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勇者とサキュバスの家の小人リル〜蟻ほどの小人と、世界最高峰の二人〜
序章 蟻ほどの小さな住人
ある所に、一軒の家があった。街の喧騒から少し離れた丘の上に建つ、石造りのあたたかな家だ。
その家には、世界最高峰とうたわれる二人の男女が暮らしていた。
一人は勇者。世界各地に現れた魔王たちを打ち倒し、いまや知らぬ者のいない英雄として讃えられている。
もう一人はサキュバス。それも、数あるサキュバスの中でも最上位に君臨する、エリスサキュバスの女性だ。
そして、この家にはもう一人、誰にも知られていない住人がいた。
小人族の、リルである。
小人族の中でも、リルの一族はとりわけ小さい。背丈は蟻とほとんど変わらず、人間の指先に乗せれば、そのまま見失ってしまうほどだ。もっとも、小人族の暦ではとうに成人した立派な大人であり、一人前の旅人でもある。
旅の途中、激しい嵐に見舞われたリルは、わずかに開いていた窓の隙間から、この家へ転がり込んだ。ほんの雨宿りのつもりだった。けれど、翌朝テーブルの上に並んだ焼き菓子の甘い香りと、人の暮らしのぬくもりに触れてしまったリルは、どうしてもこの家を離れられなくなってしまったのだ。
居間の壁の隙間には、ボタンを屋根にした小さな寝床をこしらえた。蟻ほどの体にとって、この家はどこまでも続く巨大な世界だ。スプーンは舟のように大きく、床板の継ぎ目は深い谷のようで、探検するだけで一日が終わってしまう。
「……もう少しだけ。嵐が、すっかり止むまで」
そう自分に言い訳をしながら、早くも一ヶ月が過ぎようとしていた。
第一章 岩盤の腹筋
リルの朝は、壁の隙間から居間の様子をうかがうことから始まる。
「……今日も、すごい」
居間の中央では、勇者が朝の鍛錬に励んでいた。
勇者の服は、動きやすさを極限まで突き詰めた作りだった。胸と肩を覆うだけの布に、腰回りを守る革のベルト。そして何より、腹部の大部分が惜しげもなく外気にさらされている。それは勇者にとって、隠す必要のない誇りそのものだった。
その腹筋は、もはや「鍛え上げた」という言葉では足りない。
大きく、深く、力強く隆起した腹筋は、一つひとつがせり上がる岩盤のようだ。左右に四段ずつ、整然と並んで積み重なる姿は、神々が一つの巨岩から彫り出した彫刻としか思えない。ブロックの境目には深い溝が刻まれ、勇者が息を吸うたびに、その陰影がゆっくりと浮かび上がる。脇腹には逞しい筋が斜めに流れ落ち、日に焼けた小麦色の肌が、朝日を受けて艶やかに輝いていた。
その中心を、一本の溝が縦に走っている。そして、ちょうど真ん中あたりに、美しいおへそがあった。丸ではない。まるで一本の線を引いたように、すっと縦に長く切れ込んだ形で、一分の歪みもなく整っている。岩のような腹筋の中にあって、そこだけが、静かな渓谷のように凛として美しかった。
しかも、この腹筋の真価は、見た目だけではない。
勇者の腹筋は、岩盤そのものなのだ。筋肉の密度は常人の数百倍を優に超え、何層もの岩盤が幾重にも積み重なったように硬い。名剣で斬りつけられれば、欠けるのは剣のほうだった。凶悪なモンスターの爪も牙も、その表面で虚しく弾かれてしまう。かつて邪竜の一撃を腹で受け止め、竜のほうが爪を折って逃げ出したという逸話まであるほどだ。
世界最高峰の鎧を、生まれながらに身にまとっているようなものだった。
リルの目には、その腹筋はなおさら大きく映る。見上げる勇者の腹は、見渡す限りの岩の大地だ。盛り上がったブロック一つだけで、リルの体の十倍以上もある。ブロックの間を走る溝は、小人にとっては深い渓谷そのもので、落ちれば這い上がるだけで日が暮れてしまうだろう。
「あれが、世界を救った人の体……」
何度見ても、ため息しか出ない。
勇者が深く息を吐くと、岩盤の層がぎしりと浮かび上がり、汗の雫が溝を伝って、ゆっくりと流れ落ちていく。
──リルはまだ知らない。
