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結局、ほとんど眠れないまま夜が過ぎ、徐々に空が明らんでいき、やがて太陽が昇った。
林はそれらを付け書院に腰掛けながら見守ると、ゆっくりと立ち上がった。
導きだした結論に、決心はつかない。
でも出社しなければ。
自分の部屋に行くと、ベッドはなかったが、洋服ダンスはかろうじて残っていた。
開けてみると、クリーニングの済んだスーツと数着のワイシャツがハンガーにかかっていた。
「――――」
入社した時に、父親がモールで買ってくれたものだ。
黒の生地に、淡いグレーのストライプが入っている、いわゆるリクルートスーツだ。
あれから4年。
自分は何か、変わったのだろうか。
車に乗り込む。
エンジンをかけようとしたところで気が付いた。
やけに車内がきれいだ。
驚いてドアを開け、外から車を見下ろす。
ホワイトパールのその車は、ピカピカに洗車されていた。
おそらく早く起きた父が、こっそりやってくれたのだろう。
「―――」
胸に熱い何かがこみ上げ、林はそれをごまかす様に車に乗り込み、シートベルトを勢いよく引いた。
この車も入社直前に父親が買ってくれた。
もうすぐ5年目に入るが、営業という職種柄、距離数がのび、すでに10万キロを超えようとしている。
「―――ごめんな」
なぜだか、4年間一緒に過ごしたスーツに、そして愛車に、その言葉が出た。
かき消すようにエンジンをかける。
答えはもう、とっくに出ていた。
紫雨に叱られる前から。
いや、ペナルティになる前から。
もしかしたら―――。
最初から―――。
『………JUJUJUJUJUJUJU』
「――?!」
テープが壊れたような、爆音が響き渡り、驚きのあまりシートの上で身体が跳ねた。
『JUJUJU BE JUMP!!FM!!』
―――ビージャンプエフエム?
どこかで聞いたことのあるような―――。
優雅なクラシックピアノが聞こえてくる。
これは確か、ショパン作曲“子犬のワルツ”だ。
『Good morning!どんな朝をお過ごしですか?』
そこまで聞いてやっと、起動したオーディオから流れ始めたラジオの音声だったとわかった。
普段ラジオは聞かないのだが、父親が車を掃除してくれた時に、ボタンを押してしまったらしい。
『お送りしております“モーニングカフェ”。水曜日のお相手は私、サテライト後藤がお送りしております。通勤通学のお供に、家事の合間に、つかの間の休息に、もうしばしの間、お付き合いくださいませ』
妙にダンディーな声が、胡散臭い自己紹介をしている。
『さあ、水曜日の朝と言えばこのコーナー……』
唐突に音楽が消える。
『“教えて!プロフェッッッショナル~!!”』
「……ぷっ」
無駄にエコーを聞かせた声と無駄にためた言葉に、林は笑うとやっと車を発進させた。
テレビ番組の、それこそ毎週どこかの誰かを取材し、その苦楽を編集して伝える某有名番組をあからさまに意識したバックミュージックが流れる。
「いいのか、これ?」
半ば呆れながら聞いていると、
『さて、このコーナーは、“生きとし生けるもの誰もが何かのプロフェッショナル“をテーマに、いろんな職業やその技術を紹介していくコーナーでぇす』
サテライト後藤が、また低く良い声を響かせる。
『今日、紹介させていただくのは、ナソパニックが誇る新商品。光触媒の外壁タイル。光クリンです!』
「―あ」
(昨日、展示場で録ったやつだ。こんなに早く番組になるのか…)
林は音量のつまみを上げた。
『今回話を聞いたのは、ナソパニックの広報宣伝部、花崎さんです。花崎さん、おはようございます!』
『おはようございます!』
「え?」
展示場に、パーソナリティは来ていなかったはずだ。
編集でくっつけたのか。
『そして今日はもう一人、スペシャルゲストに来ていただきました。普段、たくさんの家に携わっている、セゾンエスペース八尾首展示場の新谷さんです。新谷さん、おはようございます!』
『おはようございます!』
新谷の元気な声がスピーカーから聞こえてくる。
『この外壁タイル、引き渡したお客様たちからものすごく評判がいいんですよ』
新谷の嬉しそうな声が続く。
『他の家とまるで違うって!』
『へえ、そうなんですね!』
サテライト後藤の相槌が、まるで彼がそこにいたかのように答える。
『さあ、今日お二人にご紹介いただくのは、光触媒タイル、ということなんですが、簡単簡潔に言うと、このタイルは他の一般的なタイルと比べて、何が違うんですか?』
サテライト後藤が言うと、花崎の声がまるで答えるかのように続く。
『簡単に言えば、太陽の光を取り込んだタイルが、雨の力を借りて汚れを自動的に落とす、魔法のタイルなんですよ』
編集した花崎の声が続く。
『魔法ですか!すごいですね!ナソパニックが誇る光触媒の技術を見せていただきましょう!』
そこからは実際に目の前で行われた実験をまるでスタジオでやっているかのような臨場感で伝えられていく。
『おお…!』
『すごい』
『―――ほんとだ』
いつの間に録ったのか、新谷の小さなリアクションまで、すべてちゃんと入っている。
『もう一つ、当社の光クリンには、秘密があります!新谷さん、なんだかわかりますか?』
『ええと―――』
チッチッチッチッチッチッチッチ
クイズ番組のような効果音が入る。
ピンポーン!
