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登場人物
・名前:神代 朔夜
年齢:17歳
・名前:宮本 結
年齢:17歳
・名前:神代 征一郎
年齢:45歳
✦・┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈・✦
ガシャン、と鋭い音が部屋に響いた。
床に落ちたグラスが砕け、淡い色の液体が絨毯の上へ飛び散る。細かな硝子片が、朝の光を受けて冷たくきらめいた。
「オレンジじゃねぇよ。グレープのスパークリングつったろ!」
神代朔夜の苛立った声が、静まり返った室内を切り裂いた。
「本日の体調を診て、主治医の方より炭酸飲料は控えるようにと……」
控えめな声で答えたのは、宮本結だった。
「うっせぇ。お前が知ったような口聞いてんじゃねぇよ。さっさと持ってきて、床片付けろよ」
「ですが、朔夜様の体調を鑑みて――」
ばん、と鈍い音が響いた。
朔夜が拳でサイドテーブルを叩いたのだ。
「誰がお前に指図されてんだよ! 俺が飲みたいっつってんの! 主治医が何だ、お前なんかただの世話係だろ! 黙って俺のいうこと聞いてりゃいいんだよ!」
怒気を孕んだ声が、空気を震わせる。
けれど、その顔色は悪くなかった。
むしろ今日は珍しいほど安定している。
だからこそ、自分の思い通りにならないことが、いつも以上に腹立たしかった。
朔夜は結を睨みつける。
「……何で、ダメなんだよ」
先ほどまでの荒々しさをわずかに残した声は、低く沈んでいた。
結は一度だけ目を伏せた。
「……失礼しました。今、持ってまいります」
小さく頭を下げ、そのまま部屋を出ていく。
扉が閉まった。
途端に、部屋がひどく広く感じられた。
朔夜は何も言わず、その背中が消えた扉を見つめていた。
やがて、無意識のうちに布団の端を握りしめる。
数分後。
キッチンから戻ってきた結は、グラスに注いだグレープジュースを朔夜の前へ置いた。
それから何も言わず、床に散らばった硝子片を一つずつ拾い始める。
細い指先が、慎重に欠片をつまむ。
まるで、何もなかったことにするように。
「……遅い」
朔夜はそう呟きながら、グラスを手に取った。
口に含む。
甘さの中に、わずかな酸味が広がった。
文句は出なかった。
「申し訳ございません……」
結は淡々と謝りながら、濡れた床を拭いていく。
数分もしないうちに、床は元通りになった。
割れたグラスの痕跡さえ、そこには残っていない。
グラスの中身が空になる頃、朔夜はふいに口を開いた。
「……なぁ」
結の手が止まる。
「お前、いつまでここにいんの」
胸の奥で、心臓が規則正しく脈打っている。
部屋の隅に置かれたモニターが、一定の間隔で電子音を刻んでいた。
「朔夜様のご病気が完治するまでです」
「完治って……」
朔夜は小さく息を吐いた。
「そんなのするわけねぇだろ」
自嘲するような笑みが浮かぶ。
「……じゃあ、一生じゃん」
#感動
こはる
921
宵美夜 綺月@受験生🐢&🦥
828
#こさめ
ことみ
782
その言葉は軽く投げられたようでいて、ひどく重かった。
結は答えなかった。
「一生」。
その言葉を口にしたのは朔夜だった。
けれど、その意味を本当に知っているのは、結のほうだった。
手術の日は、もうすぐそこまで迫っている。
十一月十五日。
朔夜の十八歳の誕生日。
そして――結の最後の日。
⸻
その夜。
神代家当主、神代征一郎は、都心にある本社の執務室で一通の書類を眺めていた。
分厚い封筒の中身は、手術に関する最終確認書だった。
必要な項目には、すでにいくつもの署名が並んでいる。
証人欄には、結が育った孤児院側の署名もあった。
征一郎は書類の日付を確認した。
「……あと三週間か」
低い呟きは、広い部屋の中に溶けて消えた。
その頃。
神代邸の一室で、結の携帯が淡く光った。
差出人は朔夜の主治医だった。
――『手術日程、11月15日に確定。最終検査は10日前。体調管理を厳にされたし』
結はしばらく、その画面を見つめていた。
十一月十五日。
その日が近づくほど、自分の時間が静かに削られていく。
やがて携帯を伏せる。
眠るために目を閉じても、眠気はなかなか訪れなかった。
⸻
翌朝。
朔夜は朝食のトーストを齧りながら、不機嫌そうに眉を寄せた。
「……なんか今日、使用人少なくね」
「はい。おそらく旦那様のご用事で外出している者が多いのでしょう」
「ふーん。親父も最近忙しいしな」
何気なく答えながら、二枚目のトーストへ手を伸ばす。
ふと、その手が止まった。
朔夜は背後に立つ結を見た。
「お前さ、ちゃんと食ってんのか?」
