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とても素敵ですね。 私も一人一人それぞれの思いの感じる文章が好きです。
昨日、縁あって知人の学校の参観に行ってきました。
昨今では、密を避ける為学校を一日中解放し、観たい時に観たいだけ参観し、出入り自由というスタイルが主流なのでしょうか?
訪れた学校ではそのスタイルを取っており、もう少し堅苦しいイメージを持って行ったものの、そのフランクな様子に驚きました。
終了間際の最後の授業に行った為か、朝早くには綺麗に展示してあったであろう展示物が粗方片付けられており、閑散とした、というか、恐らくいつも通りの姿をしていた廊下の端に、仕舞い忘れたように置かれた机とプリント。
何の変哲もないセロテープで机に直貼りされたそのプリントには、谷川俊太郎氏の『生きているということ』の詩と共に、クラスの全員が一文ずつ考えた、『生きているということ』が書かれていました。
40人余りの一人一人が、各々考えた『生きているということ』の羅列。
『幸せということ』
『好きな物を食べること』
『好きな音楽が聞けるということ』
『推しが居てくれるということ』
と言った前向きなものもあれば
『苦しむということ』
『不安を感じること』
と言ったマイナスなものも。
『努力すること』
『勝つためにがんばること』
と自己を叱咤するものから
『生きていると自覚することがないこと』
といった、何やら哲学的なものまで色々。
『息をするということ』
この辺りは、考えるのがめんどくさかったのかな。
『死んでいないということ』
これ考えた人は、今がつまらなくて、どうでもいい感じかな。
どの文も、一人一人のその時の思考が予想される、LIVEなモノだと私には感じられました。
だんだん『生きている』の『生』が、『いきる』ではなく『ナマ』に見えてくる。
『ナマモノ』で『新鮮』な声。
私は、そのプリント一枚を目にする事が出来ただけでも、今日来た甲斐があったな、と思いました。いくらか払ってもいいくらいです。
どんな文章にも、書いた人の心や気持ちが篭っています。例えやる気の無い文章でも、やる気の無さが含まれている。面倒がって書いた文章には、その面倒という億劫さが詰まっている。
そうやって見えてくる『書いた人の心』を知る事で、読み手である自分の心が潤う。
幸せな時間を過ごさせて頂きました。生徒たち、多分そんなつもりではなかったのでしょうが、ありがとう。
有名な小説家、ノンフィクション作家、子供の作文・感想文。全てが私にとっては心を動かす栄養剤。
これからも、色々読んで暮らしていけるという事は、私の幸せの一つ。
『生きているということ』
私にとって一文で現すならば、
『それは一喜一憂』
憂いて喜んで、その繰り返し。
多くの文章、それを書いてくれる方々に感謝を込めて。