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窓の外で風が鳴っていた。四月の午後は、少しだけ眠たくて、少しだけさびしい。
今日の国語の授業は詩の朗読だった。先生が読み上げる静かな言葉が教室を満たしていたけれど、私は自分のノートの隅に視線を落としたままだった。ふと、ページの端に書かれた走り書きが目に入る。見覚えのない自分の字。だけど、間違いなく私の筆跡だった。
「佐倉くん、今日も笑ってた。」
その一文を見て、心臓がひとつ脈打った。なんだろう、これ。私が書いた覚えはない。でも、なんとなく、わかる。この感情。この文字に込められた想い。
思わず隣を見た。彼は窓の外をぼんやりと眺めていた。まるで、そこに何か大切なものが浮かんでいるかのように。私は声をかけようとして、やめた。名前を呼ぶとき、少しだけ胸がざわつくのだ。
佐倉海翔。昨日も、そして今日も、きっと明日も。彼は私に「はじめまして」と声をかけてくれる。その声が、どうしてこんなにあたたかいのか、私はまだ知らない。けれど、知らないままではいられないような気がしていた。
放課後、教室に残っていたのは私だけだった。陽が傾き、机に長い影が伸びている。私は鞄からノートを取り出して、もう一度読み返した。中ほどのページに、いくつかの書き込みがある。
「昼休みに話した。声が落ち着いてて、好き。」
「夢の中で名前を呼ばれた気がする。佐倉……佐倉……」
「明日も同じように話せたらいいな。」
知らない。私はこんなこと、書いた記憶がない。でも、書いている。書いているということは、少なくとも一度は、私は今日と似たような“昨日”を過ごしたのだろうか?このノートは、私が私のために残した記録?でも、どうして?どうしてそんなことを?私は記憶を……。
——そうだ。
ふいに、背筋に冷たいものが走る。思い出せない。昨日のこと。教室の空気。誰と話したか。どんなことで笑ったか。曖昧なまま、霧のように思考がぼやけていく。私は小さく息を吐いて、ノートを閉じた。
「……佐倉くん」
つぶやいてみた。静まり返った教室に、名前が溶ける。その響きは、思ったよりも自然で、思ったよりも懐かしかった。
次の日の朝。教室に入った瞬間、彼がこちらを向いて笑った。ああ、と思った。私はまた、彼のことを覚えていない。けれど、胸のどこかが反応する。声に、名前に、雰囲気に。
「おはよう、雨宮さん」
「……あ、おはようございます。えっと……私、もしかして……」
「うん。『会ったことある気がする』って言いそう?」
「……なんでわかるの?」
「勘、かな」
彼は笑った。優しい笑い方だった。どこまでも自然で、どこまでもさりげないのに、なぜか私はその笑顔を見るたびに、涙がこぼれそうになる。理由はわからない。わからないけど、心だけが先に彼を知っているような、そんな感覚。
「佐倉……さん、ですよね?」
「うん。今日もよろしく」
「……よろしく、お願いします」
ほんの一瞬、彼の目が揺れた気がした。それは多分、私が“彼の名前を呼んだこと”に対する反応だった。私には、日常の一瞬。でも彼にとっては、きっと特別な瞬間だったのだろう。
その日の放課後、私はもう一度ノートを開いた。最後のページに、また新しい書き込みがあった。
「今日、初めて名前を呼んだ。彼の目が少しだけ潤んでいた。どうしてか、私も泣きそうになった。」
その文字を見たとき、私は震えた。この文章
——まるで、明日の私が今日の私に書いたような気がした。
私は、何を忘れているのだろう。なぜ、忘れてしまうのだろう。そして、なぜ彼は毎日、変わらずに私に声をかけてくれるのだろう。
記憶の霧の向こうで、何かが待っている。
それは、過去かもしれない。後悔かもしれない。だけどその先にあるのは、たぶん——私が
何度も、何度も、恋をした人の名前。
私はそっとノートを閉じた。明日、また思い出せるかわからない。
それでも私は、あの声を、あの笑顔を、手放したくないと思った。
夜がやってくる。また夢を見るかもしれない。
その中で、私はきっと、誰かの名前を呼ぶ。
——佐倉くん。
それだけが、何度も繰り返す“はじめまして”の中で、私の中に残る確かなものだった。