「もちろんでございます。朔夜様が世話係のことを心配なさらずとも――」
「別に心配なんてしてねぇし」
食い気味に遮る。
「後ろで突っ立ってられると気が散るっつってんだ」
そう言いながらも、視線は結から離れなかった。
やがて朔夜は、自分の皿へ視線を落とす。
ナイフでベーコンを一切れ切り分け、フォークに刺した。
そして、それを結へ差し出す。
「やる」
「これは朔夜様の朝食ですよ」
「いいから食えよ。俺がやるつってんだから」
フォークを突き出したまま、引く気配はない。
黒い瞳が、まっすぐ結を見つめている。
こうなると引かない。
それを結は知っていた。
「……では、ありがたく頂戴します」
身を屈め、差し出されたベーコンを口にする。
朔夜は満足したようにフォークを引いた。
「最初から素直に受け取れよ。面倒くさい」
ほんの少しだけ、口元が緩んだ。
こういう瞬間だけだった。
朔夜が、年相応の少年に戻るのは。
いや。
十七歳という年齢を考えれば、少し幼いくらいなのかもしれない。
窓の向こうから、秋の終わりを告げる光が差し込んでいた。
朔夜はその光を眺めながら、ふと思いついたように言った。
「なぁ、今日ちょっと外出たい」
結は一瞬だけ目を伏せた。
「それは構いませんが……主治医の方に許可を取らなくては」
「また許可かよ……」
朔夜は露骨に顔をしかめる。
「先月も何も言わず庭に出ただけで大騒ぎにされたのに」
「屋外の冷気に長時間晒されることは、朔夜様の心臓に負担がかかります」
「じゃあお前から言ってくれよ。俺からだと絶対ダメって言うに決まってる」
「……承知しました。ただし、あまり期待をなさらないように」
「まじ? お前からなら案外いけるかもな」
途端に朔夜の顔が明るくなる。
まるで子供のようだった。
「どこ行こうかな。商店街は……人多いか。じゃあ、あの公園。近くの、あの噴水があるところ。ガキの頃一回だけ行ったとこ」
「まだ決まっておりませんよ」
「わかってるっつうの。早く聞いてこいよ。気が変わったらどうするんだ」
「承知しました」
結は静かに頭を下げた。
その背中を見送りながら、朔夜は少しだけ笑っていた。
⸻
主治医は最初、難色を示した。
「外出、ですか。正直に申し上げれば推奨はしません。気温の低下にくわえ、最近やや不整脈が……」
白衣の男はカルテへ目を落とす。
「……ですが、一時間。それ以上は認めません。車を待機させ、十分おきにバイタルを報告すること。何か異変があれば即刻中断。この条件なら」
「ありがとうございます」
結は深く頭を下げた。
その一礼には、許可を得た安堵とは別のものが混じっていた。
まるで――残された時間を、一秒でも多く使わせてほしいと願うような。
⸻
許可が下りたと聞いた朔夜は、見るからに機嫌をよくした。
「一時間だけ」という条件には不満そうに唇を尖らせたが、それでも久しぶりの外出に胸を躍らせているのは隠しようがなかった。
玄関で靴を履きながら、結を振り返る。
「遅せぇよ。早くしろ」
十一月の風は、思っていたより冷たかった。
結からマフラーと手袋を渡されると、朔夜はそれをひったくるように受け取った。
「過保護かよ……」
文句を言いながらも、素直に身につける。
二人は並木道を歩いた。
葉を落とした街路樹の隙間から、冬の光がまだらに降り注いでいる。
やがて、記憶の中よりずっと小さな公園が見えてきた。
朔夜は足を止めた。
噴水は水を止められ、底には枯れ葉が溜まっている。
「……ちっさ」
十年前。
車椅子から身を乗り出し、目を輝かせていた少年がいた。
その少年にとっては、世界のどこよりも大きく見えた噴水だった。
今では、片手を伸ばせば届きそうなほど小さい。
朔夜はベンチに腰を下ろした。
少し遅れて、結も隣へ座る。
二人の間には、拳ひとつ分ほどの距離があった。
しばらく誰も喋らなかった。
風の音。
遠くを走る車の音。
枯れ葉が地面を擦る音。
そのすべてが、静かだった。
やがて朔夜が空を見上げる。
「なぁ……俺さ」
白い息が、空へほどけていく。
「たまに思うんだよな。このまま一生この体で、この家から出らんなくて、そのうちポックリいくのかなって」
「ご心配せずとも、もうすぐ――」
結の声が止まった。
「……は?」
朔夜が振り返る。
「今、なんか言いかけただろ」
「い、いえ……なんでもありません」
「嘘つけ」
朔夜は身を寄せ、下から結の顔を覗き込んだ。
結は視線を逸らす。
「本当に、なんでもございません……」
「まあいいけど」
納得していない顔のまま、朔夜は体を戻した。
やがて噴水の縁へ歩いていく。
「水、止まってんだな。冬だから」
ふと振り返る。
「……お前、ここで転んだの覚えてる?」
「いえ……」
結は淡々とバイタルを確認し、主治医へ報告する。
