第一章 神人少女との邂逅〈Boy meets eccentric girl〉
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(逃がすかよ! 盗人野郎! 罪のない人を食い物にしようだなんて、誰が許しても俺は許さない! 必ずひっ捕まえてあの人の前で土下座させてやる!)
日が陰り始めた午後四時前、京都の町屋の間の石畳の道を|緒形蓮《おがたれん》は走っていた。道幅は狭く、人の姿はほとんど見当たらなかった。
前方では、上下とも黒の長袖に身を包んだ男が、女物の肩掛け鞄片手に駆け続けていた。頭部には黒の陣笠を身につけており、なんとも不気味な雰囲気である。
全力で疾走する蓮の脳裏に、数分前に、男に鞄をひったくられた二十代後半と思しき女性の顔が浮かぶ。
テーベー(結核)で亡くなった婚約者が、初めてくれた贈り物なの。あれを失ったら、私……。もう……。
女性は悲痛な面持ちで、友達との映画鑑賞からの帰りだった蓮に縋りついた。
大丈夫です、俺に任せて下さい。絶対に取り返して見せますから。蓮は力強く即答し、すぐさま男の追跡を始めていた。
蓮は脚力には自信があった。男との距離はだんだんと詰まっていく。
(これなら追いつける! いや追いつく!)
蓮が確信した次の瞬間、男は急停止。突如として蓮に向き直り、右の拳を振るった。追っ手が蓮だけと見て、倒してしまおうと決意したのだろう。
(甘いよ泥棒野郎! 想定内だ!)
蓮はすうっと左腕を上げて目を凝らした。拳撃の軌道を読み、手の甲で外に逸らす。男は目を驚嘆に見開いた。
すかさず蓮は、牛舌掌(五指を伸ばして指先を揃えた掌型)に構えた右手を振り抜いた。男の側頭に全力で打撃を加える。蓮が長らく学ぶ拳法、八卦掌による攻撃だった。
蓮の攻撃をまともに食らい、男は勢いよく地面に倒れ込んだ。蓮は即座に男に接近。確保を試みる、が。
男が腹部から何かを取り出した。蓮はとっさに顔を横にやる。
ひゅん! 蓮の頬を何かが通過した。短刀だった。
蓮の背筋が一瞬で凍り付く。拳法の試合経験は多くても、凶器を相手取った経験はなかった。
武器で隙を作った男は、さっと立ち上がった。短刀を身体の前に構えつつ、射貫くような視線で蓮を睨み始める。
(くっ! 刀が相手じゃあ分が悪いか! でも諦めない! 諦めたらあの人の……あの人の大事な思い出の品が失われて……)
蓮が焦燥を深めていると、「ストーーップ! 待ちなさいあなたたち!」と、凜々しくも可愛らしい声が背後から聞こえてきた。二人は声のした方向に視線を向ける。
すたり。声の主が、蓮と五歩ほどの距離の位置で静止した。上下とも濃紺のセーラー服を纏った華奢な少女だった。蓮は混乱しながらも、少女の顔を注視し始める。
輝く大きな黒目に、小さくてすっとした鼻。
「ふふん」とでも口にしたげな満足げな笑顔と相俟って、少女はどこまでも溌剌とした印象だった。胸は控えめだが、身体が描く曲線は女の子らしく、見とれてしまう優美さがある。
肩の辺りまでの茶色がかった髪は、ゆるやかにやや波立っている。蓮よりも少し背丈は低いが、佇まいには力強さがあった。
まだ幼さの残る少女は、日本人の蓮の感覚では美人だった。だが顔立ちは西洋人と東洋人の中間といった感じで、かといってそれらの混血とも違う不思議な顔立ちだった。
(アキナ=アフィリエ。世界大戦を収めた「神人」の子供で、聞いた話じゃあ学校に通いつつ警察、軍人の任務に就いてるとか。ってかやたらと生き生きしてるよな。警察ごっこをしてる子供みたいだ。……そんな年齢でもないと思うんだけど)
蓮が呆れていると、アキナは右の人差し指で泥棒の男を指差した。腕はぴんと伸び切っており、見開いた目はまっすぐに男を見詰めている。
「盗みの常習犯、|黒田正夫《くろだまさお》! 天知る地知る人ぞ知る! おてんと様はお見通し! 自分でもわかってるわよね! あなたが散々繰り返してきた、あまりにも罪深ーい窃盗の容疑で、私はあなたをきっちりばっちり逮捕します。それではさっそく、有言実行! ってい!」
高らかに宣言するや否や身体を後方に倒し、右足を斜め上方に振り抜いた。
すると男の頭上が黒く発光。目にも留らぬ速さでジグザグ状に降下し、短刀を持つ男の左手を打った。
「ぐあっ!」
男は短刀を取り落とし、うずくまった。痛みが激しいのか、反対の手で手首を押さえながら苦しげに震えている。
(雷? この子の能力なのか?)
