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窓の外に広がる夕焼けの空を見つめながら、マリー院長は静かに語り始めた。
「十数年前だわ」
院長の声は柔らかいが、その瞳には深い悲しみが宿って見える。
「魔物の大群がこの街に押し寄せてきたの。その時、私も召集されてね、城壁の上から魔法での援護を命令されたわ」
俺は息を呑んだ。
「それは……知りませんでした」
「あなたがまだ赤ちゃんの頃の話だからね。それで、私は襲い来るオーガやワーウルフにァイヤーボールをポンポン撃ってたわ。魔力が尽きたらポーションでチャージしてまたポンポンと……」
俺はじっと聞き入った。院長の言葉一つ一つに、当時の熱気と緊張感が蘇ってくるようだった。
「もう大活躍よ。城壁から一方的に撃ちおろすファイヤーボール……、多くの魔物を焼いたわ。もう、私が戦況を支配していたの。司令官はもっと慎重にやれって指示してきたけど、大活躍してるんだからと無視したの。天狗になってたのよね……」
院長の声に、かすかな後悔の色が混じる。俺は黙って頷いた。
「そして……、特大のファイヤーボールを放とうとした瞬間、矢が飛んできて……、肩に当たったわ。倒れながら放たれた特大の火の玉……どうなったと思う?」
「え? どうなったんですか?」
院長の涙の光る眼に俺は気おされる。
「街の中の……、木造の住宅密集地に……落ちたわ……」
部屋の空気が凍りついた。
俺は言葉を失い、ただ院長の悲しみに満ちた表情を見つめることしかできない。
「多くの人が亡くなって……しまったの……」
重い沈黙が流れる。
必死に言葉を探したが、こんな時にかける言葉を俺は知らなかった。
院長はハンカチで目頭を押さえながら、静かに続ける。
「魔物との戦いには勝ったし、矢を受けたうえでの事故だから不問にされ、表彰され、二つ名ももらったわ……。でも……、調子に乗って多くの人を殺した事実は、私には耐えられなかったのよ」
その言葉に、俺は胸がキュッと痛んだ。院長の苦しみが、まるで自分のことのように感じられる。
「その事故で身寄りを失った子がここに入るって聞いて、私は魔術師を引退してここで働き始めたの……。せめてもの罪滅ぼしに……」
長い沈黙が流れた。
俺は必死に言葉を探し、ようやく口を開く。
「で、でも、院長の活躍があったから街は守られたんですよね?」
俺の声は上ずってしまっていた。
「そうかもしれないわ。でも、人を殺した後悔って理屈じゃないのよ。心が耐えられないの」
院長の言葉には重い十字架を背負ってしまった者の重みがあった。
俺は言葉を失い、静かに首を振る。
「いい、ユータ君?」
院長の声が真剣さを増す。
「魔法は便利よ、そして強力。でも、『大いなる力は大いなる責任を伴う』のよ。強すぎる力は必ずいつか悲劇を生むわ。それでも魔法を習いたいかしら?」
院長の鋭い眼差しがユータを捉える。
俺はその重さに耐えかねて静かにうつむいた。
これまで「強くなればなるほどいい」と単純に考えてきたが、今、その考えが揺らいでいる。
鑑定スキルだけでも十分な生活ができるはず。なぜ、もっと強くなりたいのか?