あらゆる魔王を震え上がらせたこの岩盤にも、たった一つだけ、致命的な弱点があることを。
第二章 マシュマロのお腹と、やさしい香り
勇者が岩盤なら、もう一人の住人は、その正反対だった。
台所から、ふんわりと甘い香りが漂ってくる。
「ふふ、今日はちょっと焼きすぎちゃったかしら」
鼻歌まじりに焼き菓子をひっくり返しているのは、エリスサキュバスの彼女だ。
サキュバスと聞けば、誰もが意地悪で悪戯好きな誘惑者を思い浮かべるだろう。けれど、彼女はまるで違った。穢れというものをほとんど知らない、驚くほど純粋で、心の優しい女性なのだ。転んだ子供を見れば誰よりも早く駆け寄り、庭に迷い込んだ虫さえ、そっと外へ逃がしてやる。
その体からは、サキュバス特有のフェロモンが、ふわりふわりと漂っている。けれど、それは彼女が望んで出しているものではない。むしろ本人は、そのことを少し恥ずかしがっていて、「ごめんなさいね、勝手に出ちゃうの」と、誰にともなく小さく謝るのが口癖だった。
その姿を、リルは台所の棚の影から、こっそりと見上げた。
彼女は、最上位種族エリスサキュバスにふさわしい、豊かな体つきをしていた。
まず目に入るのは、Kカップの胸だ。非常に豊満で、見るからに柔らかく、彼女が歩くたびに、ふわり、ふわりと重たげに揺れる。焼きたてのパンのようにふっくらと丸みを帯びたそれは、呼吸に合わせて、ゆったりと上下していた。蟻ほどのリルから見れば、二つのやわらかな丘が、そこに並んでいるかのようだ。
そして、その下に続くお腹。
彼女の服もまた、お腹がすっかり露わになった作りだった。そこにあるのは、傷もしみも一つもない、真っ白ですべすべの素肌。胸の豊かさとは対照的に、きゅっとくびれた腰へとなだらかな曲線を描き、ほんのりと桃色を帯びたそのお腹は、最高級のマシュマロのようにふわふわで、触れる前から、その感触が伝わってくるようだった。
お腹の中央には、こちらも縦に細長い、美しいおへそがある。けれど、勇者のそれが渓谷なら、彼女のおへそは小さな泉のようだ。やわらかな雪にそっと指を沈めたような、愛らしいくぼみが、お腹の曲線の中に、控えめに、けれど確かに佇んでいる。
「あら、冷めちゃう前に並べなくちゃ」
彼女が身をかがめると、お腹がふにっ、とやさしくたわむ。その動きがあまりにも柔らかそうで、リルは思わず見とれて、棚から足を滑らせかけた。
お皿に焼き菓子が並べられるたび、何個かぱらぱらとこぼれ落ちるクッキーのカケラ。それが、リルの大切な食事だった。
「……いただきます」
蟻ほどのリルにとって、一つのカケラは、ちょっとした宝石の塊のようなものだ。さくりとした歯ざわり。口いっぱいに広がるバターの香り。
「……おいしい」
──ここにもまた、リルのまだ知らないことがある。
最上位のエリスサキュバスである彼女にも、ほんの少しだけ、けれど致命的な弱点があるということを。
第三章 ひみつの寝床
夜。
勇者とサキュバスが寝室で寝息を立て始める頃、リルの一日は、もう一つの顔を見せる。
窓から差し込む月明かりの中、リルはカーテンの裾を伝い、シーツの端をよじ登って、大きなベッドの上へと忍び込む。小さな足で、ベッドの中央まで辿り着くだけでも、ちょっとした大冒険だ。
「……おじゃまします」
小声でそう断ってから、まず向かうのは、勇者のお腹の上だった。
仰向けに眠る勇者の腹筋は、リルにとって最高の寝場所だ。昼間は岩盤のように硬いのに、眠っている間は余分な力が抜けて僅かに柔らかみを帯び、ほんのりとぬくもりを帯びている。石の大地に寝転がると、まるで岩盤浴のように、体の芯までじんわりと温まった。
ゆっくりとした呼吸に合わせて、腹筋の大地がわずかに上下する。ずっと奥のほうから、力強い鼓動が、とく、とく、と響いてくる。
勇者は、戦場でも眠れるほど眠りが深い。リルがどれだけ歩き回っても、びくともしなかった。
「……すごい。眠っていても、岩みたい」
