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バケツの水をひっくり返したかのような雨が降る日曜の昼。自室の窓から見える鉛色の曇天の空は、まるで今の私の心のようだ。
私の名前は鈴木尚人。尚人は”なおと”ではなく、”なおひと”だ。よく人に間違われる。歳は今年40で、趣味は読書。今日のように休みの日は、部屋でゆっくり本を読んだり、子供と公園へ出かけたり、妻と買い物に行く。
妻とは会社で出会った。私が銀行の営業として働いて数年たち、新入社員の教育係をすることとなって初めて教えたのが、後に私の妻となる彼女だった。
子供は現在小学四年生。名前は明で、公立の小学校に通い、習い事にサッカーをしている。やんちゃで怖い物知らずで、いつも私と妻を困らせるが、誰とでも分け隔てなく接して、持ち前の前向きな性格と明るさで、誰も彼も息子のペースに気がつけば乗ってしまう。息子には人を惹きつける才能がある。…と本気で思っている私は親バカだろうか…。
息子は、子供の頃の私と正反対だ。子供の頃の私は、内気に弱気で、親からは「手のかからない良い子」と言われ、同い年の子からは、「何考えてるかわからない」「つまらない奴」だと言われていた。だから私はいつも、教室で一人、本を読んでいた。
だがそんな私にも、一人友達がいた。……あぁ、こんな雨の日は、どうしても彼を強く思い出してしまうな。
…彼は朝倉日向。名は体を表すと言うが、私の人生の中でも彼ほど日向と言う名が相応しい人間はいないだろう。彼は生意気でいたずらっ子だったが、根は優しくて明るい奴だった。なんせ、こんな私にも話しかけて来てくれて、友達と言ってくれた人間は彼くらいだ。彼にはたくさんのものを貰った。漫画の付録にカードゲームのレアカード。駄菓子にストラップ。プールの後に一緒に食べるアイスの味に、自慢し合ったクリスマスプレゼント。土砂降りの雨の中、二人揃って鞄を頭に家までかけていったりもしたなぁ。その後に見た雨上がりの空は、まるで天使が通る道のような光が差して、とても綺麗だった。そんな思い出も、彼から貰ったものだ。
彼はよくこんな、無口で無愛想な私となんかと一緒にいてくれたよ。他に友達なんていくらでもいたろうに…。
…そして、そんな彼を裏切ったのも、見捨てたのも、…殺したのも私自身だ。
あの日もこんなふうに空模様は悪かった。
空は雲が灰色に塗り替えて、あたりは濡れた木々のような、今にも雨が降りそうな匂いがしていた。
彼と一緒に帰る下校中。彼から「近くの山に沼を見つけた。ザリガニがいっぱいいるかもしれない。今から見に行かないか。」と誘われた。もちろん私は深く考えずに了承。当時小学生だった私は、本当に無知で愚かだった。
彼の後ろを着いて歩き、木々や岩を避けて歩くこと数十分。彼が言う目的の沼に辿り着いた。山の中だからか、それともより雨が近づいてきたのかわからないが、匂いが強まった気がした。
「なぁ!すっげーだろ!!」そう言って彼は目を輝かせながら私を見た。その目はその日の空模様を忘れさせるくらい、キラキラと日差しのように輝いていた。
しかし反対に、沼は月が無い夜のように暗く底が見えない。波も立たない沼は、まるで深淵への入り口だ。彼につられて興奮した私の心を暗く染め上げるのに時間はほとんどかからなかった。
私がおそるおそる、沼を覗き込む傍らで、彼はなんと靴と靴下を脱いで沼へと足を踏み込んでいた。彼曰く、沼がどれほど深かったのか気になったらしい。彼が一歩、一歩と沼の真ん中へと進む中、流石の私もこれはマズいのではと感じ始めていた。