蓮は驚きとともにアキナに視線を遣った。だが、ふっとその姿がぶれて、ガッ! 唐突にアキナが向かってきて、両肩に力を加えたのだった
「共犯の善財辰雄もさくっと制圧完了! アキナ=アフィリエ! びしっと窃盗犯二名、確保しました!」
蓮を羽交い締めにするアキナが、背後から勇壮に叫んだ。背中に柔らかくも暖かい感触が生じ、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
「ちょ……ちょっと。待って待って。一度離れて! 落ち着いて! 話を聞いてくれ! 俺はそこで転がってる奴の仲間じゃあないっての!」
女の子との慣れない接触にあたふたしつつ、蓮は必死に言葉を絞り出した。
すると後ろから、小走りの軽い足音が聞こえてきた。蓮が首だけでそちらを向くと、鞄を盗まれた女性が立っていた。息は上がっており、顔付きには必死さが感じられる。
(助かった! 頼む! この意味不明で、すごく心臓に悪い状況をどうにかしてくれ)
蓮が希望を抱いていると、女性は口を開いた。
「その人は共犯じゃあないんです! 私が泥棒に遭ったって知って、犯人を追いかけてくれたんです!」
女性は切羽詰まった声音で叫んだ。「んん? 何だって? それほんと?」怪訝な声が背後から聞こえて、しだいに拘束が緩み始めた。蓮は脚をもつれさせながらも、アキナから離れて向きを変えた。
アキナは眉を顰めて不審げに、蓮の全身を眺めていた。
「よーく見ると。いや見なくても。……別人、かな? うん、別人だ。まーたやっちゃったか。ダメだなー、私。おっちょこちょいだ……」
後悔している風な調子で、アキナはもごもごと口籠っていた。
蓮がどう応えていいか迷っていると、アキナはびしりと頭を下げた。
「ごめんなさい! こたびの検挙はただの人違い、もとい勘違い、そして思い違いでした! この借りは、必ずどこかでばっちり返します!
取り急ぎ友好の証として、私とあなたで握手しましょう! いえ、させて下さい! ぜひに!」
ばっと顔を上げ、アキナは右手を差し出してきた。表情は決意に満ちていたが、申し訳なさも感じられた。
蓮も右手を出した。アキナはさらに手を伸ばし、二人は握手した。すぐにぶんぶんとアキナは手を上下させ、蓮も無抵抗でそれに従う。
「よし! 仲直り完了! それではみなさん、また会う日まで! さようなら! アディオス!」
可愛らしいが朗々としたよく通る声で、アキナは切羽詰まった謝罪をした。すぐにさっと姿勢を正すとくるりと反転し、すたすたと歩き去っていく。
(何というか、嵐みたいな子だったな。思い込みが激しい割に、すぱっと謝れる素直さもあって。まあでも、逮捕されなくて良かった。
……というか待て待て。黒田とかいう窃盗犯は放置かよ! いったいぜんたい、何しに来たんだ? そそっかしすぎだろ!)
その場で安堵していた蓮だったが、やがて全力でアキナを追いかけ始めた。後ろからは、鞄を取り戻した女性も駆け足で従いて来ていた。
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