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彩が玄関のドアを開けると、男ものの分厚い黒靴が目に入り、そのあとに独特なにおいが漂ってきた。

“―ぁ、あの人、帰ってるんだ。”

彩はそう小さく思った。

彩の家は今にも取り壊されそうな、小さなアパートの一階の一室だった。

二階からは上の階の部屋の床を踏む音がきこえ、それは彩の日常の音と化していた。

彩の父は彩が中学生になってから、めっきり家をあける期間が短くなり、家に居座るようになった。

そのことと比例するように母の機嫌が悪くなることが多くなり、彩にいっそう素っ気ない態度を取るようになった。

「あ、帰ってたの」

廊下の突き当りから母が顔をのぞかせ相変わらずの素っ気ない目で彩を見ていった。

奥から父がなにか母に話しかけるのがきこえた。

母がそれを受けて(おそらく片言の)英語でなにかの返答してから、玄関で鞄を床に置こうとしている彩に向かって抑揚のない声で

「あ、彩。ごめん。今日お父さん家で大切な用事があるみたいだから、ご飯外で食べてきてくれる?」

といってきた。

彩は、またか、と思った。

ここのところ連日そうだった。

「うん」

「待ってて」

母はまた部屋の奥に消えていき、再び出てきて

「はい。今日も。これでね」

と彩の手に300円を手渡した。

「夜できるだけ遅く帰ってきてあげて?お父さん仕事に集中したいみたいだから」

彩は頷いて黙って、自分の部屋にいき着替えて、そっと家を出た。

外の空は群青と茜色が混ざり合うきれいな夕暮れだった。

…もしもう一人父と母に子供ができたら、自分は養うことができないという理由で、捨てられるのではないか?と彩は思う。

そう考えると、世界から見放されたような清々しいまでの自由さと、自分が落下していくような感覚とで夕暮れの夕日はどこか切ないものに彩られていた。

“これからどこへいこう?”

彩は母からもらった300円を上着の胸ポケットにしのばせ、夕日に向かって歩きだした。

「あ、内山。またここにきてる」

彩が近くのゲームセンターでユーフォーキャッチャーの景品のぬいぐるみを見ていると後から声をかけられた。

振り返ると、短パンにスウェット姿の長髪の中学生の女の子がたっていた。

一つ上の学年の宇佐美なおだった。

「また家おいだされたんでしょー」

彩はうなずいた。

「あたしもねー。今日家追い出されちゃった…」

なおは上向きに「はあ」と艶やかなため息をはいた。

なおの家はお金持ちで、遠目にしかみたことはないが門から玄関までが距離のあるような二階建てのお屋敷のような家だった。

以前友だちから話にはきいたことがあったが、自分には縁遠い人の住む縁遠い場所にある家だと思っていた。

「なにをみてたの?…あ、これあたしのほしかったぬいぐるみぃ。かっわいー!!ねえ、これ内山がやらないなら、あたしやっていい?」

「あ、うん…」

無理にはしゃぐようなその姿にそとにみせない不安があることを彩はなんとなく察した。

なおは皮の財布を鞄から取り出し、小銭を手のひらいっぱいにつかんで次々にコイン投入口にいれていった。

それを彩は黙って別世界をみるような瞳で見つめる。

「ほらほら。どんどんいれちゃえいれちゃえ」

「そんなたくさん…。いいの?」

「いいんだよー」

なおはふわふわとした感じで明るくいった。

その明るさは哀しみの裏返しのようにも思えた。

「いっき、いっき」

と、そう、なおは楽しそうに小銭をいれ終わると、クレーンのスタートボタンを押した。

アームが気だるそうに動きだし、何度かぬいぐるみをつかんでは離すを繰り返したのち、お金が切れて動かなくなった。

その間、なおは無性に楽しそうにはしゃいで、彩はそれを隣でみつめていた。

「あーあ、ぜーんぜん、とれなかったねー」

なおは彩に向かって笑顔でいった。

「そうだねー」

彩はそれに適当な愛想笑いを返した。

しばらく、なおはウィンドウのなかのぬいぐるみを眺めてから、ぽつりといった。

「ぬいぐるみはね。このガラスのなかにいるとき商品なんだ。それで誰かに…すくいあげられて部屋に飾られて愛されて、ようやくたった一つのぬいぐるみになるんだよ…。ぬいぐるみは思い出と一緒に商品からぬいぐるみになっていく。そのとき…ぬいぐるみのなかに世界でたったひとつの意味が宿るんだよ。…そのぬいぐるみのなかに宿る意味を誰も書き換えられない…。その内に宿る意味そのものに誰もそとから触れることができないからね」

