「―――あれ?」
8時。
いつも朝の早い室井や猪尾はとっくに来ている時刻なのに、駐車場には誰の車も停まっていなかった。
いつの間にかラジオは、またオープニングと同じ“子犬のワルツ”に戻っていた。
『―――さあ、お楽しみいただけましたでしょうか?モーニングカフェ。水曜日のお相手は、サテライト後藤でした。Bye bye!!』
「――あ。水曜か…」
林はエンジンを切った。
今日はハウスメーカーの大半がそうであるように、セゾンの定休日である水曜日だ。
いろいろありすぎて曜日の感覚さえ薄れていた。
がらんと静まり返った駐車場に車を停めると、誰もいないとわかっている展示場に向けて、歩き出した。
(―――紫雨さんは今頃何をしているだろう)
朝日が色違いのブロックを引き詰めた遊歩道を明るく照らしている。
(今日休みなら、昨夜はもしかしたら本当に4人で飲みに行ったのかもしれないな…)
紫雨が新谷を必要以上に可愛がり、2人の近すぎる距離に、後輩の金子や細越があたふたしているさまが、まざまざと浮かぶ。
しかし怒りの感情は沸いてこなかった。
(―――遠いな)
林はまぶしすぎる遊歩道の上に足を進めた。
(彼らの存在が―――遠い)
つい昨日まで一緒に展示場の中にいたのに、一緒にアプローチ練習をしていたのに。
もう違う世界のことみたいだ。
「…………」
セゾンエスペース天賀谷展示場を見上げる。
「大きいなぁ…」
その78坪の北欧風の建物を見上げ、ため息をつく。
「こんな商品、年に10棟以上、よく売れるよ。篠崎マネージャーも…」
そして、
「紫雨マネージャーも」
ふっと笑いがこみ上げてきた。
夢だったのかもしれない。
こんな職場で働けたこと。
たった数棟とはいえ、お客様が自分から家を買ってくれたこと。
そして―――。
脳裏に両手をスラックスのポケットに突っ込み、小学生のように大口を開けて笑っている彼の笑顔が浮かぶ。
そして、紫雨と付き合えたことさえも―――。
ドアに手をかける。
「―――あれ。開いてる」
林はノブを回してドアを引いた。
ボーダーのシャツに、大きめの黒いニット。
細い肩口に揺れる茶色い髪の毛。
「―――紫雨さん」
そこには自分の席に座り、こちらを振り返った紫雨の姿があった。
◇◇◇◇◇
「なんでスーツ?今日は水曜日なのに」
紫雨は言葉だけ残して前を向くと、開いたノートパソコンの上に、白い指を走らせ始めた。
「セゾンは休日出勤も残業代もでねぇよ」
言いながらまだキーボードを打っている。
そういえば。
『だって、俺、今週も休みとれそうにないんだもん』
一昨日、不動産屋に行ったときに、そう言っていた。
「―――大変ですね」
林は框に上がると、彼の横に立った。
「何かあれば、手伝いますよ」
紫雨はちらりと振り返ったが、すぐディスプレイに視線を戻した。
「いーよ別に。どうせ外構屋への見積もり依頼とか、解体屋の契約書づくりとか、そんなんばっかりだから」
紫雨の指がキーボード上で踊り、緑色の血管が薄く浮き上がっている。
「――紫雨さん」
改めて名前を呼ぶと、やっと指を止めた紫雨は脇に立っている林を見上げた。
目が充血している。
昨日は遅くまで飲んでいたのだろうか。
「その仕事、長くかかりそうですか?」
「―――は?」
「もしお時間いただけるなら、お話があります」
林は意を決して言った。
すると、紫雨は今の今まで打っていたパソコンを迷いなくパタンと閉じると、林を見ながらゆっくりと立ち上がった。
「偶然だな。俺もだ」
和室の掘り炬燵に足を下ろし、向かい合って座った。
「初めて―――」
「は?」
林の言葉に紫雨が眉を顰める。
「初めて会ったのも、この和室でしたね」
言うと、紫雨は「そうだっけ」と言いながら首を傾げた。
「そうですよ」
林は微笑みながら言った。
「あんたが覚えてなくても俺は覚えてる」
23年で築き上げたアイデンティティを根本から覆すような存在感を放ちながら、あんたは俺の人生に土足で踏み込み、心臓を素手で鷲掴み、価値観と貞操を根こそぎ奪っていったんだ。
だからこそ、隣にいたかった。
どんな形でも、あなたに触れたかった。
どうしても、そばを離れたくなかった。
でももう―――。
社会人として、一人の大人の男として、
会社に迷惑はかけられない。
自分に嘘はつけない。
『伝えなければ、伝わらない』
先ほどのサテライト後藤の声が蘇る。
そうだ。
今、伝えないで―――。
―――いつ伝える?
