「港さん、こちらに……」
寺の奥、重く冷たい石の廊下を歩く。
葬儀後も火葬を拒否した港の意志により、南の遺体は特別室に安置されていた。
布越しに見える彼女の姿は、もう“南”ではない。
顔の一部は焼け、腕は折れ曲がり、不自然なまでに細い。
だが、港はその“身体”の前に立った。
「……南」
声に感情がこもる。
だが、それは“悲しみ”ではなかった。
疑いと希望が入り混じった、苦しい吐息のような呼びかけ。
「……君は、本当に南か? 本当に……俺の妻だったか?」
棺に手をかける。
周囲の空気が、まるでそれを拒むかのように冷たくなった。
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「南の……目に見えない“違和感”は、いつからだった……?」
港は思い出そうとする。
息子の誕生、初めての保育園、家族旅行――
すべての記憶に、南はいた。
優しく、明るく、包み込むような存在だった。
だが、思い返すと――彼女の記憶には“違和感”があった。
「……あのとき、熱を出した樹人を抱きしめた南が、妙に冷たかった……」
「夕飯で味噌汁を作ってくれたけど、南は昔“味噌汁が嫌い”って言ってた」
「でも――俺は、何も気づかなかった。疑おうとすらしなかった……」
信じていたからこそ、“違和感”をなかったことにしていたのだ。
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棺の横に立つ紗理奈が語る。
「港。あの村で、あなたが聞いたあの声。あれは“嘘”じゃない」
「でも、“真実”でもないの。あの声は、“欲望”が作る音だから」
「あなたが、“南を戻したい”って思ってたら――
“違う南”が、それらしく現れてしまう。
それは、あなた自身が『どこまでが本物か』を見極めなきゃいけない」
港は、棺の蓋を開けた。
中に眠る南の遺体の顔――
焼けただれ、歯がむき出しになっていたが、
その唇が、わずかに笑っているように見えた。
「……君は、“誰”なんだ?」
その問いに、返事はなかった。
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港は、静かに棺の中の南の手を取る。
細く、骨の浮いた手。
その指先に、傷跡があった。
それは、港がプロポーズした日に、指輪をはめるのを嫌がって転び、机の角でつけた傷――
確かに、その傷を“南だけ”が持っていた。
「……南。君は――本物だったのか?」
そのとき、棺の中の南の唇が、かすかに開いた。
「――みなと……くん……」
それは、呼吸のない口が、最後に絞り出すような声だった。
だが確かに、港の名を呼んでいた。
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その瞬間、伊藤家の電話が鳴った。
紗理奈が出ると、病院からだった。
「お子さんが、目を覚ましたんです」
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