彼が興奮した様子で私に話しかけてくる。私は止めた。危ないからそろそろやめなと。しかし、彼は大丈夫だと。心配しすぎだとケラケラ笑う。
……ここで私がもっと強く、彼を止めていれば、無理矢理にでもやめさせていれば、未来は変わっただろうな。
本当に、本当に、私は愚かだった。彼の言葉を信じてしまった。…いや、信じてしまった。なんて、綺麗な言い方やめよう。私は…彼に嫌われたくなかった。彼が大丈夫だと言ったからと、言い訳して…。
沼が彼の脚を膝まで飲み込んだ頃。彼の様子は一変した。
「動けない!足が抜けない!!」
切羽詰まった声でそう言い、なんとか抜け出せないかと目に涙を浮かべながら、何度ももがいている。
「なお!なお!!なお助けて‼︎‼︎」
彼が必死に手を伸ばして、私に助けを求めたが、私も初めて見る彼の姿にこれはただ事では無いとパニックになり、情け無く震えて泣きながら、その場に立ちすくむだけだった。
「なお!!なお!!助けて!!助けてっっっ‼︎‼︎」
何度も何度も彼が叫ぶ。もう沼は彼の腰まで迫っていた。
心臓がバクバクと鳴って、涙も汗も鼻水も止まらなくって、喉から鉄の味がして、呼吸をするのもやっとで。そんな中、私はようやく蚊の鳴くような声で、
「だ…誰か呼んでくる…。」
そう言って私は彼に背を向け、駆け出していた。
「なお!!いやだ!!独りにするな!!いやだ!!なお!!助けて!!いやだぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
彼の絶叫を聴こえないふりして…助けを呼びに行くからと言い訳して…目の前の絶望的な現実から、私は逃げた。
私が山から出るころには、雨はポツリポツリと降り出して、あっという間に土砂降りになった。バシャバシャと地面に叩きつけるように降る雨は、まるで私を責め立てているようでもあり、…私の罪を隠してくれてるようでもあった。…家に着いた頃の私は…冷たい冷たい雨のせいで、身体の髄まで冷え切って。汗も鼻水も、涙さえも、雨は流し去ってしまった。
…この後のことは、正直あまり覚えてないが、確か彼の両親が尋ねて来たり、警察が話を聴きに家にやって来た。話は勿論、帰って来ない彼の話だ。
……ここでも私は愚かだった。私は…知らないフリをした。
もし…もし彼が…死んでしまったら?私は…。
私は彼よりも、自分をとった。誰かに責められるのが怖かった。罪を背負うのが怖かった。見捨てたという事実を突きつけられるのが怖かった。
だからあの時の私は、自分に必死に言い訳した。あの沼に行きたがったのは彼だと。私は止めただと。彼自身が自分の意思で沼に入っていった。だから…だから私は悪くない。…と。
警察が自分を怪しんでいる気がする…。彼の両親が、恨むような目をして私を見ている…。そんな気がした。罪を犯した罪悪感と、いつかバレてしまうのではという不安に押し潰されそうだった。
だが、そんな私のような人間にも、時の流れは平等で。
彼がいなくなって数ヶ月。私はいつもの日常を送っていた。いや、いつもの日常という表現は適切では無いな。傍から見れば、地味で平凡な日常を送っているように見えるだろうから、いつもの日常と言った。クラスメイト達も、もう誰も彼の話をしない。確か彼が行方不明になったと先生に告げられた数日は、彼の話で持ちきりだった。誘拐されただの、事故にあっただの。だが、子供ほど無邪気で残酷な人間はいないだろう。しばらくすれば、テレビの話や漫画の話に、彼はかき消されてしまった。
私はまた一人になった。また教室で一人ポツンと本を読む。騒がしく五月蝿い教室にいるはずなのに、私だけ別の次元にいるような、彼らとは別の世界にいるように感じて。もう彼らの世界に私は戻れない。私はこれから、この業を背負って生きなければならない。
