【アメハレ】
三話 界面活性剤
*
つんと鼻を刺すエタノールのにおい。
何の音も入らない耳。
視界の壁や扉は全て真っ白。
椋は一つの扉の前で立ち止まった。
(本当、嫌だ)
とは思いつつ、彼女は眉を下げて口を紡ぐ。
軽くノックをしてから扉を開けると、そこには、ベッドの上に座る一人の女がいた。
椋よりも遥かに青い、艷やかな髪。
服の合間から見える、白い肌。
反対側の窓を向いており、椋が入ってきたことに気が付いていない。
「母さん」
椋は彼女の肩に手をおいた。
女は振り返りざま、長いまつげを揺らした。
美人。
その名は清水瑠璃。
彼女は綺麗に笑った。
「椋。来てくれたのね。こんな遅くに、ありがとう」
椅子に腰を掛け、椋は黙り込む。
彼女こそが、椋の母親なのである。
病の床に伏し、もう何年も入院状態だ。
(入院して治るもんじゃねぇだろうに)
不治の病として有名な病気を患い、母はいつ死んでもおかしくない。
つまり、入院していようとも、せずとも、母は死ぬのだ。
(なのにわざわざ金かけて、あいつは本当、子供よりも母さんのことを……)
椋は俯いて唇を噛んだ。
それを見た瑠璃は悲しそうに目を細めた。
「……そういえば、中山くんは今日来ていないの?」
「中山?あいつなら今車で残業中」
「ちゃんとご飯作ってあげてる?」
「うん、あいつね、この間目玉焼き作るの失敗したんだよ」
「えっ、目玉焼き?」
「そう。いつも焦がすから『そんなに焼かなくていい』つったら、フライパン乗せて30秒くらいで取りやがって」
「それは美味しかった?」
「美味しいわけねぇだろ。ただの生卵だよ」
瑠璃は口を手で覆って上品に笑った。
椋は笑いもせずにいつもの能面面でムスッとしている。
開いた窓から入る涼しい風。
五月の夜風はやけに冷たく、靡かせた青い髪は切なそうに揺れる。
瑠璃は綺麗だ。
椋はひとりげにそう思った。
自分も遺伝したこの青々しい髪は、腰まである長さ。
単に切るタイミングがないだけなのだが、その長さを手入れするのは難しいだろう。
また、溶けてしまいそうな白い肌。
病で外に出ることができず、あまり日光に当たらないからこそ白いのだが。
(自分の母だというのに、こんなにも外見は変わるんだな)
それは父親の血が入るからである。
(あいつは確かにただのおっさんだな)
思い出したくもない顔を思い出し、またひとりげに不機嫌になる。
口に言葉を発さない分、心の中でうるさく、色々考えているのが椋なのである。
「そえいえば」
瑠璃はつぶやいた。
その顔は笑顔でなかった。
「ヒトモノとか、いるでしょう?」
「あー。いたな、そんなの」
「大丈夫?学校とか、どういうふうなの」
「一度襲撃された。が、私が竹刀で倒したから死傷者はでなかった」
瑠璃は驚いたあと、眉を下げた。
「……椋、危ないから、あまり関わらないようにしていてね」
「わかってる。けど、あのときあの場では、誰かが動かないと誰かが死んでた」
「うん。椋のその優しさはいいものよ」
「優しさじゃねぇよ」
「そう……。それと、武器の話なんだけど」
「学校の木刀持ち歩く」
「それで、大丈夫?」
「ああ。だってそれ以外、ないだろ」
「……まぁ、そうね」
歯切れの悪い人だとウズウズする。
椋は今すぐにでも叫びたかった。
母と話すことは好きではないし、寧ろ会うことすらも気不味い。
(家族間では色々と面倒なんだよなぁ)
ぼりぼりと頭をかきながら思った。
*
中山のいる車内へ戻った。
暗闇の中ライトをつけ、熱心にパソコンに文字を打ち込む中山。
「運動会の仕事か」
「はい。今年はヒトモノだのなんだので色々大変なんです」
「こちらもこちらで大変なんだよ。勉強バカと、やたらしつこいセンセイと共に活動をせねばならんという」
「楽しそうじゃないですか」
「どこが」
中山は車を走らせた。
隣で呑気にあくびをする椋。
「寝てもいいですよ」
「嫌だ」
「って言うと思いました」
その夜は、嫌に寒い夜だった。
*
「嫌です」
「お願いだよ椋クン」
「絶対に嫌です」
翌日の昼休み、職員室にて。
椋は下里に絡まれていた。
といっても、午後の授業、六年一組の教室へ来てくれないか、という要望だ。
その理由として、五時間目に体育で運動会の練習があるが、その練習を見てほしいとのこと。
運動神経抜群な彼女には抜擢されるべき任務だが、人に教えるだのということは向きではない。
「そもそも、青組副団長がなんで赤組の支援をしなきゃいけないんですか。嫌ですよ」
「なんで?ンー、ほら、赤組には宮脇くんがいるヨ」
「誰すか」
「あれ?知らないかァ。宮脇快斗くん。イケメン男子としてかの有名な」
「知りやしませんよ、そんな胡散臭い男」
「誰が胡散臭いだ」
ふいに男の声がしたと思い振り返ると、そこにはたしかに美形の男がいた。
(体つきからしてサッカーやってんのか?)
