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しろニキ
ニキ視点
「ぅ”……」
ズキズキと痛む頭に目が覚めた。この痛みはきっと低気圧からくるものだろう。そう思い込んで、ベッドから降りる。
「っ……」
立ちくらみがして、ペタと床に座る。
自身の机に手を伸ばして、鉛のように重たい体に鞭を打って立ち上がる。体調不良じゃない、ただちょっと低気圧に弱いだけ。机の上に偶然あった頭痛薬を昨日の配信用のペットボトルの残り水で飲んだ。空になったペットボトルをごみ箱に投げ入れて、そのうち薬が効力を発揮する事を願って、身支度を済ませようと活動し始める。
雨の日の逢瀬。周りにとってはただの雨でも、俺にとっては一年に一度しかない貴重な一日。だからこそ、体調不良なぞにはなりたくはない。そう考えながら洗面所に行けば、大爆発した髪の毛が目に入った。
一旦風呂に入るかぁ、と少しの面倒くささを感じながら着替えを取りに行って、風呂場に入る。
今日は彼とどんな話を繰り広げようか。恋人として会う時は基本的に動画とか、編集の話をするのは御法度。ニキとしろせんせーとして会っている訳じゃないからこそ、今日を憩いの時間にするための暗黙の了解。シャワーを浴びながら、そんな事を考える。
「〜♪」
風呂を上がれば、やっと頭痛薬が効いてきたのか大分調子も良くなってきて、鼻唄を奏でながら髪をセットする。こんなにも時間を贅沢に使えるのは俺も彼も早起きをする人間では無いので、お昼過ぎからのお約束にしているから。それに加えて、雨の日は湿気で髪がとんでもない事になるのが目に見えるので、彼には迎えに来るように頼んでいる。好きな人と会う日くらい綺麗に繕いたいだろう。…なんかめっちゃ女々しいかも。
「んー、まぁまぁまぁ…」
妥協できるくらいには上手くセットできた方だと思う。不器用なりに頑張った。偉い。これならば、彼の隣を歩いても恥ずかしくない格好だと自信を持つ。
髪のセットが終わって数分後にピンポーンとドアチャイムが鳴った。最後に全身ミラーでおかしな所は無いか確認して、急いで玄関に向かって扉を開けた。
「待ったか?」
「そらもう、めっちゃ」
「すまんな、笑」
目先には大好きな恋人が居て、朝の憂鬱な時間は至福な時間に変換される。差し出された彼の傘に入り込んで、肩と肩がぶつかりそうな距離まで近寄る。
「っ、ニキ、それは…」
「それらしく振る舞わなければバレないよ…」
似たり寄ったりな俺たち。だからこそ、二人して怖かった。周りからどう見られているのか、過敏に反応してしまう。この感情を常日頃から受け止めれるほど俺らは強くなかった。多様性だなんだと言われ、他人は自分の事をあまり見ていないと、自身の気にし過ぎなのだと知っていようが、怖いものは怖い。後ろ指を刺されながら生きていくのは億劫なのだ。
「今日はやけにお洒落さんやな」
柄じゃないけれど彼に貰ったネックレスを付けてみたりして、小洒落た服を着飾った。
「だろ?」
お洒落な彼に褒められて、ちょっと調子に乗ってみる。正直、半分は本気で嬉しかった。
「くぁ…」
「…ニキは昨日楽しみ過ぎて寝れんかったん?笑」
「るっせ」
そうやって、他愛もない話を続ける。思いの外、話に詰まることなんて無くて、溜まりに溜まった話題は幾ら話しても全てを消化することは難しかった。
それからショッピングモールに行って、普段使いできそうなお揃いの物を買って、全然話し足りない俺たちは何処にでもある少し小洒落たレストランで食事を済ませた。
彼がお会計を済ませている間に外で待ってろと言われたので、行先もなくふらりふらりと歩く。ガラス張りの建物から外を見やればどうやら雨は止んでいるようで、傘を差す必要はなさそう。