「教えるのは構わないの。あなたには素質があるわ。あなたの中で尋常じゃない魔力が渦巻いているのを感じられるの。でも……、悲劇を受け入れる覚悟はあるかってことなのよ」
院長の心のこもった言葉が、静かに響く。
目をつぶり、俺は前世を振り返る。思い返せば俺はそこそこいい大学に合格してしまったことで慢心し、世の中を甘く見てしまった。結果、就活に失敗し、人生転落して無様に死んでいったのだ。
人は常に向上心を持ち、挑戦をし続けない限りダメな生き物である。『これでいいや』と、思った瞬間、悲劇の種は蒔かれてしまうのだ。
つまり、行くも悲劇、現状に甘えるのも悲劇なのだ。
であれば――――。
前に進む事を止めてはならない。それが俺の結論だった。
目を開けると、俺は強い決意を込め、答える。
「僕は、やらない後悔よりも、やった上での後悔を選びたいと思います!」
「そう……。覚悟があるなら……いいわよ」
院長はほほ笑みながらゆっくりとうなずいた。
「忠告を聞かずにすみません。でも、この人生、できること全部やって死にたいのです」
俺はグッとこぶしを握り、院長の目をまっすぐに見つめた。
ふぅ……。
院長は大きく息をつく――――。
「それじゃ、ビシビシしごくわよ!」
院長の表情が一変し、鋭い眼差しで俺を貫いた。
その見たこともない院長の激しい視線に気おされ、俺は思わずのけぞってしまう。
「わ、わかりました。お願いします」
こうして、ユータの新たな挑戦が始まったのだ。夜の孤児院では一室の灯りだけが、遅くまで消えることはなかった。
21. 世界最強
鬼のしごきを受け続けること半年――――。
ユータの体と心に、魔法の知識と技が深く刻み込まれていった。毎晩のしごきに耐え、ファイヤーボールを操り、空を自由に飛ぶ力を手に入れた彼の胸には、院長への感謝の念が溢れていた。
そして、日々上昇を続けるレベルは、ついに二百を超えていた。一般人でレベル百を超える者がほとんどいない中、その倍以上。人間としてはトップクラスの強さを持つ存在となっていたのだ。
翌日の早朝、俺は静かに孤児院を抜け出した。まだ薄暗い朝もやにけぶる空へと飛び立つ。人里離れた場所で、院長にも見せていない初めての全力の魔力を解放しようと心に決めていたのだ。
隠蔽魔法をかけ、街の上空にふわりと飛びあがる――――。
墜ちたら死んでしまう高さ。最初は恐怖に震えていたが、徐々に慣れ、速度を上げていく。朝もやの中、孤児院や街の建物がどんどん小さくなっていった。
冷たい朝のもやをかき分け、俺はさらに高度を上げていく――――。
もやを抜けた瞬間、ぶわっと目の前に広がった光景に思わず息を呑んだ。
真っ赤に輝く朝日。ぽつぽつと浮かぶ雲が赤く染まり、その影が光の筋を放射状に放つ。まるで映画のワンシーンのような幻想的な風景が広がっていた。
「うわぁ……、綺麗……」
神々しく輝く真紅の太陽に、思わずブルっと震えてしまう。
前世では部屋に引きこもり、無様な最期を迎えた自分。そんな自分が今、新しい人生を手に入れ、空を自由に飛び、この息を呑むような美しさを独り占めにしている。胸が熱くなり、頬を一筋の涙が伝った。
工夫と根性でつかみ取ったこの景色。きっと一生忘れることはないだろう。
俺は真っ赤な太陽に向かって腕を伸ばし、その光芒をキュッとつかむ。
「今度こそ、絶対成功してやる……」
人類最高峰の力を手に入れたのだ。絶対、幸せをつかみ取る。その決意が、俺の心に強く響く。
「ヨシ! 行くぞ!」
俺は初めて全魔力を解放する。碧い光が俺の身体を包み、ものすごい加速を生み出した。
うぉぉぉぉ!
ほとばしる碧い閃光の中、まるでジェット機のように俺は朝の光の中をすっ飛んでいく。
ヒャッハー!!
これが人類最速の飛行魔法なのだ。周りの風景がどんどん後ろへと飛んでいく。そのものすごい世界に俺は思わずガッツポーズ。
と、その時、ピロローン! と、レベルアップの音が頭に響く。
こんな時にでもレベルアップしてしまうのだ。
うはははは!