―なにかの詩だろうか、と彩は思った。

なおちゃんはたまにこういう、よくわからないことをいう。

「なんのこと?」

彩は煮えきらずききかえした。

「さあねー」

なおはまた笑って答えた。

「そこにはそれ以上のものはないからあたしは笑って返すしかないよ」

―やっぱり、よくわからない、と彩は思った。

「ねえ、今日もあたしたちの秘密基地に行こっか。秘密の花園というにふさわしくない、あの無機質なコンクリートの箱庭に」

とても詩的な表現だ…と彩は思った。

「…うん…」

なおが「コンクリートの箱庭」と呼んだそれは取り壊しの決まったビルの廃墟だった。

取り壊しは決まっているものの、取り壊し工事がすぐできず、街の真ん中でポツンと周囲に取り残されたかのように立つそのビルで二人で密会をするようになったのは3週間前からだった。

ボロボロのダンボールが積み重ねてある小さな空間で二人で息をひそめるように身を寄せあって息をするのが彩は好きだった。

それが、まるで“世界のどうしようもなさ”からかくれんぼしているみたいで楽しかった。

「今日もまたポケットに300円だけなんでしょー」

なおはファミレスのテイクアウトで買ってくれたスープをスプーンで彩の口に運びながら笑顔でいった。

「うん…」

彩はそのなおが差し出してくれたスプーンに唇をよせる。

あったかかった。

「おいしい…」

「…ん…」

なおは満足そうにその彩の姿を目を細めてみつめる。


そこから前戯が始まり、たいてい私たちは深く体同士でつながりあう…。

なおは上着を優しく脱いで、彩もそれにゆっくり答える。

そうすればどこかこの世の深いところにまで二人で潜っていけるような気がしたから。

「…ん…なお、ちゃん…」

「彩はこらえ性がないねぇ」

なおは余裕なお姉さんぶった表情で彩の恥部を触りながら彩を見下ろす。

この廃墟のなかでいるときは二人で下の名前で呼び合うというルールがある。

「なお…ちゃん…。なお、ちゃん…」

ハアハアと息が重なる。繋がり合う。おもいあう。

その内、なおも熱が入りだして二人でもつれ合い舐め合い、舞い上がり、やがて冷たいコンクリートの上に着地し静かに果てるのが常だった。

はあはあと息をきらせながら、なおがいう。

「彩といるとね。このどうしようもない世界が変わるんじゃないかって思える…。実際現実が変わるワケじゃないんだけど、そう期待するってことはあたしのなかではなにかが変わってる…。それは自分に嘘をついて騙してるだけかもしれない…。でも彩…。嘘をつくというのは、自分を変えることでもある。嘘をつき続けて人は変わっていく。最後、嘘でぬりかためた自分の像を置き去りにして人はこの世からいなくなる」

「…そんなのは、なんだか、さびしいことなんじゃないかな」

「どうかな。人間は一人ぼっちで死んでいく。パスカルの言葉だけど分かり会えないから人にはそれぞれ幸せはある。幸せは実際孤独なものだもの。でなきゃ、誰かを妬んでその幸せを奪おうとしたりしないでしょ。幸せや不幸は誰かと共有できるものじゃない。幸せも不幸せも最後は胸の深いところに積み重なって混ざり合って最後死ぬときは静かに眠っていくものだから」

