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[ニューヨーク]

再び、鋭い頭痛と胸を打つような激しい動悸がハナを襲う。意識の輪郭がぼやけ、世界が遠ざかる。


「ハナ……? 大丈夫?」


メイソンの声は、霧の中で響くように遠のき、ハナの意識の深層に眠っていた一つの疑問が静かに浮かび上がる。


「そのメイクアップアーティストって……男性ですか?」


その問いに、メイソンは静かに、しかし確かな頷きを返した。

脈打つ頭痛の狭間で、なぜか脳裏に響く“繋がり”という言葉――。


「あなたと彼との“繋がり”は……?」


まばたきをひとつ置いて、メイソンが口を開く。


「私はジェシカ……ジェシカ・メイソン。彼にメイクを教えたのは、私よ」


脳内の軌道が狂い、現実の輪郭が歪む。思考が追いつかない。痛みが波のように脈打った。

ジェシカは頭を抱えるハナの前に膝をつき、優しく、記憶の扉を叩くように語りかけた。


「いまもなお、彼は希望という名の灯を抱えて、ひとり必死に病と闘い続けているの。願ってはいけないと知りながら、それでも願わずにはいられなかった──あなたへの愛を。その想いを、明日へと繋がる架け橋にして生きていたのよ。あなたの笑顔だけが、彼にとってたったひとつの希望の光だった」


彼は生きようとしていた。

そして、信じていた。

生きている限り、その想いは愛する人の心へきっと届くのではないかと。

命の尽きるその日まで、願い続ければ愛する人の笑顔は失われないのではないかと。

最期の瞬間まで想い続ければ、永遠という奇跡が訪れるのではないかと。

だからこそ、彼は生きることを、決して諦めなかった。

死を間近に感じながらも魂を削るようにして、ただ愛する人のために……想いを、願いを、そして愛を紡ぎ続けていた。

失われゆく視界の果てに現れる暗闇の恐怖。その深淵の中でさえ、彼の胸には決して消えることのない光がひとつだけあった。

それは、愛する人への変わることのない想い。

何を失っても、誰に何を奪われても、彼女への愛だけは一度も揺らがなかった。

彼は毎晩、震える左手で祈った。

“どうか今日も、君が笑顔でありますように”と――。

その想いだけを、生きる理由にしていた。

朝が訪れるたび、まだこの命があることに安堵し、胸を撫で下ろす。

けれどその安堵は夜が訪れることで、すぐにまた夜の闇へと塗りつぶされていった。

確実に迫る終わりを感じながら。


「きっと、彼はその恐怖の中で……あなたを想いながら、震える左手で、ひとつのノートに想いを綴っていたの」


ジェシカの視線が静かに落ちる。

それは、震える左手で書き続けた、たった一冊のノート。

その表紙には、たどたどしい文字で、こう書き綴られていた。


〈キミを うしなった せかいに キミを えがく〉――


(2006/12/24)

もしも このひに ユキが ふったなら

キミは ナミダを ながすの だろうか

それとも あたたかな ほほえみを みせて くれるの だろうか

ほんの すこしでいい

どうか ほんの ひととき だけ

このユキが てのひらの うえに のこって いてくれます ように

キミと すごした ジカンが あとかたもなく きえて しまわぬ ように

まだ わすれて いないよ

キミが いた フユの オモカゲを

キミと みあげた ハツユキの きおくを

あのひから ジカンの ハリは とまった ままだ


(2006/12/31)

ことし さいごに みあげた タイヨウは

やさしく あたたかな かがやきで

キミの おもかげを はこんで きた

やがて おとずれた ヨゾラには

ポツンと さびしげな ツキが ひとつ うかんで いた

おなじ ソラという バショに いながら

けっして まじわる ことのない ふたつの ヒカリ

ハグれて しまったのか

それとも みずから てばなして しまった のか

はなさぬ ようにと つよく むすんだ あのひの テとテ

どんなことが あっても ハナさないと ココロに ちかった はずだった

だから いまも この ヒダリテに のこる カンショク だけは

けっして てばなさない

けっして わすれたり しない


(2007/1/6)

いまもなお かんがえて しまう

もしも さいごに キミに あえたなら

もしも さいごに キミに ふれられたなら

もしも さいごに キミの えがおを もういちど みれたなら

もしも もしも

おわりの みえない “もしも”の つらなりが

かなう ことのない この ねがいが

むねの おくを なんども しめつけて はなさない

ただ あいたい だけなのに

ただ ふれたい だけなのに

ただ キミの えがおを もういちど この ヒトミに うつしたい だけなのに


(2007/1/12)

じゅんに メールを した

これからの キミを

まもれない おれの かわりに

これを キミに たくす

いまの おれにある

すべての おもいを こめて


(2007/1/17)

きりがかる きおくの おく

それでも はっきりと おぼえて いる

わすれたく ない

キミと はじめて であった このひの ことを

わすれない

キミの なまえも

キミの こえも

キミの ぬくもりも

キミの えがおも

けっして わすれたり しない

なにが あっても

それだけは ゆるがない

チカ

それが おれの すべて だから


(2007/1/23)

この ペアリングを はずさな かった

いや はずせな かった

この ゆびわを つけている だけで

キミと つながって いられる ような きが したから


(2007/1/30)

あめが ふるたび

キミが ないている ようで

むねが しめつけ られる

これ いじょう つよく ふらない ようにと

ねがっている じぶんが いる

キミを あめから まもる かさには なれな かった

もしかしたら

キミを きずつけて しまった おれ じしんが

あめだった のかも しれない

だから いまは

ただ いのる だけ

キミの しあわせを

この いのちの ヒが

きえる その ひまで


(2007/2/6)

どこに いても

なにを していても

あたまに うかぶのは キミの こと ばかり

もう キミの こえを きくことは できない

もう キミの やさしさに ふれる ことも できない

もう キミの えがおに あうことも できない

それでも まいにち ねがって いる

どうか

どうか あしたも あさっても

1ねんごも 10ねんごも

キミが えがおで いてくれます ように

たとえ

その えがおに

二どと あえない としても


(2007/2/10)

となりを みれば いつも うつる はずだった けしき

こえを かければ やさしい へんじが かえってくる はずだった ばしょ

てを のばせば すぐに ふれられる はずだった きょり

もう そこに キミは いない

おれの せかいは

まちがいなく

キミで できて いたんだ


(2007/2/15)

きょうも ふれている

ゆめの なかで ちかくて とおい キミに

キミが かすんで しまわない ように

なみだを こらえる

あさの ひかりに キミが とけて きえて しまわない ように

また そっと めを とじる


(2007/2/24)

