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「事件と直接の関係はないな」

珍しく両手でハンドルを操る壱道が、マスクを外した。

「そうですか」怖くて目を見ることができない。

「手首を傷めた」

気配を伺っていると、静かに呟いた。

「すごい威力の突きでしたもんね。ボクシングとか空手とかご経験あるんですか」

「机を抑えた時だ」

息を吐きながら軽く睨まれる。

「警察に身をおいて七年、様々な人間を見てきたが、あそこまではっきり殺気を出すやつは初めてだ。

あの威力で机が跳ね上がってたら、顎砕けてたぞ。

こちらから手を出してどうする」

何の申し開きも出来ない。

「申し訳ありませんでした」


山、田んぼ、住宅地、市街地と、代わり行く風景とは裏腹に、沈黙が続く。

もう一度きちんと謝った方がいいだろうか。

訳のわからない暴言を吐いたことも。

考えていると、

「お前の尋問だが」

姿勢を一切崩さずに壱道が口を開いた。

「悪くなかった」

突然の賞賛に言葉を失う。

「物の聞き方や、着眼点、矛盾点の指摘の仕方、追いつめ方、どれをとっても、初めてにしては上々だった。

あとは事前の計画と準備ができて、もう少し客観的にものを捉えられるようになれば、さらに良くなる」

「あ、ありがとうございます」

思わず壱道の顔を見つめる琴子をちらりと見ながら続ける。

「捜査と取り調べに一番いらないのは、感情だ。相手は感情的にさせつつ、いつも自分は冷静沈着。すべてを客観視するんだ。

こちらが感情的になるメリットは何一つない」

「わかりました。あ、ありがとうございます」

マスクを外した壱道の横顔は、毒が抜けたように、さっぱりとして見えた。

「まあ訳も分からず連れてこられ、準備も心構えもなかったことを鑑みれば、十分合格点だ」

顔が熱くなった。

「こ、告訴するんですか?本間を。本当に?」

照れ隠し半分に気になったことを聞いてみる。

「しない。と言うより現実問題、櫻井の証言なしには出来ない」

「え。だって本人からの申告はいらないんじゃ」

「申告自体はいらないが、実際、被害者本人からの供述がなければ、立件は難しい。

あの音声テープに証拠能力があるとは思えない。

通院歴だって、櫻井がどの病院に行ったか調べるのも難儀だし、わかったとしてカルテの保管義務は5年だ。

もし万一とってあったとしても15年前のカルテが証拠として効力があるかは疑問が残る」

「じゃあさっきのはーーー」

「あれはギャラリーたちに聞かせるための演説に過ぎない」

「演説?」

「人の人生オーブち壊した奴が手に入れた“まっとうな人生”など、粉々に砕いてやろうと思ってな」

「それって、めちゃくちゃ感情入ってますよね」

言ってから「しまった」と思った。

つい口をついて出てしまった。

だが、

「確かに。人のことを言えた義理ではないな」

自嘲気味に微笑んだ。


ーーー笑った。


血管が一気に開放されたように、身体中が熱くなった。

つられて口元が緩む。思えば琴子自身も刑事課に配属されてから、初めて笑った気がする。

つい数時間前まではこの男と笑い合える日が来るなどと思っていなかった。

嬉しさも相まって余計に笑いがこみ上げてくる。

「手を出したなんて他のやつらには死んでも言うなよ」

車は市街地を抜け、端正な住宅街に入っていく。

「特に二階堂さんには黙ってろ。

感情的になるなと、あの人からら叩き込まれたんだ」

「そういえば!思い出しました。二階堂さんに合気道で国体行ったとか言いましたね」

「そんなこと言ったか?」

怪訝な顔をしている。

「言っときますけどね、合気道は護身術ですから!試合なんてありませんから!」

「そうなのか」

「こう見えて私、高校からずっと続けているんですから」

車はアパートの駐車場の一角で停まった。


「ここはどこですか?」

ハンドルから手を離した壱道が、こちらを真っ直ぐに見る。

「青山純にも、合気道を使ったのか」

「えっと、まあ、そうですね。小手返しの応用です。ほらスティーブン・セガールが得意な技ですよ」

「お前、古い俳優知ってるな」

「亡くなったおばあちゃんが好きだったんです」

それには何も答えず、壱道は正面に向き直り、黙ってしまった。


手持ちぶさたになり、見上げる。

ここはどこなのだろう。

白壁のアパートのベランダが並んでいる。同じ色のカーテン。家具家電付賃貸のようだ。

アイドリングの音だけが静かな車内うなっている。

バンパーの前を一匹の猫が通りすぎ、それを追って二回りほど大きい猫も走り去って言った。

