テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「アンジュを願う」
青桃・桃青
※注意書き飛ばします
白い、白い世界だった。
天井も、壁も、シーツも、すべてが白くて、まるでここが現実じゃないみたいに感じる。鼻の奥に残る消毒液の匂いが、それでもここが病院だってことを何度も思い出させてくるけど。
俺はベッドに寝転がったまま、点滴の管が繋がった腕をぼんやりと眺めていた。
「……あと、どれくらいだろ」
ぽつりと呟いても、返事はない。
当たり前だ。ここには、今、俺しかいない。
医者は言った。「長くて、あと数ヶ月」だって。最初に聞いたときは、意外と冷静だったと思う。泣き叫ぶこともなければ、取り乱すこともなかった。ただ、「ああ、そうなんだ」って思っただけだった。
けど、それはきっと、実感がなかったからだ。
こうして毎日を過ごしていると、少しずつ、少しずつ、その言葉の重みが染みてくる。
朝、目を覚まして、天井を見て、「ああ、今日も生きてるな」って思う。夜、眠る前には、「次に目が覚める保証なんてないんだな」って考える。
そんな日々の繰り返し。
「……つまんねぇな」
思わず、そう呟いてしまった。
こんな終わり方、面白くもなんともない。
どうせなら、もっと劇的な何かがあってもいいのに。映画みたいに、奇跡が起きるとか、最後の最後で全部ひっくり返るとか。
でも、現実はそんなに甘くない。
だから俺は、ちょっとだけ夢を見ることにした。
「……天使、とか来ねぇかな」
誰もいない病室で、馬鹿みたいな願いを口にする。
でも、いいだろ。どうせもうすぐ死ぬんだ。最後くらい、好きなこと考えたって。
天使が来て、俺をどこかに連れて行ってくれるとかさ。
それか、「まだ終わりじゃない」って言ってくれるとか。
「……はは、ないか」
自分で言って、自分で笑う。
そんな都合のいい話、あるわけない。
そう思って、目を閉じた、そのときだった。
「……呼んだん?」
声がした。
聞いたことのない声。けど、どこか柔らかくて、不思議と安心するような響き。
俺はゆっくりと目を開ける。
すると――
「……は?」
そこには、ありえない光景があった。
窓際に、一人の男が立っている。
青い髪。少し癖のあるそれが、光を受けて淡く輝いて見えた。服装もどこか現実離れしていて、まるで物語の中から出てきたみたいだ。
そして何より――
「……羽?」
その背中には、確かに、青白い羽のようなものがあった。
ふわり、とゆっくり揺れるそれは、幻なんかじゃないって言うみたいに、確かな存在感を放っている。
俺は何度か瞬きをした。
けど、消えない。
「……夢、か?」
「ちゃうで」
即答だった。
男は、にやっと笑って、ゆっくりと俺の方に近づいてくる。
「夢やったら、もっとええもん見せたるわ」
「……誰だよ、お前」
「俺?」
男は少し考えるように首を傾げて、それから軽く肩をすくめた。
「まろ。……あー、本名は“いふ”やけど、好きに呼んでええで」
「いや、そういう問題じゃなくて……」
俺は思わず額に手を当てた。
状況が理解できない。
病院の病室に、突然現れた謎の男。しかも、背中に羽付き。
普通に考えたら、不審者どころの話じゃない。
けど――
「……天使、ってやつか?」
さっき、自分で口にした言葉を思い出す。
まさか、とは思うけど。
男――まろは、少しだけ目を細めて、くすっと笑った。
「まあ、そんなとこやな」
「……は?」
「“青い天使”。聞いたことない?」
「ねぇよ」
即答した。
そんなカテゴリーの天使、初耳だ。
「やろうな。あんま人前に出ぇへんし」
まろはそう言って、ベッドの横に腰掛けた。距離が近くなると、よりはっきりとわかる。こいつ、やっぱり普通の人間じゃない。
なんていうか――空気が違う。
「で?」
俺はため息をついて、まろを見た。
「なんで天使が、俺のとこに来てんだよ」
