「ちょ、ちょっと待って! どこまで行くんです、もうとっくに会社も出ちゃったんですけど」
「うるさい、さっきまでビビッて小さくなっていたくせに。親父が見えなくなった途端、ぎゃあぎゃあ騒ぎだすな」
自分だって人のこと言えないじゃない、社長室を後にして素に戻った|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》の言い方にイラッとしたが我慢した。あの時の彼は笑顔で冷静に見えたが、内心ではそうでもなかったのかもしれない。
神楽社長が昔の女性の話をした時は特に、神楽 朝陽の様子が変だった気もするし。いきなり恋人役を任された私には分からないことが多すぎて。
そんな事を考えていたら、神楽 朝陽は有名なデザイナーホテルのドアをくぐってそのまま奥のエレベーターに向かって歩いていく。
……何故、ホテル? それもこんな真昼間から。寝るにはどう考えても早すぎるし、私が連れて来られる理由も分からないのだけど。
「あの、ここには何の用で?」
「は? 用があるから来たんだろ、いちいち聞かなくても分かるだろうが」
いいえ、全然分かりません。そう言いたいけれど、言ったら今度こそ酷い目にあわされそうなので黙っておくしかない。
彼に続いてエレベーターに乗り込むと、押されたのは最上階のボタン。本当に何がどうなってるのか分からないまま、エレベーターから降ろされ強引に目の前の部屋の中へと押し込まれてしまった。
「もう少し丁寧に扱ってもらえませんか⁉ これでも一応は貴方の恋人役なんでしょう」
「分かってるのなら最後まで気を抜いたりするな、何があっても笑っていろと言ったはずだろう」
そう言われて、この部屋に着くまでがお芝居なのだという事に気付く。社長室を出た後から演技を忘れ素に戻ってしまったので、そんな私に慌てて彼はここまで連れて来たのかもしれない。
父親との会話で機嫌が悪いのもあるのだろう、|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》はいつもよりピリピリとした様子だった。だからといってここで黙って立っている訳にもいかない。さっきの事についてきちんと説明してもらわなくては。
「……それで、私の演技は合格でしたか? 確かそれを確かめるためでもあるって言ってましたよね」
「あんなハッキリと紹介しておいて、別の相手なんか連れて行けるわけないだろう? 多少不満はあるがギリ合格にしておいてやる」
ずいぶん上から目線だなと思ってみると、いつの間にか彼は眼鏡を外していて。過去の経験上、この人が眼鏡を外していると何故か意地悪度と嫌味レベルが増すので私としては全く嬉しくないのだけど。
だからといって眼鏡を外すなとも言いにくいので、私が神楽 朝陽の玩具にされないよう言動に気を付けるしかない。
「それはありがとうございます。これで迷惑料はチャラ、ってわけじゃあないんですよね?」
「当然だろ、むしろこれからが本番なんだ。この先さっきのような中途半端な事をした場合、ペナルティを受けてもらうからな」
「ペナルティですって⁉」
そんな大事な事は最初に言っておいて欲しい、これじゃあ後出しじゃんけんみたいで狡いような気がする。今になって言い出す所がドSな|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》らしいとは思うけれど、さすがに私だって不満を感じて。
納得いかないといういう顔で彼を睨めば、相手を喜ばせるだけで。どう考えても神楽 朝陽は自分の発言で、私が焦ったり戸惑ったり怒っていたりするの見てを楽しんでいるように思える。
ドSなうえに相当な性悪なのではないだろうか? こんな人に借りを作ってしまったことを今更後悔してもどうにもならないのだけど。
「不満か? 心配しなくてもいい、|鈴凪《すずな》が完璧な婚約者と花嫁を演じればなんの問題ないんだから」
「婚約者、は分かりますが花嫁って? 私の役目は神楽さんの恋人のフリをするだけじゃないんですか?」
確かにさっきの神楽社長との話では婚約するつもりだという話だった気もするが、それにしても花嫁とはいったい?
婚約者なら契約が終わった後すぐに有耶無耶にするのも難しくないだろうが、結婚式をするとなれば話は全く変わってくる。それも神楽グループの御曹司ともなれば規模も普通とはけた違いな可能性があるのに。
「……まさか私と貴方で結婚式を挙げる、なんて言いだしませんよね?」
「もちろんそこまでを契約内容に入れているが、それに何か問題でもあるのか?」
ええと、問題しかないと思いますが? 主に私にとっては、なのかもしれないですけれど。そう言ってしまいたいのに言えなくて、がっくりと肩を落としてしまう。
契約の内容を全て聞かないうちから「出来ない」というつもりはない。自分が彼にしたことを考えれば、やれるだけのことはやるべきだという気持ちもある。
だけど私にとって結婚式というのは特別なのものでもあって、簡単にそう話してみせる|神楽《かぐら》 |朝陽《あさひ》に少し戸惑っていた。
「結婚式を挙げれば、色々後が面倒になると思います。どうにか式を行わずに済ませることは出来ないんですか?」
私なりに考えて提案をしているつもりだった、その方が絶対にお互いの為になると思えたから。神楽 朝陽もそれを十分に分かっているはずなのに、それでも首を縦には振ることはなかった。
「……|鈴凪《すずな》の言いたい事は分かる。だがそれじゃあ駄目なんだ、そんな簡単な事ではきっと揺さぶられないだろうから」
「揺さぶる……?」
彼の言葉の意味が分からなくて続きを待つが、それ以上の事を神楽 朝陽は話そうとはしなかった。どうやら彼も相当訳ありなのかもしれない。こんな私に恋人役をさせるくらいなのだから。
言いにくい事を無理に話させるつもりもない、所詮は契約関係なだけなので恋人役を演じるのに不都合が無ければそれで構わない。そこに特別な感情はないのだからと、この時はそう思っていたのだけれど……
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