彩はなおの唇にゆっくりキスをした。

「なおちゃんは大人だね」

なおはくすぐったそうに笑いながら、

「そうでしょ?なおお姉さまとお呼びなさい」

と明るくふざけていった。

また二人でキスの雨を降らせる。

そうやって夜がすぎていく。

「宇佐美って、知ってる?百合らしいよ」

「えー、まじ?あの優等生の?」

「そうそう。しかも、やばいんだよ。こないだ2組の女の子が関係せまられたらしいよ?てか、めっちゃあいつ、他人を自分に感化させて百合っ子を増やしていってるらしんだよね。3組の山田は“あれは宗教だ”っていってた。まじやばくてウケる。しかもその宗教っていうのがー、みんなメンヘラっ気のある尖ったやつばっか狙ってるらしいし。自分の考えでメンタルひよってそうなやつを洗脳して、百合にして餌食にするの」

「闇深ー。もう完全宗教と同じじゃん、ソレ。コワー」

「宇佐美って、中学でも百合でいざこざ起こしてて金払って同級生と百合関係続けて、鬱病になって一回問題起こしたらしいし。宇佐美んちって金持ちだからなんかー、ジダンキン?とかいうの、あれ、あの問題起こしたとき親が相手に金払うやつ。それしてー。なんか丸くおさまっちゃったらしいけどね」

「きっもー、なにその話。まじ今度から宇佐美みたら逃げるわー。魂とられそう」

「親も親だよね。ああいう怪物みたいやつの親って、自分の子供が怪物じゃない人畜無害な、ともすれば天使だと思ってて、それでなにかあったとき、かばって守るんだけど、それって自分たちは一回も子供のことみようとしたことないんだと、あたし思うんだよねー。結局子供の姿は親の願望でねじまがったままで、ああいう怪物が守られながら世の中を平然と育っていける環境を用意しちゃってるんだよ」

「祐希、なにそれ教育評論家の評論?」

「どう?インテリっぽい?あたし!インテリっぽい?」

「その顔がめっちゃバカっぽくてよき」

ギャハハハハ、と彩のすぐ近くでしゃべっていた女子が笑い声を上げた。

会話の内容は嫌でも耳に入ってきた。むしろ、なおと関係があると噂されている自分に対して反応をみるためという目的もあったのだろう。

女子二人は立ち話をしながら、机で落書きをしている彩のほうを会話の最中チラチラ気にしてたまに目を合わせて笑っていた。

そのまなざしは、まるで動物園の動物をみるまなざしだった。

―ハア、と彩はため息をつく。

なおが他の女子と関係をもっていることは彩はどこかで薄く感じとっていた。

しかし、だからといってなおとの関係をどうこうしようとは彩は思わなかった。

―あたしは、その人の結果しか見ないような人間とは違う。

なおちゃんの置かれた環境を知っているからこそ。そこにある闇も理解しているからこそ、あたしはなおちゃんのことをそれでも好きなんだ

実際、なおは陰がある少女だった。

家では、将来を期待される優等生としてあらゆることを我慢させられ窒息しそうになりながら、学校ではその歪んだ心を理解されず、他人から嫉妬のうさ晴らしの的や、面白おかしいスキャンダルを提供する存在として扱われていた。

なにかとなおの噂は絶えなかった。

学校という閉じた空間は平穏で満たされていて、それ故にみんな無駄な刺激を好んだ。スキャンダルを面白おかしく話し、人を貶め刺激を作り出す者は崇められた。

彩からすればそういういぶかしい刺激を享受して、無自覚にみんなから異端と思われた存在を狩る理由にして盛り上がれてしまう学校の大多数の生徒たちも同様に“やばく”見えた。

しかしそのことに対して、彩はなにか特別憎んだり見下したりすることもなかった。

―誰かがなおちゃんのことを見下していても、世界で一人はなおちゃんの味方になる人間がいる。

その想いが彩にとって愛であり、世界でたった一つの固有の意味のように思えた。

なおの噂は日に日に過激を増していた。それによってなおと関係する彩へ対する周囲の風当たりも強くなった。

なおに関係する者はみな話しかけても無視され、空気のように扱われた。聞こえるか、聞こえないくらいの声で「シュウキョウ、シュウキョウ」と歌うように囁きを投げかけられた。