きづけば もうすこしで 二がつも しずかに まくを とじようと している

きせつは しずかに いろを かえようと している

ふゆから はるへ

キミと すごした はるを

もういちど だけ いっしょに むかえて みたかった

まっしろな ゆきの みちに

ほのかに はるかぜが かおる

それは しずかで すんでいて やさしくて

どこまでも おだやかな

こうふくの きせつだった


(2007/2/26)

あとよっかで キミの まんなかに ある あたたかな こころが

おれの こころを そっと うけとめて くれた ひ

キミが おれの “心” を まんなかで “受”けとめて くれたから

“愛”という ものが うまれた

キミを 愛せて よかった

キミを 愛して こころから しあわせ だった

たとえ あしたに ゆめが なくても

みらいが なくても

いたみに しずむ きょうで あったと しても

キミと であい

キミを 愛した そのひびが あるかぎり

おれは きょうという ひを いきぬける

もしも あした

この いのちが きえて しまったと しても

キミを 愛している

ずっと

ずっと

ずっと



すると突然、店のドアが開き、乾いた音が静寂を破った。

その音に驚いたハナの手から、ノートがふわりと床に落ちる。

外は、先ほどよりも雪が深く、静かに、しかし確かに世界を白く染めていた。


「ユウ……」


ドアの向こうには、雪に濡れたまま、息を切らして立ち尽くすユウの姿。

その姿を見たジェシカの表情が、ふと翳る。


「ジェシカ……ケンが……」


ユウの声は震えていた。唇も、瞳も、心の奥までも。

名前を耳にした瞬間、ハナの心臓は強く脈打ち、呼吸が次第に乱れはじめる。

息がうまくできない。胸の奥で、何かが解けていく。

“ケン?”

その名が、胸の奥で静かに、しかし確かに響いた。

“ケン……?”

かすれた記憶の霧の向こうから、何かが目覚めようとしている。

“ケン……”

