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プロローグだけ公開しときます。
心臓が、痛い。
……いや、ほんまは痛いわけやない。物理的に胸がざくざく裂けてるわけちゃう。
でも、鼓動の一つひとつが、まるで誰かの指先で撫でられとるみたいに、生々しい。
――あぁ、またや。
私は、いつものように嘘を吐く。
「大丈夫やで。なんも、ないから」
鏡に向かってつぶやいて、唇の端を引っ張って、作り笑いを貼り付ける。
誰に見せるわけでもない、ひとりきりの部屋やというのに、笑わなきゃ自分が崩れてしまいそうで。
頬を撫でる冷たい指は、さっきまで触れていた“彼女”の温度に似ていた。
――ないこ。
胸の奥底で、その名前が音もなく沈んでいく。
あたしらの関係を、一言で説明することなんて無理や。
友達? 恋人? そんなん、どっちでもええ。
ただ私は、あの子に触れられるたび、世界の輪郭が溶けていくような感覚になるんや。
それが、怖くて、うれしくて、苦しくて――たまらんかった。
***
春の始まりは、妙に匂いが濃い。
街を歩くだけで、地面から立ちのぼる温度と、芽吹きかけた草の湿り気が、鼻の奥に張り付くように染み込んでくる。
私はその匂いが、子どもの頃からちょっと苦手やった。
「まろちゃん、またそんな顔してる」
背後からふわりと声が伸びて、肩がびくりと跳ねた。
振り返らんでも、誰の声かくらい分かる。
細く透けるように明るい茶髪。
桜の花びらみたいな淡いピンクが射し込む瞳。
そして、さっき触れてたみたいに、どこか私の心臓の奥にまで入り込んでくるあの声。
「ないこ……」
「そんな警戒しないでよ。別に襲わないから」
ふふっと小さく笑う。
その笑い方がまた、胸の奥をむず痒くしてくる。
「いや、別に警戒しとるわけちゃうけど……やっぱり、急に背後から話しかけられたらびびるで」
「びびるって、かわいすぎ。ねぇ、まろちゃんってさ、ほんとに分かりやすい」
「分かりやすいってなんやねん……」
「あたしが声かけたら、絶対こんな顔するもん」
ないこは指先で、私の頬に触れた。
その瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
「ほら、これ。ちょっと困ったみたいな、ちょっと照れたみたいな、でも嬉しいみたいな顔」
「……そんなん、してへん」
「してるよ。あたししか知らない顔」
耳の奥がじんじんと熱を持つ。
“あたししか知らない顔。”
そんなこと、言われたら。
逃げられるわけ、ないやん。
***
ないこと私は、同じ大学に通っとる。
学科は違うけど、キャンパスも建物もほぼ一緒やから、毎日みたいに顔を合わせる。
いや……ほんまのこと言えば、“私が毎日みたいに顔を探しとる”だけや。
ないこは、たぶん、そんなこと全部わかっとる。
それでも笑うから。
それでもそばにいてくれるから。
私は、やばいくらいに、あの子に依存していってしまった。
でも、私だけやない。
ないこもまた、私に依存しとる。
目を見れば分かる。
どれだけ他の友達と話してても、笑ってても、私の声がしたらすぐこっちを見る。
あの子の中で、私の存在は明らかに異常で――特別や。
それが嬉しいと同時に、ぞわっと背筋が軋む。
だって。
こんなん、普通の関係ちゃう。
***
「今日、時間ある?」
ないこが軽く問いかける。
「んー……まぁ、あるっちゃあるけど……なんで?」
「行きたいとこがあるの」
行きたいとこ。
ないこがそう言うときは、決まって“変なとこ”や。
普通のカフェとか、普通の映画とか、普通の買い物にはあんまり誘ってこない。
廃墟寸前の古い図書館だったり、無人駅だったり、深夜の海だったり……。
そういうところに行きたがるあの子の感性が、私はどこか好きで、どこか怖かった。
「今日のは、ちょっと特別」
「……特別?」
「うん。まろちゃんとじゃなきゃ意味ない場所」
また、言うんや。
そんな逃げられへん魔法の言葉を。
「……しゃあないなぁ。つきあうわ」
「ほんと? やった」
ないこは私の手を取り、軽く引っ張る。
爪の先が少し触れるだけで、皮膚がくすぐったくなって、呼吸が乱れる。
「そんな喜ぶほどのことやないやろ」
「まろちゃんと一緒だと、なんでも嬉しいもん」
