テラーノベル
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「…」
ザアザアと雨が降り続いている、ビニル傘を雨粒がつついてぴちゃぴちゃと音を立てては傘を滑って地面に落ちていった。片手にもった花束に水滴が着いて、落ちて、靴を濡らす。
ザリ、ザリ、ザリ。革靴が地面を踏む。ぱたっ、ぱたぱたっ、ぱたたっ。と、頭上の葉の上に水滴が着地して音を立てて、枝の上で雨宿る3匹の鳥達の羽毛に落っこちる。鳥達は力無くぴいぴい泣いて濡れそぼっている、いちばん体の大きな鳥は雨の中飛び立って、真ん中くらいの大きさの鳥が別の枝に飛び移る。私は葉擦れの音に耳を傾けて、ぼんやり立ちすくんでいる。甘い匂いが鼻を掠めて、花の匂いとは違う柔らかさに私は静かに思い出をなぞった。今より青い、今より賑やかな、暖かなあの夜。
確かそれはいつものバーでの出来事だった。
夜の青さが深まり始めた頃、酔いもようよう回って来たところで、少年は丸氷を指先でツルリと突っついた、よく回る舌も熱に浮かされ甘く蕩けている。蜂蜜色の光がゆらりと揺らいで、芳ばしく重厚な酒の匂いが微かに立ち上る。すんと鼻を鳴らした少年はふと口を開いた。
「織田作ってさ、いつもカレーの匂いがするよね」
「なんだ、藪から棒に」
「いやあ、ふと思っただけ。でも、今日もするよ、いつもより甘めの食べただろう?」
グラスの縁を指でなぞりながらまた、すんすんと少年は彼の二の腕ら辺を嗅いでみる。嗅がれている本人と言うと栗色の蓬髪を指でくるくる弄っている。犬のように二の腕をクンクンする少年の手首を拝借して、僕もまた犬のようにすんっと鼻を鳴らしてみた、すると、石鹸のような、ベビーパウダーのような、爽やかで柔らかくて甘い匂いがした。
「よく分かったな」
「太宰君はちょっと甘い匂いがしますね、良い匂いです。何の匂いですか?」
よくぞ聞いてくれた!と言わんばかりに眉を上げて口元に大きく笑みを浮かべる、さながら瞳孔を開いた猫のようないじらしさであった。
「そうだろう良い匂いだろう?ホワイトムスクだよ、お気に入りなんだ!」
マフィア最年少幹部らしからぬ無邪気な笑みにつられて僕も僅かに破顔する。弟を見ているような、暖かい気持ちが胸に満ちる。この子の楽しそうな年相応の笑顔は好きだ、心を許されているのが嬉しくなるから、此方まで心が弾んでくるから。
「そういえば、安吾はなんの匂いもしないよね」
はたと開かれ琥珀色の瞳は、心做しかいつもよりまん丸な気がした。確かに僕はなんの匂いもしない、香水をつける趣味が無いのだ。かと言って己が臭いのは気に食わないので毎日しっかり風呂に入っているが、そういえば使っているシャンプーやリンスも無臭だったかしら。
「ああ、確かにな。でも、書斎から出た後にあった時は紙とインクの匂いがした」
「ええ、本当ですか?」
「どうれ、貸してみ給え!」
少年は私の二の腕を両手で掴み、すんすんと嗅いでみたが、それを4、5回やって首を傾げた。そうしてもう一度、今度は鼻が潰れるくらいに顔を押し付けて、一息にスゥーッと匂いを探していた。恥ずかしいような、擽ったいような感じがして、顔がちょっと熱くなった。
「うーん、分からないな…」
「まあ、匂いがしたのは書斎から出たすぐ後だからな」
「ふうん、では、嗅いでみたいから今日から安吾の書斎の前で待ち伏せをしようかな 」
「やめてくださいよ、それに書斎に入れば嗅げるでしょう」
うーん、と少年が唸る、気に入らなそうな顔をして口を開いた。
「男たるもの、匂いには気を遣わなければいけないと思うのだよ」
「今日は唐突な発言が多いですね、臭かったですか? 」
「いいや、なんの匂いもしなかった、それが問題なのだよ」
「はあ…」
何が問題だと言うのだろう、臭くないのなら良いでしょう。と首を擡げる、少年はビシッと私の顔の前に人差し指を立てて口を開く。
「いいかい?匂いというのはね、人間にとって1番記憶に残る要素だ!それが無いだなんて、私がもし安吾にずっと逢えなくなって顔も声も思い出せなくなったら、一体何を思い出せばいいんだい?」
はたりと青年の瞳が揺らぐ、レンズ越しに見る琥珀色の瞳に青年は思わず目を逸らして、手元のトマトジュースを誤魔化す様に喉に通す。
「だいぶ杞憂ではないか?」
喉仏がギグリと上下する。杞憂であって欲しい、と眉間に皺がよるのを指で揉み消す、何かこぼそうとしていた口にもう一度トマトジュースを含んで、咄嗟に無かった事にした。
「そうとも限らないだろう?安吾は仕事に殺されても違和感が無い」
「誰が社畜ですか」
「誰もそんな事は言っていないぞ、お前が熱心すぎるから太宰は心配しているんだ。もちろん俺も」
横目に張り付く視線は優しかった。
ああ、クソ。こんな筈じゃなかった。
「そうですか…では僕も今度から織田作さんのようにスパイスの匂いを付けてきましょうかね、いつでも思い出してもらえるように」