「え、覚えてねぇの?」
朔夜は驚いたように眉を上げた。
「お前が盛大にすっ転んで膝擦りむいて、俺が……」
そこで言葉が途切れた。
記憶の中の何かを探すように、朔夜は空を見つめる。
「……まぁいいや」
そして、ぽつりと続けた。
「とにかくお前、あの時も泣かなかったんだよな。今みたいな顔して、黙って血ぃ流して」
結は何も答えない。
「なんかお前ってさ、いっつもそうだよな」
その声には、いつもの刺々しさがなかった。
「怒んねぇし、泣かねぇし。俺にどんだけ当たられても、平気な面して立ってる」
風が吹き抜けた。
「……たまにそれが、すげぇムカつく」
結は黙っていた。
朔夜は数歩戻り、結の前に立つ。
「笑えよ。一回くらい」
それでも、結は笑わなかった。
朔夜の指が、結の頬へ伸びる。
冷えた指先が、そっと口角に触れた。
無理やり笑顔を作ろうとするように、ほんの少し持ち上げる。
けれど、その手には力がなかった。
やがて朔夜は手を離す。
「……何やってんだ俺」
自嘲するように笑い、ベンチへ戻った。
「帰るか」
「もうよろしいのですか?」
「いい。……もう寒い」
それが本当の理由ではないことくらい、結にもわかっていた。
けれど結は何も言わなかった。
「承知しました」
帰り道、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
⸻
その夜。
結の携帯に主治医から通知が届いた。
――『明日、最終適合検査を実施します。午前9時、第三診察室。採血・心機能評価・術前の投薬スケジュールの最終確定。当日は朝食を控えてお越しください』
画面の中の「最終」という二文字が、やけに大きく見えた。
その時だった。
朔夜の部屋から、微かな咳が聞こえた。
一度。
二度。
そして、苦しげな呼吸。
結は携帯を握ったまま立ち上がった。
「出てけ」と言われたのは数時間前だった。
それでも、足は迷わなかった。
扉を三度ノックする。
「……来んなって言っただろ」
「申し訳ございません。ですが、心配なので――」
「心配とか……うぜぇ……」
拒絶の言葉とは裏腹に、鍵はかかっていなかった。
「……失礼します」
扉を開ける。
部屋は暗く、常夜灯だけが淡くベッドを照らしていた。
朔夜はシーツの上で身体を丸めている。
額には汗が浮かび、呼吸は浅い。
「……ただの咳。大したことねぇから」
「薬はちゃんとお飲みになられましたか?」
返事はない。
「……飲んでいないのですね」
結は水を汲み、薬を用意した。
朔夜は渋々身体を起こし、薬を受け取る。
「……あいつにチクんなよ」
「善処いたします」
薬を飲み終えると、朔夜は再び横になった。
しばらくして、腕の下から声が漏れる。
「……さっきは悪かった」
「……いえ」
朔夜は腕をどけた。
暗闇の中で、黒い瞳だけが結を見つめる。
「お前ほんと変だよな。怒れよ、普通」
「私に怒る権利などありません」
眉間に皺が寄った。
「権利とかそういう話してねぇだろ」
しばらく結を見つめる。
「……なんでお前は、そうやって自分で決めつけるんだ」
結は答えなかった。
代わりに、静かに告げる。
「朔夜様、明日の朝、私は少し出ます。なので、ちゃんと朝食を召し上がって、薬を飲んでくださいね」
「出る?」
朔夜が起き上がる。
「どこに」
「朔夜様が気にするようなことではありません」
「は?」
声が荒くなった。
「俺には言う権利ないってか」
結の袖を掴む。
「俺に隠し事すんのかよ」
「別に、隠し事という訳では――」
「じゃあ言えよ」
まっすぐな目だった。
そこには子供じみた独占欲と、それだけでは説明できない切迫感があった。
「ただの、検診でございます。すぐ帰ってまいりますので」
手が離れる。
「検診……?」
「誰の」
「私のです。ただの定期検診です」
朔夜は結を疑うように見つめた。
「……お前の?」
それ以上追及する理由を、彼は持っていなかった。
「勝手にしろ」
「はい。今日はもうお眠りください」
結は一礼し、部屋を出た。
扉が閉まる。
朔夜は天井を睨んだまま、目を閉じなかった。
「なんなんだよ……」
やがて薬が効き始め、意識がゆっくりと沈んでいく。
最後に浮かんだのは、笑わない結の顔だった。
⸻
翌朝。
午前八時四十分。
第三診察室の前で、結は立ち止まった。
扉の向こうには、彼女の心臓がどれほど「適合」しているかを確認するための機器が並んでいる。
扉を開ける。
「どうぞ。時間通りですね」
「はい。よろしくお願いします」
白い診察室。
消毒液の匂い。
冷たい金属。
主治医は淡々とカルテへ目を落とした。
「先日のCT画像、拝見しました。左室の肥大もなく、弁機能も良好。術後の提供に問題ないレベルです」