「あんたなぁ……ほんま調子ええわ」
「調子いいよ? だって、まろちゃん相手だもん」
「……っ」
言葉が詰まる。
それは、うまく喋れないからやない。
喋ったら、本気でないこに縋りつくように“好きや”って言ってしまいそうやったからや。
***
夕方の光は、世界をすべて金色に染める。
風が吹くたび、木々が影を伸ばし、地面を揺らす。
ないこに連れられて歩いていくと、やがてキャンパスの外れにある古い建物が見えた。
「なぁ……ここ、何の建物なん?」
「元はアトリエだったらしいよ。美術学科の。今は使われてないけど」
「なんでまた、こんな人気ないとこに」
「いいから、来て」
私は言われるままに、ギシギシと床が軋む古い階段を上がった。
二階の、端の部屋。
扉には鍵がかかってなかった。
押すと、ひどくゆっくりと開く。
中は薄暗かった。
カーテンが破れた窓から、夕日が一本の光となって射し込み、埃がその中で舞っている。
まるで、水の中みたいに。
ないこが先に足を踏み入れ、くるりとこっちを向く。
「ねぇ、まろちゃん。ここ……どう思う?」
「どうって……まぁ、雰囲気はええけど……ちょっと怖いな」
「ふふっ、やっぱり?」
「やっぱりってなんやねん」
「あたしね、ここに来るたびに思うの。まろちゃんと二人きりで閉じ込められたら、どんな気分かなって」
「……へ?」
冗談めかしたトーンのはずやのに、目は笑ってへんかった。
その瞳が、ぐっと私の心臓を掴む。
言葉が出ん。
ないこが、ゆっくりと距離を詰めてくる。
私の腕に触れる。
指がすべる。
心臓が跳ねる。
「ねぇ……まろちゃん」
ないこの息が、耳元に落ちる。
「まろちゃんが誰かに取られるの、絶対イヤだよ」
「は……?」
「あたしだけのまろちゃんじゃなくなるの、考えただけで息できなくなる」
「な、何言うて……」
「あたし、変だよね」
そう言って笑った。
でも、目はどこまでも真剣やった。
「せやな……ちょっと変やと思うわ」
「でも、まろちゃんも変でしょ?」
「うちが?」
「だって」
ないこは、私の胸に手を当てた。
服の上からでもはっきり分かるほど、心臓が早く脈打ってる。
「あたしのこと、こんなに感じてる」
「……っ、そ、それは……!」
「ねぇ、まろちゃん。あたしのこと、好き?」
「好きとか、そんなん――」
「言って?」
夕日の赤が、ないこの瞳に溶け込んでいた。
その赤はどこか血の色に似ていて、息が止まりそうになる。
「言ってくれなきゃ……あたし、壊れちゃう」
「な、ないこ……」
「まろちゃんが好きじゃない世界なんて、あたしには何の意味もない」
その時、気付いてしまった。
あぁ、この子は――。
私以上に、ずっと深く、私に依存してるんや。
たぶん、私がいなくなったら、何もかも手放してしまうくらいに。
……ほんまは、分かってたはずや。
この子の“普通やない執着”を。
でも、気付いたふりして、ずっと目をそらしてた。
相手がおらんようになるのが怖かったんは、私の方や。
「……好きや」
吐き出した瞬間、ないこの目がゆっくりと細まった。
「もっと」
「……好きやで。だいすきや」
「うん、知ってる」
ないこは私に抱きついた。
細い腕やのに、びっくりするくらい強く。
その瞬間、背中の奥まで熱が走る。
「まろちゃん……あたしが死んでも、忘れないでね」
「――っ、なに言うてんねん!」
「冗談……って思う?」
「そりゃ、そうやろ……!」
「冗談じゃなかったら?」
問いかけは、やけに静かで。
部屋の中の埃が、夕日の中でふわりと蠢く。
ひとつ、胸の奥で何かが壊れる音がした。
私は、ほんとうに分からなくなった。
この子の言葉は、どこまで本気で、どこまで嘘なんか。
でも、ひとつだけ確かなのは――。
どれだけ怖くても、手放す気にはなれへんということ。
それが、いちばん危険なんやと分かってるのに。
ないこが耳元で囁く。
「まろちゃん。あたしたち、終わらないよね?」
その言い方は、まるで――終わらせたら許さへん、と言うみたいやった。
私は喉を震わせて答える。
「……終わらへんよ。そんなわけ、ないやろ」
「うん。大好き」
ないこはそう言って、私の手をぎゅっと握った。
その指先は温かいのに、どこか氷みたいに冷たくて。
その温度が、私たちの壊れかけた関係の温度そのものやと思った。