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「……はい。私、恋をしています」
扉越しに耳にしたティアの言葉に、グレンシスは心底驚いた。
それは、娼館育ちのティアが、恋などという甘酸っぱいものを嗜んでいたことではなく、何事にも悟りきったような表情を浮かべる彼女が、どこにでもいる年ごろの娘と同じだということに気付いたからでもない。
ティアの紡いだ言葉が、過去形ではなかったことに驚いたのだ。
無論、盗み聞きするつもりなんて、これっぽっちもなかった。本当に。
ただグレンシスは、明日からの旅路が危険なものになることを、二人に伝えようと思っただけだった。
けれど、伝えるべきことを放棄して、逃げるようにその場から立ち去ってしまった。
グレンシスは、ティアの恋の相手が誰かを知るのが、怖かったのだ。
夜の山岳地帯は、混ざりものがない氷のように心地よい空気が流れている。そんな中、グレンシスは、警護をしているフリをして庭を歩く。
人の気配を消すために、かがり火一つない闇に覆われたここは、幸いグレンシスの物憂げな表情を隠してくれている。
夜目が利く部下でも上官が巡回に来ただけに見えるようで、上官の姿を視界に入れた騎士達は、略式の礼を取る。グレンシスは長年の習慣で、半ば無意識に頷き返す。
そんなことを繰り返しながら、グレンシスは宿の裏庭で足を止めた。
闇夜では、何の木なのかわからないけれど、もたれるには丁度良い大木がある。
グレンシスは、その大木に背を預け、おもむろに腕を組んで、目を瞑る。そうすれば、ここ最近、自分の胸をざわつかせる少女の姿が浮かび上がった。
彼女を最初に目にした時は、娼館の下働きの娘かと思った。
次に会った時は、身体に合ってないダボダボのお仕着せを身に付けて、やたらめった突っかかる可愛げのない娘だと思った。
その時、自分がその少女に対して、どんな物言いをしてしまったのかは、忘れてしまいたい。悔やむばかりだ。
その後屋敷に招き、数日過ごしただけで、ティアが自分の思っていた娘ではないことに気付かされた。
使用人を気遣う心根が優しい少女だということを。
身なりを整えたら、驚くほどに美しい容姿だということを。
突っかかる性格は、どうやら人見知りが激しい裏返しで、本当はとても臆病な性格だということも。
出立してからは、ウィリスタリア国一のワガママ娘と称されるアジェーリアを、いとも簡単に手懐ける不思議な魅力を持つ少女だったことにも気付かされた。
グレンシスは、任務故に共に過ごしているだけの少女に向かう気持ちが、日に日に変化していることに複雑な思いを抱えている。
そしてふいに耳に入りこんでしまったティアの言葉に、胸がざわついて仕方がない。
ティアの恋の相手は誰か。そればかりが頭の中でぐるぐる回る。
今は任務中で、考えなくてはならないことは他に山ほどあるが、そんなことはどうでも良いとすら思ってしまう。
「……やはり、あのお方か」
グレンシスは、苦々しく呟いた。
どれだけ考えても思い当たるのは一人しかいない。王宮騎士団総括兼近衛騎士団長であるバザロフだ。
バザロフが娼館に通っていることは、近衛騎士団の中では周知の事実だ。
バザロフ本人も隠すつもりはないようで、あけっぴろげに語ることはないけど、コソコソと行動することもない。
グレンシスはその容姿に似合わず、潔癖な部分がある。3年前、名も知らぬ女性に想い焦がれるようになってからは特にだ。
ただ、人の趣味趣向に口を出すほど、弁えのない人間ではない。
けれど、あの日───ただの護衛という立場で、バザロフとティアを目にした時、生まれて初めて不快な気持ちが上官に向かって生まれた。
あろうことか騎士の命である剣を、ティアに預けていたのだ。しかもティアは、それが当然のような顔をしていた。
その時グレンシスは、こう思った。バザロフはティアにとってパトロン的な存在であり、ティアにとっては恋の相手ということなのかもしれないと。
親子ほど離れている歳の差があるというのに、そこにあるのは親愛ではなく、生々しい男女の情愛なのかもしれないとも。
あの時───バザロフが見送るティアの髪をなでた瞬間、グレンシスは、とんだ茶番だと鼻で笑おうとしたが、上手くできなかった。眉間に皺が寄るのが、はっきりわかった。
その姿をみっともなくティアに向けてしまったのは、ちゃんと覚えている。ティアは律義にもお辞儀をしたというのに。
今にして思えば、人見知りの激しい少女にとったら、かなり勇気がいることだっただろう。
なのに、なのに、だ。
「……実に、面白くない」
でも、そんなふうに思う自分が、これまた面白くないと思ってしまう。自分の心をざわつかせるティアに対して、苛立ちすら持ってしまうほど。
だから、グレンシスは旅の道中、意識してティアを視界に入れないようにしていた。
自分から話しかけることは、もちろんしなかった。話しかけられぬよう徹底して拒絶するオーラも必要以上に出していた。
任務を遂行することだけを念頭に置いて、ティアのことは、ひょんなことから時間を共にしているだけの厄介娘だと自分に言い聞かせていた。
でも、そんな努力が滑稽に思えるほど、グレンシスの心は、日に日にティアのことで埋め尽くされていく。
人のものに手を出すような行いなど、愚劣の極みだと思っているのに。
一途な想いを抱えている者は、不器用な人間でもある。
これまでのグレンシスの身の回りには、職場で関わり合う者であったり、屋敷の中で入れ替わる使用人であったり。時にはバルで声を掛けてくる者であったり、すれ違うだけの者でもあったり。数多くの女性がいた。
けれどグレンシスは、真面目に、潔癖に、与えられた任務を着々とこなしていく人間で、3年前に一目惚れをしたこと自体が奇跡と言えるほど、女性には縁のない生活と性格だった。
加えて、2年前からアジェーリアのお目付け役になってからは、女性の恐ろしさを身近に感じて、より一層、異性からは遠のいていった。
そのせいもあり、敢えて自分に強く言い聞かせないと、感情を抑えられないものは何というか……堅物のグレンシスは、気付かないでいた。ティアはようやっと、気付いたのに。
そんなふうにグレンシスが、思考の沼にはまっている頃、ティアは人生初の恋バナをさせられていた。
もし、グレンシスがあのまま立ち聞きをしていれば、こんなに苦しむことはなく、感動の再会を果たせたのかもしれない。
けれど、それはタラレバの話。
二人が本当の意味で再会できるのは、あとちょっとだけ、先のこと──