さらに増していく速度。おれは有頂天になってクルクルとバレルロールを舞った。
◇
しばらく飛んでいくと海岸線に出た。碧い水平線がゆったりと弧を描いている――――。
この世界では初めての海。漂ってくる潮の匂いに前世を思い出し、少し感傷的になってしまう。
海の上をしばらく行くと岩礁が見えた。海から突き出ている大きな岩だ。
俺はそこに向かって高度を落としていく。
ゴツゴツとした黒い岩、周りには海しか見えない。ここなら、誰にも迷惑をかけずに魔法の力を試せるはずだ。
「いっちょやってみっか!」
俺は大きく深呼吸をし、目を閉じる――――。
院長から教わった通り、意識を心の底へと沈めていく。やがて、魔力のさざめきが感じられた。その一端に意識を集中させ、右腕へとグイーンとつなげる。
出力は最大。全魔力を右腕に集中させていく――――。
「うぉぉぉぉぉ! ファイヤーボール!」
カッと目を見開き俺は叫んだ。刹那、手のひらで渦巻く炎のエネルギーが巨大な火の玉となって海面へと飛んでいった。
轟音と共に海面が大爆発を起こす。激しい閃光に続いて海面を同心円状に走る衝撃波が、ユータの小さな体を襲った。
「ぐわぁ!」
海面が沸騰し、霧のように立ち込める湯気。ショックで浮かび上がる魚たち。灼熱の赤いキノコ雲がゆったりと上空へと舞い上がっていく。その光景に、俺は言葉を失った。
院長の言葉が、頭の中で反響する。
『大いなる力は大いなる責任を伴う』
ゾッとする感覚が背筋を走る。自分がすでに、核兵器並みの危険な存在になっていることに気づいたのだ。
「こんな力、誰にも知られちゃいけない」
俺は静かに誓った。人前では決して魔法を使わないと。
『商人』という職業でも、ここまで強力な魔法が使えることに驚く。MPや魔力、知力の伸びは低いものの、パラメーターに即した威力は十分に出ているようだった。同レベルの魔術師には及ばないが、レベルの低い魔術師になら勝てるのだ。
そして、レベル百に達している魔術師がほとんどいない状況では、レベル二百の商人である俺はすでに世界最強の魔術師かもしれない。
水平線を眺めながら、俺は深く考え込んだ。世界最大の責任を背負うことが、一体何をもたらすのか――――。
海風が、ユータの髪を優しくなでる。その小さな体に、世界を変える可能性と、計り知れない責任が宿っていた。
ユータの冒険は、新たな段階に入ろうとしていた。
22. 危険な火遊び
三年の歳月が流れ、ユータは十四歳になっていた。孤児院の傍に借りた工房は新たな活動拠点となり、日々商売に精を出す。
評判が評判を呼び、武器を求める客が列をなす日々。かつての孤児院の倉庫では手狭になった彼の事業は、着実に成長を遂げていた。
孤児院への寄付は続けながらも、ユータの財は膨れ上がっていく。経理や顧客対応に追われ、一人では手に負えなくなりつつあった。
一方で、経験値の上昇は留まることを知らない。数千本に及ぶ武器が各地の冒険者たちの手に渡り、使用される度に彼に経験値が還元される。レベルアップの頻度こそ落ちたものの、数日に一度は確実に上がり続け、すでに八百を超えていた。一般の冒険者の十倍以上のステータス。その力は、もはや人知を超えつつあった。
コンコン!
扉を叩く音が響いた――――。
剣の柄を取り付ける作業に没頭していたユータは返事をする。
「ハーイ! どうぞ~」
振り返ると、そこには銀髪の少女、いや、もう若い女性と呼ぶべきドロシーの姿があった。十六歳になった彼女は、少女の面影を残しつつも、大人の女性への変貌を遂げつつある。
「ふぅん、ここがユータの工房なのね……」
ドロシーの澄んだ声が、工房内に響く。
「あれ? ドロシーどうしたの?」
俺は少し驚いて尋ねた。最近はめっきり会う機会も減っていたのだ。
「ちょっと……、前を通ったらユータが見えたので……」
ドロシーの言葉には、何か言い淀むような雰囲気があった。
「今、お茶でも入れるよ」
俺がが立ち上がると、ドロシーは慌てたように言った。
「いいのいいの、おかまいなく。本当に通りがかっただけ。もう行かないと……」
「あら、残念。どこ行くの?」
俺は、綺麗におめかししたドロシーの姿に目を奪われながら尋ねた。透き通るような白い肌、大人の女性への変化を感じさせる佇まい――――。
「『銀の子羊亭』、これから面接なの……」