短冊に願い事を書いて竹や笹に括り付ける、七夕特有のイベントと言えばいいのだろうか。知らぬ間にそういうイベントをしている場所の近くまで歩いていた。時折、微風が頬を撫でる。こんな弱っちい風に靡ける短冊が羨ましい。そんな事を考えながら、ぼんやりと赤の他人が書いた願い事を見ていく。『お金持ちになりたい』、『好きな人と結ばれたい』、『子どもが欲しい』だとか…多種多様な冀求に溢れている。
「ニキ…」
消え入りそうな声で俺の名前を呼ぶ声がして振り向こうとした刹那、腕を掴まれた。ふわりとアクアサポンの香りがしてボビーだと気づく。目を大きく見開いて、どこか焦ったかのように少量の汗を垂らし、肩で呼吸を整えている。
「…短冊書くか?」
「…ボビーはなんか書く?」
「ニキが書くならな」
自然とここまで来たけれど、別に短冊が書きたかった訳じゃない。でも、彼がそう受け取ってしまうのもわかる。
「別にいいかなぁ…」
「なら帰るか?」
「うん」
そして次の行先はボビーの家。こんな状態でラブホなんて行ってしまえば、俺らの関係は崩壊してしまう。大方、受付でチビって終わる未来しか見えない。
「……」
雨が降っていないから、傘が差せない。
傘が差せないから、顔が隠せない。
顔が見えるってのは身バレに繋がる可能性があるから怖く感じる。でも、それ以上に同性と付き合っている事実をフルオープンに振る舞うことが怖い。雨が降っていれば、傘が差せる状況下なら、きっと誤魔化しが効くから。昼間は許された行動でも、今は許されない行動。
「家までの辛抱やで…」
眉を顰めながら俺を宥める彼を見て、足早に帰りたくなる。
「さっさと帰ろ」
早く帰って誰にも見られない空間で二人きりで過ごしたいから、彼を急かした。
✺
「あっつ…」
彼の家の玄関を開けると蒸し暑い風が押し寄せてきた。外よりも家の方が暑いことってよくあると思う。
「ニキ、先に風呂入るか?」
「…そうする」
まだ外の方が涼しくて少し突っ立っていれば、そそくさと部屋のエアコンを付けに行った彼が戻ってきて風呂に入るか提案してくれたので、有難くその提案に乗った。
シャワーで汗を流して、清々とした気分。一日に二回も風呂に入る事自体はあんまり好きじゃないし、柄じゃなさすぎるんだけど。
「ボビー、ドライヤー」
「あいよ」
「さんきゅー」
風呂場に行こうとしていた彼に都合がいいからとドライヤーを持ってこさせた。そのままドライヤーで髪を乾かして、エアコンの効いた部屋でぐったりとする。
どうやら彼も風呂に入ったらしく、シャワーの音がほんのり聴こえた。ふと、喉が渇いて勝手に冷蔵庫を漁る。今はあっさりしたものが飲みたいよな、なんて考えながら、麦茶を手に取った。蓋を開けて飲めば、冷えた液体が喉を通る。
「あ…」
冷たすぎる液体に少し後悔をしていれば、風呂上がりの彼がリビングに来てしまった。そちらに顔を向ければ、不思議と彼が魅力的に見えて目が離せなくなった。
「俺に見蕩れてもうたん?笑」
水の滴るいい男とはこの事かと思う。俺よりも様になってるのは少し妬ましい。
寝室で待っていても良いとは言われたけれど、寝てしまいそうなので辞めた。ドライヤーの音を片耳に、目を瞑って感覚を研ぎ澄ます。
「ニキ…笑」
寝たと思われたのか彼は半笑いしている。別に眠くもないし、起きているけれど、面白がって寝たふりを続ける。視界が真っ暗で何もわかりやしないけれど、不意に浮遊感に包まれた。
「っ、!」
驚いて、咄嗟に彼の服を掴んだ。
「寝たフリはもうお終いか?笑」
目も開けてしまったし、もう悪戯は出来ない。彼は嘲笑しながら、丁寧に俺を姫抱きしたまま寝室へと足を進めていく。
寝室まで俺を運んで、ひんやりとしたシーツに優しく降ろす。ベッドランプに手を伸ばして、俺に覆い被さるようにベッドスプリングを鳴らしながら距離を縮められる。
「…ニキ、ええか」
「んふ、いーよ…」
勿論、恋人なのだしそれらしい事はしたい。
数年前に初めて行為をした時は二人して嬉しさから泣いたっけか。懐かしい。
「何考えとんの」
「んや、初めてのとき二人して泣いたよなぁって」
「ああ、懐かしいな」
彼も懐かしいと笑うものだから、同じ感性を持ち合わせている事実に悦びを覚える。