結は黙っていた。
「提供」。
その言葉の意味を、医師はわかっている。
この少女自身が死ぬということを。
採血の準備をしながら、医師が告げる。
「では始めましょう。今回で最終ですから、少し多めに抜きます。貧血の症状が出たらすぐ申し出てください」
袖をまくる。
針が皮膚を刺した。
透明な管の中を、赤い血がゆっくりと流れていく。
一本。
二本。
三本。
結の顔色は変わらなかった。
痛みには、とうに慣れていた。
「血圧も安定している。体格は小柄ですが、許容範囲内です」
心電図が規則正しく音を刻む。
とくん。
とくん。
あと数日で、この心臓は彼女の身体を離れる。
「これで終わりです」
医師は書類にチェックを入れた。
「ドナーとしては極上ですよ」
結は何も言わなかった。
それは彼女にとって、褒め言葉ではなかった。
診察室を出る。
廊下の窓から、冬の日差しが差し込んでいた。
結は足を止め、ほんの少しだけ目を細めた。
あと十日もすれば、この景色を見ることはなくなる。
だから、忘れないように見ておく。
街路樹も。
空も。
光も。
全部。
⸻
屋敷へ戻ると、玄関に朔夜が立っていた。
「おっそ」
「ただいま帰りました」
朔夜は結の顔を見る。
「顔色悪い」
「そうでしょうか。朔夜様こそ、体調はいかがですか」
「聞いてんのはこっちだろ」
「……」
「何、その間」
結は答えない。
「また『いえ』かよ。『いえ』『承知しました』『申し訳ございません』。お前のボキャブラリー、それしかねぇのかよ」
苛立たしげな声。
けれど、足はその場から動かなかった。
結が帰ってきたことを、ただ確かめたかったのだ。
「別に……待ってたわけじゃねぇからな」
二時間以上、廊下で待っていたことを、乱れた靴下が物語っていた。
「……」
「おい、なんか言えって。黙って突っ立ってんの気味悪いんだけど」
「朔夜様、体調のこともありますし、そろそろお部屋に戻られては――」
「お前に言われなくても戻るっつの」
そう言いながら、動かない。
やがて朔夜は結の肩を軽く叩いた。
「夕飯、一緒に食え。命令」
それだけ言い残し、自室へ消えていった。
⸻
その日の夕食は二人きりだった。
広すぎるテーブルの端と端ではなく、朔夜はなぜか結を隣の席へ座らせた。
「お前さぁ、好きなもんとかあんの」
「特にないです」
「はぁ? ないわけないだろ。人間なんだから」
「……」
「じゃあ嫌いなもんは」
「ありません」
朔夜は肩を落とした。
「お前それ面接か?」
結は答えない。
朔夜は頬杖をつき、横顔をじっと見つめた。
「なぁ、お前って好き嫌いないんじゃなくて、興味がないだけだろ。自分に」
結は少し考えるようにして、
「……そうかも知れないですね」
「そうかも知れないって、他人事みてぇに……」
朔夜の指がテーブルを叩く。
こん、こん、と。
「お前、いつからそうなわけ」
「いつから……私はずっとこうですよ」
「ずっと?」
「はい」
「俺と会う前から?」
「はい」
朔夜はしばらく黙り込んだ。
「孤児院って、そんなとこなの」
「一概には言えません」
「じゃあ、お前んとこはどんなとこだったんだよ」
「朔夜様が気にするようなところではありません」
「またそれ」
声が低くなる。
「俺さ、ずっと思ってたんだけど」
朔夜は結を見た。
「お前って、俺のことなんだと思ってんの」
結は答えない。
「主人? 雇い主の息子? 世話しなきゃいけない病人のガキ?」
時計の秒針だけが、二人の間で時を刻んでいた。
「どれでもいいけどさ」
朔夜は一度、言葉を止める。
「俺はお前のこと――」
そのとき、携帯電話が震えた。
父親からの着信だった。
朔夜の表情が一瞬で硬くなる。
「……なに」
電話は短かった。
検査の日程。
体調管理。
手術。
必要なことだけを確認し、通話は十分もしないうちに終わった。
朔夜は携帯をテーブルへ投げる。
「あのクソ親父。電話くらいメールで済ませろよ」
立ち上がる。
「ごちそうさん。……お前もさっさと食えよ。残すなよ」
食堂を出ようとして、足を止めた。
振り返らないまま、
「……さっきの、なんでもない。忘れろ」
結は答えなかった。
⸻
その頃。
都心のオフィスビル最上階。
神代征一郎は、一枚の書類を手にしていた。
宮本結。
心臓の適合率。
血液型。
体格。
健康状態。
すべてが基準を満たしている。
征一郎は書類を眺め、低く呟いた。
「十七年か……」
その声に感慨はなかった。
ただ、予定通りに事が進んでいることを確認するだけだった。
ペンを走らせる。
承認。
それだけだった。
「孤児院側への最終送金、手配しておけ」
十四年前。
幼い結を「買った」金だった。
