窓の外では、ゴウッと風がうなるたびに建物がわずかに震えた。
横殴りの雨がガラスに叩きつけられ、外の景色は白くかすんで何も見えない。
みことはソファに座ったまま、不安そうに外を見つめていた。
「……すごい雨……」
細い声に、キッチンでマグカップを用意していたすちが振り返る。
「台風、直撃だねぇ。こりゃ今日は帰れないな」
すちは落ち着いた調子で、温かいハーブティーの入ったマグを持ってくると、みことの前にそっと置く。
香りがふわりと立ちのぼり、みことの硬くなった肩が少し緩んだ。
「ありがとう…ございます」
「うん。飲んだら少し楽になるよ」
優しい声。
それだけで、みことの胸の奥がじんわりあたたかくなる。
外ではまた、ビュウッと激しい風。
みことは思わず身をすくめた。
すちはその様子を見て、あくまで自然体の声色で言った。
「みこと、今日……ていうか、週末まるごと、ここに泊まっていきなよ」
「えっ……!」
みことは大きく目を見開き、マグカップを持つ手までぴたりと止まる。
「だって危ないでしょ。無理に帰らせたら、俺が心配で眠れなくなる」
さらっと、けれど真っ直ぐな言葉。
みことは心臓がきゅっと縮むような感覚に襲われる。
「で、でも……迷惑じゃ……」
「昨日からずっと言ってるけど、みことはすごく気にしすぎ」
すちは隣に腰を下ろし、みことの手の甲にそっと触れた。
その温かさが、雷よりも、風よりも強く胸を揺らす。
「泊まってほしいと思ってるの、俺のほうだよ?」
「…………っ」
言葉の意味がじわじわ浸透していき、みことの耳まで赤く染まる。
「先輩……本当に……いいんですか……?」
「もちろん。ていうか……」
すちは少し身を寄せ、みことの横顔を覗き込むようにして微笑む。
「みことがここにいると、俺……なんか、安心する」
その距離の近さに、みことの心拍がさらに跳ね上がる。
外の嵐が遠くに感じられるほど、すちの瞳は穏やかで、温かくて。
「……じゃ、じゃあ……お邪魔します……」
「うん。嬉しい」
すちがふわりと笑う。
その笑顔を見た瞬間、みことの胸はじんわり熱くなる。
(まだ……ここにいても、いいんだ……)
そう思えてしまった自分を、みことは誰にも見られないようにこっそり胸の内で抱きしめた。
昼食を食べ終わった頃、外はさらに荒れていた。
雨脚は強まり、窓の外は灰色で、風の音が絶えず鳴っている。
片付けをしようと立ち上がったみことは、ふと窓の外を見た。
「まだ……すごいですね……」
「うん。でもここなら安全だから」
すちは食器を運ぶみことの後ろ姿を横目で見守りながら、静かに声を返す。
その時——
ゴロゴロッ……!
低く重い雷鳴が響き、部屋全体がわずかに震えた。
「……っ!」
みことは反射的に肩を跳ねさせ、横にいたすちの腕にぎゅっと寄りかかっていた。
「みこと?」
突然の密着に、すちは一瞬驚いたように目を瞬く。
みことは自分がすちの腕にしがみついていることに気づき、はっとして離れようとする。
「す、すみません……っ!ちょっと驚いて……!」
しかしすちは、離れようとするみことの手をそっと包み込むように押さえた。
「いいよ。びっくりしたんでしょ?」
優しく、安心させるように。
みことの手の震えも、微かに伝わっていた。
「……雷、苦手なの?」
聞かれた瞬間、みことは恥ずかしそうに目をそらした。
「ちょ、ちょっとだけ……。音が……大きくて……」
小動物みたいにしゅんと縮こまるみことを見て、すちは堪えきれないほど胸が温かくなる。
「そっか……じゃあ」
すちは少し身を乗り出すと、みことの頭にそっと手を置いた。
ゆっくりと撫でるように指が動く。
「雷鳴ってる間は、俺のそばにいなよ」
「……っ……!」
その言い方があまりにも優しくて、みことの胸は一瞬で熱くなる。
(ずるい……こんなの……)
また雷が鳴る。
バリバリッ……!