次第に軽い気持ちでなおと関わり、追い詰められていったなおの友だちを自称していた者たちもだんだんとなお自身に不条理の刃を向けるようになり、なおのことを蔑み貶めはじめた。

なおは学校という中世社会のなかで魔女だった。

そして、それは学校という場に関係ない者から見れば、ただの迫害でしかなかった。

しかし、迫害する側は誰一人それを迫害だと思う者はいなかった。

それは迫害する者たちにとって鋳型に入れられた心を一瞬自由に開放する“許された楽しみ”だったのだから。

彩は日に日に酷い言葉を休み時間にさりげなく浴びせられるようになり、休み時間という唯一の自由さえ、大多数の享受するその大きな自由につぶされようとしていた。

「みんな誰かの不幸をみて自分の幸せを確かめたいだけだよ。みんな結局は同じ不幸なんだ。だから許してあげて」

なおは、コンクリートの箱庭で壁にもたれかかりながら吐息をもらしていった。

夕焼けが横顔にさし、その顔にかかる長い髪を照らしていた。

「許せないよ。こんなの」

隣で彩がそういうとなおは弱々しそうに目を細めて下手に笑って、彩にキスをした。

「許してあげて。あたしも。…いじめてるみんなも」

「なおちゃんはなにも悪くない」

世界が敵であり、私たちはただその世界に対して「私たちもここにいる」といいたいだけなのだから。

なおは首をふった。

静かにコンクリートの部屋のなかを黄金色の夕焼けが満たしていた。

そんなある日、彩が例にもよって家から追い出され、なおと街中で会ったとき、彼女の雰囲気がどことなく透き通っておるように感じたことがあった。そのときのなおは洋服屋のショウウィンドウの前で艶やかな春物の服を着せられたマネキンを寂しそうに見つめていた。

「宇佐美さん…」

彩にはなぜかその後すがたがあまりにも危うく消えてしまいそうな儚いものに映った。

まるで遠くへいってしまいそうな、そんな危うさだった。

「ああ、内山…」

なおは少しふりかえって彩をみて、やがて目をゆっくり伏せた。

「どうしたの?今日元気ないね」

「そうかな」

「うん、そうだよ」

「…そっか…」

彩となおは黙ってショウウィンドウを眺めていたが、やがてなおが口を開いた。

「ねえ、あのコンクリートの箱庭にいかない?」

「え?いいけど、どうしたの?」

急な話の展開に彩は戸惑ったが、そこまで深く考えなかった。

「行こう」

そういうなおの目は黒々と澄んでいた。

廃墟に入る。

ヒタヒタとどこかで滴のしたたる音がした。

「今日は屋上にいこう」

「え?屋上?」

彩はボロボロの天井と奥の上の階へ上がる階段をみつめた。

「怖くない?」

「怖くないよ?」

―この世に怖いものなんてあるワケないよ。

なおはそう静かに力強くいった。

彩はなおと手をつなぐ。

そこから二人で特別な一歩を踏み出した。

屋上の空は晴れた夕空だった。

雲の流れが西から東へ早い。

「あー、いい夕焼け」

なおはすらりと大きく両手をあげた。

「そうだね…」

「一度でいいからこの重い体この世に残して、夕空を飛んでみたいね」

「…そんなの戻ってこれないじゃん」

「そうかなー。そうかもねー。でもそれもいいかもねー」

「よくないよー。なおちゃんがいなくなったら、私はどうなるの?」

なおは黙って彩の前に一歩進んだ。

「さあ?幸せになるんじゃない」

「そんなの…幸せなわけないよ」

彩は冗談だとわかっていても少し感情交じりになってムキになった。

「私は…わたしは…」

「なに?」

なおは彩に背を向けたままきいた。その顔は微笑んでいることが彩には察せられた。

「私は一人ぼっちじゃない。そんなの、幸せは一人だけで共有できないかもしれないけど、共有できるかもしれないと思えるような淡い期待を抱ける、そんななおちゃんと一緒にいる時間が、そんな時間を積み重ねていくことが幸せなんだもん!一人になるなんて…そんなこといわないでよ!」