ダッシュボードの時計は午後一時を差していた。

もうこんな時間なのか。

またお昼食いっぱぐれそうだと思った途端、お腹がキュウ~と嘆いた。

まずい、これは完璧に聞こえただろうか。

でも隣の気配は微動だにしない。


「ーーー壱道さん?」

見ると、彼は目を瞑りながらうとうとと眠っていた。

考えてみれば、肺炎の入院後、二晩徹夜でこの場にいるのだ。

日中は動き回り、夜も頭をフル回転させて。


もう少し頼ってくれればいいのに。

先程の取り調べで少しでも見直してくれたなら、もう少し捜査に加えてくれるだろうか。

よく聞けばスースーと規則的な寝息も聞こえてくる。それに合わせて、一切脂肪のない薄い腹部が小さく上下している。

いつもは恐ろしくてあまり直視できないため、ここぞとばかりにまじまじと見つめる。

縦横に大きいため普段はあまり感じないが、瞑っているとやはり目少し垂れているのがわかる。

眉毛は目のラインと反比例するように少し上がっていて筋は通っているが小さい顔の中で主張しすぎない鼻も、薄い唇も、整っていないとは言えない。

身なりにもう少し気を使えば、それなりに魅力的な男ではないのだろうか。

長い前髪が、左目にかかっている。

呼吸に合わせた微妙な動きで、髪の毛が瞼に触れるらしく、その度に眉間に薄く皺が入る。

深く考えずに避けてあげようとして、手を伸ばしたそのとき、

「そんなに凝視されると穴が開く」

ギロリと開いた大きい目に、驚きのあまり慌てて引いた体がシートから滑り落ちそうになる。

「俺のことが気になるのか。何でも聞け」

「い、いえ!大丈夫です!」

「それは残念だ。まず住所から教えてやろうと思ったのに」

言うと、何もなかったかのようにエンジンを切って鍵を抜き取り、運転席のドアを開けた。


「ちなみにここだ」



三十分後、二人がけソファの上で、琴子は足を揃えて座っていた。

バスルームからはシャワーが身を弾く音が聞こえてくる。

なんだこの状況は。

「着替えもしたいし、ついでにシャワーを浴びてくる。五分で終る」

部屋に着くなり、ボタンを外しにかかる壱道から逃げるようにリビングに入ってきてから、

「車で待っていればよかった」と後悔した。

「大したものはないが」

シャワー室から声が響く。「冷蔵庫のものは何でも飲んでいいぞ」

「は、はい。どうも」

返事はしたものの、あいにく今日昨日出会ったばかりの先輩の冷蔵庫を開けられるほど図太い神経は持ち合わせていない。

ソファに身を預けて目を瞑る。

疲れが一気に押し寄せる。

壱道は二晩寝てないが、かく言うこちらも考えすぎて悪夢にうなされ、あまり眠れなかったのだ。

瞼の裏にパンフレットで見せていた櫻井の笑顔が浮かび上がる。

滝沢は「先生が殺したいほど憎んでいる相手」と言っていたが、果たして櫻井は本気で本間を憎んでいたのだろうか。

本間の話が本当であれば、櫻井は年に一度、あの音声データを送ることしかしていなかった。

それを使い脅したり恐喝することもなかった。

ただ、居場所を調べてメールを送るだけ。

「あんなことは俺だけにしといてくれ」と願いをこめて。

もし恨みが深ければ、音声データを妻に送ったり、郵送で学校に送ったり、告発文を添付したりもできたはずだ。

そこまでしなかったのは。

櫻井がそこまで本間や過去のことを引きずってはいなかったからに他ならないのではないか。

ただあの音声にここまでの意味しかないとすると、壱道の言う通り本間は容疑者からは外れることになる。

捜査は行き詰まったのか。

目を開け当たりを見回す。

リビングは八畳ほどで、意外と片付いている。というより何もない。

ガラスの丸テーブルに、茶色の二人掛けソファ。

正面にテレビ台とテレビ。

そこにデジタル時計が置いてある。その他にはカレンダーも電話もない。ビジネスホテルのほうがまだ物がありそうだ。

ダイニングスペースはなく、隣はオープンキッチンだ。

調理器具の類は見当たらず、自炊をしている気配はない。

そういえば、炊飯器や電子レンジもない。

あるものといえば、テレビで頻繁に宣伝しているコーヒーメーカーと冷蔵庫だけだ。食生活にだいぶ問題がありそうだ。

リビングと隣接する寝室も合わせると、1LKか。一人暮らしには十分間取りだ。


壱道が使っているのであろうシャワーの音が聞こえてくる。

思えば男がシャワーを浴びるのを待つのは初めてーーー

いやいや。何を考えている。

相手はあの壱道だ。

変なことを考え始めた琴子の電話が鳴った。

「木下さん?」

浜田だった。


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