「っ……!」
みことは意図せず、すちの胸元へ顔を埋めるように寄りかかってしまった。
すちはその肩を支え、みことの頭を軽く抱き寄せる。
「大丈夫、大丈夫。俺がいるから」
穏やかな声。
手のひらの温度。
胸元で聞こえるすちの落ち着いた心音。
それらが重なって、雷の音よりも早く、みことの鼓動が跳ね上がっていく。
「……先輩……」
小さく名前を呼べば、すちは微笑みながら「ん?」と返す。
その返事があまりに優しくて、みことはまた胸の奥がぎゅっとしてしまった。
雷は相変わらず断続的に鳴り続けていた。
午後になっても天気は回復する気配がなく、風の音がときおり窓を揺らす。
「……雷、ちょっと慣れてきました」
みことがそう言うと、すちは安心したように笑った。
「よかった。じゃあ気分転換に映画でも見る?気をそらせば落ち着くと思うし」
「はい……それ、すごく助かります」
自然と隣に座り、すちはリモコンを手に取りながら言った。
「雷の音が気にならないくらい、テンション高めのやつにしようか。アクションとかさ」
「アクション映画、好きです。派手なのだと安心しますし」
「じゃあこれなんて……」
すちはサムネイルを見ながら映画を選ぶ。
画面に映ったのは暗い部屋、背後に影。
しかし説明文には「ノンストップアクション」と書かれている。
「これ、派手そうじゃん」とすちは再生ボタンを押した。
——十分後。
「……あ、あの、先輩……これ……」
「ん?」
画面には怯える女性のアップ。
その背後からぬっと現れる白い手。
ぎゃああああ!!
突如として響く悲鳴と共に、画面が暗転し真っ赤に染まる。
みことはビクッ!と肩を跳ねさせ、すちの腕に反射的にしがみついた。
「……あ、あれ? アクション……?」
すちは目を細めて説明文を読み返す。
《超常現象と戦う!ノンストップ・ホラーアクション》
※文字が小さく、ホラーの文字が完全に影に紛れていた。
「…………ごめん、間違えた」
「せ、先輩ぃ……こ、こわ……っ」
みことは涙目になりながら、すちのシャツの袖をきゅっと握りしめて震えていた。
別のシーンでも突然の効果音が鳴り、
ドンッ!
「っひ……!」
みことがすちの方へ身体ごと寄ってくる。
その度にすちは胸がきゅっと締めつけられた。
(かわ……なんでこんなに可愛いんだ)
すちは慌ててリモコンを手に取り、ホラー映画を停止した。
画面が静かに暗転すると、みことはほっと息を吐いたものの、まだ肩が微かに震えている。
「……ごめん。完全に俺のミスだね」
「い、いえ……先輩のせいじゃ……ないです……けど……」
そう言いつつ、みことはまだ怯えたように視線を泳がせている。
雷もまだ鳴っていて、外の荒れた天気とホラーの余韻が重なって、落ち着ける状態ではなかった。
すちはそっと立ち上がり、ソファの脇に置いていた大きめのブランケットを手に取った。
「怖くさせたお詫び。ちょっとこっちおいで」
言うが早いか、すちはみことの肩を包むように引き寄せ、ブランケットをふたりまとめてかけた。
ふわりと暖かい布に包まれた瞬間、
みことは息をのむ。
すちが——
自分を逃がさないように、強く抱きしめてきたから。
「せ、先輩……?」
「震えてるの、分かるよ。怖がらせてごめんね。……落ち着くまで、俺と一緒にいよっか」
みことは胸がぎゅっとして、何も言えなくなった。
すちの腕は思ったより強くて、安心するのと同時にドキドキが止まらない。
すちはみことの背中にゆっくり手を回し、
まるで小動物をあやすように優しく撫でた。
「ほら、深呼吸して」
「……っ、は、はい……」
みことは小さく頷き、すちの胸に額を預ける。
すちの体温、胸のゆったりした鼓動、落ち着いた呼吸。
それら全てがやさしくて、包まれている感覚に安心が広がる。
ゴロゴロッ……!