――大切な人。

私の、たったひとりの……。

――愛した人。

この心ごと、すべてを捧げた人……。

そうだ、私は――


「ケン!」


記憶が一気に波のように押し寄せる。

あなたの声。

あなたのぬくもり。

あなたの優しさ。

そして、あなたと共に歩いたあのかけがえのない日々――

すべて、今、胸の奥に蘇った。

記憶が堰を切ったように脳裏を奔り、チカは崩れ落ちるように泣き叫んだ。


「ケン……どこにいるの? 逢いたい……ケンに逢いたい……!」


その慟哭に、ジェシカは迷いなくチカを抱き寄せ、震える声でユウに問いかけた。


「危険な状態なのね?」


声にならない動揺の中、ユウは目を潤ませながら、ゆっくりと大きく頷いた。


「すぐに病院へ向かいましょう」


ジェシカとユウは、今にも崩れ落ちそうなチカの身体を両側から支え、そのまま、雪の降りしきる街を抜けて、病院へと向かった。

チカは霞む意識の中で、何度も繰り返しケンの名前を呼び続けていた。

――どうして、あの時気づけなかったのだろう。

――どうして、一番近くにいた私が気づいてあげられなかったんだろう。

いつだって、私のことを想ってくれていたのに。

どんなときも、私を守ろうとしてくれていたのに。

逢いたい。

ケンに逢いたい。

あなたに、逢いたい――

しんしんと降り続ける雪が、街の音をすべて覆い隠していた。

揺らめくように舞い落ちる白の向こうに、私の愛する人がいる。

私のすべてを捧げた、たった一人の大切な人が――

病院へ到着すると、チカはふらつく足で階段をひとつずつ登っていった。

その一段ごとに、胸の奥が軋むような痛みを響かせる。

そして、病室の前に辿り着いたとき、まるで悪夢から覚めたように、チカの目に意志の光が戻った。

そして、迷いも躊躇いもなく、チカはノックもせずにドアを開け放った。


「ケン!」


胸の奥を突き破るような痛みが、そのまま声となってあふれ出た。

しかし、その叫びに応えることなく、ケンは静かにベッドに横たわっていた。

昏睡状態の中でわずかに動く胸。

“スーッ……スーッ……”と酸素マスク越しに漏れる微かな呼吸音。

“ピッ……ピッ……”と機械的に響く心電計の音だけが、無機質な空間に痛々しく刻まれていく。

――この寝顔を、私は知っている。

かつて私の隣で眠っていた、あの優しく愛おしい顔。

けれど今そこにあるのは、骨ばかりに痩せ細り、頬もこけた痛ましい姿だった。

皮膚を突き破りそうな右腕は、もはや骨と皮だけのように見えた。

まるで、時間と苦しみの全てをその身に刻みつけたような姿。

こんなにも苦しく、悲しい再会があるなんて……。

あの別れの一瞬が痛みのすべてだと思っていた。でも今は、その何倍もの苦しみが、音もなく胸を蝕んでいく。


「もう……意識は戻らないかもしれません」


医師の言葉が、頭のどこかで反響していた。

それでも私は信じた。

あの頃のように、目を覚まして、「おはよう」と笑いかけてくれると――

チカは一瞬たりともケンの傍を離れようとしなかった。

離れていた時間を少しでも埋めるかのように、彼の手を、そっと、しかし強く握りしめていた。

その左手に残る微かな温もりだけが、“ケンが生きている”という確かな証だった。

チカはその温もりを信じて、揺らめく命の光を見つめ続けていた。

窓の外では雪が細く降り続き、闇夜と白のコントラストが淡く映り込んでいた。

時計の針が静かに12を指し、日付が“3月2日”へと変わる。

その瞬間だった――。

ケンの左手が、ピクリとかすかに動いた。


「ケン……? ケン……?」


チカは息を呑み、震える声で何度も名を呼んだ。

その声に反応するように、ソファーで祈っていたジェシカとユウが立ち上がる。


「いま……ケンの左手が……少し動いたの!」


振り返ったチカの目に涙が浮かぶ。

ジェシカは短く息を呑むと、すぐに動いた。


「先生を呼びましょう! 急いで!」


すぐに医師が駆けつけ、懸命に状態を確認した。

だが、ケンが意識を取り戻す気配はなかった。


「こういうことはよくあることなんです。筋肉の反射か、夢の中の反応かもしれません」


落ち着いた口調で医師が告げる。

あれは偶然なんかじゃない――

あの揺れは、確かにケンの“意志”だった。

だから、チカはその手を離さなかった。

彼の左手をしっかりと握りしめ、その掌に自分の祈りを込め続けた。

ほんの数分の出来事だったはずなのに、時間は永遠にも似て長く、ゆっくりと流れた。

音を立てて流れていくような、止まらぬ時間の中で。

そして――その時は突然やって来た。

ケンの左腕が、はっきりと大きく震えた。

酸素マスクの内側で呼吸が荒くなり、かすかな音だった吐息が、命の鼓動のように高まっていく。

それは、目の前で“奇跡”が現実になっていく瞬間だった。

わずかに震える瞼が、ゆっくりと持ち上がる。

乾ききった瞳が、光を求めるようにチカを捉えた。


「ケン……! ケン……! 聞こえる? 私だよ……!」


声を震わせながら何度も名を呼ぶ。

その声に、弱々しい呼気がかすかに応える。


「チ……カ……? これ……は……夢……?」


苦しげに紡がれる言葉は、途切れながらも確かに届いた。

その唇は片側しか動いておらず、声も今にも消えそうなほど弱々しかった。

それでも、たしかにそれは、ケンの声だった。

チカは必死に首を振り、瞳からあふれた涙が頬を伝う。


「夢じゃない……夢なんかじゃないよ……私は、ここにいるよ……」


その言葉が、自分自身に向けた確認のようにも響いた。

夢ではない現実に、胸の奥から込み上げるものが一気に溢れ出す。


「チ……カ……チカ……」

「ケン……!」


その声を聞いた瞬間、ふたりの左手が静かに重なり合い、指先が確かに温もりを伝え合う。

交わされた温もり――それは離れ離れだった時間さえも包み込むような強さを持っていた。

そして、互いの左手薬指には、今も変わらず光を宿す、あのペアリングがあった。

まるで、ずっと想いが途切れていなかったことを、証明するかのように。


「どう……して……ここ……に……?」


かすれた声がようやくの力を振り絞って放たれた。


「ジュンさんが……教えてくれたの」

「そう……か……」


ケンは今にも閉じそうな重い瞼をかすかに震わせ、朧げな瞳でチカを見つめた。


「こんな……見苦……しい……姿……で……ごめん……」

「そんなことない……ケンは、今もケンのままだよ」


止まることのない涙が頬を伝い、まるで記憶の底に積もった想いまで洗い流そうとしていた。


「ゲホッ、ゲホッ……」


突然、咳き込むような激しい発作が襲いかかり、ケンの顔が苦悶に歪む。

荒くなる呼吸。

激しく痙攣するその身体の震えが、チカの腕を通じて直接、胸の奥へ突き刺さる。


「ケン……しっかりして……! お願い……」


必死に声をかけるチカの手が震える。

ジェシカとユウも、ただ祈るようにその姿を見守るしかなかった。


「……はぁ……はぁ……はぁ……」


呼吸は次第に浅く弱くなり、遠のく意識の奥で、ケンの脳裏に微かに残る記憶の光が揺れた。



――ばあちゃん……

やっと、わかったよ。


「いつかわかるときが来る」


あのとき、ばあちゃんはそう言った。

それは、きっと――この日のことだったんだな。

“三つの輝く瞬間”

最後の一つは――“すべて”だったんだな。

生まれてから、そしてこの命が終わるその瞬間までに刻まれた、全ての出来事。

出会った人々。

この目に映した風景。

この手で触れた温もり。

心で感じてきた痛みと喜び。

失ったものも、見つけたものも。

差し伸べられた手、信じようとした心。

暗闇の中に差し込んできた一筋の光。

叶うことを信じ続けた夢。

やっと届いた想い。

心と心が繋がったあの瞬間。

そして、命を超えても色褪せない“永遠の愛”。

“永い一瞬”という、奇跡のような時間。

たった一瞬の中に、すべてが詰まっていたんだ。

今ならはっきり分かる。

俺がしてきたことは、何一つ間違いなんかじゃなかった。

だから、こうして最期に――

もう一度チカと巡り逢えた。

だから、ずっと願い続けてきた夢が、今ここで叶っている。


苦痛に歪んでいたケンの表情に、ふと安堵の色が滲む。

荒かった呼吸も、次第に落ち着きを取り戻し、静かに整い始めていく。

まるで、チカの存在そのものが、痛みを癒し、命の炎をそっと包み込んでいるようだった。


「泣か……せて……ばかり……で……本当に……ごめん」


ケンのかすれた声に、チカの頬を、涙が絶え間なく伝っていた。


「幸……せに……して……やれ……なくて……ごめ……ん」

「そんなことない……。私は、すごくすごく幸せだったよ。ケンに出逢えて、一緒に時を重ねて、こんなにも深く人を愛せた。それだけで……十分すぎるほど幸せだったの」

「チカ……最期……に……俺の……願い……叶え……て……くれ……ない……か?」

「お願いって……なに?」

「最期……に……チカの……笑顔……が……見たい……」


チカは堪えきれず首を横に振った。


「……無理だよ……そんなの……笑えるわけないよ……」


そのときだった。

ケンは残された力のすべてを振り絞るように、震える左手を伸ばし、そっとチカの頬に触れる。

頬に触れるその手は驚くほど細く、儚く、けれど確かに温かかった。

そして、親指に最後の力を込めて、涙を一筋、拭った。


「これが……俺に……できる……最後……の……メイク……」


その声は細く儚く、消え入りそうだった。

けれど確かに強く届いたその言葉に、チカの心が震えた。

ケンの呼吸は浅く、不規則になっていく。まばたきの間隔が長くなり、まるで目を閉じたまま帰ってこないのではないかと思えるほどだった。

――ケンの願いを、叶えたい。

チカは静かに目を閉じた。

心の奥にしまい込んだ思い出をそっと開く。

二人で歩いた季節、交わした言葉、笑い合った時間。

温もりも、痛みも、すべてが愛おしかった。

涙を止め、瞳を開く。

ゆっくりと、その表情に“笑顔”を咲かせた。


「まさ……か……最期……に……チカの……笑顔……が……見られ……るなんて……思わ……なかった……。俺……の……願い……が……叶っ……た……んだな」

「やめて……そんなふうに最期なんて言わないで……お願いだから……」


チカが彼の手を強く握ると、ケンはかすかに微笑んだ。


「ずっと……伝え……たかっ……た……んだ……。チカ……ありが……とう……。俺に……笑顔……を……くれて……俺を……見つけ……て……くれて……本当に……ありが……とう……」

