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雨音のあとに
四月の終わりだった。
雨が降るたび、駅前の古い喫茶店は少しだけ静かになる。
あなたは仕事帰りに、その店へ立ち寄るのが習慣だった。
決まって窓際の席。
決まってブラックコーヒー。
そして決まって、本を一冊。
ある日、その席に誰かが座っていた。
「ごめんなさい。この席、お気に入りでした?」
声をかけてきたのは、柔らかな笑顔の女性だった。
「いや、大丈夫です。」
そう言って別の席へ座った。
それだけの出来事だった。
けれど次の日も。
その次の日も。
不思議なことに彼女は同じ時間、同じ席にいた。
そして三日目。
「もし迷惑じゃなければ、一緒に座りませんか?」
少し驚いた。
見知らぬ相手と話すタイプではなかったから。
でも、なぜか断れなかった。
⸻
彼女の名前は美咲。
広告会社で働いていて、仕事帰りに一人になる時間が欲しくて、この店へ来ているらしい。
「本、好きなんですね。」
「まあ、現実逃避です。」
「私も。」
二人で笑った。
たわいない会話だった。
好きな映画。
旅行した町。
子どもの頃の夢。
話題は尽きなかった。
気づけば閉店時間。
「また明日。」
その言葉が自然に出るくらいには、距離が縮まっていた。
⸻
それから数週間。
毎日会うことが当たり前になった。
雨の日も。
晴れの日も。
疲れている日も。
二人で笑っていると、仕事の嫌なことも少し軽くなる。
ある金曜日。
「明日、海へ行きません?」
突然の誘いだった。
少し遠くまで電車に乗り、小さな港町へ。
潮風。
白い灯台。
波の音。
二人並んで歩く。
会話がなくても、不思議と気まずくない。
夕方。
海に沈む夕日を見ながら、美咲が言った。
「こんなに安心できる人、久しぶり。」
その言葉に胸が熱くなった。
⸻
帰り道。
電車は混んでいた。
揺れるたびに肩が触れる。
どちらも離れようとしない。
ふと彼女が笑う。
「今日、楽しかった。」
「俺も。」
「……また来たい。」
「来よう。」
彼女は小さく頷いた。
その瞬間、指先が触れた。
ほんの少しだけ。
偶然だったのかもしれない。
でも、お互いその手を引かなかった。
やがて自然に指を重ねる。
誰も何も言わない。
ただ電車の揺れだけが静かに二人を包んでいた。
⸻
季節は夏へ。
休日は一緒に過ごすことが増えた。
映画館。
水族館。
夜景。
小さなカフェ巡り。
一緒にいる時間が長くなるほど、新しい一面を知る。
笑い方。
少し照れ屋なところ。
眠くなると口数が減ること。
そんな何気ないことまで愛おしく思えた。
⸻
ある夜。
花火大会の帰り。
人混みを抜け、公園のベンチへ座る。
夜風が心地よい。
彼女が静かに言う。
「最初はね。」
「うん?」
「あの喫茶店で毎日あなたを見てた。」
「え?」
「本を読んでる姿が、なんだか優しそうで。」
「……それで?」
「勇気を出して話しかけた。」
思わず笑ってしまう。
「俺も。」
「え?」
「実は毎日、君が来るのを楽しみにしてた。」
少し驚いた顔。
そして照れ笑い。
沈黙が流れる。
でも、その沈黙は心地よかった。
⸻
「少しだけ、近くに来てもいい?」
彼女が小さく尋ねる。
「もちろん。」
距離が縮まる。
お互いの鼓動が聞こえそうなくらい近い。
彼女は照れながら肩に寄りかかった。
花火の最後の一発が夜空を照らす。
その光が消えたあとも、二人はそのままだった。
「こうしてると落ち着く。」
その一言だけで十分だった。
恋は、劇的な出来事だけで始まるわけではない。
毎日少しずつ積み重ねた会話や笑顔、小さな気遣いが、いつしか「この人と一緒にいたい」という気持ちに変わっていく。
二人は手をつないで歩き出す。
夜風は少し涼しく、夏の終わりを感じさせていた。
これから先、嬉しい日も、すれ違う日もあるだろう。
それでも、「また明日」と言い合える相手がいることは、何よりも特別だった。
そして二人は、新しい季節へ向かって、ゆっくりと歩いていった。
#ヤンキー
コメント
1件
おつかれー!読み終えたわ。 じんわりくる話だったなあ。雨の日の喫茶店から始まって、自然に距離が縮まっていく感じがすごくリアルで、花火大会の夜のベンチのシーンが特に好き。「毎日少しずつ積み重ねた会話や笑顔」って文章、まさにその通りだと思った。お互い見てたんだなってニヤニヤしちゃったわ。続きあるなら絶対読みたい🔥