『経年劣化が関係しているんですか?』
『うーん。ほぼ正解です。しかし外壁材にとっての経年劣化とは何でしょうね?』
チッチッチッチッチッチッチッチ
『はい、時間切れでーす』
サテライト後藤が言い、
『OH~~』
残念そうなオーディエンスの声が入る。
『花崎さん、正解をお願いします!』
『それは―――色褪せです!』
サテライト後藤の声に、花崎の声が答えると、
キラキラキラン。
大げさなほどの効果音が入る。
『なんと!色褪せしないってことですか?花崎さん!』
『そうなんです。当社のタイルなら、色褪せないまま、汚れないまま、美しさを保つことができます!』
「―――すごい」
林はハンドルを握りながら思わず感心した。
専門的な知識は半分以下に削られている。
簡潔で聞いた人がわかりやすく、最低限の情報だけ厳選され、大げさなまでに大胆に伝えている。
技術の高さも、タイルの美しさも、実験の効果も、耳でしか聞いていないリスナーにはわからない。
だがしかし、『ナソパニック』の『光クリン』が『自動的にきれいになり』、『色褪せない』という情報だけは、印象に残る。
「―――これが、ラジオか」
全くの作りものだ。
会話の順番も、新谷の反応も、パーソナリティーの相槌も、すべてがバラバラに分解され組み合わされた作りものだ。
それなのに。
なんて、わかりやすい―――。
そこには現場に居合わせ、会話に混ざり、こちらにマイクを向けていた「BE JAMPエフエム」の社長、和氣はいない。
傍らにいたはずの金子も細越も林もいない。
まるでスタジオに花崎と新谷が来たような臨場感と、的を絞った情報がそこにはあった。
―――リアルなんて、要らないんだ。
林は改めて気づいたラジオの技術と本質に、軽く唸った。
サテライト後藤が選曲したセンスのいい音楽を聴き、CMを挟むと、番組はいきなり、しんみりとしたオルゴール音に変わった。
『9年前の今日、東北・関東大地震は起こりました』
―――あ。
林はディスプレイに表示された日時を見た。
そうだ。すっかり忘れていた。
今日はあの震災から、9年だ。
東北を襲った直下型の地震。
その余震が全国を襲い、被害が大きかったのはむしろ関東の方だった。
2階建て木造住宅の多くが被害を受け、モールの天井が落ち、橋が崩れ、3000人余りの尊い命を失った。
林が生まれ育った天賀谷市も震度5強という揺れに襲われ、電気、水道というライフラインが止まり、交通機関もマヒした。
父親から高校に送ってもらう途中だったため、車の中で揺れを感じた。
サスペンションに衝撃を吸収され、実際にどれくらいの揺れが天賀谷市を襲ったのかはわからなかった。
それでも建物から出てくる人々の、恐怖に歪んだ顔が、目が、揺れの大きさと激しさを物語っていた。
ただ、ただ、怖かった。
自分が生きていた世界が、強制的に何かによって壊される恐怖。
続く余震と、火事や倒壊による二次災害に巻き込まれ、昨日までそばにいた人たちが、また会えるとは言い切れない恐怖。
『BE JUMPエフエムでは、あの日の恐怖を、あの日失った命を、あの日得た教訓を、永遠に風化しないよう、これから、あえてあの日の音声を流します。苦手な方、お辛い方は、ここで放送をお切りくださいますよう、よろしくお願いいたします』
かしこまったサテライト後藤の声が、耳に響く。
(―――ラジオのくせに。ここで放送をお切りください、だと?)
驚きながら耳を澄ませると、
『―――番組の途中ですが、臨時ニュースをお送りします。ただいま、東北を震源とする地震が発生しました。震源地は宮城県仙台市、地震の規模を示すマグニチュードは6.4。震度は次の通りです。宮城県仙台市震度6強。宮城県―――――』
震度が続く。
林はあの日の惨状と、得も言われぬ緊張感を思い出し、ハンドルを握る手に力を込めた。
『――また緊急地震速報です。強い揺れに警戒してください。天賀谷市にありますこちらのスタジオも揺れております。
倒れやすい家具から離れ、テーブルの下などに入って身を守ってください。車を運転中の方は、慌てずに車をゆっくり止めてください。上から落ちてくるもの、倒れてくるものに気を付けてください。
地震の詳しい情報が入り次第お伝えします。繰り返します―――』
そこで音声が途切れ、落ち着いたオルゴールの音が、聞こえてきた。
『私たちはあの日の恐怖を忘れません。
あの日得た教訓を忘れません。
あのとき大切な人を想った、愛を忘れません。
今日の当たり前が、明日にもあることの素晴らしさを、尊さを、決して忘れません』
サテライト後藤の声が胸に響く。
『BE JUMPエフエムと、私たちパーソナリティーは、“伝えないと伝わらない”をモットーに、これからも人々に役立つ情報を、温かい愛を、届けていきたいと思います』
音楽が高まる。
先ほどの編集されたコーナーとは打ってかわって、こちらは身体が震えるほどの徹底されたリアル。
―――伝えないと、伝わらない。
林はその泣きたくなるような音楽を聴きながら、展示場の駐車場にハンドルを切った。