最後の残金が振り込まれれば、契約は終わる。
一人の少女の十七年間が、金額に換算されて消える。
征一郎はそれを見届けることなく、書類を秘書へ渡した。
⸻
夜。
朔夜は眠れずにいた。
暗い天井を見つめながら、食堂で言いかけた言葉を思い出す。
俺はお前のこと――。
続きが、自分でもわからなかった。
携帯を開く。
結へのメッセージ画面。
文字を打っては消す。
結局、送ったのは一言だけだった。
『明日もいろよ』
送ってから、自分でも意味がわからなくなった。
世話係なのだから、いるのが当たり前だ。
それでも、そう言うしかなかった。
しばらくして返信が届いた。
『もちろんです。』
朔夜は小さく息を吐いた。
そして携帯を胸元へ置く。
その一言だけで、ようやく眠れた。
⸻
十一月十四日。
手術前日。
朝から空はよく晴れていた。
「今日の検査だりぃ。毎回あのMRIってやつ、頭ぐわんぐわんなるんだよな」
「朔夜様の体調のためですよ」
「わかってるっつーの。説教すんな」
検査は滞りなく終わった。
採血。
MRI。
心エコー。
どれも異常なし。
「おー、終わった。異常なしだってさ」
「よかったです」
朔夜は得意げに笑った。
「当たり前だ。俺だぞ」
帰りの車の中。
「なぁ」
「はい」
「今日帰ったら庭に出ようぜ。天気いいらしいし」
「主治医の方と相談せねばなりませんよ」
「庭の散歩くらいいいだろ」
その願いは許された。
午後、二人は庭へ出た。
冬の光の中で、朔夜は一本の枯れ木を見つけた。
「なぁ、あの木。あれ何の木だっけ」
「桜です」
「へぇ」
朔夜は木へ近づき、幹に手を当てた。
「春になったら咲くかな」
「咲きますよ。来年は朔夜様、見られるといいですね」
朔夜の眉が動いた。
「見られるといいですね、って。見るに決まってんだろ」
結は何も言わない。
朔夜は桜の木を見上げた。
そして、
「お前も見るんだよ。一緒に」
結の返事は、ほんの少し遅れた。
「……はい」
その声は、風に消えそうなほど小さかった。
⸻
その夜。
食卓は穏やかだった。
朔夜はいつになく饒舌だった。
学校へ通っていたら何をしたかったか。
友達と馬鹿騒ぎしてみたかったこと。
文化祭。
恋人。
普通の高校生なら当たり前に過ごしていたはずの日々。
「文化祭とかさ、彼女とか作ってさ――」
笑いながら語る。
そして、ふと結を見る。
「お前は? やりたいこととかねぇの」
結は考えた。
「やりたいこと……」
それは、彼女にとってあまりにも遠い言葉だった。
「なんでしょう」
朔夜が吹き出した。
「なんでしょうって。自分のことだろ」
しばらく沈黙する。
「じゃあ質問変える。明日、なんか欲しいもんあるか」
結の心臓が、小さく鳴った。
明日。
それは、彼女のいない明日。
「いえ。特にありません」
「またそれか」
朔夜は呆れたように息を吐いた。
「わかった。じゃあ俺が勝手に決める」
何を決めたのか、朔夜は言わなかった。
夜。
二人は廊下の分かれ道で立ち止まった。
「明日さ、朝飯一緒に食おう」
「承知しました」
そして、結は一度だけ朔夜を見つめた。
「……朔夜様」
「何?」
「結はいつも朔夜様のおそばにおります。最期まで。おやすみなさいませ」
「最期まで」。
その言葉が、静かな廊下に落ちた。
けれど朔夜は、その意味に気づかなかった。
「……おう。おやすみ」
耳だけが赤かった。
朔夜はそれを隠すように、自室へ戻っていった。
扉が閉まる。
結は一人、廊下に残った。
「最期まで」
それは嘘ではない。
ただし――
彼女がそばにいるのは、心臓だけだった。
⸻
十一月十五日。
午前五時四十五分。
屋敷はまだ眠っていた。
結は静かに身支度を整えた。
鏡の中の自分は、驚くほど穏やかな顔をしている。
いつもと同じ顔。
それを作ることに、もう迷いはなかった。
キッチンへ向かう。
約束がある。
朝食を一緒に食べる。
卵を焼き、パンを焼く。
二人分。
そこへ、眠そうな朔夜が現れた。
「ん……お前、もう起きてんのか」
「おはようございます。朔夜様、誕生日おめでとうございます」
「はよ……今日誕生日か」
朔夜は椅子に座り、テーブルへ突っ伏した。
「昨日の約束、覚えてたか」
「はい。もちろんです」
朝食を並べる。
二人で向かい合って食べる。
それが最後の朝食になることを、朔夜は知らない。
時計の針が進んでいく。
午前八時半。
あと三十分。
玄関には、黒塗りの車が待っていた。
結を迎えるための車。
表向きは、ただの定期検診。
朔夜が結を見た。
「なんか今日、お前いつもより静かじゃね?」
「そうですか? いつもこのような感じですよ」
「……まぁいいけど」
結は立ち上がった。
「……朔夜様。一つお願いがあります」
「は? お前が?」