頬を寄せると、すべらかな筋肉の表面はひんやりと心地よく、その奥から、確かな熱が返ってくる。縦長のおへそのすぐ脇に身を預ければ、まるで谷あいの宿に泊まっているような安心感があった。
そして、夜が更けて少し肌寒くなる頃、リルはそっと岩盤のベッドを降り、シーツの上を歩いて、もう半分、サキュバスのもとへ向かう。
そこは、真逆の寝床だった。
仰向けに眠るサキュバスの胸によじ登ると、そこは世界でいちばん柔らかい場所だった。
ふかっ、と体が沈む。
焼きたてのパンの上に寝転がったみたいに、全身がやさしく包み込まれていく。大きくて、豊かで、あたたかい。ゆったりと上下する胸は、まるでゆりかごのように、リルをゆらゆらと揺らしてくれた。
甘いフェロモンの香りが、毛布のようにふわりと降りてくる。それは小人を惑わすようなものではなく、ただただ、安心して眠くなる、お日様のような香りだった。
「……おやすみなさい」
聞こえるはずのない彼女に、リルは小さく告げる。サキュバスはむにゃむにゃと何かをつぶやき、しあわせそうに微笑んだ。
こうして、リルは毎晩、世界最高峰の二つの寝床を渡り歩いていた。
そして夜明け前には、必ず壁の隙間へ戻る。それが、リルが自分に課した、たった一つの決まりごとだった。
──その決まりごとを、破ってしまう日までは。
第四章 小さな冒険
昼間のリルは、見つからないための小さな冒険の連続だった。
ある日の午後、台所の戸棚の上の段にある蜂蜜の壺を取ろうとして、サキュバスがうんと背伸びをした。
「んっ、あと、ちょっと……」
両腕を高く伸ばすと、彼女の体はしなやかに反り返る。いつもはふっくらと丸いお腹がすっと引き締まり、縦に細長いおへそが、さらに縦へと、すうっと伸びた。胸元から腰へ流れる曲線が、窓からの光を受けて、なめらかに輝く。
「とれたっ」
壺を抱えて振り返ると、胸とお腹がふるん、と小さく揺れた。
少し離れた場所では、勇者が、大きな麦の袋を軽々と担ぎ上げていた。
袋が持ち上がる瞬間、腹筋の石板が、ぐっ、ぐぐっ、と力強く盛り上がる。八つのブロックが一斉に張りつめ、深い溝がいっそう濃い影を落とした。それはまるで、岩山が脈打っているかのようだった。
(すごい……)
リルは、棚の影で息をひそめて、二つの光景を見比べた。
岩盤のように力強い腹筋と、マシュマロのようにやわらかなお腹。同じ家にいるのが不思議なくらい正反対で、けれど、どちらも同じように美しかった。
と、そのとき。
「あら?」
床を歩いていたサキュバスが、ふと立ち止まった。リルが隠れている棚の、すぐ前だ。
リルは慌てて、パンくずの陰に身を縮める。心臓が、ドクン、ドクンと跳ねた。
「……気のせい、かしら」
彼女は首をかしげて、しばらくあたりを見回し、やがて台所へ戻っていった。
(み、見つかるところだった……!)
胸をなで下ろしながら、リルは、心の中で何度も決まりごとを繰り返す。
見つかってはいけない。ぜったいに。
第五章 二人のひみつ
その夜、リルは棚の上で、思いがけない光景を目撃した。
夕食のあと、居間のソファでくつろいでいた二人が、じゃれ合い始めたのだ。
「ねえ、勇者さま。今日も鍛錬、ずいぶん頑張っていたわね」
「……ああ」
「魔王の攻撃でも傷一つ付かなかった、自慢の腹筋だもの。ふふ、ちょっと触らせて?」
「おい、やめ──」
勇者が言い終わる前に、サキュバスの細い指先が、そっと腹筋の上を滑った。
つつ、と。羽根が触れたかのような、軽い指づかいだった。
その瞬間。
「──ッ!? く、ふっ……! やめ、ろ……そこ、は……っ!」
あの勇者が、ソファの上で身をよじった。岩盤のような腹筋が、ぴくぴくと痙攣して波打ち、顔はみるみる真っ赤になっていく。必死にこらえても、肩が小刻みに震えていた。
「ふふっ、やっぱり。あんなに硬い腹筋なのに、くすぐられるのだけは、ずっと弱いのよね」
「頼む、勘弁してくれ……っ、ははっ、あははははっ!」
棚の上で、リルは目を丸くした。
(世界の魔王にも傷つけられなかった腹筋に、こんな弱点が……!)