「な、に?」
サラ、と俺の目を隠す前髪を掻き分けるように動く彼の指。その行動が不思議で堪らなくて真意を問う。
「全部をお前の目に焼き付けて欲しくてなぁ」
到底納得のいく回答ではなかったけれど、彼がそれで私欲を満たせるなら別に良いと思う。
「ニキ」
言葉を交わさずとも名前を呼ばれればなんとなく、彼がしたいこともわかる。その意図を汲み取った上で彼を受け入れる。
「っ、ん…ぁ…」
生暖かいローションを纏った指が後孔を添わせ、つぷ、と侵入してくる。
「ぁ、は…ッん…、…ぅ”、ッ…」
拡げるように、愛でるように動く指に翻弄されて、いい所を掠められて声が漏れる。
「ニキ、もうええか」
「ん…おいで…」
あれ以降も愛撫され、彼は前戯を程々に欲情を滾らせて、強請るように見つめてくる。おいで、と俺も求めれば、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「いくで」
「ぅ、…あ、ぁあ…ッ、…ぼび、ッ…」
久方ぶりの恋人の熱に無駄に聡い身体が反応する。一年分の愛情を求めて名を呼ぶ。
「ニキ」
名を呼べば、逐一俺の名を呼び返してくれる。
その度に彼への想いが溢れていく。
「ぼ、びぃ…」
一日じゃあ時間が足りない。
かといって、会う日数を増やせば何のためにこっそりと会っているのかが危ぶまれてしまう。これ以上求めてはいけない。求めすぎればすぎるだけ、過敏になってしまうから。そんな事ならば、初めから会わなければいいのだ。
新しい一歩踏み出すには十分なほど彼とは付き合ってきた。でも、新しい一歩を踏み出すための足並みは一切揃っていない。きっとこれが、俺ららしい。これ以上何かすれば、この細い綱渡りは上手くいかない。ギリギリの、あるかも分からない薄い綱。それを繋ぐのは、他の何者でもない恋人への想いだから。
「ニキ」
貴方が愛おしく、哀しい声色で俺の名を呼ぶ度に、この時間の終焉が見えてくる。その兆しが胸に寂寞を刻む。だから、少しでも貴方を最も身近な存在として感じていたい。
ベッドシーツと接触している彼の手の隙間を縫って、自身の手を絡め合わせた。そんな俺の様子にどうしたの、と優しく問うてくれる。
「好き、だから…身も心も、全部、繋がってたい……」
込み上げる羞恥心に徐々に小声になっていった。だが、彼の耳には一言一句全て届いたらしい。
「狡いわ…」
余裕なさげにがめつい接吻をしてくる。
「ん…ふ、っ……」
ふに、と柔らかい唇の感触がして、そのまま舌が入り込んできて、甘やかされるように、口内を愛撫される。ふわりと熱に浮かされて、覚束無い思考回路は脳に多幸感と彼への想いを発信する。
「ニキ?泣かんで…?」
彼に指摘されて、泣いていることに気がついた。きっとこの涙は、嬉し涙だ。たとえ一年に一度しか恋人として会えなかろうが、彼への思慕が薄れることはなかった。そんな俺の想いなんて知らない彼は、心配げに指で涙を拭ってくれる。
「ふ、へ……」
溢れる涙を拭ってくれる手の上に自身の手を重ねて、自分でもわかるくらい綻んだ顔で彼を見つめる。
「…ふ、かわえ」
彼の優しさに、温もりに包まれる。可愛い、そんな言葉ひとつにどうしても甘えたくなってしまう。だから、今日だけはyoutuberとしてのニキという重荷を下ろして居られる。
「続けてええ?」
彼のお願いにコクリと頷けば、揺らりと彼は動く。
「ん、…ぁ、…ふ、ぅ…、…ん」
穏やかに波立つ感覚に溺れていく。
「ん、ぅ……、ぼ、びー…ぼび、…」
透き通った絢爛な深紅の瞳を捉える。月夜に照らされて彼の不健康に見える色素の薄い肌も艶のある漆黒と紫メッシュの入った髪も、お世辞にも筋肉がついているとはいえない細身な体をも赤裸々に。それ即ち、きっと俺の痴態も丸見えってことになるけれど、彼になら見られても良いと思ってしまう。そう思って、重ね合わせた手の指と指を絡め合わせた。
体勢を変えようと彼が動いた際に重心がズレたのか、それとも意図的か、強く手を握られた。