「ケン……ねえ……お願いだから……そんな、まるでお別れみたいなこと言わないで……」


チカの声は涙に揺れ、揺れながらも強くケンの名前を呼び続けた。


「また……どこか……で……逢お……う……」

「いやだよ……いかないで……お願い、私を一人にしないで。ケンと生きたいの……」


チカは、喉が裂けるような想いを、声にならない声で吐き出し続けた。


「きっと……また……どこか……で……逢える……から……」


ケンは、もう一度かすかに微笑んで、静かにその瞳を閉じた。


「いや……いやだよ……ケン、いかないで……。お願い、お願いだから……!」


チカは助けを求めるようにケンの胸にすがりつき、壊れてしまいそうな身体を揺らした。


「ねえ……見てよ……笑ってるから……。ほら……私、笑ってるよ……」


その時だった。

病室に鳴り響いたのは、心電計から放たれる、冷たく、無情な長い電子音――。

希望の音は消え、動かぬケンの胸元に、チカの祈りだけが降り注ぐ。

その電子音だけが、確かに現実を告げていた。

チカの声はもう届かない。

動かない身体に縋りつく手も、涙も、叫びも、すべてが虚空に溶けていく。

愛した人の、最期の温もりだけを残して――。


「ねえ……ねぇ……」


それでもチカは、震える声で何度も呼びかけながら、ケンの身体を揺さぶり続けた。


「ねえったら! 返事してよ!!」


何度も、何度も、何度も――

愛しい人の名を呼び続け、動かぬ身体を、激しく、必死に揺さぶった。

その瞳には、絶望が滲んでいた。

この先、どんな些細な願いも叶わなくてかまわない。

だから――

たったひとつでいい。

もしも、願いが叶うなら――

どうか、ケンを連れていかないでください。

彼を、この手から奪わないで……。


「ねえ……起きて。早く起きてよ……。ねえ、ケン……? 一緒に日本へ帰ろうよ……」


チカはベッドに眠るケンの身体を抱き締め、耳元でそっと囁いた。

その声は、祈るように震えていた。

けれど、その儚い願いが届くことはなく、ケンはそのまま静かに息を引き取った。

記憶が薄れていく最期の瞬間、チカの“笑顔”だけを心に刻んで――。

まだ温もりの残る手。

穏やかに眠るやわらかな寝顔。

ただひとつ違うのは、いつも優しく言葉をくれた唇が、もう動かないこと。

“チカ”――

そう呼んでくれた声も、もう聞こえない。

私を真っ直ぐに見つめてくれた瞳は、閉ざされたまま。

頭を撫でてくれた手。

涙をそっと拭ってくれた、魔法のようなその手。

今はもう、指先ひとつ動かない。

どれだけ名前を呼んでも、どれほど強く抱きしめても、どんなに涙を流しても、ケンはもう、帰ってこない。

まだ話したいことがあった。

まだ伝えきれない想いがあった。

まだ叶えたい夢があった。

またメイクをしてもらえると、信じていた。

また一緒に、手を繋いで井の頭公園を歩けると思っていた。

またあの笑顔に、触れられると思っていた。

もっと……もっと一緒に、生きたかった。

なのにどうして。

どうして私を残して、先に逝ってしまうの?


2007年3月2日 午前2時26分

ケンは、帰らぬ人となりました。

25年と104日――

あまりにも短く、あまりにも濃密だった生涯の幕が、そっと下ろされました。

余命宣告から、73日目のことでした。


彼は――

まっすぐで、揺るぎない心を持つ人でした。

感性豊かで、ひとの痛みにも喜びにも、優しく寄り添える人でした。

温もりに満ちた声で、そっと安心をくれる人でした。

大きくて、優しい魔法のような手で、涙を止めてくれる人でした。

どんな傷も、笑顔へと変える不思議な力を持った人でした。

人の幸せを心から喜び、人の悲しみに、静かに気づける人でした。

私を、深く理解してくれる人でした。

私の願いを、叶えてくれる人でした。

ときに自分を犠牲にしてまでも、私を守ろうとする人でした。

どんなときでも、いつだって私を想い、愛し抜いてくれる人でした。

最期の瞬間まで――

その愛を手放さなかった人でした。

そんな彼は、私に教えてくれました。

転んでも立ち上がる勇気を。

前を向いて歩く強さを。

生きることの尊さを。

そして――

心に残る数えきれないほどの優しい言葉をくれました。

自分を好きになれるよう、優しく導いてくれました。

日々を照らす、温かな優しさをくれました。

ケンは、私に人生で最も幸せな日々をくれた人です。

笑顔の意味を、教えてくれた人です。

静かに眠るケンの左手を、チカはずっと握り締めていた。

その温もりが消えてしまわないように――

その手が冷たくなることが、恐ろしくてならなかった。

届くはずもないとわかっていても、チカの頬を伝う涙は止まらず流れ続ける。

ただその現実を、受け止めるにはあまりにも残酷すぎた。

どれほどの時が過ぎたのか、わからない。

気づけば、病室にはもう誰もいない。

ただ、チカとケン――二人だけがそこにいた。

すると、扉の向こうからノックの音が響いた。


「少しだけ、待っててね」


ケンにそう優しく声をかけ、チカはそっとその手を離すと、静かに病室のドアを開けた。

そこには数名の看護師が立っていた。

その背後には、廊下の椅子に腰かけ、深い悲しみと絶望に打ちひしがれる、ジェシカとユウの姿があった。

看護師たちの手で、ケンの身体は別室へと運び出されていく。

その現実に目を背けるように、チカはジェシカの胸に飛び込んだ。


「ケンなら大丈夫よ」


そう優しく語りかけながら、ジェシカは今にも崩れ落ちそうなチカを、しっかりと抱きしめた。


「ジェシカさん……ユウさん……ケンが過ごした最後の日のことを、教えてください」


その言葉に、ジェシカはわずかに顔を曇らせた。


「きっと今は、聞かない方がいいわ……」

「お願いです……聞かせてください……」


涙に滲む瞳の奥に、決意を宿したチカの表情を見たジェシカは、しばし迷いながらも静かに口を開いた。


「ケンはね……倒れる直前までメイクをしていたの」


もう、立ち上がる力さえ残っていなかった。

それでもユウの肩を借り、椅子に腰かけて、動かすのも困難になっていた左手で、懸命にメイクを続けていたのよ。

どんなに苦しくても、どんなに辛くても、どんなに悲しくても、どれだけ身体が限界に近づいていても――

決して弱音ひとつ吐かずに、笑っていた。


『自分が笑顔を持っていないと、誰かに笑顔を与えることはできない』


そう言って、力強く微笑んでいたわ。

“誰かの笑顔”