「もう、笑いすぎよ」
「だ、誰のせいだ……! お返しだ」
勇者の大きな手が、ひょいとサキュバスのお腹へ伸びる。
「きゃっ!? だ、だめ、そこは──ひゃんっ! あはっ、あははははっ!」
今度はサキュバスが、ソファの上で笑い転げた。最高級のマシュマロのようなお腹が、ふるふると揺れる。真っ白な肌がうっすらと桃色に染まり、指が沈むたびに、彼女は涙をにじませて身をよじらせた。
「ま、まいった、まいったわ! くすぐられるの、ほんとうに苦手なの……っ!」
二人の笑い声が、あたたかな居間いっぱいに響く。
リルは、棚の上で、そっと胸をなで下ろした。
世界最高峰の二人が見せた、無防備な笑顔。それは、どんな武勇伝よりも温かくて、愛おしい光景だった。
(あの人たちの弱いところは、お腹。覚えておこう。ぜったいに、触らないようにしなくちゃ)
そう心に決めて、その夜もリルは、決まりごとを守って眠りについた。
けれど、まさか、そのたった数日後に──。
第六章 うっかり
その日は、前の晩から特別だった。
サキュバスが新しく焼いた、はちみつクッキー。そのカケラは、リルがこれまで口にしたどんな食べ物よりも甘く、香ばしく、気づけば、お腹がはち切れんばかりに食べてしまっていたのだ。
「……ねむい。すごく、ねむい」
満腹で重たくなった体を引きずって、リルはいつものように、勇者の腹筋のベッドへよじ登った。
「少しだけ休んだら、サキュバスさんのところへ行こう」
岩盤のぬくもりに頬を寄せた、その数秒後。リルはもう、すうすうと寝息を立てていた。
それが、運命の分かれ道だった。
夜が明け、カーテンの隙間から、朝日が金色の線をベッドの上に引く頃。
「……ん……あれ……明るい?」
リルは、はっと目を覚ました。
窓の外では、小鳥がさえずっている。夜明け前どころか、もうすっかり朝だ。
「た、大変! 決まりごとが……!」
慌てて起き上がり、勇者の腹筋の上を、爪先立ちで駆け出す。
けれど、焦るあまり、リルは肝心なことをすっかり忘れていた。
この岩盤の大地が、世界でいちばん、くすぐりに弱い大地であるということを。
小さな足が、ブロックを踏むたび。
ぴく、ぴく。
眠っている勇者の腹筋が、かすかに震える。
「ん……ふ……」
(しまった、足音、足音……!)