「…ッ〜?…ぇ、あっ?…?、ッ?」
刹那、ビリビリと稲妻が全身を駆け巡って、視界が白飛びする。
「ひ、ぅッ…、まっ、て…ッ…ぼび、っ…」
何にも情報が入り込んでこないのに彼が動こうとするものだから、余裕なく動かないでとせがむことしか出来ない。性的嗜虐じみた行為に穏やかに波打つ感覚を上書きするほどの強烈な荒波に溺れる。
「…はぁっ、は、ふ…ぼび、うご、いてッ…」
ちょっぴり意地悪に、我儘なお願いを待ての命令に大人しく従ってくれた彼に与える。
「っん…、ぁッ……ふ…ぅ、ぅ”…んッ…」
緩やかに動かれるだけで官能的な快楽に呑み込まれる。
「このまま激しく動いたらお前はどうなってまうんやろな」
「…っん、…ためしてみる?」
「また今度な」
挑発に乗ってはくれなかったけれど、来年も付き合ってくれるのなら今はいいと思える。
「ッひ、ぁ…、ッん…ぅ…、ぁ、あ゛ッ…」
来年も、なんて確信の無い口約束に心躍らせていると、彼は求めるように動いてくる。それに応えるかのように腰を揺らして、貪り合う。
「ん、ぁッ…は、ッ…あぁッ…あッ…!」
「っ、く…」
そのうち絶頂を迎え、特有の倦怠感に襲われる。
呼吸を整えて、疲弊仕切った体を布団に沈める。
互いに多少は体力も残っていて、もう一度身体を重ねたい気持ちはある。だけれども、これ以上身体を重ねれば次が待ち遠しくなりすぎてしまう。深く在りたい。けれども、深くなりすぎると生活に支障が出てきてしまうと理解っているから、この劣情を鎮める他ないのだ。
「ボビー」
横臥する恋人の方を向いて、名を呼んだ。こちらに寝返ってくれた彼の頬をぺちぺちと軽く叩いて、遊ぶ。
痺れを切らした彼はされるがままな状態を辞め、口を開く。
「なんやねん」
「…俺のこと抱きしめてよ」
唐突な俺の要求にも彼は応えてくれる。彼の吸う煙草の匂いに包まれる。いつもの香水の匂いがしないからこそ、より一層煙草の匂いが際立つ。鼻をかすめる煙草の匂いは嫌いじゃなかった。彼がすぐそばに居ると誇張してくれるから。
「おやすみ」
いつもより少し低い声で囁かれ、より緩慢とした雰囲気に呑まれて微睡む。
「ん……ぉや、すみ……」
目を瞑れば、特有の浮遊感がやってきて、愛しき恋人を傍に感じたまま意識はフェードアウトしていった。
✺
「ぅ………まぶし……」
厚手のカーテンを勢いよく開けられて、あまりの眩しさに手元にあった掛け布団を頭から被った。
「ぁ…っ……か、ぇして…」
掛け布団を剥ぎ取られて、重たい瞼を薄ら開ける。
「ほれ、朝やぞ」
眩しい。昨日の雨が嘘のように快晴で、時間経過と共に日溜まりをつくる程に太陽は光り輝いていた。
「んぅ、ぅ”……」
目を細めているからか彼がどんな表情をしているのかよく見えなくて、手を伸ばす。そのまま彼の首あたりに腕を回して、グッとこちらに引き寄せる。
彼の顔をじっくり見れば、うっとりとした表情でこちらを愛おしそうに見つめる、多幸感に包まれた深紅の瞳と目が合った。
「ん…」
彼と距離が縮まったことによって、彼の体温が伝わってきて暖かさに微睡み始める。
「こら、寝んな」
「…おきてるもん」
舌っ足らずな言葉で反抗したが、彼には軽く笑われた。
「どうしたら起きてくれるん?」
うんうんと唸って、回らない頭をゆっくり回す。
「……おはようのちゅーして」
「そうかい」
冗談のつもりだったのだが、軽いリップ音が部屋に木霊した。
「起きた?」
「んーん、まだ…」
少し良い気になって、遠回しにキスを強請ってみる。
「起きるまで何度でもしたるわ」
優しい彼は俺の我儘にも嫌な顔せず付き合ってくれる。こういうところにまた彼への想いが募る。そして彼の顔を見つめて、端整な顔立ちに惚れ惚れとする。
「…起きたか?」
キスの雨を降らすことを止め、再び確認してくる。
「ん、おはよ」
「はよ」
まだ少し眠たいが、流石にこれ以上は俺の方が恥ずかしくなってしまうので、起きたように振る舞う。
「…んゎ、」
「愛しとるよ、ほんまに」