「彩…」

なおは小さな声で彩のことを呼んだ。

なぜかその声に彩は不安になった。

なおはそのまま屋上のヘリまで歩いていく。

「なおちゃん…どこに!?…そっちは危ないよ!」

「彩…。あたしはね。あんたを愛しているわけではなかった」

「え?は!?ちょっと!」

「あたしはたぶんあんたと一緒にいることでなにかが変わるかもしれない期待を愛してたんだ。あんたを愛してたんじゃない…」

彩はなおの元にかけよろうと一歩踏み出した。

「なにいってんの?なおちゃんがなにを愛していようと私はなおちゃんのことが大好きなんだよ。なおちゃんは世界でたった一人の私の味方。なにもしなくてもなんであってもなおちゃんは私の守護者なんだよ」

なおはふりかえった。その顔は今までにないくらいきれいに笑っている。

「彩のなかであたしは守護者たりえたんだねー。よかった。…よかった」

なおは腕につけていたブレスレットを外した。それをなおは彩の腕につける。

「これ…お守り…持ってて?あたしがいなくなるとしても彩にとっての守護がなくならないように」

「なに言って…そんなのお別れの言葉みたいじゃ…」

―ここに一つの嘘をあたしは残していく

そういってなおは彩の耳に小さくつぶやいた。

「あんたなんて、だいきらいだ」

「…え?」

彩が顔を上げた瞬間、目の前にいたなおは屋上のヘリへ向けてまっしぐらに走りだした。

「!?…なおちゃんッ!!」

なおが何をしようとしているか、彩が気づいたときにはすでに遅かった。

なおは屋上のヘリから夕空の抱く底に向かって飛び立っていた。


「なおちゃんッッ!!!」

彩は叫んだ。

なおの体は地上がある方向へ吸い込まれていく。

その一瞬みえた顔は笑顔だった。


「なおちゃんッッ!!!!!!」


彩はヘリへ走った。

屋上の下の方からから人の悲鳴がきこえた。

なおちゃん…なおちゃん…なおちゃん…なお…ちゃん?…

「なおちゃん!!!!」

真っ青な彩は放心したまま、そのまま冷たい空の底に取り残された。

―心はとても冷たくあたたかだった。

矛盾しているようで整理がついていた。

ああ…目の前のこの子はあたしが今からいなくなろうとしていることをわかっていない…。

なおは彩の顔をみる。

彩の顔はたおやかだが、数週間前にはなかった芯のある強さのある顔だ。

“変わったんだ…”

―変われたんだ。

彩のその顔になおは心からの安堵を祝ぐ。

“あたしがいなくなっても世界は回り続ける”

―たぶん、この世界はとまらない。

あなたと過ごした時間もあなたに出会えたこの世界が間違ったかのような奇跡も、ぜんぶ置き去りにして回っていく。

止まらない。

そのなかでこの子が生きていけるように祈りながら…。

誰かにうけいれられて愛されることを祈りながら。

あたしは逝く。

彩…。―あなたの行く道に幸せがありますように。

だいすきだよ。…。

出会ってくれて、ありがとう。

あいしてくれて、ありがとう。

ありがとう。

静かに決意を抱く心を胸に抱きながらなおは屋上のヘリへと走る。

―足が宙(そら)にうく。

重力が全身にかかる。

最後に体をひねり彼女の最後の顔をみる。

孤独な世界のなかにあるたった一つの満月のような顔。

最後に美しいものをみれた。

こんなの…あたしにはきっと贅沢なんだよね。

ふいに落下をはじめた体に心を任せてなおは落ちていく。

最後落ちていく彼女がどのようなことを思ったのか誰もわからない。

そして、その心は地上に落ちて

水風船のように

―割れた。

ーーーーーーーーーーーーー

ふと気が付く。

夢をみていた。

彩は働いているスーパーのレジ打ちバイトからの帰りのバスに揺られていた。

空はあのときと同じ、夕焼けだった。

またあのときの夢みてたんだ…。

彩は寝起きの頭で先ほどまで見ていた夢を思い返す…。

カバンからペットボトルの水を取り出し一口飲んだ。

“…なおちゃん…”

