懐かしい味。
──これでよし、っと。
それまで迫るような真面目顔でケガの手当てをしていた彼女は、その言葉とともに満足げな様子で破顔した。
「シャワーと着替え、ケガの手当てまで……その、迷惑かけてしまってすみません。なんていうか、助かりました」
「いえいえ。それに、お礼なら私よりも店長に言ってください。店長、すごく心配してましたよ」
「そう、ですか」
指先で額に貼られたガーゼをなでた。いつもと違うざらついた感触がおかしくて、この状況もおかしくて……ひそかに自嘲めいた笑みをこぼす。
「……それにしても、赤の他人にここまでしますかね。ふつう」
「え、知り合いじゃないんですか! てっきりそういうものだと……」
「俺が同じ立場でもそう思いますよ。ってことは、お人好しな店長さんといえども、見ず知らずの人間にここまで良くしないってことですか」
「いや、赤の他人でも店長ならやってそうです」
嬉しそうに、誇らしそうに、彼女は目を細めやわらかくほほえんだ。どうやら店長さんはずいぶんと慕われているらしい。
「さっきも言いましたけど。店長、あなたがシャワー浴びてる時、すごく心配そうにしてたんです。まるで、手術室に運ばれた家族の無事を祈る人、みたいな。一年間一緒に働いてきましたけど、あんな険しい顔、はじめて見ました」
「それで、てっきりかなり親しい方なのかと……。でも、違うんですね」
「ええ、まあ……」
記憶を辿れど、思い当たる人物はいない。きっと何かの思い違いで、俺は所詮赤の他人なのだろう。となれば、これ以上世話になるわけにはいかない。俺とは無関係であるべきなんだ。──特に“いいやつ”は。
「あ。もう帰りますね。たくさん迷惑かけちゃってすみませんでした」
乱れた服を正して、足早に部屋の出口へとむかい、ドアノブに手をかけた。
「大丈夫ですか」
その時、背後から彼女に問いかけられる。
「……大丈夫ですよ」
振り返らずに、そのままドアノブを回して部屋の外へ出た。階下へとくだる途中で、思わず足を止める。鼻先に漂ってきた、食欲をそそる温かくて優しいかおり。そういえば、ここは飲食店らしい。ちょうど晩御飯どきだから、店が忙しくなる前にお暇しておいた方がいいだろう。煌びやかな店内で食事を囲む人々を見たいとも思えないし。
階段をくだり終え、短い廊下を通り、なかば前のめりに扉を開けた。運のいいことに店内にお客さんは一人もいなかった。このチャンスを逃すまいとすぐに店長へ声をかける。
「あの、色々ありがとうございました。俺、帰りますんで」
引き止める隙すら与えず、縦長のオシャレなハンドルをつかみ、出入り口の扉を押そうとした。
──ツユリさん!