彼が行方不明になった事になって、数年…数十年。
私は大学を出て地銀へ就職。今もなお、そこで働いている。今住んでいる家は、妻と結婚後に私の実家近くに建てたものだ。私が実家の近くに建てて欲しいという無茶な願いを、妻は快く了承してくれた。今でも私は妻に頭が上がらない。すまない。だがどうしても、彼の事が気になってしまった。私の罪がバレるのを恐れた。彼の両親に申し訳なかった。…この地を離れてしまうと、罪から逃れようとする自分が吐き気がするほど気持ち悪くて、本当に気が狂いそうだった。
もし私が物語の登場人物なら、こんな想いはしなかっただろう。物語の登場人物の性格は、基本的には一貫してわかりやすい。そうでなければ、キャラとしてちゃんと機能しなくなる。言動は矛盾だらけで、優柔不断。何がしたいのかわからない。読み手を不快にさせるだけのキャラクターになってしまう。架空の話にもリアリティを産むために現実的な要素は必要だが、人間の精神までも現実よりにしてしまうと、かえって面白くないのだ。作品にもよるがグロテスクになってしまう。それほどまでに現実の人間なんてものは、単純な物を複雑に考えて、逃げられない現実から逃げて、善意を悪意と受け取り、天使の声を無視して悪魔のせいだと言い張り、目先の快楽に溺れる。矛盾だらけの存在で、自分で言うのもなんだが、面倒くさいの一言だ。
…話がズレたな。しかし、なんだ今日は?なぜだか胸騒ぎがする。まるであの時のような、呼吸がしにくいあの感覚…。きっとこの雨が、私に罪を忘れるなとでも言っているんだろうか。
私はどうしてもそんな過去から目を逸らしたくなって、本棚からお気に入りの本を手に取った。いつもの手だ。
そして椅子に腰掛け、本を読もうとしたその時だった。
コンコン…。
「あなたー?ちょっといいかしら?」
ドアから妻の声が聞こえた。私は、あぁ。と返事をすると扉が開く。部屋に入って来た妻の片手にはスマホが握られており、なんだか不安そうな表情だ。何かあったのだろうか。
「あのねぇ、今”明”が遊びに出掛けてるのだけど…雨が酷いから迎えに行こうと思って電話してみたの。だけどあの子、全然電話出なくて…。」
妻の話を聞いて心臓の鼓動が早くなる。背筋に冷たい汗が流れる。
「…そうか。なら少し近所を探してみるよ。ひょっとしたら、どこかで雨宿りしている最中に携帯の充電が切れたかもしれない。」
「ありがとう。助かるわ。私の方からも、お友達のお家に連絡してみる。」
妻はそう言って部屋を出た。その途端、抑えていた体の震えが一気に溢れだした!
まさか…まさかまさか…!!
私は急いで傘を手に取り外へ出た。
近くの公園を回ってみるか?それとも神社か?いや……あそこからだ。
また行く事になるとは思わなかった。しかもこんな雨の日に。重たい足とは裏腹に、私の足はテキパキとあの場所へと向かう。…頼む。いないでくれ。違う場所であってくれ。頼むから……明を連れて行かないでくれ…。
服に跳ねた泥も、髪に着いた葉も気にも留めず、私はあの場所へ…彼を見捨ててしまったあの沼へ辿り着いた。はぁはぁと息を荒くして、おそるおそるあたりを見る。
いない…?!杞憂だったか?そう思い、ほっと息を吐いて下を向いた途端。私は絶叫した。
「うわぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
私の視線にあった物は…息子の…明の脱いだであろう靴と靴下が、綺麗に並べられていた。
嘘だ…嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ…!!
