第10話 時の塔、再び
あの春の日から、幾つかの季節が過ぎた。
街は穏やかに、何事もなかったかのように日々を積み重ねていた。
“リメリア”――再生された街の名は、
いつしか「永遠の街」と呼ばれるようになっていた。
けれど、自分だけは気づいていた。
――この世界の“呼吸”が、少しずつ乱れていることに。
昼と夜の境界が、日に日に曖昧になっていく。
時計の針が微かに遅れ、太陽の位置が一定のまま動かない日もあった。
人々は気づかない。
だが自分の胸の中で、何かが静かに警鐘を鳴らしていた。
(時間が……また、歪み始めてる。)
図書館の奥の閲覧室。
いむくんの写真は、以前よりも色あせていた。
代わりに、壁に新しいひびが走っている。
その亀裂の中から、ほのかに光が漏れていた。
僕は指で触れた。
冷たく、深い感触。
その奥から、懐かしい音が聞こえた。
――。
まるで塔の鼓動。
いや、“時間の心臓”の鼓動だった。
次の瞬間、床がわずかに震えた。
ガラスの窓がかすかに鳴り、
リメリアの遠く、空の彼方――
かつて崩れた“時の塔”が、
再び赤く光り始めていた。
「……また、始まるんか。」
呟いた声が震える。
そして、背後から静かな声がした。
「――怖いの?」
振り返ると、ないちゃんが立っていた。
彼は以前よりも少し落ち着いた表情で、
目の奥に淡い光を宿していた。
「ないちゃん……」
「行くんでしょ? また、あの塔へ。」
言葉を失った。
ないちゃんはすべてを“思い出して”はいない。
それでも、どこかで理解しているようだった。
「この街は、君が守った世界なんでしょ?」
ないちゃんはそう言って、微笑んだ。
「でも、守るために止めたものは、いつかまた動き出す。
時間は止まることを嫌うから。」
ゆっくり頷いた。
「僕が行かなきゃ、また崩れるんや。」
「うん。でも……今回は、ひとりじゃない。」
ないちゃんはポケットから、小さな懐中時計を取り出した。
銀色のそれは、どこかで見たことがある。
裏面には、薄く文字が刻まれていた。
“To sho – when time begins again.”
僕の指が震えた。
「これ……いむくんの字だ。」
ないちゃんは静かに頷く。
「たぶん、彼が残した“始まりの鍵”だよ。」
その瞬間、街全体が低く唸った。
空が揺れ、時間がひと呼吸止まった。
遠くで、塔の光が強くなる。
「……呼んでる。」
「行こう。」
二人は駆け出した。
街の通りを抜け、橋を渡り、
あの日と同じ道を――
けれど今度は、ひとりではなかった。
リメリアの空は、ゆっくりと赤く染まっていく。
塔の光が鼓動のように脈打ち、風が時間の粒を巻き上げる。
やがて、塔の麓にたどり着いたとき、
そこには新しい扉が現れていた。
かつて僕が開いた“時間の心臓”とは違う。
今度の扉には、二人の影が映っている。
まるで、この世界の運命が二人に託されたかのように。
「……ないちゃん。」
「うん。」
彼は微笑んだ。
「今度は、“未来のため”に動かそ。」
扉に手をかけた瞬間、光が弾ける。
時の塔が再び鼓動を始め、
空に散っていた時間の欠片が、ひとつの渦を描いた。
――これは、終わりではない。
時間は、まためぐる。
そしてそのたびに、新しい物語が生まれる。
僕はリナないちゃん手を強く握った。
扉が開く。
光が二人を包み、世界が再びゆっくりと動き出す。
「行こ。僕たちの時間へ。」
その声とともに、塔の光が空へ昇り、
夜と朝の境界が、ひとつになった。
扉をくぐった瞬間、世界が反転した。
上も下もなく、音も匂いも失われ、ただ光だけが流れている。
その光は無数の糸のように漂い、空間のあらゆる方向へ伸びていた。
「……ここが、時間の中?」
ないちゃんの声が響く。
音が波紋のように広がり、遠くの光がそれに応えるように瞬いた。
僕は頷き、足を踏み出した。
足元には床などない。ただ、歩くたびに光が形をつ 照らしているようだった。
空間の中央に、ゆっくりと回転する巨大な結晶が浮かんでいる。
透明なそれは脈動し、無数の記憶を映し出していた。
人々の笑顔、涙、別れ、再会――
そのすべてが、時間の海の泡のように生まれては消えていく。
「これが……時間の心臓。」
僕が呟く。
ないちゃんが一歩前に出た。
「ねぇ、しょうちゃん。見て。」
結晶の一部に、いむくんの姿が映っていた。
いつもの制服のまま、静かに微笑んでいる。
「いむくん……」
胸が熱くなった。
ないちゃんは彼の手を取り、結晶へと導いた。
「彼は“記憶”じゃない。
君の選択で、時間の一部として存在してる。」
「存在……」
「そう。時間は、記憶の総和。
君が彼女を思い続けた限り、彼奴は“時間の心”の中で生き続ける。」
その言葉を聞いた瞬間、結晶が光を放った。
いむくんの姿がゆらりと揺れ、ないちゃんの声が響いた。
「……ありがとう。止めてくれて、動かしてくれて。」
「もう、どっちでもいいんだ。
時間が続く限り、僕たちはまた出会えるから。」
僕の頬を涙が伝う。
「いむくん……君は、本当に……」
「うん。僕はもう、“記憶”じゃない。
君たちの“今”の中にいる。」
光がいむくんを包み、やがて結晶の中へ溶けていった。
ないちゃんが僕の肩に手を置いた。
「ねぇ、聞こえた? “また出会える”って。」
「……うん。」
僕は微笑んだ。
結晶の奥から、低く重なる声が響く。
それは、時間そのものの声だった。
「――選ばれし者たちよ。
汝らが歩んだ記憶は、我の血脈となり、
再び世界に季節を与える。」
空間全体が震え、光が流れを変える。
僕とないちゃんの周囲を、無数の光の粒が舞った。
その一つひとつが、誰かの人生、誰かの願い。
ないちゃんが目を閉じ、手を差し出す。
「ねぇしょうちゃん、これが“動かす”ってことなんだね。」
僕は頷き、ないちゃんの手を握った。
「時間は流れ続ける。
だからこそ、僕たちは選び続けなきゃいけない。」
「怖くない?」
「怖い。でも……止まってしまう方が、もっと怖い。」
二人の手が触れた瞬間、結晶の中心が砕け、
光が爆ぜた。
世界が眩しく反転し、時間が奔流となって溢れ出す。
都市の時計が一斉に動き出し、
風が新しい季節を告げる。
リメリアの空に、再び虹がかかった。
僕とないちゃんは立っていた。
塔の外――朝の街の屋上で。
風が吹き抜け、遠くで鐘の音が響く。
ないちゃんが静かに笑った。
「……終わった?」
僕は首を振る。
「いや、“始まった”んや。」
空を見上げると、雲の隙間から光が降り注いでいた。
それは確かに、あの時の朝の光。
けれど、もう同じではない。
世界は、再び動き始めた。
そして、時間は――“彼らの手で”めぐり続ける。
次回最終話
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