朔夜は目を丸くする。
「何。言ってみろよ」
結は少しだけ息を吸った。
「結と呼んでください」
「……は?」
今まで「お前」か「おい」で済んできた。
名前で呼ぶことなど、ほとんどなかった。
朔夜は目を逸らした。
耳が赤い。
「いや、別にいいけど……何で急に」
「……特に、理由はございません」
「変なやつ……」
時計が八時五十分を指した。
そして。
「……結」
ほとんど聞こえないほど、小さな声だった。
結は微笑んだ。
ほんの一瞬だけ。
「ありがとうございます」
そして、玄関へ向かう。
振り返る。
「……朔夜様。昨日私が言ったこと、忘れないでくださいね」
「……おう」
結は出ていった。
扉が閉まる。
その背中を、朔夜は何気なく見送った。
「最期まで」。
その言葉の意味を、最後まで取り違えたまま。
⸻
車は静かに走り出した。
窓の外で、見慣れた街が流れていく。
やがて車は、一般患者が使う正面玄関ではなく、人気のない裏口へ入った。
そこで待っていたのは、神代征一郎だった。
「時間通りだ」
「はい、旦那様」
一拍。
「……行こう」
地下へ続くエレベーター。
白い廊下。
人の気配は少ない。
手術室の前にはストレッチャーが用意されていた。
途中で征一郎が足を止める。
「ここからはお前一人だ」
結は深く頭を下げた。
「今までお世話になりました」
征一郎は振り返らなかった。
「……感謝する」
それだけ言い残し、歩いていく。
結はその背中を見送った。
そして、手術室へ向かった。
点滴の針が腕に入る。
透明な液体が、ゆっくりと身体の中へ流れ込んでいく。
「すぐに終わりますからね」
医師の声。
結は静かに目を閉じた。
意識が薄れていく。
瞼の裏に、いくつもの記憶が浮かんでは消える。
孤児院。
冷たい部屋。
十四年前、差し出された手。
黒い髪。
少し怒ったような顔。
耳まで赤くなった横顔。
そして――
「結」
名前を呼ぶ声。
桜を見る約束。
それだけだった。
やがて、すべてが暗闇に溶けた。
⸻
同じ頃。
神代邸。
朔夜は時計を見ていた。
「……遅せぇな、検診」
携帯を開く。
メッセージを打とうとして、やめる。
何を送ればいい。
「何時に終わる」では催促のようだ。
「帰ってこい」では、あまりにも素直すぎる。
結局、携帯を伏せた。
テレビをつける。
数秒で消す。
窓辺へ行く。
庭を見る。
誰もいない。
「……結」
名前を呼んでみる。
それだけで、胸の奥が妙にざわついた。
その頃。
別の病棟では、朔夜への心臓移植手術が始まろうとしていた。
父親から電話が入る。
「朔夜か。お前に心臓のドナーが見つかった」
「え……まじで? いつ? 誰?」
「詳細はまだ伝えられん。だが手術は成功する。お前は助かる」
「助かるって……じゃあ外出れんの? 学校とか行けんのか?」
「ああ。普通に生活が送れるようになる」
朔夜の顔が輝いた。
「っし――!」
普通の生活。
それは、彼にとって夢そのものだった。
「なぁ親父。ドナーって誰なんだよ。礼くらい言いてぇんだけど」
沈黙。
「……それは、手術が終わってから伝える」
「なんだよそれ」
「今は手術のことに集中しろ」
「わかったよ……」
少し黙ってから。
「なぁ親父」
「なんだ」
「俺、生きれんだな」
「ああ」
通話が切れた。
朔夜は胸へ手を当てた。
「結にも教えてやらねぇと」
そこで言葉が止まる。
きっと結なら、いつもの顔で「よかったです」と言う。
それでいい。
それがいい。
朔夜はベッド脇の小箱を開いた。
中には、小さな桜のヘアピンが入っている。
結に渡すつもりだった。
今日。
十八歳の誕生日に。
「……まだ渡せるよな」
そう呟いた。
⸻
手術室。
結の胸が開かれる。
十七年間、彼女の身体を守ってきた心臓が、静かに取り出される。
保存容器へ収められた心臓は、しばらくの間、微かに脈打っていた。
そして。
その心臓が、朔夜の胸の中へ移される。
手術開始から数時間。
モニターの波形が乱れた。
一瞬の静寂。
そして――
どくん。
新しい心臓が、初めて力強く拍動した。
どくん。
どくん。
執刀医が息を吐く。
「成功です」
それは、朔夜にとって生の始まりだった。
同時に。
結にとっては、終わりだった。
⸻
三日後。
朔夜は一般病室へ移された。
術後の経過は驚くほど良好だった。
胸に手を当てる。
どくん。
どくん。
以前とは違う。
強く、迷いなく、生命そのもののように鳴っている。
「……すげぇな、お前のドナー」
そのとき、病室の扉が開いた。
征一郎だった。
「起きていたか」
「なんだ親父か。結かと思ったのに……」
征一郎の手には、一通の封筒があった。
「ドナーの件だ」
朔夜の顔が明るくなる。
「誰だったんだよ」