「っ……!!」
みことは思わず身体を跳ねさせ、 さらにすちへしがみつくように抱きついた。
すちはそんなみことをさらに強く抱き寄せ、腕の中にきゅっと閉じ込める。
「大丈夫。ほら、怖くないよ」
優しい声。
優しい手。
優しい温度。
みことは胸の奥からこみ上げる気持ちを抑えきれなくなる。
(先輩が……こんなふうに抱きしめてくれるなんて……)
気づけば指先も震えていて、すちはそれに気づき、手を包むように握った。
「みこと」
呼ばれた瞬間、心臓が跳ねる。
「俺のそばにいたら、怖いの少しは減る?」
「……はい……すごく……」
みことは正直に言ってしまった。
言ったあと、顔がさらに熱くなる。
すちはふっと笑って、 みことの頭頂に軽く顎を乗せた。
「なら、こうしてよう。落ち着くまでずっと」
その言葉はあまりにも優しくて甘くて、 みことの胸はまた一つ、先輩への恋で締めつけられた。
すちの胸の中で落ち着きを取り戻したみことは、 ブランケットに包まれたまま、すちにもたれかかっていた。
先ほどまでのように肩を震わせることはなくなり、 みことの呼吸は少しずつゆっくりになっていく。
すちは腕を回しながら、ふと上からみことを見下ろした。
頬は少し赤くて、 長い睫毛が伏せられ、 寄り添った姿勢のまま小さく寝息を立て始めている。
(あ……寝ちゃってる)
すちは小さく笑った。
「安心したら眠くなったのかな……」
みことの頭が自分の胸に軽く預けられていて、 その温度が妙に愛おしく感じられる。
ブランケットから覗く髪に、 すちはそっと指を伸ばし、 優しく、触れるか触れないかの力で撫で始めた。
さらり、と滑らかな髪。
その手触りがたまらなく心地よくて、 すちは無意識のうちに何度もそっと撫でてしまう。
「……ほんとに……可愛いな」
漏れた声は、自分でも驚くくらい甘かった。
みことは眠っているから返事はない。
それをいいことに、すちは胸の奥に隠していた想いを、 少しだけ言葉にしてしまう。
「こんなに近くで、こんな顔見せられたら……」
髪を撫でる手がわずかに震えた。
「……独り占めしたくなるな」
言ってしまった瞬間、 すちは自分で自分に苦笑した。
(起きてなくて良かった……こんなの聞かれたら、困らせるだけだし)
でも、腕の中で呼吸をするみことの存在を感じるたびに、 胸がじんわりと熱くなる。
雷がまた小さく鳴る。
ゴロ……
しかしみことは起きない。
不安も恐怖も、すちの腕の中ではどこかに消えてしまったかのようだった。
髪を撫でながら、 すちはそっとブランケットを整えて、 みことが冷えないように抱き寄せる。
「……寝てると、こんなに無防備なのにな」
声は呟き程度。
でも、その声音には確かな優しさと愛しさが滲んでいた。
「……みこと」
名前を呼ぶと、 みことは小さく寝返りのように動いて、 すちの胸にぎゅっとしがみついた。
すちは完全に息を止める。
(……もう……かわいすぎる……)
腕に力が入り、 みことをそっと抱き返した。
外の荒れた天気とは裏腹に、 部屋の中は二人の体温だけで、 やわらかく満たされていた。
ひまなつは髪を整え、 シャツの裾を引っ張ってそわそわしている。
「……もう、大丈夫っす。帰れます」
本当は頭がまだ重い。
だけど、いるまの家に長居していると心臓が休まる暇がない。
——昨日の介抱のときのことを思い出しすぎて。
いるまはソファに座ったまま眉をひそめた。
「ほんとに行くのか?」
「行きます。だって、迷惑だろうし……」
「……迷惑じゃねえって何回言わせんだよ」
少し低めの声に、ひまなつが一瞬言葉を詰まらせる。
それでも玄関に向かい、靴を履こうと前屈みになる。
ガチャ。
玄関のドアを開けた瞬間——
ゴォォォッ!!