さらりと流れるような銀髪を揺らすドロシーの言葉に、俺はモヤっとするのを感じた。
「えっ……、そこ、大人の……、ちょっと出会いカフェ的なお店じゃなかった?」
以前聞いた悪い噂を思い出して、俺は眉をひそめた。
「知ってるわ。でも、お給料いいのよ」
ドロシーはニヤリと笑う。
俺はブンブンと首を振った。
「いやいやいや、俺はお勧めしないよ。院長はなんて言ってるの?」
「院長に言ったら反対されるにきまってるじゃない! ちょっと秘密の偵察!」
ドロシーの目は、いたずらっ子のように輝いていた。
俺はなんとか引き留めようとかける言葉を必死に考える――――。
しかし、どんな言葉もドロシーの心には響きそうになかった。
何しろ自分はドロシーの後輩でしかない。踏み込んだことを言う権利など何もない。
「ユータは行った事ある?」
お気楽なドロシーの質問に、俺は慌てて否定する。
「な、ないよ! 俺まだ十四歳だよ?」
ドロシーは真剣な表情で語り始めた。
「あのね、ユータ……。私はいろんな事知りたいの。ちょっと危ないお店で何が行われてるかなんて、実際に見ないと分からないわ!」
ユータは思わず宙を仰いだ。若い子の火遊びは時に取り返しのつかない悲劇を生む。しかし、自分には止める権利もない。
「その好奇心、心配だなぁ……」
俺はため息をついて肩を落とした。
「では、また今度報告するねっ! バイバイ!」
そう言いながら楽しそうにドロシーは出て行った。
その後ろ姿を見送りながら俺は不安で押しつぶされそうになる。あの日、襲われてたドロシーの姿がフラッシュバックしてしまう。
「ダメだ! 俺が守らないと!!」
俺は決意を固め、慌てて棚から魔法の小辞典を取り出す。急いで『変装魔法』のページを開き、その呪文を必死に暗記した。
「アブローラ、ケセン、ハゴン……何だっけ?」
何度も杖を振り、失敗を繰り返しながら、俺はついにヒゲを生やした三十代の男性に変装することに成功した。
鏡に映る見知らぬ男の顔。
「んー、いいんじゃない?」
俺はニヤッと笑った。
◇
夕暮れの街に、変装したユータが足を踏み出す。幼なじみを守るという使命感と、未知の世界への不安が入り混じる中、彼の新たな冒険が始まろうとしていた。
賑やかな石畳の通りを抜け、俺は少し怪しげな雰囲気の小径に足を踏み入れた。すでに夜の帷は降り、艶やかなネオンサインがチラチラ輝いている。
露出の多いドレスを着た女性たちの声が耳に飛び込んでくる。
「おにーさん、寄ってかない?」
「銀貨一枚でどう?」
俺は硬い表情のまま、目的地へと歩を進める。やがて『銀の子羊亭』の看板が見えてきた。
『銀貨一枚ポッキリ!』という意味不明な煽り文句に嫌な予感がぬぐえない。
扉の前で立ち止まった俺は、深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、覚悟を決めてグッと扉を開いた。
店内に足を踏み入れた瞬間、甘い香りと喧騒に包まれる。前世を含め、この手の店に来たことの無かった俺は、全くのアウェイに踏みこんでしまったことにキュッと口を結んだ。
23. イイ事しましょ
「いらっしゃいませ~!」
可愛らしい女の子が笑顔で迎えてくれる。
「今日はフリーですか?」
その質問に、俺は戸惑いを隠せない。何かの符丁だろうか?
「え? フ、フリー……というのは……?」
「お目当ての女の子がいるかどうかよ。おにーさん初めてかしら?」
赤いドレスを揺らしながら顔を覗き込んでくる。その大胆な仕草に、俺は思わず言葉を詰まらせる。
「そ、そうです。初めてです」
「ふふっ、ついてらっしゃい……」
意味深な笑みを浮かべながら俺を誘う女の子。俺はとんでもないところに来てしまったかもしれない。
奥のテーブルに案内され、俺は戸惑いながらもエールを注文した。店内に元気な声が響く中、俺の緊張は高まるばかりだった。
そして、女の子の次の言葉に、ユータは凍りついた。
「おにーさんなら二枚でいいわ……。どう?」
にこやかに笑いながら彼女の手が、そっと俺の手を取る。俺はその柔らかさにドキッとしてしまう。
「に、二枚って……?」
「ふふっ、銀貨二枚で私とイイ事しましょ、ってことよ!」
耳元でささやかれた言葉に、俺は言葉を失った。
鼻をくすぐる華やかな香り――――。
頭の中が真っ白になった。こんなに簡単に可愛い女の子と……?