リルは息をのんで足を止め、そろり、そろりと、さらに慎重に歩き出した。ところが、その焦りが仇となる。
縦長のおへそのふちで、リルの足が、つるりと滑ったのだ。
「わっ──!」
ずるずるずる、と。
小さな体は、勇者の深く細長いおへそのくぼみへと、すとんと転げ落ちてしまった。
底は、思いのほか温かく、やわらかい。けれど、そこから這い上がろうとするリルの小さな手足が、くぼみの壁を、ごそごそ、ちくちくと、くすぐってしまう。
「……っ!? く、ふっ……ぐ……」
勇者の眉が、ぴくりと動いた。
くぼみの中でリルがもがくたびに、岩盤の腹筋が、ぎゅっ、ぎゅっと力んでは、波打つ。
「……くっ、くく……ふ、ははっ……!」
そして、ついに。
「ぶはっ!! あはははははっ!! な、何だ!? あははははっ!?」
勇者の腹筋が、大地震のように揺れた。
リルの体は、ぽーんと宙へ打ち上げられる。
「うわあああああっ!」
くるくると回りながら、リルが着地したのは、二人の間に広がる白いシーツの上だった。ぽすん、と。
「な、なに!? 勇者さま、どうしたの!?」
爆笑で飛び起きたサキュバスが、目を丸くして上半身を起こす。
勇者もまた、笑いすぎてにじんだ涙をぬぐいながら、慌てて身を起こした。
二人の大きな顔が、ゆっくりと、シーツの上に転がる小さな点へと向けられる。
そこには、目を回して尻もちをつき、両手を上げたまま固まっている、蟻ほどの小人がいた。
「…………」
「…………」
「…………」
長い沈黙を、最初に破ったのは、リルだった。
「ご、ごめんなさい!! 勝手に住んでました! 悪い者じゃないんです! 食べたのは、クッキーのカケラだけで……!」
第七章 予想外の反応
リルは、ぎゅっと目をつぶった。
追い出される。つぶされる。そうでなければ、世界を救った勇者の手で──。
けれど、いつまで待っても、何も起こらなかった。
そろり、と目を開ける。
見上げた先には、両手で口元を押さえ、瞳をきらきらと潤ませたサキュバスの顔があった。
「…………か」
「か?」
「かわいいいいいいっ!!」
「ひゃあっ!?」
次の瞬間、サキュバスはベッドの上で、ぴょんと飛び跳ねていた。あまりの興奮に、じっとしていられなかったのだ。
その勢いで、彼女のKカップの胸が、ゆさっ、ゆさゆさっ、と大きく弾むように揺れる。ベッド全体が、地震のように上下した。
「わわわっ!」
シーツの上で、リルは右へ左へと転がされる。小人の目には、ゆさゆさと揺れる二つの丘が、雲のように、視界いっぱいに広がっていた。
「かわいい……! こんなに小さいなんて……! なんて愛らしいの……!」
「落ち着け……いや、俺も……」
隣で、勇者が片手で口元を覆っていた。
世界中の魔王を前にして眉一つ動かさなかった男の顔が、耳の先まで真っ赤に染まっている。肩はぷるぷると震え、岩のような拳で、必死に何かをこらえていた。
「…………っ」
勇者は大きく深呼吸をすると、もう片方の大きな手を、自分の腹筋へ、そっと当てた。
そして、ゆっくりと、撫で始める。
岩盤のような腹筋の上を、手のひらが何度も何度も往復する。それは、昂ぶる気持ちを鎮めるための、勇者なりの儀式のようだった。
(落ち着け、俺……!)
けれど、さっきの大笑いのせいで、腹筋はまだ敏感になったままだ。自分の手のひらの動きさえこそばゆく、勇者は時折、「くっ」「ふっ」と息を漏らしては、必死に笑いをこらえている。
世界最高峰の英雄が、指先ほどの小さな客人を前に、真っ赤な顔で、自分の腹筋を撫でてごまかしている。こんな姿を、世界中の誰が想像できるだろう。
「……あ、あの……?」
リルがおそるおそる声をかけると、二人の視線が、ぴたりと集まった。
「あっ、ごめんなさい! 驚かせちゃったわよね!」
サキュバスは、はっとして、飛び跳ねるのをやめた。
「あなた、お名前は?」
「リ、リルです」
「リルさん。かわいい名前……! ねえ、勇者さま。最近、お菓子のカケラが減っていたのって」
「ああ。ネズミの仕業だと思っていたが……まさか、お前だったとはな」
勇者が、まだ赤い顔のまま、わずかに口の端を上げた。
「……怒って、ないんですか?」
「怒る? ふふ、どうして?」