強風が一気に吹き込み、ひまなつの髪が舞い上がる。
横殴りの豪雨でアパートの廊下まで濁音のような雨音が響いた。
「……は?」
ひまなつは一歩も外に出られない。
視界の先では、大木が風でしなっている。
電柱も不安定に揺れ、アパートの外階段は滝のよう。
ひまなつが呆然としていると、 背後から大きな手がそっと肩に置かれた。
「……バカ。これで帰れんのか」
低い声。
ひまなつの背筋をじんと震わせる声音だった。
「い、いるま先輩……だって……」
言い訳しようと振り返った瞬間、 いるまがひまなつの手首をつかみ、 ぐいっと自分の胸元へ引き寄せた。
「危ねぇから泊まれ」
距離が近い。
息がかかるほどの距離。
ひまなつの心臓の音が一気に跳ねた。
「ちょ、ちょっと……そんな急に……」
「急じゃねぇよ」
いるまはひまなつの頬にかかる濡れた前髪を払う。
その仕草が、優しくて。
昨日の「かわいい」の破壊力をまだ引きずっているひまなつは、目をそらすことしかできない。
「……昨日も今日もフラフラしやがって。あんな状態で外歩かせるかよ」
掴んでいた手首を、今度はそっと包む握り方に変えてくる。
「泊まれよ。心配させんな」
そのまっすぐな声に、 ひまなつの胸がじわりと熱くなった。
「……迷惑じゃ、ほんとにないんすか」
小さく聞くと、いるまは少しムッとした顔で言った。
「迷惑だったら最初から連れて帰ってねぇよ」
そして、ぽそっと付け加える。
「……むしろ……お前が帰るって言うほうが、俺は迷惑」
一瞬、時間が止まるほどひまなつの顔が熱くなる。
「な、なにそれ……」
「いいから。ほら」
いるまは逃がさないように腕を回し、
ひまなつを部屋の中へ戻した。
玄関が閉まると、外の轟音は少し遠くなる。
代わりに聞こえるのは、 ひまなつの早い呼吸と、 すぐ隣でいるまが落とす低い吐息だけ。
ひまなつは俯きながら、 掴まれた手の温度を確かめるみたいに握り返した。
その小さな反応に、いるまの口元がわずかに緩む。
「……いい子だ」
そう言って、ひまなつの頭をそっと撫でた。
その一瞬で、ひまなつの心は簡単に崩れ落ちてしまう。
(……こんなん……好きになるやつじゃん……)
強く思ってしまう自分に気づかないふりをしながら、 ひまなつはそっと視線を逸らした。
ひまなつは渋々いるまの部屋へ戻ると、いるまはクローゼットを開けながら部屋着を一式取り出した。
「ほら、風呂入ってこれ着とけ。濡れた服のままじゃ風邪ひく」
「……でかくね?」
「そりゃ俺のだからな。着れりゃいいだろ」
ひまなつはむすっとしながらも、タオルを受け取ってバスルームへ向かった。
濡れた髪を拭き、渡されたシャツとスウェットを身につけると――案の定、全部が自分の体より大きくて、袖も裾も余る。
鏡の前で、思わず顔が赤くなる。
(なんで…こんなんで照れてんだ俺)
胸元からふわっと漂う柔軟剤の匂いが、いるまそのもので、余計に落ち着かない。
ごくりと喉が鳴るのを自分で聞いてしまった瞬間、バスルームのドアがコンコン、とノックされた。
「ひまなつ? 大きかったか?」
「……べつに。着れたし」
「そっか。じゃ、こっち来いよ。ドライヤー貸す」
ドアを開けると、いるまが腕を組んで待っていた。ひまなつの姿を見た瞬間、思わず目を瞬かせる。
ぶかぶかのシャツに埋もれた肩。袖から覗く手首。わずかに濡れた髪。
そして、俯いて赤くなっているひまなつ。
「……似合ってんじゃん」
「はっ⁉ な、なに急に……!」
「いや、普通に可愛いって話」
「可愛くねぇし!」
否定する声は強気でも、耳の先まで真っ赤なのは隠せない。
いるまはにやっと笑うと、ひまなつの肩を掴んでソファへ座らせた。
「動くなよ。乾かしてやるから」
「じ、自分でできる……」
「いいから。お前、頭痛ぇんだろ? 無理すんな」
優しく言われれば言われるほど、胸の奥のざわざわが大きくなる。
いるまはドライヤーをつけ、ひまなつの髪を指でやさしくすくいながら乾かしていく。熱すぎないように、距離を気にしながら風を当てるその手つきは驚くほど細やかだった。