ただ、それだけを信じて、メイクブラシを最後まで離さなかったの。

彼は、最期まで大好きなメイクに向き合って、たくさんの笑顔と出会えた。

だから、きっと――幸せだったと思うわ。

けれどね――

意識を失って倒れた彼の瞳から、涙が静かにこぼれていたの。


「なぜかしらね……どうして、あんなにも優しい人を……神様は連れていってしまうのかしらね……」


ジェシカの瞳にも、抑えきれない涙が滲んでいた。

もう少しで、その堪え切れない想いが零れ落ちそうだった。


「ケンが……ニューヨークで過ごしていた部屋に行きたい」


かすれた声で呟いたチカに、ジェシカはゆっくりと頷き、何も言わずにチカの肩をそっと支えた。

病院を出ると、ジェシカとユウに支えられながら、三人は雪の舞う街を静かに歩きだす。

ほどなくして、ケンが生前を過ごしたジェシカの店へ、舞い戻った。

奥にある階段を一段ずつ踏みしめ、2階へと向かう。

そして、ひとつの扉の前でジェシカの足が止まった。


「ここが……ケンが使っていた部屋よ」


チカはドアの前に立ち、そっとドアノブに手を添える。

もしかしたら――

この扉を開けた先に、ケンがいるのではないか。


『おかえり』


あの優しい声で、笑顔で迎えてくれる気がしてならなかった。

そんな奇跡を、どこかでまだ信じてしまっている。

それが現実でないことを知りながらも。

祈るように、息を整えながら……チカはゆっくりとドアノブを回し、静かに扉を開いた。

その瞬間――

言葉にならない嗚咽とともに、頬を伝う涙がとめどなく流れ落ちる。

胸を刺すような懐かしさと、幸せだった記憶の奔流――

すべてが、心の奥底から一気に押し寄せてくる。

チカの目に映ったもの――

まるで部屋そのものにメイクを施したかのように、幾千ものネリネの造花が、隙間なく空間を彩っていた。

私の好きなネリネの花。

私の名前“千花”と同じ“幾千もの花”。

その無数のネリネの花が、まるで私をここに呼び戻すために用意されたかのように、静かに咲いている。

けれど、そのどの花からも香りはしない。

それは本物の花ではなく、すべてが造花だったから。

それでも、その無言の花々は、まるで想いだけで咲いているようだった。

色を纏いながらも香らないその姿が、まるで彼の最期の言葉のように静かで、優しく、切ない。

優しい色彩で、まるでこの空間そのものを記憶で満たすように、部屋をやわらかく染め上げていた。

ネリネの花言葉は、“幸せな思い出”。

その中心には、ひときわ目を引く、深く澄んだ青い造花の花束がそっと置かれていた。

そっと歩み寄り、その花束を手に取る。

それは、“二本の青の桔梗ききょう”。

その花言葉は、“永遠の愛”。

そして、二本の桔梗だけが束ねられた花束が持つ意味は、“二人だけのもの”。

花言葉も、花の本数も、全てが彼の想いそのものだった。

その瞬間、造花で満たされた部屋のまんなかでその場に崩れ落ち、花束を胸に抱きしめながら、こらえきれず抑えていた涙をこぼした。


「ケン……」


あなたの愛が、今も確かにここにある。

私も幸せでした。

私も、永遠にあなたを愛しています。

ありがとう。

“幸せな思い出”と“永遠の愛”を、こんなにも美しい形で私に遺してくれて……。

ふと、あの日のケンの言葉が蘇る。


『いつか俺も、人以外にメイクしてみたいな』


そう言っていたあなた。

その言葉の意味が、今になってはっきりと分かる。

色褪せることのない造花に、想いという名のメイクを重ねて――

この部屋を、私だけのために彩ってくれたから。

どんな時も、どこにいても、あなたはずっと私を想ってくれていたんだね。

あなたに出逢えて、あなたと共に時間を重ねて、本当に心の底から幸せでした。

とても、とても、幸せでした。

そして今も、私は幸せです。

それほどの想いと深い愛を、この胸に残してくれたから。

今も、これからも――

永遠に、あなたを愛しています。


「この部屋で……眠りたい……」


チカは、ネリネの花々に包まれたそのまんなかで、静かにそう呟いた。

扉の向こうから、ジェシカの優しい声が届く。


「……ひとりで大丈夫?」


花束を胸に抱きしめたまま、チカは何度も深く頷いた。その姿にジェシカはそっと扉を閉めた。

部屋には、ケンが着ていた服が、使い慣れた枕が、そして、あの頃と同じ、どこか懐かしい優しい香りが残っていた。

あなたと過ごした日々が、静かに、けれど鮮やかに甦る。

心の奥深くにしまっていた記憶が、一つずつ姿を現していく。

初めて出逢った温泉旅行の夜。

傷跡を見た日のこと。

ケンの流した涙。

初めて見せてくれた穏やかで優しい笑顔。

そっと繋いだ手の温もり。

寄り添って眠った夜の、愛おしい寝顔。

――そして、別れの日に見た、あの悲しい背中。遠ざかる後ろ姿。

この部屋で、どれほどの孤独を味わっていたのだろう。

この部屋で、どれほど苦しんでいたのだろう。

誰にも言えない痛みを、どれだけ抱えていたのだろう。

たった一人で、どれだけの夜を涙で過ごしたのだろう。

私の誕生日――

あの日、無理に微笑んでくれていたの?

この指輪をはめてくれた時――

どれだけの想いを込めていたの?

本当は、辛かったよね。

本当は、苦しかったよね。

本当は、誰よりも泣きたかったんだよね。

ケン……

あなたは私を想って、誰よりも優しくて、誰よりも悲しく切ない決断をしてくれたんだね。

でも、あの時――

どうして泣いてくれなかったの?

どうして本当のことを話してくれなかったの?

もし話してくれていたら、私は全てを捨ててでもあなたの傍にいた。

何があっても、ずっとあなたの隣にいた。

決して離れたりなんて、しなかった。

あなたがいない世界なんて、信じたくない。

信じたくないのに、涙は止まってくれない。

ねえ、今、私は泣いてるよ?

いつものみたいに、魔法の手で涙を拭ってよ。

『おいで』って、あの優しい声で呼んで、抱きしめてよ。

この先、私が泣いたら、誰が涙を止めてくれるの?

寂しい夜は、誰が私を抱きしめてくれるの?

私は、どうやって一人で生きていけばいいの?