サキュバスは、慈しむように微笑んで、小指の先を、そっとリルの前へ差し出した。
「ごめんなさいね、もっと早く気づいてあげられなくて。ずっと、ひとりで隠れていたのね。さみしかったでしょう」
その指先は、リルの体と同じくらいの大きさで、やさしいぬくもりを帯びていた。
リルの胸に、じんわりと熱いものが込み上げる。
ひとりぼっちの旅を、ずっと続けてきた。誰かにこんなふうに言ってもらえたのは、いつ以来だろう。
第八章 マシュマロの上で
「……実は、もう一つ、白状しなくちゃいけないことがあるんです」
リルは意を決して、これまでのことを打ち明けた。
毎晩、お二人が眠っている間に、勇者の腹筋の上と、サキュバスの胸の上で、寝かせていただいていたこと。
「…………」
「…………」
二人は、顔を見合わせた。
「あら……道理で、最近すごくよく眠れると思ったわ」
「……そういえば、最近、腹のあたりが妙にあたたかかった」
沈黙のあと、サキュバスがくすくすと笑い出す。勇者も、こらえきれずに小さく吹き出した。
「ふふ、それなら遠慮することなんてないのよ。夜だけじゃなくて、起きている間も、好きなだけ触っていいの」
「えっ!?」
「ああ。……お前なら、構わん」
勇者が、少し照れたようにそっぽを向く。
「ただし……さっき見ていただろう。その、腹は……くすぐったいのだけは、ほどほどに頼む」
「わ、わたしも、お腹は……お手柔らかにね?」
二人が、そろって頬を染める。
リルはぽかんと口を開けたまま、やがて、ぱあっと顔をほころばせた。
「……はい!」
*
最初に、サキュバスがベッドへ仰向けに寝転がった。
リルは、彼女の手のひらにそっと乗せられ、お腹の上へと運ばれていく。手のひらは、すべすべで、あたたかい。ゆりかごに揺られているような心地だった。
「どうぞ。好きなところから、ね?」
そっと降ろされた、その瞬間。
リルの足が、ふわり、と沈んだ。
「わっ……!」
最高級のマシュマロのようなお腹は、想像をはるかに超えて柔らかかった。一歩、また一歩と歩くたびに、足がやさしく沈み込み、そして、ふわりと押し返してくる。きめ細やかな素肌は、絹のようにすべらかで、どこまで歩いても引っかかるところがない。ほんのりと温かく、陽だまりの中を歩いているようだった。
リルは両手をついて、そのお腹の上に、ぺたりと頬を寄せてみる。
ふにっ。
指で押すと、小さなくぼみができて、それがゆっくりと、もちもちと元の形に戻っていく。何度も確かめたくなる、不思議な弾力だった。
「ふふっ……ひゃっ、くすぐったい……!」
サキュバスの体が小さく揺れ、お腹全体が、ふるふると波打つ。
「ご、ごめんなさい!」
「ううん、平気。くすぐったいけど……なんだか、とってもしあわせなの」
彼女は、そう言って目を細めた。
リルはさらに勇気を出して、縦に細長いおへそのふちまで歩いていき、泉のようなそのくぼみを、そっとのぞき込んだ。やわらかな壁面は、触れるたびにふるふると揺れ、リルが指を動かすたびに、彼女の笑い声が、ころころと弾む。
「あははっ、そ、そこはくすぐったい……! ふふっ、リルさん、待って、待って……!」
次に、リルは、お腹から続くなだらかな斜面を登っていった。
その先にそびえるのは、夜ごとにお世話になっている、あのやわらかな丘だ。
起きている間に触れるのは、初めてだった。
昼間の光の下で見上げるそれは、夜の記憶よりも、ずっと大きく、ずっと豊かだった。Kカップの胸は、ゆったりとした呼吸に合わせて上下し、その稜線は、朝日を受けて、やさしい陰影を描いている。
「ふふ、いつもの寝床でしょう? 遠慮しないで」
「い、いいんですか? ほんとうに……」
「どうぞ。リルさんのための、特等席よ」
おそるおそる、手を置く。
ふかっ。
手のひらが、どこまでも沈んでいく。その奥から、じんわりと、あたたかさが伝わってきた。ゆっくりと上下する丘の上で、リルの体は、ゆらり、ゆらりと揺れる。
リルは、思いきってその丘に飛び込み、両手を広げて、ぎゅっと抱きついた。
ふかふかの雲に、全身をうずめたみたいだった。体の半分が、ふわりと沈んで、やさしい重さに包み込まれる。トクン、トクンと、奥のほうから、彼女の穏やかな鼓動が響いてくる。