「呼んだからやろ」
「……は?」
「さっき、“天使来ねぇかな”って言うてたやん」
「……あれ、本気で言ったわけじゃ――」
「でも、願ったやろ?」
その言葉に、少しだけ詰まる。
願ったかどうかで言えば――確かに、願った。
ほんの一瞬だけど、「来たらいいな」って思った。
「……それで来るのかよ」
「来るで。俺は、そういうもんやし」
あっさりと、当たり前みたいに言う。
まるで、「水は濡れるものだ」とでも言うみたいに。
俺はしばらく黙って、まろを見つめた。
そして、ぽつりと聞く。
「……じゃあ、願い、叶えてくれんのか?」
その言葉に、まろは少しだけ表情を変えた。
さっきまでの軽い雰囲気が、ほんの少しだけ静かになる。
「内容によるな」
「……そういうもんかよ」
「当たり前やろ。なんでもかんでも叶えてたら、世界ぐちゃぐちゃなるわ」
確かに、それはそうだ。
なんでも願いが叶うなら、こんな世界にはなってない。
「……じゃあさ」
俺は天井を見上げる。
白い天井。何度も見てきた、変わらない景色。
「俺、死ぬんだよ」
その言葉は、不思議なくらいすんなり出てきた。
「知ってる」
まろは、静かに答えた。
「……そっか」
まあ、天使なら知っててもおかしくないか。
「怖い?」
唐突な質問だった。
俺は少し考えてから、首を横に振る。
「……わかんねぇ」
正直な気持ちだった。
怖いかどうかなんて、自分でもよくわからない。ただ――
「でもさ、つまんねぇなって思う」
「つまんない?」
「うん」
俺は笑った。
「こんな終わり方、なんも面白くねぇじゃん」
何かをやり遂げたわけでもない。
特別なことがあったわけでもない。
ただ、病院のベッドの上で、静かに終わるだけ。
「……だからさ」
俺は、まろの方を見た。
「ちょっとくらい、面白くしてくれよ。最後くらい」
願い、と呼べるほど大げさなものじゃない。
でも、確かに、それは俺の願いだった。
まろはしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……ええで」
「……ほんとか?」
「ただし」
まろは人差し指を立てた。
「ルールはある」
「ルール?」
「俺は“運命”は変えられへん」
その言葉に、胸の奥が少しだけチクリとする。
「つまり、お前が死ぬって未来は、変わらん」
「……そうか」
まあ、そんな気はしてた。
奇跡なんて、そう簡単に起きるもんじゃない。
「でもな」
まろは、にやっと笑った。
「そこに至るまでの“時間”は、ちょっとくらい遊べる」
「……遊べる?」
「せや。お前の最後、ちょっとくらい“マシ”にしたるわ」
その言葉は、やけに軽かった。
でも――不思議と、嫌じゃなかった。
「……なんだよ、それ」
「天使の気まぐれや」
「適当すぎだろ」
「ええやん。どうせ暇やろ?」
「……まあな」
俺は苦笑した。
確かに、暇だ。
死ぬのを待つだけの毎日なんて、退屈にもほどがある。
「じゃあ決まりやな」
まろは立ち上がって、窓の方をちらっと見た。
外は、夕焼けで赤く染まっている。
「明日から、ちょっとだけ外、出てみるか」
「……は?」
「もちろん、普通には無理やけどな」
まろは振り返って、いたずらっぽく笑った。
「俺がおるやろ?」
その笑顔を見たとき、胸の奥で何かが動いた気がした。
諦めていたはずの何かが、ほんの少しだけ、顔を出したような感覚。
「……マジで言ってんのか」
「マジやで」
「……はは」
思わず、笑いがこぼれた。
こんな状況で笑うなんて、久しぶりだった。
「……いいじゃん」
どうせ、もうすぐ終わるんだ。
だったら――
「ちょっとくらい、付き合ってやるよ。天使」
「お、ええ返事やな」
まろは満足そうに頷いた。
「ほな、楽しもか。“最後”まで」
その言葉が、やけに軽くて。
でも、やけに心に残った。
こうして――
俺の、少しだけ不思議で、少しだけ特別な時間が始まった。