俺の中で、様々な感情が渦巻いた。驚き、戸惑い、そして魅了されていく心……。
(待て待て待て待て……)
何とか自分を取り戻す。
自分がここにいる理由を思い出せ。ドロシーを守るためだ。俺はブンブンと首を振って何とか誘惑に抗おうとした。
「あら、私じゃ……ダメ?」
女の子の声がここぞとばかりに甘く響く。腕に押し付けられてくる豊かなふくらみに俺はクラクラしてしまう。
「ダ、ダメなんかじゃないよ。君みたいな可愛い女の子にそんな事言われるなんて、ちょっと驚いちゃっただけ」
何とか冷静さを取り戻そうとする俺に、女の子はニッコリと微笑んだ。
「うふふ、お上手ね」
その時だった――――。
「イヤッ! 困ります!」
ドロシーの声が店内に響き、俺はハッとして慌てて立ち上がる。
赤いワンピース姿のドロシーが、男と揉めている光景が目に入った。すかさず俺は男を鑑定する。
レナルド・バランド 男爵家次期当主
貴族 レベル26
裏カジノ『ミシェル』オーナー
貴族。特権階級。俺は宙を仰いだ――――。
絶対王政のこの国では貴族は平民には逆らえない存在だった。貴族侮辱罪にでもなれば死刑である。
「なんだよ! 俺は客だぞ! 金払うって言ってるじゃねーか!」
バランドの怒鳴り声が店内に響く。ドロシーは必死に抵抗しているが、男の威圧的な態度に押されている。
俺はテーブルたちをひとっ飛び、すかさずドロシーの元へ駆け寄ると耳元でささやいた。
「ユータだよ。俺に合わせて」
「え……?」
どういうことか分からず、混乱しているドロシーを後ろにかばい、バランドに対峙した。
「バランド様、この娘はすでに私と遊ぶ約束をしているのです。申し訳ありません」
俺はうやうやしく胸に手を当てて頭を下げる。
突然の介入に、バランドの怒りが爆発した。
「何言ってるんだ! この女は俺がヤるんだよ!」
ユータはニッコリと笑いながら極力丁寧に対応する。
力技で逃げてしまうことも考えたが、ドロシーの顔を覚えられているのだ。ことを起こすのは避けたかった。
「可愛い女の子他にもたくさんいるじゃないですか」
しかし、バランドの怒りは収まらない。
「なんだ貴様は! 平民の分際で!」
そして、突然のパンチがユータに向かって飛んでくる。
その瞬間、時が止まったかのように、俺の頭の中で様々な思考が駆け巡る。避けるか、逃げるか、倒すか、それとも……。
レベル二十六のバランドの渾身の一撃が、ユータの頬を直撃する――――。
「ぐわぁぁ!」
悲痛な叫びが店内に響き渡る。バランドは痛みに顔を歪め、傷ついた拳を胸に抱え込む。
レベル八百を超えるユータの防御力補正は異常だった。ユータは何もしないのにバランドの拳が砕けたのだ。
「き、貴様……何をやった! 貴族にケガをさせるなど……」
真っ赤になって喚くバランドに近づき、俺は耳元でささやいた。
「裏カジノ『ミシェル』のことをお父様にお話ししてもよろしいですか?」
その言葉に、バランドの顔から血の気が引いた。
(ビンゴ!)