――離れたくない。

――逢いたい。

ケン……。

あなたに、逢いたいよ……。

泣き疲れたチカは、ケンの書き綴ったノートと桔梗の花束を胸に抱きしめ、幾千ものネリネの花に優しく包まれながら、いつしか静かな眠りへと落ちていった。

幾ばくかの時が流れ――

頬をつたう涙のぬくもりに気付き、ゆっくりと目を覚ます。

朝の光の中、あなたの幻が淡く消えてゆく。

その姿を追って、チカはかすかな声で名を呼ぶ。


「ケン……? ケン……?」


誰もいない部屋に、チカの細く震える声だけが、静かに響いた。

夢を見た――

あなたと過ごした、あの幸せで温かな日々の夢。

止まってほしいと願った時間。

永遠に続いてほしいと祈った瞬間。

もう、決して叶うことのない夢だった。

目を覚ますと、振り向いても私は独り。

そこに、優しいあなたの姿はもうない。

もし、あの日に戻れるのなら……

他には何もいらない。

逢いたい――

あなたの声が聞きたい。

あの頃のように、手を繋ぎたい。

あの頃のように、腕の中に包まれたい。

あの頃のように、心から笑い合いたい。

ただ、あなたの笑顔にもう一度逢いたい。

何度も、何度も、心が囁き続ける。

もし、どんな涙にも意味があるのなら。

出逢いが運命だったように、別れもまた意味を持っているのだと――

そう、受け止めていきたい。

頭ではわかっている。

もう、あなたはいない。

戻れないことも、知っている。

それでも、涙は止まらない。

ただひとり、この世界に取り残されたような、静かな悲しみだけが、胸を深く満たしていく――。



【翌日】

ジェシカの配慮により、ケンの葬儀は日本で営まれることとなり、チカはジェシカとユウとともに、静かに帰国の途についた。

ただ、ケンの帰国は少し先になる。

彼は現地の施設でエンバーミングの処置を受け、1週間後に日本へ帰ってくることとなった。

病によって変わってしまった容姿を、せめて安らかな面影に整えてあげたい――そんな願いから施された処置だった。

遺体に防腐液を注入し、腐敗を防ぎながら衛生状態を保つこの技術は、最期の別れをより自然な姿で迎えられるようにするためのものである。

その優しい面影を残したまま、安らかな表情で静かに、かつて暮らした日本の地へと還ってくる――。

帰国後、記憶の急激な回復と深い喪失感に襲われたチカは、心身の限界を迎え、一週間の入院を余儀なくされた。

光の差し込まぬ深い絶望の中で、彼女は希望の一筋すら掴めず、闇の中にただ身を沈める日々を過ごした。

そして、ケンの帰国と同じ日に、ようやく退院の許可が下りた。

体調こそ戻ったものの、チカの心は未だ深い霧の中にあった。現実を受け止めきれず、魂は宙を彷徨っていた。

ジュンの配慮によって、葬儀はケンの死を知る者だけで執り行われることとなった。

静かで、けれども深い愛情に包まれた別れの儀式だった。

ジュン、佐藤院長、ジェシカ、ユウ、チカ――

そして、チカの状態を案じたジュンの願いで、ミサキも参列することとなった。

一人ひとりがケンの眠る柩に花を手向け、別れの言葉を心から捧げていく。

ジュンの腕に抱かれたケンの遺影だけが、静かに、変わらぬ優しい笑顔でチカを見つめていた。

佐藤院長は、しばし沈黙の後、小さく語りかけた。

「君はニューヨークでも、最後まで懸命に生き抜いていたようだね。よく闘った……本当によく頑張った。もう君に会えないと思うと寂しいよ。私が無力だったばかりに……。本当に、すまない……」

ジェシカは遺影に向かって微笑みながらも、声を震わせた。

「ケン……本当に、よく頑張ったわね。あなたが命を燃やして生き抜く姿を見て、“生きる”ということの重さと尊さを改めて教えられたわ。あなたは私の自慢の弟子であり、永遠のライバルでもあった。そして――私の可愛い息子でもある。今度は空を彩るために旅に出るのね。それなら私は、毎日空を見上げることにするわ。新しいあなたの“メイク”を空に見つけるために――。今まで生きていてくれて、ありがとう」

ユウは唇を噛みしめながら、柩の前に立った。

「お前が遺した“最高の笑顔”と“生きていた証”、確かに俺の記憶とカメラに刻んだよ。どんなことがあっても、この二つだけは絶対に色褪せさせない。絶対に――忘れない」

ジュンはしばし柩を見つめたのち、力強くケンに語りかけた。

「ケン……お前のおかげで、俺の進む道が見えたよ。俺の夢の中でお前の夢の続きを見てみようと思う。2年、待っててくれ。2年後、また同じ景色を見よう。お前の“夢の続きを”――再開しよう」

そう言ってジュンはケンの首にそっと手を伸ばし、金のネックレスを外した。


「チカ……最後にケンと交わした約束だ。“いつかチカがこのネックレスを必要とする日が来た時に、渡してほしい”そう言われていたんだ」


ケンが……私に……?

手のひらにそっと金のネックレスが乗せられる。

チカはそのネックレスを強く握りしめ、ゆっくりとケンが静かに眠る柩の前へと歩み寄った。

そっと手を伸ばし、頬に触れ祈りを込める。

ケン……

この金のネックレスには“願いを叶える力”があるんだよね?

だから、私は願います――

“ケンが、どうか、早く帰ってきますように”

その願いを最後に、柩の蓋は静かに閉じられ、やがて火葬場へと運ばれていった。

火葬炉の前。

最期の別れのときが、残酷な現実として迫る。

柩は、火葬炉へとゆっくりと吸い込まれていく。


「やめて……嫌だ……嫌だよ……ケンと離れるなんて、嫌……。一人でなんて生きていけない……!」


泣き叫びながら火葬炉へ向かおうとするチカの身体を、ミサキが力強く抱きしめる。

それでもなお振りほどこうとするチカの肩を、ジュンが押さえつけるように掴み、声を震わせて叫んだ。


「俺だって、認めたくなんかねぇよ! でも、ケンは……ケンはもう、いないんだ……。だから、ちゃんと見送ってやろう。な? チカ……」

「ちがう……ケンは死んでなんかいない……! お願い……ケンに逢わせて……ケンを返して……お願い、連れていかないで……逢いたい……ケンに、逢いたいよ……」

――ねえ、ケン。

あなたは、幸せでしたか?

おばあちゃんと過ごした時間、ジュンさんと出会い心を通わせた日々、アヤカちゃんに“最高の笑顔”をもらって、メイクに出会って、人生が少しずつ動き始めて、ジェシカさんの弟子になって、夢に近づいて、たくさんの笑顔を生み出して、ユウさんに支えられ、ユウカちゃんに“生きる希望”という光を届けて……

――そして私と出逢って。

触れ合って、心を繋いで……

あの時間は、あなたにとって幸せでしたか?

初めて出逢った、あの日のこと覚えてる?

あの日――

あなたが私の前に現れたその瞬間から、私の日々は煌めき始めた。

強く、優しく生きるあなたの姿に心を奪われ、気づけば恋に落ちていた。

あの頃の私は臆病で、たくさんの人に支えられていた。

あなたの過去を知って、夜毎に涙をこぼしたこともある。

あなたに突き放されて、落ち込んだ夜もあった。

それでも、あなたへの想いは揺らがなかった。

込み上げる気持ちを抑えきれず、涙ながらに想いを告げたあの日――

あの日から、私たちの心は確かにひとつに結ばれた。

いつも泣き虫な私を、あなたはいつだって優しくそっと受け止めてくれた。

怖がりな私の怯えさえ、無意味に思えるほどの愛で包んでくれた。

いつだって、私のことを考えてくれていた。

どんなときも、私のことを想っていてくれた。

きっと今も、そうしてくれているんでしょう?