その手の温度と、低く落ち着いた声に包まれながら――
(……なんか、悔しいくらい、安心するんだけど)
ひまなつは胸の内でそう呟き、ぎゅっと膝の上で拳を握った。
いるまの服の匂いが、ますます濃く感じられて、逃げ場がない。
髪を乾かし終えて、いるまがドライヤーを置いた瞬間だった。
ひまなつはふいに眉を寄せ、こめかみに触れる。ぐらりと視界が揺れたようで、身体がわずかに前へ傾く。
「……っ」
その小さな息遣いに、いるまは一瞬で表情を変える。
「おい、痛むのか?」
返事をする前に、頭を抱えるひまなつの肩をそっと支え、ソファへ背を預けさせる。ひまなつは強がろうとするが、頭痛に耐えるように目を細めた。
「……だいじょぶ……ちょっとだけ……」
「ちょっとでも無理すんな」
低く落ち着いた声でそう言うと、いるまはすぐに立ち上がり、棚から頭痛薬と水を取ってきた。ひまなつの膝の前にしゃがみ込み、目線を合わせるようにして差し出す。
「飲めるか?」
「……ん」
コップを持つ手がわずかに震え、いるまはその手をそっと包む。
「無理するな。……ほら」
誘導するように口元へ運ぶと、ひまなつは従うように水を飲み、薬を飲み込んだ。そのまま深く息をつき、眉間を押さえる。
いるまはしばらく黙って見守り、痛みに耐えるひまなつの額へ指先を伸ばし、そっと撫でる。触れた瞬間、ひまなつの肩がびくっと揺れた。
「熱は……ないな。けど、顔色悪い」
「……なんか……近いっす……」
「離れたほうが楽か?」
「……や、別に……どっちでも……」
言葉とは裏腹に、ひまなつは小さく呼吸を乱し、目を伏せる。その様子が痛々しくも可愛くて、いるまの声はますます穏やかになった。
彼はひまなつの腕を取ってゆっくり引き寄せ、ソファの背にもたれるよう体勢を整える。そしてひまなつの頭を自分の胸元へ寄せた。
「横になっとけ。頭、少しでも楽になるだろ?」
「……っ、近ぇ……」
「嫌なら言えよ」
「……言わねぇし……」
強がりなのか、甘えてるのか。ひまなつ自身も分かっていない。
胸元に触れた熱と鼓動に、ひまなつの呼吸はゆっくりと落ち着いていく。いるまはその細い背をゆっくり撫で、痛みを散らすように指先で優しく円を描いた。
「痛いときは無理しなくていい。俺んとこに寄りかかっとけ」
ひまなつは答えず、ただ静かに目を閉じた。けれど、そのまつ毛がかすかに震えているのを、いるまは見逃さなかった。
頭痛に苦しむひまなつを包むように、いるまの腕はそっと強くなった。
ひまなつの頭痛は少しずつ和らぎ、肩の力も抜けてきた。
ソファに横たわり、いるまの胸に額を預けたまま、浅く呼吸を整えている。
「……楽になったか?」
「……はい……先輩のおかげっす」
小さく、でも真剣に答える声に、いるまは胸の奥がじんわり熱くなる。
腕を回したまま、ひまなつの背中をそっと撫でる。
「……お前、落ち着いたら、ちょっと素直になったか?」
「……っ!? な、なにそれ……」
照れくさそうに目を伏せるひまなつを、いるまは軽く指先で顎を上げて顔を覗き込む。
その距離、ほんの数センチ。
「……かわいい」
低く、呟くような声。ひまなつの耳まで届く。
ひまなつの胸はまたドクンと跳ね、声にならない声を漏らす。
「……先輩……」
「ん?」
「……ありがとう……ございます……」
小さく囁くひまなつを見て、いるまは微笑みながら、肩に置いた手で頭を軽く撫でる。
その指先の柔らかさに、ひまなつは無意識にすがるように身を寄せた。
「……甘えろって言わなくても、自然にやってくれるな」
「……別に……甘えてるわけじゃ……」
小さく否定する声も、肩にぴったり寄せた体は正直だった。
いるまは思わず胸元で微笑み、ひまなつをさらに強く抱き寄せる。
「……いいんだ。俺の前では、もっと甘えていい」
「……へ……?」
「……俺が守ってやるよ」
低くて、でも甘い声。
ひまなつの心臓は跳ね上がり、額が軽くすれる胸元で鼓動が伝わる。
自然と顔が赤くなり、唇もわずかに震えた。
「……先輩……」
今度は、甘えたように小さく名前を呼ぶ。
いるまはその声に胸を締め付けられ、頬に手を添えて髪を撫でる。
