーの音に負けないように大きな声で聴いてみた。彼にとって予想外の質問だったのか、一瞬髪の毛を触る手が止まったが、負けじと大きな声で、「そうでもしないと合鍵使わないでしょ。宝の持ち腐れだよほんとに」「悟の合鍵って宝だったんだ」「そうだよ。誰にも渡したことないからね。これからもお前以外に渡すつもりもないよ。
だからちゃんと使って」
愛がないわけじゃないどころか愛しかないな。これから彼からもらった合鍵を使用するたびに今日のことを思い出す気がする。喧嘩するのもたまには悪くないなと思えた金曜日だった。
コメント
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まじ主さんの1話で完結なのにどちゃくそ内容良いですよね??まじ好きです。 これからも頑張って下さい! 五条悟に愛されたい欲が半端ないのでこれからも五条悟のお話気長に待ってます!