「ふふっ。くすぐったいわ」
サキュバスの笑い声に合わせて、胸がぽよんっ、と揺れ、リルの体が、ふわりと宙に跳ねた。
「わっ! あははっ!」
ぽよん、ぽよんと、やわらかなトランポリンのように弾かれては、また、ふかふかの丘の上へ着地する。リルは声を上げて笑った。こんなに笑ったのは、旅に出てから、初めてかもしれなかった。
サキュバスは、そんなリルを、指の腹でそっと撫でる。それは、小さな命を愛おしむ、母のようにやさしい手つきだった。
「ほんとうに、かわいいわね」
「……世界で、いちばんです。ここが」
リルは、小さな声で、そう答えた。
第九章 岩盤の上で
「……次は、俺か」
勇者は、気恥ずかしそうにベッドへ仰向けになり、両腕を頭の後ろで組んだ。
「好きにしろ。ただし、その……くすぐるなよ」
「は、はい……!」
リルは、勇者の大きな手のひらに乗せられ、そっと腹筋の上へ降ろされた。
さっきまで、必死に逃げ惑っていた岩盤の大地。その上に、こうして堂々と立つのは、不思議な気分だった。
間近で見る腹筋は、いっそう圧倒的だった。大きく隆起した最高峰の黒曜石のようなブロックが、段々と重なり合い、どこまでも続いている。深く刻まれた溝は、渓谷のように陰影を落とし、日に焼けた肌は、朝日を浴びて、つややかに光っていた。
コン、コン。
小さなこぶしでノックすると、石の壁を叩いたときのような、硬く澄んだ音が返ってくる。
力いっぱい、全体重をかけて押してみても、びくともしない。何層にも積み重なった岩盤の重みが、確かにそこにあった。
けれど、手のひらをぴたりと当てると、ひんやり硬い表面の奥から、じんわりとしたぬくもりと、力強い脈動が伝わってくる。
「……やっぱり、あったかい」
リルは、ブロックの境目を、そっとなぞるように指を滑らせた。深く刻まれた溝、大きく盛り上がる石板の頂き。一つひとつを、確かめるように。
そのたびに、勇者の腹筋が、ぴく、ぴく、と反応する。
「……っ、く……」
「ご、ごめんなさい! くすぐったいですか?」
「い、いや……大丈夫、だ……っ」
その様子を見ていたサキュバスが、くすりと笑った。
「リルさん、そこ。おへその横あたりが、いちばん弱いのよ」
「ば、ばらすな!」
リルの中に、ほんの少しだけ、いたずら心が芽生えた。
縦に長いおへそのふちを、小さな指先で、つん、とつついてみる。
「ぐっ──ふ、は、あはははっ!? やめ、やめろ……!あははは!」
勇者の腹筋が、大地震のように波打った。
リルは、振り落とされないよう、笑いながら岩盤にしがみつく。ブロックの溝を、まるで滑り台のようにすべり降りては、また、せり上がる石板によじ登って。
世界の魔王を倒した英雄が、指先ほどの小さな手に、涙目になって笑い転げている。
「ふふふっ、勇者さま、かわいい」
「う、うるさい……っ! あははっ!も、もう、勘弁……!」
しばらくして、ようやく笑いが収まると、勇者は肩で息をしながら、ちらりとリルを見下ろした。
「……お前、意外と、容赦がないな」
「ご、ごめんなさい!」
「いや。……悪くない」
勇者は、照れくさそうに視線をそらして、小さく笑った。そして少しためらってから、人差し指の先で、リルの背中をそっと撫でた。ごつごつとした大きな指なのに、驚くほどやさしかった。
終章 世界でいちばん贅沢な場所
やがて、朝の光が、ベッドの上いっぱいに満ちた。
左には、世界最高峰の、岩盤の腹筋。
右には、世界最高峰の、マシュマロのようなお腹と、ふかふかの丘。
その二つの絶景の、ちょうど真ん中で、リルは両手を広げて笑っていた。
岩盤の大地に背中を預け、マシュマロの丘に頬をうずめて。
ひとりぼっちの旅は、もう、おしまい。嵐が止んでも、リルはきっと、この家を離れられないだろう。
それは、まさに。
誰もが、死ぬほど羨む光景だった。
次回へ続く。
コメント
1件
「世界最高峰」の二人の弱点がまさかお腹のくすぐりだったとは…!しかもリルが毎晩寝床にしてたのがその腹筋の上と胸の上って、その発想やばい。めっちゃ可愛いし贅沢すぎるだろ笑。サキュバスがリルを見つけて「かわいいいいい!」って叫ぶシーン、俺も同じ気持ちになったわ。こっちまでほっこりする。続き楽しみにしてる!