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1938年 春 ── ドイツ・ヴュルツブルク
春のやわらかな光が、縦長の窓を暖かく照らしていた。
窓の外では冬を越えた小鳥たちが、雪解けを喜ぶかのように歌っている。
そんな穏やかな空気の中で、場違いなほどの冷たい昇任式が始まっていた──
「へアーツ・ヴァインベルガー」
上官の枯れた声が、静まり返った部屋に響く。
自分の名前を呼ばれているのに、どこか他人事のように聞こえる。
「はい」と反射的に返事をして、重い足を 一歩前に出す。
青い瞳をこちらに向け、上官はこう言った。
「お前を少尉に昇任する。」
覚悟はしているつもりだった。
だが、いざ宣告されるとその責任感の重みが、一気に全身に乗りかかる。
上官は追い打ちをかけるように、淡々と続けた。
「ミュンヘン駐屯のマンフリード中隊に異動を命ずる。」
そう言うと、「私の仕事は終わったぞ」と言わんばかりに安堵した表情になった。
そして、俺の手に真新しい軍服を置く。
それは少尉の肩章がつき、生地も上質なものだった。
実際はそんなに重くないはずなのに、何故かとてもずっしりとしたものに感じられた。
「ありがとうございます。」
心にも思っていない言葉が、勝手に口からこぼれた。
自分の放った言葉の意味に気づき、俺は咄嗟に口をつぐんだ。
呆然と立ち尽くしていると、忘れていたものを思い出したかのように、数秒遅れて拍手の音が部屋に広がった。
だが、目だけで周囲を見渡すと、誰の顔にも笑みは無かった。
それは目の前にいる上官までもだ。
今では感情の無い無機質な表情だ。
既に怖い顔面が、さらに恐ろしいことになっている。
ただ、手だけが、義務を果たすかのように動いていた──
昇任式も15分程度で終わり、ようやく退場の時間となった。
出口に向かうには他の兵士たちの前を通って行かなければならない。
キツイ視線に耐えながら、澄ました顔で通るのは至難の技だ。
案の定、去り際に誰かがドスの効いた声で吐き捨ててきた。
「どうしてお前なんかが。」
そんなこと、いちいち言われなくたってわかっているさ。
一番そう思っているのは、きっとこの俺だ。
俺はアーリア人じゃない。
背は平均より低く、瞳は茶色で奥二重。
おまけに、少しふくよかな体型だ。
“ふくよか”と言っても、立っていればそこそこスマートだし、軍服に着せられているような違和感はまるでない。
ただ、座ればベルトが俺の腹を締め付けてくるだけだ。
すでにキツイというのに、ベルトが新品になった”今”、座ったときにその締め付けはキツイを超えて、痛みに変わるのだろうな。
はあ…
ベルトごときに苦しめられているような奴が将校だって?
冗談にも、程がある。
昇任式の退場を乗り切り、荷物をまとめるため兵舎へと続く長い廊下を、一人寂しく歩いていた。
木で出来た床を打つ靴音が、気持ち悪いほど頭に響く。
そんな中、考えが頭の中を駆け回った。
『少尉に昇任された』
というこの事実。
普通だったら、とても喜ばしいことだ。
将校という、名誉ある立場に立てるのだから。
だが、俺にはそれが名誉とは思えなかった。
「将校」なんて、言葉だけの肩書きに、名誉なんてあるのか?
それはむしろ、争いの中心となってしまうのではないか。
将校も、兵士も、政治家も、国民も、所詮は同じ人間。
立場が違う。
ただそれだけ。
本当にただそれだけのことなんだ──
兵舎へと続く廊下は、いつもよりやけに長く感じた。
太陽は雲に隠れ、さっきまで差し込んでいた光は嘘のように消え、 肌寒く、薄暗い。
皆はあの後すぐに訓練に出て、俺以外には誰もいない。
静かすぎる廊下の新鮮さと同時に、世界から置いてけぼりにされたような気がした──
こんな静かな場所では妙に冷静になってしまう。
そうだ。
元はといえば、俺は死ぬために軍に入ったんだぞ。
この人生になんの魅力を感じられなくて。
だが、「死にたくて軍に入ったのに、そこで将校になった」とかいうあり得ない事態が起きてしまった。
過去の自分からの、この上ない皮肉だ。
そもそも、本当に俺は死にたかったのか?
危険な任務にでも志願すればよかったものを、なぜそうしなかった?
死ぬ方法なら山ほどあったはずなのに。
それが全て、怖いという理由だけで実行してこなかった。
今までそれを自分が臆病だからだと思っていた。
もしかすると俺は、無意識のうちに“生きたい”と思っていたからなのかもしれない──
気づくと目の前には兵舎の扉があった。
考えは途端に止まった。
ドアノブに手をかける。
部屋からの風が頬をかする。
目線を上げると、窓が開いていた。
開けたままにしたのは誰だろうか。
仕方なく閉めるために、一歩踏み出した──