“終わり”に向かうはずだった日々が、少しだけ色を持ち始める。
それが、どんな結末に繋がるのかは、まだわからない。
ただ一つ、確かなのは――
俺の前に、本当に“天使”が現れたってことだけだった。
朝の光が、やけに眩しかった。
カーテンの隙間から差し込むそれが、白い病室をさらに白く染めていく。昨日と同じはずの景色なのに、どこか違って見えるのは――きっと、隣に“あいつ”がいるからだ。
「おはよ」
ベッドの横で、まろが気の抜けた声を出す。
相変わらず青い髪に、あの羽。もう驚きはしない。夢でも幻でもないって、昨日ちゃんと理解したから。
「……おはよ」
俺は少しだけ体を起こしながら返す。
「ほんまに行くん?」
「何が」
「外」
まろは窓の外を顎で指した。
青空が広がっている。こんなふうにちゃんと外を見るの、いつぶりだろう。
「……行けるならな」
「行けるで」
まろは当たり前みたいに言った。
「俺、天使やし」
「便利だな、その設定」
「設定ちゃうわ」
軽口を叩き合うのも、なんだか久しぶりな気がする。
まろは俺の手を軽く掴んだ。ひんやりしてるのに、不思議と温かい感触。
「ほな、ちょっとだけやで」
「……ああ」
次の瞬間――
視界が、ふっと揺れた。
気づけば、俺は外に立っていた。
「……は?」
思わず声が漏れる。
病院の前。見慣れたはずの景色なのに、全然違って見える。空気が、生きてる感じがする。
「どうや」
まろが隣で笑う。
「久しぶりの外は」
俺はしばらく何も言えなかった。
風が、頬に当たる。
遠くで車の音がして、人の話し声がして、どこかから料理の匂いが漂ってくる。
全部が、現実で。
「……すげぇな」
やっと出た言葉は、それだけだった。
「やろ?」
「うん」
俺は少しだけ笑った。
「生きてるって感じする」
その言葉に、まろは一瞬だけ表情を止めた。
でも、すぐにいつもの調子に戻る。
「ほな、行きたいとこある?」
「……急に言われてもな」
「じゃあ、適当に歩こか」
そう言って、まろは歩き出す。
俺もその隣を、ゆっくりついていく。
体は重いし、すぐ息も上がる。でも、それすらもどこか心地いい。
「なあ、まろ」
「んー?」
「お前、なんで関西弁なんだよ」
「知らん。気づいたらこうやった」
「適当すぎだろ」
「ええやん、親しみやすいやろ?」
「まあな」
そんな、どうでもいい会話。
でも、それがやけに楽しかった。
公園に着いたとき、俺はベンチに腰を下ろした。
子どもたちが走り回っている。笑い声が響く。
「……いいな」
ぽつりと呟く。
「何が」
「普通のやつら」
学校に行って、友達と遊んで、未来があって。
「俺、ああいうの、途中で止まったまんまだわ」
まろは何も言わなかった。
ただ、隣に座っているだけ。
「なあ」
「ん?」
「もしさ」
俺は空を見上げる。
青くて、広くて、どこまでも続いているみたいな空。
「もう一回、普通に生きられるならさ」
「うん」
「もっと、ちゃんとやりたかったな」
勉強とか、遊びとか、どうでもいいことで笑う時間とか。
「……そっか」
まろの声は、少しだけ優しかった。
「でも、お前」
「ん?」
「今、ちゃんと生きてるやん」
「……え?」
「こうやって、外出て、喋って、笑って」
まろは俺の方を見た。
「それも、“普通”の一部やで」
その言葉に、少しだけ胸が熱くなる。
「……ずるいな、お前」
「何が」
「そういうこと、さらっと言うとこ」
「天使やしな」
「関係あるか」
俺は笑った。
ほんと、ずるい。
でも――悪くない。
それからも、いろんなところに行った。
小さな店でジュースを飲んで、川沿いを歩いて、夕焼けを見て。
どれも特別なことじゃない。
でも、俺にとっては全部が特別だった。
時間は、あっという間に過ぎていく。
気づけば、空は暗くなり始めていた。
「……そろそろ、戻るか」
俺が言うと、まろは少しだけ黙った。
「……せやな」