さっきステータスで出ていた情報を使って、カマをかけたら正解だったようだ。マトモな貴族は裏カジノなどやらない。やるとしたら父親に秘密にやっているだろうと踏んだのだ。
「な、なぜお前がそれを知っている!」
恐怖に満ちた目でユータを見つめるバランド。
「もし……、彼女から手を引いていただければ『ミシェル』の事は口外いたしません。でも……、少しでも彼女にちょっかいを出すようであれば……」
俺はレベル八百の気迫を目に込めバランドを威圧した。
もはやヘビににらまれたカエル状態のバランド。
「わ、分かった! もういい。女は君に譲ろう。痛たたた……」
痛みに耐えながら、バランドは逃げるように店を出て行った。
24. 朝まで……
俺は大きく息を吐いた。緊張の糸が切れ、安堵感が全身を包み込む。隣には、うつむいたままのドロシー。彼女の小さな手が、俺のジャケットの袖口をキュッと掴んでいた。
「ドロシー、もう十分だろ、帰るよ」
ドロシーの耳元で囁く。
無言でうなずくドロシーの姿に、俺は胸が痛んだ。
店主が青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「え? どうなったんですか? 困りますよトラブルは……」
俺は落ち着いた様子で微笑み、金貨三枚を店主の手に握らせた。
「バランド様にはご理解いただきました。お騒がせして申し訳ありません」
金貨の輝きに、店主の目が見開かれる。
「えっ!? こ、こんだけいただければもう……。ど、どうぞ、彼女と朝までお楽しみください!」
「うん、朝までね」
俺はニヤリと笑った。
ドロシーの手を優しく引き、二人で静かに店を後にした。夜の街に出ると、冷たい風が頬を撫でる。
空を見上げれば、星々が二人を見守るかのように輝いていた。
「ユータ、私……」
ドロシーの声が震えている。
「大丈夫だよ」
俺は優しく彼女の手を両手で包んだ。
「もう安全だ」
ドロシーはコクリと静かにうなずいた。
冷たい夜風が二人の頬を優しく撫でる中、ユータとドロシーはゆっくりと歩を進めていた。街灯に照らされた石畳の道は、二人の影を長く伸ばしている。
「少し……肌寒いね……」
「うん……」
賑やかな声が溢れている繁華街で、二人の間には静かな空気が流れていた。
「ユータにまた助けてもらっちゃった……」
ドロシーの声は小さく、申し訳なさそうに首をかしげる。
「無事でよかったよ」
俺はニコッと微笑み、優しく返した。
「これからも……、助けてくれる?」
街灯の明かりに照らされたドロシーの瞳が、不安と期待を滲ませて輝いていた。
「……。もちろん。でも、ピンチにならないようにお願いしますよ」
俺は少しだけ厳し目のトーンでくぎを刺す。
「えへへ……。分かったわ……」
ドロシーは両手を夜空に伸ばし、星を眺めながら答えた。
「結局……、どこで働くことにするの?」
「うーん、やっぱりメイドさんかな……。孤児が働く先なんてメイドくらいしかないのよ」
ドロシーの言葉には、諦めが混じっていた。
俺は深呼吸をし、決意を固め、提案する。
「良かったら……うちで働く?」
「えっ!? うちって?」
ドロシーは驚きで足を止めた。
「うちの武器屋さ。結構儲かっているんだけど一人じゃもう回らなくってさ……」
俺は店の状況を説明し、経理や顧客対応の手伝いを求めた。
その言葉を聞いたドロシーの目が、まるで星のように輝く。
「やるやる! やる~!」
ドロシーは腕を突き上げ、嬉しそうにピョンと跳びあがった。
俺は少し照れくさそうに続ける。
「良かった。でも、俺は人の雇い方なんて知らないし、逆にそういうことを調べてもらうところからだよ」
「そのくらいお姉さんに任せなさい!」
ドロシーは胸を叩き、自信に満ちた表情を見せる。その姿に、俺は心強さを感じた。
「ありがとう。では、ドロシーお姉さんにお任せ!」
「任された! うふふっ」
見つめあう二人の間に、新たな絆が芽生えるのを感じる。
「じゃあ、就職祝いに美味しい物でも食べようか?」
「えっ!? 私そんなお金持ってないわよ?」
ドロシーは両手を振った。
「な~に言ってんの、お店の経費で落とせば大丈夫。初の経理の仕事だゾ」
「お、おぉ……。それはちょっと緊張するわね……」
「ふふっ、何が食べたいの?」
俺の提案に、ドロシーの目が輝いた。
「うーん、やっぱりお肉かしら?」
「よーし、今晩は焼肉にしよう!」
夜の街を歩きながら、二人の会話は弾んでいく。
「ドロシーの時間は俺が朝まで買ったからね。朝まで付き合ってもらうよ? くふふふ……」
「えっ!? エッチなことは……、ダメよ?」
ドロシーの頬が赤く染まり、俺は慌てて言い訳する。
「あ、いや、冗談だよ。本気にしないで……」
一瞬の沈黙の後、二人の笑い声が夜空に響いた。
この夜の出来事が、彼らの関係をどう変えていくのか。それはまだ誰にも分からない。ただ、二人の心の中には、確かな温かさが広がっていた。