私の体は力が入らなくなり、手に持っていた傘は地に落ち、膝から崩れて落ちた。
……。
「なお。なーお。なおひと!」
呆然と沼を見ることしか出来ない無能の私に、背後から懐かしい声が聞こえた。あぁ、この声は知っている。
…そうかぁ…今日か。今日、私は罪の精算をしなければならない。彼の声が聞こえた事に不思議と恐怖は無かった。幻聴だとも思わなかった。ただ、”とうとうこの日”が来たんだと思った。
「なお!会いたかった!!ずっと独りで寂しかったんだ!暗かった!怖かった!でも…でもそれも今日までだ!!」
私の体に重くのしかかるのは、雨で重たくなった服か、それとも私の罪か、それとも彼が私に向ける感情か…。
「なおの子供、顔がそっくりだな!こっちを連れていこうかと思ったけど、オレやっぱり、なおがいい!!」
そうか…そうか…明はまだ”そっち”にはいってないんだな。
「なぁ、なぁなお。お前の子供返すからさ…また一緒に遊ぼうよ。オレ、あの日の事ちっとも怒ってないよ。そりゃあ最初は怒ってたけど、もういいよ。」
ぎゅっと背後から抱きしめられる。彼の冷たい体が、私の体をより冷へと変えていく。
「なおの子供は幸せだな。だってたくさん、なおと遊んだんだもん。なぁ、そろそろオレの番だよな。」
波紋で揺れる沼の水面に、私の酷い顔だけは妙にはっきりと映った。こんな私を…こんなどうしようもない大罪人の私を…妻よ、息子よ…愛してくれて、ありがとう…。
水面に映る顔が、私から彼の顔に変わった。久しぶりに見る彼の顔は、ちっともあの頃と変わってない。朝日みたいな、子供らしく無邪気でキラキラした笑顔だった…。
「明。明。起きなさい明。」
ほおを軽くペチペチと叩かれて、俺は目を覚ました。ここは…?
寝ぼけた頭であたりを見渡すと森の中。あぁそうだ、そうだった。俺は山の中で遊んでる途中で沼を見つけて…それで…あれ?俺って沼の中に入らなかったっけ?
「明。母さんが心配してたぞ。ったくこんな日に山の中に入るなんて…。」
父さんがやれやれといった表情で俺を見た。しかし、どこか笑顔だ。そっか、父さんにもかなり心配かけたなぁ。
「なぁ、父さん。俺、沼の中にいたの?」
「いいやぁ?そこの木の下で寝ていた。よくもまぁこんな雨の中眠れるものだ。」
「そっか。ごめんごめん。」
俺は、父さんの腕の中から肩を借りて立ち上がった。
雨が上がって、じめじめとした空気があたりを漂っていた。
「父さん、帰ろ。」
「あぁ。父さん、ちょっと用事があるから、ちょっと先に帰っててくれないか?」
「…用事?何の用事?」
「…会社にちょっと電話をしなければならないんだ。少し時間がかかるかもしれない。母さんが心配していたから、お前だけでも先に帰りなさい。」
父さんは俺に背を向けたままそう言った。なんだか父さんが、遠い場所へ行ってしまうような、変な感じがした。
「うん…。父さん、また家で。」
「………あぁ。じゃあな。」
こっちを見た父さんの顔が、なんだか今にも泣きそうだったのは気のせいだろうか。
俺はスマホを耳にあてている父さんから視線を離すと、ぬかるんだ道に気をつけながら、山を降りて行った。
「ありがとう、時間をくれて。長いこと待たせてすまなかった。…日向君、”そっち”にいってもいい?」
明の姿が見えなくなっても見続けた私の背中から嬉しそうな声が聞こえ、小さな子供の手で抱きしめられ、背中から私の体は、深い深い深淵の闇へと堕ちていった…。
「なお。なお。何して遊ぶ?鬼ごっこ?かくれんぼ?泥だんご?」
「日向君が決めて。ボク決められないから。」
「じゃあ全部やろう!!今までやれなかったこと全部!全部!!なお!これからも、ずっと一緒に遊ぼうな!!」
「うん。ボクはずっと、日向君の側にいるから…。」
「あぁ。オレたちは、永遠にずっと一緒だ!!」