「お前も知っている人間だ」
「は? なんだよそれ。勿体ぶんなよ」
征一郎は一度だけ目を伏せた。
「宮本結だ」
時間が止まったようだった。
朔夜の顔から、表情が消える。
「……何、言って」
「お前の世話係として引き取った子だ。あの子がドナーだった」
「待てよ」
声が震えた。
「待てって。じゃあ結は――あいつはどこにいるんだよ」
「来られない」
「なんで」
征一郎は答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「ドナー提供後、彼女は――」
一度、言葉が途切れる。
「亡くなった」
朔夜の呼吸が止まった。
「……嘘だろ」
「その心臓は、宮本結のものだ」
胸の奥で、心臓が強く鳴った。
どくん。
どくん。
その音が、残酷なほど鮮明だった。
「嘘だろ……」
「朔夜」
「嘘だって言えよ!」
モニターがけたたましく鳴り始める。
看護師が駆け込んできた。
けれど朔夜の耳には、何も届かなかった。
「あいつ……最期って……」
――いつも朔夜様のおそばにおります。最期まで。
その意味が、今になってすべて繋がった。
「……最期までって、そういう意味だったのかよ」
涙が落ちた。
止まらなかった。
「なんで……」
征一郎は何も言わない。
朔夜は封筒を奪い取るように掴んだ。
中には、一枚の便箋が入っていた。
見覚えのある筆跡。
少し右へ傾いた、結の文字。
震える指で、紙を開く。
そこには、こう書かれていた。
――朔夜様。
このお手紙を読んでいるということは、私はもうそばにいないのですね。
どうか泣かないでください。
怒らないでください。
これは私が自分で選んだことです。
誰に強制されたわけでもありません。
ただ一つだけ、わがままを言わせてください。
桜が咲いたら、見てください。
一緒に見られなかったのが、少しだけ心残りです。
どうか、どうかお幸せに。
宮本結。
紙に涙が落ちる。
文字が滲む。
「ふざけんな……」
朔夜の声は、子供のように震えていた。
「『自分で選んだ』って……お前に選べるわけねぇだろ……」
征一郎を睨む。
「お前、知ってたんだろ」
征一郎は否定しなかった。
「最初っから全部……!」
「……恨めなら恨め」
朔夜は枕を投げつけた。
「出てけよ!!」
征一郎は何も言わず、病室を出ていった。
扉が閉まる。
その瞬間。
朔夜は声を上げて泣いた。
誰の目も気にせず。
胸を押さえながら。
「うるせぇよ……」
そこにある心臓は、何も答えない。
ただ、生きろと言うように。
強く。
強く。
鼓動を続けていた。
⸻
それから三週間。
朔夜の回復は驚異的だった。
医師たちが目を疑うほど、身体は順調に力を取り戻していった。
けれど、彼は毎日のように屋敷へ帰りたがった。
「家に帰る」
そう繰り返すだけだった。
結がいた場所へ帰りたい。
その言葉だけは、口にしなかった。
⸻
十二月十日。
退院した朔夜を迎えたのは、綺麗に片付けられた結の部屋だった。
机も。
クローゼットも。
何もない。
けれど、キッチンカウンターの端には、あのマグカップだけが残されていた。
朔夜はそれを手に取った。
指先で縁をなぞる。
そこに、まだ結の温もりが残っているような気がした。
もちろん、そんなはずはない。
それでも、手放せなかった。
自室へ戻る。
ドレッサーを開く。
小箱の中には、あの日渡せなかった桜のヘアピン。
朔夜はそれを掌に載せた。
窓の外を見る。
冬枯れの庭。
枝だけになった桜の木。
窓を開ける。
冷たい風が吹き込んだ。
「……見てるか」
返事はない。
当たり前だ。
風の音だけがする。
朔夜はヘアピンを胸ポケットへしまった。
「桜。見てやってんだから、約束守ったぞ」
雪がちらついていた。
白い粉雪が、静かに庭へ落ちていく。
「……来年、咲いたらまた見る」
一度だけ言葉を切る。
「再来年も。その次も」
胸の奥で、心臓が鳴った。
どくん。
朔夜は自分の胸へ手を当てる。
「お前さ……こんな寒い中でもちゃんと動いてんだな」
小さく笑った。
「すげぇよ」
もう一度、心臓が鳴る。
どくん。
まるで返事のように。
「……生意気な心臓」
カーテンが風に揺れた。
ポケットの中で、桜のヘアピンが小さく鳴った。
⸻
それからの日々は、ゆっくりと過ぎていった。
一月。
二月。
最初は庭を歩くだけだった。
やがて近所のコンビニまで行けるようになった。
三月には駅前まで足を伸ばした。
そして四月。
桜が咲いた。
朔夜は庭の縁側に座っていた。
隣には誰もいない。
けれど、湯呑みは二つ。
一つは自分のもの。
もう一つは、空のまま。
風に乗って、一枚の花弁が空の湯呑みに落ちた。
朔夜はそれを見つめた。