「紫雨さん」
林は口を開いた。
「俺が好きなのは仕事じゃない」
紫雨が首を傾けながらこちらを見つめる。
「家でもなければ営業でもない」
「―――じゃあ……」
「4年間俺が好きだったのは、紫雨さん。あなただけだった」
◇◇◇◇◇
(―――何言ってんの、こいつ)
思いがけない林の告白に、紫雨はきょとんと金色の目を見開いた。
「あんたのことが好きだったから。好きで好きで仕方がなかったから、どうしてもそばにいたくて、この仕事にしがみついてしまいました。
向いてないなんて、とっくに気づいていたのに」
林はあろうことか、畳に手をついた。
「この店の足を引っ張って、すみませんでした」
林は鞄から封筒を取り出し、ケヤキで出来たテーブルの上に置いた。
「紫雨マネージャー。今まで、お世話になりました」
その白い封筒には、丁寧な字で、『退職願』と書かれていた。
「―――辞めんの?」
紫雨は視線を上げた。
「はい」
林が見つめ返す。
「マジで」
「はい」
林は小さな声で、しかしそれでも迷いのない声で、そう言い放った。
(――そうか……)
紫雨は視線をまた封筒に戻した。
(辞めるのか――)
何を狼狽えているのだ、自分は…。
篠崎の言う、背中を押すということはこういう意味だったはずだ。
林が本当に楽しめる職種に、輝ける会社に、旅立つのを見送ってやることだ。
それなのに、
なぜ―――。
「わかった」
言いながら出した手が震えている。
「――紫雨さん?」
小刻みに震えているはずの自分の手は、やがてにじんで見えなくなった。
「大丈夫ですか?」
林の声を聞いた途端、鼻から空気がグググッと入ってきた。
大きく呼吸を繰り返す。
「紫雨さん?」
ダメだ。
吸うんじゃなくて吐くんだ。
何を動揺している。
願ったりじゃないか。
俺から背中を押さなくても。
無理に説得しなくても、
自分で結論を出してくれた。
それでいい。
その判断で、正しい。
なのに―――。
俺は―――。
「こんなことを言うのは、わがままだとわかっているんですが」
林は言いにくそうに息をつくと、封筒を握った紫雨の手に、自分の手を被せた。
「仕事を辞めても、俺のことをそばにおいてくれますか?」
「―――!」
紫雨は顔を上げた。
「俺、セゾンの社員じゃなくなっても。あなたの部下じゃなくなっても、紫雨さんのそばにいてもいいですか?」
「――――」
胸がカッと熱くなる。
そしてじんわりと熱が伝わっていき、体中がポカポカと温かくなった。
―――そうか。
今やっと、わかった。
こいつを辞めさせたくなかったのは―――。
こいつにそばにいてもらいたかったのは―――。
俺だったんだ。
「……当たり前だろ」
紫雨はもう一つの手で林の手を握り返した。
「頼まれたって離すか、バーカ」
笑ったつもりだったのに、出てきたのは涙だった。
林が立ち上がり、数十万もするテーブルを乗り越えてくる。
ぐいと紫雨の腕を引くと、自分の胸にその体を抱きしめた。
「紫雨さん。そういえば車は?」
助手席に乗り込んだ紫雨に、林がシートベルトを引っ張りながら聞く。
「ああ。ちょっと、バッテリーが上がって」
紫雨のシートベルトを確認すると、林は車を発進させた。
「キャデラックのバッテリーさぁ、特殊な型らしくて、在庫ないから夕方になるって言われて。家から歩いてきた」
「へえ。真冬でもないのに。なんで上がったんでしょう」
林が首を傾げながら国道に車を出す。
「それじゃあ、紫雨さんのマンションに送って大丈夫ですか?」
聞くと、紫雨は少し照れくさそうに顔を背けた。
「―――いや」
「え?」
「お前ん家のアパートで、いい」
「え?でも車が……」
林がきょとんと助手席に座る紫雨を見つめる
「あ、うちで時間つぶします?」
言うと、
「いや違くて」
「?」
「―――」
紫雨は観念するように、こちらを振り返った。
「お前んちにあんだよ。俺の車!昨日の夜、一晩中待ってたから。寒くて車で暖を取ってたから、バッテリーあがったの!」
「――――!」
林は驚いて、運転中にも関わらず、紫雨を見つめた。
「あ――もう。何言わすんだ、バカ!」
紫雨の色白の肌が、みるみるうちに桜色に染まる。
「――――っ」
林はハンドルを切って国道から脇道に入った。、
「え、おい。どこに行くんだよ?」
側道を下り、前かがみになる車体に、紫雨は驚きながら取っ手を手でつかんだ。
「―――すみません。我慢していたんですが、家までもちそうにありません」
「は?」
高架下に車を滑らせると、陰になっているところに車を停めた。
「――は?おい…んん…っ」
文句を言う前に、ぐいと腰を寄せられ、唇を吸われた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!