「……わかってる。だから、安心しろ」
言葉も行動も、すべてが甘くて、優しくて。
ひまなつは逃げることもできず、ただいるまに身を預けた。
窓の外では大粒の雨が叩きつけるように降り続け、 風がビュウッと唸るたびに、カーテンがわずかに揺れた。
こさめはテレビのニュースを眺めながら、小さく呟く。
「やば……今日ほんとに帰れないやつ……」
そこへ、仕事用の資料を片手にしたらんがリビングに戻ってくる。
「——こさめ」
「はい、先輩?」
「今日は……台風、直撃だ。外、危ないから……泊まっていけよ」
少しためらいがちに、 ごく自然な口調で続けた。
こさめの目がぱちっと見開かれる。
「えっ……いいんですか?」
「当たり前だろ。帰ってケガしたら困るし、……俺が心配なんだよ」
それはあまりに素直で、こさめは一瞬だけ胸の奥が熱くなる。
「……ありがとうございます!」
こさめが嬉しそうに小さく笑うと、 らんは少し照れ隠しのように、咳払いをひとつ。
「まぁ、その……暇だろうし」
らんは棚からゲーム機を取り出し、 ケーブルを器用に繋いでテレビ下にセットする。
「ほい。好きに遊んでていい」
「え、いいんですか!? 先輩のゲーム……!」
「壊すなよ?」
「壊さないですってば!!」
こさめが子犬みたいに目を輝かせるのを見て、 らんは思わず口元を緩めた。
「……ほんとお前、わかりやすいな」
「え?」
「いや。なんでもない」
テレビ画面が起動し、ゲームのタイトルが表示される。
こさめはコントローラーを握った瞬間から完全にスイッチが入り、 目がキラッと輝いた。
「うわっ、最新作じゃないですか!! 先輩やってたやつですよね?」
「うん。飽きたから貸す。進めてもいい」
「やった……!じゃあ遠慮なく!」
らんはそんなこさめをしばらく眺めていたが、 作業中の資料を思い出し、軽く頭を掻いた。
「俺は……部屋で仕事戻るけど。何かあったら呼べよ」
「はい!」
こさめがゲーム画面に集中し始めたのを確認して、 らんは自室へ向かう。
リビングにひとり残されたこさめは、 ときどき風の音にびくっと肩を跳ねながらも、 画面に向かって一生懸命ボタンを押す。
その様子がなんだか気になって、 らんは部屋に入る前にもう一度だけこっそり振り返った。
ソファでちんまり座ってゲームしているこさめが、 やけに小さくて、守ってやりたくなる。
「……ほんと、放っとけねぇな」
そう小さく呟いて、らんは静かに扉を閉めた。
こさめはゲームを三時間ほど夢中で進めていた。
先輩の家という緊張もだいぶ和らぎ、夢中でボタンを連打しながら、
「っしゃあ……先輩が苦戦してたボス倒した……!」
と小さくガッツポーズまで取っていた。
けれど、
ふと、窓の外で雷がゴロゴロ鳴った瞬間——
びくっ。
こさめの肩が跳ねる。
ゲームの画面には集中しているのに、 部屋の静けさに、ふいに胸の奥がざわりとした。
(……先輩、まだ仕事してるよね。 一人でいるの、ちょっと……さみしいな……)
そんな気持ちが芽生え始めたころ、 こさめはそっとコントローラーを置いた。
ゆっくり立ち上がり、 らんの部屋の前まで歩いていく。
ノックしようか迷いながら、 少しだけ扉を開けて覗き込んだ。
らんはデスクに向かい、 片手でキーボードを素早く叩きながら、資料を確認している。
髪をかき上げ、真剣な表情のまま画面を睨む姿は、 普段のらんとはまた違う色気があった。
(先輩……かっこよ……)
ぽかんと見惚れてしまった自分に、こさめはハッとして口元を押さえる。
けれど、らんは全く気づかない。
本当に集中しているらしく、まばたきさえ少ない。
(……声、かけよっかな……どうしよう……)
迷ったまま扉の隙間に立ち尽くすこさめ。
静かな室内に、 外の風の音と、らんがキーを打つ乾いた響きだけが重なる。
こさめは、ほんの少しだけ勇気を出して、 そっと呼んでみた。
「……らん先輩……?」
小さく、遠慮がちな声。
だが、返事はない。
らんの手は止まらず、画面を切り替えて次の資料に移る。
(……全然気づいてないや……)