「ほら、来たぞ」
桜が風に揺れる。
花びらが舞う。
「……約束、守ったからな」
胸元へ手を当てる。
「今日のお前、ちょっとうるさいな」
心拍数が少し上がっている。
医学的には何の問題もない。
それでも朔夜にはわかっていた。
きっと、こいつは喜んでいる。
「花見したかったのかよ」
少し笑う。
「しょうがねぇな」
空の湯呑みに、また花びらが一枚落ちた。
朔夜はそれを見つめていた。
⸻
五年が経った。
二十二歳になった朔夜は、もうかつての病弱な少年ではなかった。
大学へ通い、友人もできた。
身体も大きくなった。
かつての刺々しさは少しずつ薄れ、人の気持ちを考えられる青年になっていた。
けれど、一つだけ変わらないものがあった。
毎年四月。
桜の下に、湯呑みを二つ並べること。
七回目の春。
その日も朔夜は、桜を見上げていた。
スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを緩める。
缶コーヒーを二本取り出した。
「今年は酒にしようかと思ったけど、お前未成年だったわ」
隣へ一本置く。
返事はない。
けれど、それにももう慣れていた。
「就職決まった」
桜が風に揺れる。
「来年から研修医。……笑えるだろ」
朔夜は缶を傾けた。
「心臓に人生めちゃくちゃにされた奴が、心臓治す側になるんだぜ」
少しだけ笑う。
「お前みたいなドナーを、もう出さなくていい世の中にしたい」
そこで言葉を止める。
「……なんて言ったら怒るか?」
風が吹いた。
「おこがましいって」
朔夜は苦笑する。
「だよな」
少し間を置いて、
「お前なら、『朔夜様がそうしたいなら』って言うだけだろ」
返事の代わりに、桜が揺れた。
花びらが一枚、肩へ落ちる。
朔夜はそれを拾った。
その瞬間。
隣に置いた缶の表面に、光が反射した。
結露した水滴が、偶然にも桜の花のような形を作っている。
ほんの一瞬。
風が吹く。
水滴が崩れ、消えた。
「……」
朔夜はしばらく黙っていた。
科学的に説明できる。
光の加減。
水滴の流れ。
偶然。
全部、わかっている。
それでも。
朔夜の目には、涙が滲んだ。
「……そっか」
それだけ呟く。
そして、空を見上げる。
そこには満開の桜があった。
淡い花びらが、春の青へ溶けていく。
その笑顔は、かつての朔夜にはできなかったものだった。
十七歳の少年だった頃には知らなかった。
誰かを失う痛みも。
誰かに生かされる意味も。
誰かの人生を背負って生きるということも。
全部を抱えたまま、それでも前へ進むということも。
朔夜は胸に手を当てる。
どくん。
どくん。
そこには、今も結の心臓がある。
七年前と変わらない。
静かで、強い鼓動。
「来年もまた来るからな」
桜を見上げる。
「逃げんなよ」
返事はない。
けれど、もう寂しくはなかった。
春は毎年やってくる。
桜は何度でも咲く。
失われた時間を取り戻すことはできない。
あの日の朝へ戻ることもできない。
結を連れて、もう一度春を見ることもできない。
それでも。
彼女がくれた心臓は、今も朔夜の胸の中で生きている。
どれだけ季節が巡っても。
どれだけ年月が過ぎても。
春が来るたび、朔夜は思い出す。
あの少女のことを。
笑わなかった少女。
自分の好きなものさえ知らなかった少女。
最後まで、自分のことを後回しにした少女。
そして。
最後の最後に、一つだけわがままを言った少女。
――桜が咲いたら、見てください。
朔夜は目を細める。
満開の桜が、風に揺れている。
花びらが舞う。
その向こうに、一瞬だけ。
誰かの姿が見えた気がした。
けれど、瞬きをすればそこには誰もいない。
ただ春の光だけがある。
朔夜は笑った。
「……ちゃんと見てるからな」
胸の奥で、心臓が一つ、大きく鳴った。
どくん。
まるで、それが返事だったように。
――君の春に、私はいない。
それでも。
君が生きていく春には、
きっと、ずっと。
私の心臓がいる。
桜はただ静かに咲いていた。
毎年。
毎年。
何度でも。
――了。
コメント
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もう、読み終わってしばらく動けなかった……。 「結」という名前がこんなに切なく響く作品、初めてです。一番心に残ったのは、最後の朝食のあと、朔夜が「結」と呼んだ瞬間の彼女の微笑み。あの一瞬だけの笑顔が、全編を通しての彼女のすべてを語ってる気がしました。五年後の桜の下で「今日のお前、ちょっとうるさいな」って自分の心臓に話しかける朔夜のシーン、涙が止まらなかったです。構造としても、最初の「一生じゃん」という台詞が最後に違う重みで返ってくる仕掛けが美しすぎる……。