「どしたのきゅうに…」
むくり、と体を起こした途端、彼が抱き着いてくるものだからびっくりした。
「俺がこんなんやから、お前も辛いやろ…」
失笑しながら、この歪な関係に口出しをしてくる。俺だって機密な関係を望んだ結果がこれなのだから、彼が思い詰める必要なんてないと思うんだけどなぁ。
「そんなことないよ」
決して薄倖では無かった。世間一般的にこの関係は歪なのだろうけれど、たった二十四時間という短い時間の中で愛を確かめ合うように過ごすのは一年に一度の楽しみかつ、この上ない幸福な時間だ。
「…ね、ボビーは幸せ?」
「俺は幸せよ。ニキは…?」
「俺も、幸せだよ」
これでいい、これがいい。
下手に求め過ぎても上手くいかないんだから、恋人未満の関係の方が距離が近いくらいが丁度いい。この些かな幸せを変わらず感じられるのなら、きっと現状維持が最善手。ぎゅう、と音がするくらい強く抱き締め合う。
「飯作ってくるわ」
名残惜しさを鎮めているうちに彼は動き出す。
戸の閉まる音を聴いて何となく、ヤニを接種したくなった。ひっそりと彼のライターと紙煙草一本を拝借して、ベランダに出てみれば、ゲオスミンが鼻腔をくすぐる。
煙草を咥えて、カチッと音を鳴らすライターで火をおこし、先端に当てる。火を灯した煙草はどんどんすり減り、紫煙が空高く舞い踊る。靄が塵となって消え去ってしまう前にめいっぱい吸って、肺を紫煙で充満させる。
「…はぁ」
そして、溜息のように紫煙を吐き出す。
彼と会う日は毎度ながら煙草を吸うことさえ忘れて夢中になる。それはきっと非日常的で有為転変だから。一秒たりとも無駄にしたくないと、ヤニを接種する時間を惜しむくらいに彼に惑溺してしまっているから。
そんな想いとは相反して、空気中を漂う紫煙は薄れるばかりだ。
「ニキ、食おうや」
ガラ、と戸が開く音がして振り向けば、恋人が朝食を作ってくれたらしく、俺を呼びに来てくれていた。
「今行く」
灰皿に煙草を押し付けて火を消し、朝焼けに照らされた彼の方へと足を進めた。
戸を跨げば、仄かにいい匂いがする。進む度に濃くなる匂いに期待値は一気に高まり、食欲が増す。
「わ…!」
「お前さんこれ好きやろ?」
周りからよく意外と言われる、素朴な食事。気乗りした日は自分で作ったりもするくらいには大好き。まあ、そんなの極々稀で一年に一回あるかないかくらいだけれども。炊きたてのご飯を茶碗によそってから席に着く。再びじっくりと見れば、ほかほかのご飯にお味噌汁、焼き魚にだし巻き玉子…いわゆる和食と言われるもの。興奮のあまり手を合わせようとして、勢いを殺せずパンと音を鳴らしてしまう。
「いただきます」
箸を手に取って、まずお味噌汁に手をつける。ふわふわのだし巻き玉子を一口サイズに分割させて、口に運ぶ。
「うま…」
自然と声が漏れた。どこか懐かしい、母の味を思い出させる味が口内に広がる。あまりの美味しさに夢中になって箸を進めて、腹を満たした。きちんと食への感謝を忘れずにご馳走様でしたと声に出し、立ち上がって食器を片す。皿同士が軽くぶつかり合う音と水の流れる音を反響させた。
洗い終わって時計を見れば、秒針が十二を指そうとしている。この幸福のタイムリミットが迫り来る感覚に、ただ漠然とやってくる虚しさに抗う術なく打ちひしがれるだけ。
「もうそろ帰るかあ」
そう言って、荷物をまとめる。
出来ることなら帰りたくないと、喉奥まで込み上げる言葉を飲み込んだとて、刻々と時間は経過する。既に溢れ出る想いを抑えて、玄関に向かう。
「ボビー」
「なんや」
「愛してるよ」
「…俺も愛しとる」
一瞬目を見開いて驚いていたがすぐさま表情を変えて、もの柔らかく微笑みながら返答してくれた。
「またな」
「また」
明日も彼とは会える。でもそれは仕事仲間として、ニキとしろせんせーというキャラクターの道化を演じる為になのだ。そこに恋愛という情は一切介入しない。
だから次『恋人』として彼と会うのは、一年後の今日。
まるで織姫と彦星みたいに。