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【はかなきもの】第6話
それから、さらに一週間が経った、
明日で丁度、謙治と出会って “二週間” だ。
「……ん、……」
約束の午前10時。
ベンチに座ってしばらく待つと、カラン、コロンと、今ではすっかり僕の心臓の鼓動と馴染んでしまった下駄の音が近づいてきた。
『あ! 幸一くん、待たせてごめんなぁ!』
藍色の着流しをはためかせながら、謙治がひょっこりと顔を覗き込んできた。
あんなに切ない境界線を感じさせた男とは思えないほど、謙治はいつものふにゃりとした笑顔を浮かべている。
「ううん、今来たところ。……じゃあ、行こっか」
『お、今日はどこ連れてってくれるん?
俺、昨日の夜からずぅーっと楽しみにしてたんやで?』
「ふふ、そんな大層なところじゃないよ。市電に乗って、隣町の賑やかな通りに行こうと思って」
『へぇー! 市電! ええなぁ、楽しそうやわ!』
謙治は子供のように目を輝かせ、僕の少し前を弾むように歩き出した。
この前、僕の家の居間で
“この世界に俺が居なくても何も変わらん”
と寂しそうに笑った彼を、少しでも楽しませたかった。
だから、両親と昔行ったことのある、一番活気のあるお洒落な街を選んだのだ。
市電に揺られている間も、謙治は窓の外を流れる景色を珍しそうに眺めていた。
街に着いてからは、西洋風のハイカラな建物が並ぶ通りを二人で並んで歩いた。
『わぁ、幸一くん見てみぃ! あの洋菓子、めっちゃ美味そうやで!』
「じゃあ、買っていこうか」
『ほんま!? やったぁ! やっぱり幸一くんは優しいなぁ〜!』
謙治は嬉しそうに僕の肩をぽんと叩く。
その度に、僕の心臓はうるさく脈打った。
いつも僕を揶揄うくせに、こういう時の謙治は本当に無邪気で、愛おしい。
一ヶ月後に彼が消えてしまうなんて、今のこの眩しい陽光の中では、どうしても信じられなかった。
――けれど楽しい時間というのは、いつも残酷なほど早く過ぎ去ってしまう。
気づけば、空にはあんなに輝いていた太陽の姿はなく、低く垂れ込めた、どす黒い雲があっという間空を覆い尽くしていた。
「あ……つめた、」
僕の頬に、ぽつりと冷たいものが当たった。
それが合図だったかのように、一瞬にして突風が吹き抜け、激しい雨の音が街を包み込んだ。
ザァァァァァアアア
『うわっ! めっちゃ降ってきたで!!』
「謙治、こっち! 軒下に入ろう!」
僕は謙治の手首を掴み、近くの古い木造の建物の軒下へと滑り込んだ。
けれど、春の嵐のような雨は激しく、横殴りの風が容赦なく僕たちの身体を打ち据える。
「冷たっ……! すごい雨……」
着慣れたシャツが瞬く間に雨を吸い、肌に張り付いていく。
冷気がじわじわと体温を奪い、僕の奥歯が少しガタガタと震えだした。
僕が腕を抱えて小さく身を縮めると、隣にいた謙治がハッとしたように目を見開いた。
『幸一くん、めちゃくちゃ震えとるやん……
そんな薄着じゃ凍えてまうわ』
「へ、平気だよ……これくらいッ……」
強がってみせたものの、寒さで声が震えてしまう。
すると、謙治は一歩踏み込み、自分の藍色の着流しの大きな袖をひらりと広げた。
『ええから、こっち来ぃ』
「ぇ、わっ……!?」
驚く暇もなかった。
謙治の細い両腕が僕の背中に回され、ぐっと力強く抱き寄せられる。
謙治の胸の中に、すっぽりと閉じ込められるような形になった。
「け、謙治……! 近いって、!」
『静かにしぃ。幸一くん、身体が氷みたいに冷たいで?……俺が温めたるから』
耳元で聞こえた謙治の声は、いつもの悪戯っぽいトーンではなく、優しくて、どこか焦ったような響きを含んでいた。
激しい雨の音。
僕のシャツ越しに伝わる、謙治の確かな体温。 水に濡れたことで、彼のまとう陽だまりのような香りが、微かな雨の香りと混ざり合って、いっそう強く僕を包み込む。
寒さとは違う理由で、僕の顔が一気に熱くなっていくのが分かった。
心臓が破裂しそうなほど、ドクドクと大きな音を立てている。
「謙治……苦しい、よ……」
『ごめんなぁ…でも、もうちょっとだけ、こうさせてな?』
謙治は僕の頭を、自分の胸へと優しく押し当てた。
僕を雨の寒さから、守ろうとしてくれている彼の背中や肩が、どんどん雨に濡れて色を変えていくのが見える。 自分の身体のことなんて、これっぽっちも気にしていないようなその不器用な優しさが、嬉しくて、そしてなんだか無性に切なかった。
どれくらいそうしていただろうか。
やがて雨が少し小降りになったのを見計らって、僕たちは濡れた身体のまま、急いで帰路についた。
カラン、コロン……
いつもより重い下駄の音を引きずりながら、謙治は僕の家の門の前まで送り届けてくれた。
髪の毛から水滴を滴らせ、お互いずぶ濡れの状態だった。
『ふふ、災難やったなぁ、幸一くん?』
「本当だよ……謙治、君のほうこそ、ずぶ濡れじゃないか」
『俺は平気平気! ……それより、幸一くん。家に入ったら、ちゃんと熱い湯船に浸かって、あったかくして寝るんやで?』
謙治は濡れた前髪をかき上げながら、ふにゃりと柔らかく笑った。
柔らかな光に照らされたその笑顔は、やっぱりどこか透き通っていて、今にも消えてしまいそうに見える。
「うん……分かった。謙治も、気をつけて帰るんだよ」
『じゃあな幸一くん、また明日なー!』
ひらひらと濡れた袖を振って、謙治は夜の闇の中へと歩いていく。
僕は彼の手が届かなくなるまでその後ろ姿を見送り、それから、鍵を開けて静かな家の中へと入った。
「……ハッ、クシュンッ」
小さく、くしゃみが出る。
両親が京都にいる広い家は、しんと静まり返っていて、いつもよりやけに冷たく感じられた。
お風呂に浸かっている間も、なぜだか身体の芯の冷えが取れない。
着流しに着替え、布団の中に潜り込む。 いつもなら、すぐに謙治のあの真っ直ぐな瞳や、抱きしめられた時の温かさを思い出してドキドキするはずなのに、なぜだか頭がズキズキと重かった。
「なんか、ちょっと…身体が熱いなぁ……」
気の所為だと思い、僕は毛布を頭まですっぽり被り、僕は重たい瞼を閉じた。
コメント
3件
うん、、!!二人とも可愛すぎません!?😇👍👍 2人の会話一生見てられる、、、
第6話、読みました。雨宿りのシーン、すごく良かったです。謙治が自分の体も濡れるのを顧みずに幸一くんを抱きしめて温める優しさに胸がぎゅっとなりました。あの「もうちょっとだけ、こうさせてな?」の台詞、切なくて…。幸一くんの心臓の音や「苦しい」という言葉の裏にあるときめきと切なさが伝わってきて、もうこの二人の関係性に完全に引き込まれています。ラストの「身体が熱い」が気になります。次が待ち遠しいです!
らてぃ
128
胡宮うらら°
64
ゆる
230