こさめはくすっと小さく笑い、 それでも胸の奥に少しあたたかい気持ちが広がる。
自分の存在に気づいてほしいような、 邪魔したくないような——複雑な感情が混ざり合う。
(もうちょっと……ここにいてもいいかな……)
扉の隙間から、こさめはそっと部屋の様子を覗き続ける。
まるで、 好きな人をこっそり見つめる子どものように。
こさめは、らんがこちらに全く気づかないまま仕事に没頭しているのを確認し、 扉の隙間からそっと足を踏み入れた。
音を立てないように、 すり足で、ゆっくりゆっくり近づく。
らんの背中が少しずつ大きくなっていき、
こさめの心臓もそれに合わせるように、どくん、と鳴った。
(……ほんとに集中してるんだなぁ…… )
らんは眉間に軽くしわを寄せ、 画面に表示された数値や文章を淡々と整理している。
こさめは真後ろまできたが、 やはり声を掛けられずに立ち止まった。
自分の呼吸音さえ邪魔になりそうで、 浅く、静かに息をする。
背後でそっと立つこさめの存在に気づく気配は、 まだない。
らんの手がキーボードの上を滑り、 資料に視線を走らせるたびに、 こさめの胸がじんわり温かくなる。
(こんな近くで、こんな長く見つめていいのかな…。 ……ちょっとだけ、いいよね……)
部屋の中は、外の強風とは対照的に静かで、 らんのキーを打つ音が心地よいリズムに聞こえた。
こさめは、気づかれないようにさらに少しだけ前へ。
らんの背中まであと30センチ。
思わず、伸ばした指先が——
らんの椅子の背にふれた。
自分の手が触れた瞬間、
こさめは「しまった」と思って息を呑む。
だが、らんの手は止まらない。
仕事に完全に没頭していて、背後にいる後輩などまだ気づきもしない。
こさめはそっと指を離し、 背中に向かって、心の中で呟いた。
(先輩……早く気づいてくれたらいいのにな……。 ……でも、気づかれないのも、ちょっと嬉しい……)
こさめは、らんのすぐ後ろでじっとその背中を見つめていた。
らんの指先がキーボードを叩く乾いた音。
資料を読み込むときに、ふっと息を細く吐く癖。
真剣なときだけ少し前屈みになる姿勢。
全部を、こさめはただ黙って見ていた。
しばらくして。
らんはキーボードから手を離し、 肩を一度大きく回すと——
「……ふぅ。少し休憩するか」
そう小さく呟き、椅子を引いて立ち上がろうとした。
ちょうどその瞬間だった。
椅子が後ろに倒れないように、
らんは後方へ軽く下がる。
——その「後方」には。
ずっと立っていたこさめがいる。
「えっ」
「わっ」
らんの背中がこさめの胸に当たる。
こさめは驚いて一歩も引けず、
らんの身体がそのまま密着する格好になってしまう。
距離、ゼロ。
二人とも、息が止まる。
らんは一瞬で状況を理解し、 驚きながらもすぐに体勢を整え、 こさめの肩をそっと掴んで倒れないよう支えた。
「……こさめ? いつからそこにいた?」
こさめは耳まで真っ赤になり、 目をそらすように俯いてモゴモゴと答える。
「え…えっと……だいぶ前から……です……」
「だいぶ前から?」
らんが少し身を屈めて覗き込む。
その近さに、こさめの心臓は跳ね上がりそうだった。
「さ、さみしくなって……つい……。 あの、その……先輩の邪魔したくなくて……」
言葉が途中で詰まる。
らんは一瞬だけ驚いたように瞬きをして、
次の瞬間、小さく笑った。
優しい、柔らかい笑み。
「……そっか。来てくれたの、嬉しいよ」
その言葉が部屋の空気を一気に甘くする。
こさめは顔がさらに熱くなって、目を逸らした。
「う、嬉しいって……そんな……」
「いや、本当に。 ずっと一人で仕事してたからさ。 こさめが近くにいてくれたなら、休憩のタイミングも丁度よかった」
さらりと言われ、胸がギュッと締め付けられる。
らんはこさめの頭にそっと手を置き、 軽く撫でた。
「こっち来いよ。休憩、一緒にしよう」
その声に誘われて、 こさめはぽかんとらんを見上げたまま、 むずがゆい気持ちを抱えながら小さく頷いた。
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