「そういう事ではないのだよ!もっと他に良い匂いがあるじゃないか!」
「ふはは、冗談ですよ」
苦し紛れに口を開いた、喉から漏れる自分の笑い声の憎らしさに青年は密かに内唇を噛む、ほんの少し鉄っぽい匂いが鼻の奥に昇った。視線を逸らした先に首を傾げた男が見える、目をぱちくりとさせて、私の向こう側の少年に口を開く。
「カレーは良い匂いだろう?」
「うん、お腹が空くよねえ、あの匂い」
「いやそう言う事でなく」
「安吾はカレーの匂いが苦手なのか?」
何食わぬ顔で言われた言葉に顔を顰めざるを得なかった。全く、彼の天然ぶりには一種の危機感さえ覚える。
「苦手ではありませんよ、良い匂いのベクトルが違うでしょう」
「ベクトル、か」
「ええ、食欲を唆る良い匂いと香水の良い匂いとは別ですよ」
「ふむ…」
なにやら顎に手を添え考え込みはじめた、瑠璃色の瞳の上を走る眉頭が彼の眉間に山をつくろうと寄せ上がっていた。
「カレーとか食べ物の匂いが食欲を唆るなら、香水は何欲を唆るのだろうか」
「性欲じゃないかい?ほら、首裏から甘い匂いとかがするとなんだかドキッとするじゃない 」
「僕は性欲とは思いませんねえ、抑香水が欲を刺激するものでは無いと思うのですよ」
「へぇ、では性欲を刺激するに至るまでの演出の一環が香水の匂いと言ったところかな?」
「僕はそう思いますね」
「なるほど」
「安吾はどうだい、さっき私の匂いを嗅いで色っぽいなって思った?」
悪戯な笑みがこちらを向いた。色っぽいだなんて友人に抱く感想ではない事なんて知っているだろうに。
「いいえ、僕はそうはね。ですが女性の方なら思うんじゃないですか?香水とはそういうものでしょうし」
「そっかあ、安吾にはそうは思ってもらえないか」
しょもしょもと残念そうに眉を下げて唇を尖らせる。甘い余韻が悲しそうに私の鼻をつまむ、くるりと跳ねた髪が西洋人形のような麗しの君。どうか悲しい顔はしないでおくれ、と弛む口角をよそにふわふわの頭を撫でる。
「何を落ち込む事が、今時の子は友人にも色っぽいと言われたいものなんですか?」
「今時だなんて、3歳しか違わないだろうに…」
「そう嫌な顔するな、今時は中々の褒め言葉だろう」
「そうかい…?」
「そうなんですか?」
「違うのか?褒めているつもりで言っていたのかと」
3人は今日も夜を過ごす、静かに笑いあって流れる時間の音に耳を傾けて微笑みを深く顔に刻む。
妙ちきりんでおっとりと間抜けた会話に夜を溶かす、生産性なぞないし、なんの意味もない無駄な雑談の暖かなこと、甘い匂いと共に流れるぼんやり優しい蜂蜜色の時間のなんと優しかったでしょう。
本当に暖かな時間だった。人生に於いて、孤独は我らの故郷、恋は我らの暗い長い人生に咲く唯一の花、であればあの夜は、あの夜確かにあった友情というものは、きっと暗い鬱蒼とした人生を生き抜かんばかりに藻掻く私達に伸ばされた慰めの手でありましょうか。長い長い人生の中での慰めがそれのみであるなら、私はとんでもない愚か者でありましょう。
「…」
自分自らその腕に爪を立て、ひび割れた隙にその腕から脱して、そうして今またその慰めを欲して幼子のように手を伸ばしている。なんて莫迦なのでしょうか、どうか許さないでくれますか、一生怨んでくれますか、織田作さん。
青年は手に持った花束を墓石の前に添えた、雨の中跪いて、許しを乞うように目を瞑っては睫毛の先から滴り落ちる水滴に眉を顰めた。ホワイトムスクの甘い匂い、まだ記憶に鮮明に残るあの夜の匂い。あの子はまだ覚えているか知らん。と黒から砂色に変わったあの子の外套を思い出した。青年はおもむろに鞄の中に手を突っ込んで、香水を取り出す。
「…ごめんなさい、貴方の好きな煙草の銘柄も分からなくて」
墓石の前にちょこんと置かれた香水、ラベルには「White MUSK」と書かれていた。貴方の声も、顔も思い出せるけれど、それでも貴方の体温は思い出せない、私が奪ってしまったのだから、思い出せない。ふと墓石を撫でた、すると、無意識に青年の異能力が発動して、記憶が流れ込んだ。
ああ、貴方は雨の日も晴れの日もずっとここに居るんですね、ああ、君も、太宰君もよくここに来ているんですね。
ごめんなさい、もう会えなくしてごめんなさい。貴方をこんな所に縛り付ける事になってごめんなさい。
「…ごめんなさい」
いつの間にか傘は傍らに転がって、塗れ砂色のスーツに針の如く冷たい水滴が刺す様に降り注ぐ、不格好に濡れそぼって、折角整えていた黒髪が濡れ乱れるのも構わず青年は手を合わせ続けた。
「どうか、安らかに」
水滴が長い睫毛を滑るように落ちていった。曇天の墓の前、甘く爽やかな匂いだけが寄り添うように静かに薫る。
ザアザアと降り注ぐ雨の中、墓前に供えられた花葱と麦藁菊がうつ伏せに泣いていた。
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だざむ