「え……」
「ツユリさん、ですよね」
「なんで、なまえを……」
驚きで頭がうまく回らない。さっさと店から出ていけばいいものを、俺は律儀に彼の言葉を待ってしまった。
「サワタリです。覚えていませんか」
──サワタリ? どこかで……。必死に思い出そうとして相手の顔を見やった時、ふと目が合った。
何かを訴えかける目──柔和であるのに、力強い芯をもったあの目を、俺は知っている。
「もしかして、廃ビルの屋上で飛び降り自殺しようとしてた、あの……?」
「あはは。その節はどうも」
そういえばそんなこともあったな。あれは衝撃的な体験だった。
何時間もかけて説得して、それが成功して誰も死なせずに済んで。夜は興奮しちゃって眠れなくて結局寝落ちして、翌日遅刻して課長にこっぴどく怒られて……。もう一生忘れないだろうなってくらい衝撃的だったはずなのに。──“彼”のことで、すっかり忘れていた。
「あの、ツユリさん。僕の作ったカレー、食べてくれませんか」
「言ってましたよね。あの時。カレーが好きだって」
純粋な熱意をおびた眼差しに耐えきれず、うつむき目を逸らした。
なぜ、自分はそんなことを言ってしまったのか。 なぜ、今になってこの人が目の前に現れたのか。 なぜ、こんな状況になっているのだろう。 なぜ。なぜ。なぜ……。
──ぐぅ〜。
「ぶふっ」
腹の音がなった。俺の。今日は酒しか胃に入れていなかったことを思い出す。
店長──サワタリは堪えられないとばかりに吹き出し、大声をあげて笑った。それはもう爆笑だった。先ほどの女性も気づけば降りてきており、そのほか一人の店員がいたが、両者ともあどけない子供でも見るような、ゆるんだ表情でこちらを見ていた。笑われるより、そちらの方がいたたまれない気持ちになる……。
「はぁ……。いや、すみません。あまりにも険しい顔でお腹を鳴らされたので」
「今すぐにでも食べられるよう準備してありますから、どうぞそちらへ」
「……いただきます」
散々笑われて言い訳をする気にもなれず、促されるままカウンター席についた。続けて、女性店員が右横の席に腰掛ける。
「いや〜……やっぱりどう見ても男性にしか見えません」
「失礼だよ、ヒビキちゃん」
「確かにそうですけど、これは騙されますよ。現に店長だって知らなかったでしょ。女性だって」
この女性はヒビキというらしい。マロンブラウンのカールしたポニーテールがよく似合う、活発そうで可愛らしい女性だ。
性別に関しては、男性の振る舞いを意識しているから、どちらかというと褒め言葉なんだよな。今もホストみたいな方法で稼いでいるし。
「だけど、ふつうに考えたらヤバいですよね。覚えてるのは店長だけで、相手からしたら知らない男の人にいきなり家に来るよう求められるもんですから」
「まあ、たしかに。少し無茶したのは反省してるけど。どうも……放っておけなくてさ」
頬をかいて、はにかんだ。あんな痩せこけていかにも絶望してますって表情(かお)をしていた彼が──いまだに信じられない光景だ。
「そういえば、自己紹介がまだでしたよね」
「私、ヒビキって言います。あっちにいるシャイで童顔な高校生が、ウタガワです」
──シャイで童顔は余計だろ!
L字になっているカウンター席をはさんで、左奥の通路から非難の声が投げこまれる。そこには金髪アップバングショートが決まった、いかにもガラの悪そうな男性店員がいた。
ヒビキはさした指をそのままに「だってその通りじゃん」とケラケラ笑っている。
「さっき聞こえてたと思いますけど……ツユリです。すみません、お店、大丈夫ですか?」
「そのことなら心配ご無用ですよ。今日はもう閉店しましたので」
湯気がたちのぼるカレーライスを俺の目の前に届けると同時に、サワタリがあっさり答えた。
カレーライス……最後に食べたのはいつ頃だっただろうか。遠い昔の記憶を思い起こす。不器用な母親が作ってくれた、不細工な具材が沈むカレーが大好きだった。母はいま、どうしているのだろう。相変わらず、父と仲良くやっているのだろうか。なにか重い病にかかってはいないか。……そんなことを確かめる資格も、覚悟も、俺にはもうないけれど。
「いただきます」
手を合わせ、再度つぶやく。銀色のスプーンを手に取りカレーをすくいあげた。