彼女がこの世界にいた事実をこの世界はとどめない。

きっとこの先もそれはもっと加速していくだろう。なおがあの空きビルから飛んで亡くなって以来、彩はなおのことを一切口に出さず生きてきた。

なおと一緒に現場にいた彩は警察から事情聴取され、おおまかな事実を淡々とのべた。

「宇佐美さんは私にとって面倒をみてくれる先輩でした。そして、姉のような存在でした。でも私も宇佐美さんのことをよく知っているわけではなく、あの廃ビルで会う仲のいい遊び相手だったとお互い思います」

最初は現場に唯一いた彩になおを突き落としたという疑いがかかったが、なおの自宅からなおの直筆の遺書がみつかり、なおの一件は自殺ということで処理された。

学校でなおのことを迫害していた大多数の生徒は、なおのことを教師から尋ねられると涙を流しながら「今は心の整理がつかなくて…なにもいえません。…なんで…なんで…」と嗚咽をにじませ、なかには態度を一転させ、なおをいじめた人間がいたことを憤る者さえでてきた。実際それは自分が迫害していた事実をどう転嫁するかという動揺を自分で処理しきれずに出てきた反応が大半だった。

彩はそれらに対してなにも思わなかった。

なおの家族から彩の家族への反応はすさまじいものがあった。

なおの母親から彩の家の留守電には毎日罵倒の言葉が届いた。

「あんたの家の子がなおを殺した。あんたの家の子がなおをそそのかした。成績優秀で未来もあったなおをあんたの家の出来損ない、がそそのかして足を引っ張った。どうしてれんのよ?ねえ、どうしてくれんのよ?あんたたちはなんで生きてんのよ?死になさいよ。ねえ、死になさいよ。ねえ、ねえってばーー!!」

外で雨が降る中、彩はそれを黙って受話器越しにきいていた。

部屋の奥では母が酒を大量にのんで気絶していた。

父は事件からしばらくしてまた家からいなくなった。

あの頃のことを思い出す…。

なおのいなくなってからの日々は彩にとって孤独で苦しくて混乱の連続で想像を絶する日々だった。

“ねえ、なおちゃん…。なんでいなくなったの?なんで…”

目を閉じて何度もなおの顔を思いだした。

最後のビルの屋上から足を外したときの、夕焼けを受けたあの満ち足りた顔。

スープを飲むときの静かななにかをあきらめたような横顔。

ゲームセンターのショーゲージの光ごしに満足そうに笑う横顔。

彩を捉えて、なにか言いたげででもやめるときの静かな顔。

そのどの顔の奥にも彩はずっといつか消えてしまうだろう美しい心を見ていた。

繊細で、

粘り強くて図太くて、

矛盾して混沌としていて、

筋が通って明るくて

切なくて

確かで

あたりまえで

あたりまえではない

その、どうしようもなく奇跡のようなバランスの上にある静かな均衡を保ったあまりにも、今にも破裂しそうな心を彩はずっと隣で息を殺してみていた。

そうだ…。彼女はこの世界にいたんだ。

それは家族も知らない、彩だけが知っている彼女だった。

なおちゃんが、いなかったことになんてならない。

あのビルでの彼女はこの世界でたった二人だけの秘密で、それを私は守りたくて…。だから私は彼女のことを語らずに今日まで生きてきた。

語られなかったものは、どこに行くんだろう。

…消えてしまうのかな?

彩はそれを強く否定する。

…そんなことにはならない。

きっと語らなかったものは語らなかったモノとして、空白として、この世界に残っていくだろう。

自我を超えた事実の次元で、彼女は保存される。

そのほうが誰からもなにからもなにもされなくていいと彩は思う。

バスが彩の降りる停留所に近づいた。

彩は、停車ボタンを押す。「次とまります」というアナウンスが流れ、やがてバスが停車した。

彩は降車口からバス停へ降りた。

6月のむわっとした雨上がりの湿気と、じんわりとした熱気が肌をまとう。

道路には水たまりが空を写していた。

彩はカバンをしょい直し、ピンクの雨傘を片手に流して歩き出す。

空の夕日は雲にかくれ、その雲をくすんだ白から紫にかえていた。

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