それからは外来診察が終わるまで何とか気を引き締めて対応することができたが、夕方になって最後の患者を送り出すと一気に疲れが押し寄せた。完全な脳疲労だ。
しかしこの後も病棟患者の回診とカルテの纏めが残っているから、まだ気を休めるわけにはいかない。
とりあえず今は糖分でもとって一時的にでも疲労を何とかしようと、頭に売店を浮かべながら診察室を出る。その瞬間、外来棟内に院内放送を告げるけたたましいコール音が鳴り響いた。
『コードブルー、コードブルー。院内にいる医師は至急、正面玄関に集まって下さい。繰り返します――――』
内容が耳をとおると同時に和臣はハッと顔を上げ、そのまま駆け出す。
コードブルー。それは医師でしか対処できない患者の急変が院内で発生した場合に告げられる緊急コールだ。
――正面玄関か。それならここからすぐだ。
小児科外来室は外来棟の二階部にあるが、目の前の階段を降りればすぐに正面玄関に辿り着く。走れば一分もかからない。
予想どおり和臣が現場に到着した時、玄関にいたのは数人の看護師のみで、まだ他の医師は到着していない様子だった。
「患者はどこですかっ」
辿り着いた和臣の姿に、看護師や周囲にいた一般客がホッとした顔を見せる。
「こちらです! 倒れたのは四歳の男児、お母さんの話では突然苦しみだして倒れたそうです! 意識喪失状態、呼吸困難と喘鳴、加えてチアノーゼも確認できます。バイタルは血圧が上が55、下は測定できません。徐脈もあります」
一気に情報が飛びこんでくる。しかもすべてがすべて緊急状態に匹敵するものばかりだ。
ーー病因は何だ。
現状見られる所見から考えられる疾患を思い浮かべながら、和臣は看護師に指示を出す。
「気道とラインの確保。ストレッチャーの準備も!」
「はいっ!」
「この子の保護者はっ?」
「わ、私です」
すぐ後から聞こえた声に反応して振り向くと、そこのは真っ青な顔で涙を浮かべながら震える女性の姿があった。
「お子さんに何か持病はありますか?」
「いいえ、こ、この子、これまで一度も病気をしたことがないんです。今日も家族の見舞いに連れてきただけで、倒れる直前まで走り回るぐらい元気だったんですっ」
既往症もなく、直前まで不調の兆候はまったく見られない。それなのにここまでの症状が突然出てるなんて稀な話だ。
――皮膚の紅潮もあるということは、小児てんかんか。いや、だったら痙攣や身体の強張りなどの発作が顕著になるはず。
「どうしたっ、原因は分かったかっ?」
考えているうちに、どんどん他の医師たちも集まってくる。
「まだ特定できていません。ですが現在症状と既往症がないことから急性によるものだと思われます」
「それなら心臓か脳か……。東宮先生小児専門だろう? 似通った前例はないのか?」
和臣の顔を知る別科の医師が、情報を求めてくる。
「ありますが類似疾患が多すぎて、判断がまだできません」
複数の医師が子どもの症状を見て様々な病名を口にする。その中、看護師の悲痛な叫びが響いた。
「心拍かなり下がってます!」
「っ、このままだと心停止になる! 除細動の準備!」
心停止という単語が発せられた途端、状況を見守っていた一般人が大きくざわついた。
「先生! うちの子は大丈夫なんですかっ? 先生! 先生!」
子どもを囲む医師たちの後ろから、母親の叫び声が届く。
その瞬間、和臣の頭の中に過去の映像が浮かび上がった。
『先生、どうしてうちの子が死ななきゃいけないんですか!』
救えなかった命。もっとよく観察していれば防げたかもしれない悲しい運命。あの時の悔しさや怖さが和臣の中で噴火したかのように蘇る。
――ダメだ、怯むな。今回は絶対に助けなければ。
――落ち着け、必ず病因は見つかるはず。
脳をフル回転させて類似例を引きだす。心筋梗塞。違う。脳出血。違う。異物の誤飲、喘息発作、敗血症。どれも確定症状が違う。
――くそっ。どうして、何も出てこない!
必死に原因を探しているのに何も浮かばない。これでは次の指示が出せない。
チラリと周囲に目を遣ると、数人の医師が緊迫した表情でこちらを見ていた。
子どもの身体を一番知る和臣の判断を待っているのが嫌でも分かる。
――どうすればいい。このままでは目の前の子どもが死んでしまう。早く処置を。でも判断を間違えたら。
早く。怖い。早く。
場の空気が動いたのは、その時だった。
「東宮先生!」
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