ふんわりと鼻先に広がる久しい香りを堪能し、そのままゆっくり、毒味でもするかのようにそうっと口に含む。
「……おいしい」
なぜだか懐かしい味だと思った。いや、これはまさしく──
「この味、どこで……」
「よく僕の──お姉さんが、作ってくれたんです。そのカレーが好きで、数年前までその味に近づけようと試行錯誤していました。でもまさか、市販で売っている味だなんて……知った当時は、驚きやら呆れやら、嬉しさやらで複雑な気持ちになったものです」
市販のもの、か。たしかにそれなら頷ける。母は不器用な人だった、とりわけ料理に関しては。カレーのルーも市販のものをそのまま使っていたに違いない。とはいえ、このしょっぱいとも言える味は、母がレシピ通りにすら作れない人だったからと思っていたが……彼のお姉さんもそうだったのだろうか。不細工な形の具材まで同じで、なんだかくすりと笑みがこぼれた。
「お口に合うようでよかったです。これを食べた大抵の人は塩辛いって顔を顰めますから」
「たしかに塩辛いですね」
彼は「そうでしょう」と幸せそうに首を振った。黙々とスプーンを口に運んでいく。
「じゃ、私。そろそろ帰りますね」
ヒビキが席を立ち、サワタリになにか耳打ちしたかと思えば、そのままウタガワを連れてスタッフルーム──先ほどの階段手前の扉奥へと消えていった。その際、ブツブツとウタガワのブーイングが聞こえたような気がしたが、気のせいだろうか。
「あの、ツユリさん。……ツユリさんは今、何されてるんですか」
何をしているか。と聞かれて、とっさに思い浮かんだ言葉は……「空白」だった。
いったい自分は何をしているだろう。何のために生きているのだろうか。──などという小難しい回答は求められていない。分かってはいるけれど、誰でもいいから答えてほしかった。……そんな場違いな、さして期待もしちゃいない想いを胸に抱きつつ、唾液で湿った唇を開いた。
「無一文の居候ですかね。たまに、泊めさせてもらってるお店の手伝いをしてるくらいです」
「ほんとーになんも、してませんよ」
食べかけのカレーライスに目を落としたまま答えた。こんな情けないことを面と向かって、それも昔の自分を知っている人に──恥ずかしげもなく言える勇気はなかったし、なにより、あの飼えない捨て猫へむけるような眼差しをもう二度と見たくなかった。
「なら。なら、ウチで働きませんか? もちろん、ツユリさんがよければ、ですが」
「え……そんな、いきなり……」
「返事は後ででも全然構いませんから、考えてくれるだけでもいいので。その、ちょうど店員が足りていなかったですし、近いうちに募集するつもりでしたので……はい」
優しい口調なのにどこか切迫した、善意にすがるというよりは、懸命に服の裾を引っ張るかんじ。べつに脅迫されたわけじゃないけれど、ついつい提案をのんでしまいそうになる……そんな不思議な力が彼の言葉にはあった。相変わらずこの人は嘘下手で、甘え上手らしい。
「……考えておきます」
望みは五分五分だったのだろう。目を丸くしたあとすぐに、歓びを前面に出した笑顔で「よろしくお願いします」と弾んだ声が返ってきた。
──やがて、最後の一口を食べ終え手を合わせる。
「ごちそうさまでした」
「──お粗末さまでした」
席を立ち食器を手渡した。彼は渡された食器を流し台に置いてから、見送るためか俺の近くへとやってくる。
「これ、今日の余り物です。よかったらお店の方とどうぞ。明日の昼まではもつはずなので」
「ほんと、何から何まで、すみませんでした。迷惑かけてしまって……今度、この服とお詫びをもってまたお伺いします」
「では、お詫びは『先ほどのお返事』でお願いします」
「ははは……」
あからさまな空笑いで誤魔化したあと、一度会釈してから扉を押した。心地よいドアベルが響き、ひんやりとしたそよ風が頬をなでる。数日前に世間は十月へと移ろい、昼はまだ暑さが残るものの、朝晩は少し肌寒くなってきていた。それは今日も例外じゃないわけで……歯が震えるほどではないけれど、寒さによる不快感がすでに現われはじめている。
「早く帰ろ」
両手を冷えたポケットに突っ込み、星一つない暗がりを人々の灯りが照らす中、足を速め帰路を急いだ。
コメント
2件
読点の配分が難しい……😖 前回同様、違和感のある部分や誤字脱字があれば、コメントによろしくお願いします!!🙌✨