病室に戻ると、さっきまでの色が嘘みたいに消える。
また、白い世界。
でも――
「……悪くなかった」
俺はベッドに横になりながら言った。
「めっちゃ良かったやろ?」
「うん」
素直に頷く。
「ありがとう」
その言葉に、まろは一瞬だけ目を見開いた。
それから、少し困ったように笑う。
「……どーいたしまして」
沈黙が落ちる。
でも、嫌な感じじゃない。
「なあ、まろ」
「ん?」
「俺、もうすぐ死ぬんだよな」
「……せやな」
「怖くはないけどさ」
少しだけ、息を吸う。
「ちょっと、寂しいかも」
その言葉に、まろの手がわずかに震えた気がした。
「……そっか」
「うん」
俺は目を閉じる。
「でもさ」
「ん?」
「最後に、お前に会えてよかった」
それは、本心だった。
この時間がなかったら、俺はきっと、もっとつまらないまま終わってた。
「……ないこ」
まろの声が、少しだけ低くなる。
「なんで、そんな名前なん?」
「……は?」
「“ないこ”って」
「あー……」
俺は少しだけ考えてから、答える。
「昔、呼ばれてた名前だよ」
「誰に」
「……好きなやつ」
その瞬間、空気が止まった。
「そいつさ」
俺は続ける。
「関西弁で、ちょっとバカで、でも優しくて」
まろは何も言わない。
「青いの、好きでさ。空とか、海とか、ずっと見てた」
沈黙が重くなる。
「……ある日、急にいなくなった」
俺は目を開けた。
「何も言わずに」
まろの顔を見る。
その表情は――初めて見るくらい、苦しそうだった。
「……いふ」
その名前を呼んだ瞬間、まろの目が揺れた。
「お前だろ」
静かに言う。
「……なんで」
「わかるよ」
俺は少しだけ笑った。
「ずっと、一緒にいたんだから」
まろ――いふは、何も言えなくなっていた。
「なんで、いなくなったんだよ」
責めるつもりはなかった。
ただ、聞きたかった。
「……守りたかったんや」
やっと出た声は、震えていた。
「お前の運命から、少しでも遠ざけたかった」
「……はは」
俺は苦笑する。
「結果、こうなってるけどな」
「……ごめん」
「いいよ」
あっさりと言った。
「また会えたし」
それで十分だった。
いふは、ゆっくりと俺の手を握る。
「……俺な」
小さな声で言う。
「本当は、あかんねん」
「何が」
「こんなん、ルール違反や」
天使が個人的な感情で動くこと。
過去の人間と関わること。
全部、許されていない。
「でも」
いふは笑った。
「我慢できへんかった」
その笑顔は、昔と同じだった。
「……バカだな」
「せやな」
静かな時間が流れる。
そして――
「……そろそろや」
いふが、ぽつりと呟いた。
「……そっか」
体が、少しずつ重くなる。
意識が、ゆっくり沈んでいく。
「なあ」
「ん?」
「最後にさ」
俺は、いふの手を握り返す。
「キス、とか言ったら怒られる?」
「……アホか」
そう言いながらも、いふは少しだけ笑った。
そして――
俺の額に、軽く触れる。
「これで我慢しとき」
「……十分」
俺は目を閉じた。
「なあ、いふ」
「なんや」
「またな」
その言葉に、いふは何も返さなかった。
ただ、手を強く握り返すだけ。
それが、答えだった。
意識が、途切れていく。
音も、光も、全部が遠くなる。
最後に感じたのは――
温かさだった。
――――
静かな病室。
心電図の音が、まっすぐに伸びる。
いふは、しばらく動かなかった。
ないこの手を握ったまま、ただ、そこに座っている。
「……ほんまに」
ぽつりと、呟く。
「最後まで、勝手やな」
笑おうとして、うまく笑えない。
視界が滲む。
「……好きやで」
もう届かない言葉を、ようやく口にする。
そのとき――
背中の羽が、ゆっくりと崩れ始めた。
「……あーあ」
いふは、空を見上げる。
青い羽が、光になって消えていく。
「また失敗してもうた…」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!