だから――

“もういない”なんて、今でも信じたくない。

認めたくないの。

だけど――

隣には、あなたはいない。

逢いたくても、逢えない。

こんなにも、あなたを愛しているのに。

隣に、あなたの温もりを感じることができない。

手を握ることも、腕に抱かれることも、そっと触れることさえ――

もう、叶わない。

やがてケンは、遥か高く澄んだ蒼空へ、穏やかで温かな場所へと旅立っていった。

空を見上げ続けるチカの頬を、音もなくひとすじの涙が静かに伝う。

その肩を、ジェシカがそっと抱き寄せた。


「チカ……彼が倒れる前夜に交わした、最期の会話があるの」



* * * * * *

「ジェシカ……目は二つあるから、良いものも悪いものも見える。耳も二つあるから、良いことも悪いことも聞こえる。手は二つあるから、良いものも悪いものも掴める。足も二つあるから、良い方向にも悪い方向にも進める。――じゃあ、なぜ口は一つしかないと思う?」

「なぜかしら……?」

「これはたぶん、日本人にしか分からないかもしれない。いつかこの話を思い出したら、日本の辞書を開いてみて」

* * * * * *



「最後に彼が何を伝えたかったのか……今でも、私には分からないの」


チカは返事をすることなく、ただジェシカの言葉を茫然と聞き入っていた。

葬儀を終えたその日から、チカの中で何かが途切れてしまった。

感情をどこかに置き忘れてきたような、抜け殻のような日々。

喪失。孤独。そんな言葉では到底追いつかないほどの深い絶望が、彼女の全てを覆っていた。

微笑むことも、涙を流すこともなく、ただ感情を失ったまま日々を彷徨うように生きていた。

仕事は休職し、虚ろな時間だけが静かに過ぎていく。

“ケンは、どこかで生きている”

そう思い込まなければ、今にも心は壊れてしまいそうだった。

けれどそのたびに、胸を刺すような痛みが、否応なく“現実”というものを突きつけてくる。

ある日、チカはふと家を出て、無意識のまま歩き続けていた。

辿り着いた先は――井の頭公園。

満開の桜が春を彩るように咲き誇り、風に舞う花びらが空を優しく揺らしている。

あの頃と何ひとつ変わらない景色。

春の香り。あなたと繋がった季節。

チカは七井橋の中央で立ち止まり、春風に包まれながら、しばらく静かに佇んでいた。

夕日が沈み、最後の橙が雲間に吸い込まれると、長く伸びたチカの影も静かに消えていった。

――もう、消してください。

声にはならない祈りが、胸の奥に満ちる。

すべてを、私ごと消し去ってください。

私を消して、ケンのもとへ連れて行って下さい。

ひとりでは、生きる意味さえ見つからない。

ケンがいなければ、私がここにいる理由もない。

チカはその場に膝をつき、沈む夜空を仰いだ。

本当は、声を上げて泣きたかった。

けれどもう、流す涙すら残っていない。

泣くことすらできない――。

……本当は、わかっていた。

心のどこかでは、ちゃんと気づいていた。

けれど、今は気づかないふりをしていた。

そうしないと、ケンが本当にこの世界から消えてしまいそうで、怖かった。

この空っぽの世界で、私は何を求めて生きていけばいいの?

光の届かない闇に彷徨い、ただ沈んでいくしかなかった。

――それから数週間が経った。

そんなある日、ニューヨークから思いがけない知らせが届く。

カーテンを閉め切ったままの部屋。

空の色が、僅かに変わり始めたそのとき――チャイムが鳴った。

チカは動けずにいた。

ドアの向こうから、懐かしい声が響く。


「チカ!」


ジュンの声だった。

今は、誰にも会いたくない。


「チカ……いるんだろ? 話があるんだ。ケンのことで――」


ケン……?

その名前に、止まっていた時間がふと動く。

チカは憔悴しきった身体を無理やり起こし、ふらつく足で玄関へと向かった。


「やっぱりいたか。さっきユウさんから連絡があってさ、ユウさんが撮ったケンの写真が、ニューヨークのフォトコンテストで大賞を取ったんだって!」

「ケンの……写真?」


ジュンはポケットからケータイを取り出すと、画面をチカに差し出した。


「ほら、これだよ!」


そこに映っていたのは――

幾千もの造花に埋め尽くされたあの部屋のまんなかで、左手で筆を握り、チカの肖像画を描くケンの姿だった。


〈タイトル〉

“君に捧げる永遠の愛”


その1枚を目にした瞬間、チカは思わず両手で口元を覆った。

消えてしまったはずの感情が胸を突き上げる。

もう、涙は枯れ果てたはずだった。

なのに――

どうして……どうしてこんなにも涙が溢れてくるの?

堪えきれない涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。

心の奥に押し込めていた想いが静かに決壊した。

ずっと怖かった。

涙を流したら、あなたがもうこの世界にいないことを、認めてしまう気がして――怖かった。

何度も、あなたのもとへ行こうかと考えた。

でも、そのたびに夢に出てきたあなたが、私に囁くの。

『チカ、笑顔を忘れないで』って。

今思えば、あの店の至るところに飾られていた絵は、すべて私の肖像画だった。

左手だけで描かれたとは思えないほど、美しく、優しいタッチで描かれた繊細な絵。

どの絵も……笑顔の私だった。


『チカの笑顔が好きなんだ』


いつも、そう言ってくれていたあなた。


「それと……これも」


そう言いながらジュンが差し出したのは、小さなデジタルカメラだった。


「ジェシカがケンの遺品を整理してたら見つけたらしい。ユウさんのじゃなくて、これはケン個人のカメラだって」


チカはカメラを受け取り、濡れた頬を袖でぬぐうと、静かに電源を入れた。

その画面に映っていたのは、どれも――子どもたちの笑顔だった。

生きる希望に満ちた、あたたかな笑顔。

そして、その隣には必ずケンがいた。

微笑んでいた。

ケンが作り出した笑顔。

ケンが守り続けた笑顔。

きっと、痛かったはず。

きっと、辛かったはず。

きっと、呼吸することすら苦しかったはず。

きっと、本当は泣きたかったはず。

それなのに。

それでも――

カメラの中のケンは、どれも優しく、穏やかに笑っていた。

その笑顔には、苦しみの影がひとつも映っていなかった。

泣きたいほどの苦痛に耐えながら、誰かのために微笑むこと――

それはきっと、涙を流すよりも、何倍も辛くて、何倍も苦しいことだったんだよね。

その時、チカの脳裏に、ジェシカが語っていたケンの言葉がよみがえる。

“自分が笑顔を持っていないと、誰かに笑顔を与えることはできない”

ケンは、そう言っていたという。

その言葉を思い出しただけで、胸が締めつけられるように苦しくなる。

ケンの気持ちを思うだけで、涙が止まらなかった。

そしてすべての写真を見終えたとき――

最後に、画面に【Movie】と表示された項目が現れた。

日付は、2007年1月17日。

ケンとチカが、運命に導かれ、はじめて出逢ったあの温泉旅行の日。

そして、その出逢いからちょうど一年後の、まさに同じ日だった。

“再生”──その言葉に導かれるように、震える指で、ゆっくりと再生ボタンを押した。


【Movie】

この動画は、誰かに残すためのものじゃないんだけど。

あえて言うなら、自分のための記録かな。

たぶん、ただの弱音になってしまう気がするから。

だからこの動画は、誰にも見られないことを願ってる。

チカ――

前に話したこと、覚えてるかな。

“もしも願いが二つ叶うなら”って。

もし、あのとき願いが二つ叶えられたなら……

ずっと君の隣にいられた。

もっとたくさんの笑顔を見ることができた。

“夢”と“君への愛”――

どちらも、失わずに済んだんだろうな。

あんなにも君を傷つけてしまった俺が、こんなことを言う資格なんて、ないのかもしれない。

けれど今夜は、澄んだ空に静かに月が浮かんでいて……

その月が、まるで自分自身の心を映しているようで……

どうしても、自分に嘘がつけなかった。

辛く、悲しい選択を迫られた、あの日。

俺は、“夢”を選んだ。

その日からずっと、胸の奥にしまい込んでいた気持ちがある。

“俺ではない誰かが、君を幸せにしてくれますように”

そんな、本心じゃない祈りを、偽りの願いを……毎晩のように唱えていた。

でも――

本当は違うんだ。

本当は……俺が、君を幸せにしたかった。

ずっと、君の隣にいたかった。

ずっと、君の傍にいたかった。

もっと一緒に、生きたかった。

もう君に逢うことも、触れることもできないなんて――

その現実を思うたびに、胸が張り裂けそうになる。

どれだけの苦しみに耐えれば、君にまた逢えるだろう。

どれだけの痛みに耐えれば、君にもう一度、触れられるだろう。

チカ。

君に、逢いたい。

離れてからというもの、君を想わなかった日は一度もなかった。

いつも、君を想ってる。

いつでも、君を想ってる。

どこにいても、君を想ってる。

雪を溶かす春の息吹のように優しい、君の声が好きだ。

春めいた朝の光に包まれたような、君の寝顔が好きだ。

桜のように偽りのない、まっすぐな君の心が好きだ。

春風のような、君の優しさと温かさが好きだ。

花を咲かせるように笑う、その笑顔が、何よりも愛おしかった。

君が隣にいてくれる夜は、優しさに包まれて、心から安心して眠れた。

時々、君が眠るのを待って、そっと寝顔を見つめていた。

君が、大好きなハンバーグを「おいしい」って言って頬張る姿を眺めるのも、幸せだった。

ただ触れるだけで、心があたたかくなった。

それだけで、自然と笑顔になれた。

君が隣にいる。

ほんの少し、手を伸ばすだけで――

すぐそこに、君がいる。

それだけで……

こんなにも、近くに愛が溢れているんだって思えた。

夜が明ける。

太陽が昇り、君とまた逢える“明日”が来る。

ただ、それだけで……

俺は幸せだった。

とても……

とても……

幸せだった。

君が好き。

君が大好き。

君を、愛してる。

もう他に、何もいらない。

もう他に、何も望まない。

どんな痛みも、どんな苦しみも――

耐えてみせるから。

だから……

どうか……

君の傍にいさせてください。

君の隣に、行きたい。

どうしてだろう……

泣くつもりなんてなかったのに、勝手に、涙が溢れてくる。

涙が出るほど、君と過ごした日々は幸せでした。

本当に、幸せでした。

君に出逢って、闇の中に光が差し込んだ。

君の笑顔が、生きる道を照らしてくれた。

君と繋がって、孤独の恐怖が消えた。

君を想うだけで、笑顔がこぼれた。

君を愛して、永遠の愛を信じることができた。

君と同じ時を過ごして……

生きる意味を見つけられた。

本当に……

本当に、幸せだった。

泣き虫で甘えん坊なチカ。

そんな君を、心から愛しています。

そして――

これからも、ずっと愛し続けます。

俺を見つけてくれて、ありがとう。

笑顔をくれて、ありがとう。

本当に天国という場所があるのなら……

そこへ、変わらぬ君への愛を持っていく。

だから――

いつかまた、そこで逢おう。

しばらく離れてしまうけど、また、必ず逢えるから。

チカ……

いつでも想っているから。

何度でも伝える。

君が好き。

君が大好き。

ただただ……

心のすべてで、君を愛してる。

愛してる……

愛してる……

愛してる……



そこで、動画は終わっていた。


「ケン……ケン……私も、愛してる……愛してるよ……ケン……」


チカはその場に崩れ落ち、泣き叫んだ。

“愛してる”

まるで、画面の向こうにいるケンに、今あるすべての想いを届けるように。

何度も、何度も、繰り返し叫び続けた。

ケン――

私も、幸せだったよ。

今までに、これほど誰かを愛したことはなかった。

きっとこれからも、これほど深く愛せる人には出逢えない。

あなたに出逢って、惹かれ合って、愛し合って、“幸せ”という言葉の本当の意味を、初めて知った。

離れて過ごした夜、あなたを想って流した涙……

その一粒一粒が、“愛”を教えてくれた。

それはすべて、あなたがいなければ、決して知ることのできなかった感情。

あなたとだから、幸せも愛も初めて感じることができた。

そして……

一緒に歩んできた道。

ともに過ごした日々という証。

あの幸せな日々を、私は決して忘れない。

たくさんの幸せをくれてありがとう。

温かい優しさをありがとう。

笑顔で彩った毎日をありがとう。

溢れるほどの愛を……ありがとう。

また、必ず逢える。

そう信じて、私は生きていきます。

そう信じて、前を向いて歩いていきます。

今はまだ、涙は止まらないけれど……

だから今は――

あなたと交わした言葉も、愛おしい記憶も、幸せな思い出も、心に残る温もりも、私のなかにいる笑顔のあなたも――

そっと、心の奥に鍵をかけてしまっておくね。

ふと想い出が甦った時、涙ではなく微笑みがこぼれるその日まで。

忘れない。

繋いだ手の優しさを。

抱き締められた時の温もりを。

そして、煌めくあの愛しい笑顔を。

ずっと。

ずっと。

ずっと――

もしも願いが二つ叶うなら…

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