背も高く、筋肉も程々にある。
さっぱりした髪型と引き結んだ口。
かの有名な宮脇快斗とやらは、職員室扉前に立っていた。
「イケメンってこういうのなんだな」
「俺はそれになんと反応したらいい」
さすがは六年生。
五年のようにぎゃあぎゃあ猿のような男ではなかった。
「宮脇くん、何か用かィ」
「はい、下里先生。中山先生に運動会のことでお話があって」
隣のデスクを見るが、中山はいない。
「今はいないみたいだネ。椋クン、中山クンはどこへ行った?」
「なんで私に聞くんですか」
「いやァ、知ってるかなーと思ってネ」
快斗はその会話に眉を寄せながら、職員室から出ていった。
(彼が中山の言っていた六年一組の委員会の生徒か。中山は体育委員顧問だから、あいつはそこの委員長とやらか)
ふむ、と頷く。
下里はひとり楽しそうに例の雑誌の話をしている。
「じゃ、失礼しましたー」
椋は下里から逃げるように職員室をあとにした。
*
「なんで」
「ハイ自己紹介ー」
「いやだからなんで!」
運動場のど真ん中。
下里と椋は話していた。
眼の前には数十人の生徒。
そのジャージの色は赤。
つまり、六年生生徒だ。
なぜか中山から「下里先生から聞きましたよ。五時間目、がんばってくださいね」と言われ、ジャージを着せられ、運動場へ放り出された椋。
別に「行く」などとは一言も言っていないはずなのに、何故か勝手に決まっていたらしい。
「なんで、って。キミがいいって言わないから中山クンに聞いたんだヨ。そしたらいいよーって」
「あいつもあいつで共犯者かよ」
「ホラ、早く自己紹介」
「……清水椋」
「それだけ?アッじゃあほら、得意なスポーツはなんですカ?」
「剣道、バスケ、水泳」
「全然違う種類ジャン」
「だからスポーツ万能つったのアンタでしょう、下里センセイ」
キレ気味な椋を抑えるように下里はキャハハ
と笑う。
真面目な真面目な生徒たちは、何故か真剣な目でこちらを見ている。
(その目が一番辛い)
真面目な目。
ふざけているというのに真面目だと捉えられるのが一番辛いのである。
「というわけで!今日は清水センセーが特別授業!じゃあ授業の特権はハイ、どーぞ」
「アンタ、やりたくないだけでしょう。……まあ、じゃあ早速準備運動で運動場十周走れ」
真面目な生徒たちは立ち上がり、走り始める。
椋にとって運動場十周とは準備運動程度である。
(ちょっと軽めにしすぎたか?)
否、それ以下でもあった。
しかし人並みならば、二周目に差し掛かる頃からバテ始める。
「おいお前!まだ二周目だぞ!!もっと気張れ!」
「はぃ!」
「おいお前スピードが遅い!!歩いたほうが速いだろ!!」
「はぃ……」
スパルタのほうがまだいいかもしれないと皆が思う中、先頭を走る快斗はふてくされていた。
(なんでアイツが先生なんだ……)
きちんとスパルタ(超)する椋をみてそう思うが、運動場のど真ん中でパソコン抱えて業務する下里を見てはそう思わないのはなぜなのだろう。
と、その時。
大きな影が運動場を覆った。
一瞬で眼の前が陰り、皆が戸惑う中、椋、快斗は目を鋭く尖らせていた。
椋は体育館へ走り、体育館倉庫から木刀を取り出した。
(剣道部ごめん、また折るかも)
そう思いながら空を見上げれば、大きなカラスが宙に浮いている。
「はぁい、下がれよー。一発KO勝ちしてやっから」
生徒を後ろへ遠ざけ、椋は舌舐めずりをする。
なぜこんなにも楽しそうなのだろう。
(にしても、デカいな)
翳り暗いこの場所で、椋は見上げた。
学校の一校舎よりも一回り小さいくらいの巨大で、これをどう倒すのか、検討中。
と、言っても、何かを黙々と考えて行動する質ではないため、椋は木刀を構えて大きく飛躍した。
人の気配に気が付き、カラスのヒトモノは高い声で威嚇する。
思わず六年の生徒が耳を塞ぐ中、椋はヒトモノの首部分目掛けて木刀を構える。
「馬鹿!危ない!!」
快斗が叫んでいる。
見下ろす暇はないが、どうやら快斗はあまり怯えていないらしい。
椋は関心しながら木刀を振りかざした。
平和ではない音を響かせ、ヒトモノに木刀は直撃。
だが、太すぎる首をあれで快く叩けるわけもなく。
木刀は手元から悲惨に折れていた。
椋は一瞬「あれっ」ととぼけたが、すぐに「まあそうなるよなあ」とさらにとぼけた。
「頑張れよ木刀っ!」
木刀を選んだ椋が悪いだろうが、本人は選ばれた木刀を罵った。
「誰か鉄パイプ持って来ぉい!」
呑気なものである。
重力によって椋は下へ下へと落ちてゆくが、その最中。ヒトモノが翼を羽ばたいた。
その衝撃で強い風が起き、必然的に椋は飛ばされる。
女子の悲鳴が聞こえた気がした。
(受け身がとれない)
やや焦った。
風に煽られ受け身が取りづらい状況で、どうにかこうにか足掻いていると、地面へ落ちた。
しかしあまり固くはない。
「あ?」
見上げてみれば、あの快斗とやらが下敷きになっていた。
すぐに駆け寄ってくる下里。
立ち上がろうとすると、椋は後部グンと引っ張られた。快斗が腕を引いたのだ。
「行くな」
彼特有の真剣な目である。
(と、言われましても)
他に椋のように動ける人もいない。それを考え、椋は跳んだのだ。
しかしそんな心の声を読むように、快斗は口調を荒くする。
「必ずしも戦って倒さなければならないわけではない。逃げてしまえば、死傷者はでない」
「それができてねぇから、各地様々で死傷者が出てんだろ。他を見て我を良化せよ、って言うことだよ」
その一言にカチンと来たのか、快斗は握る手を強くする。
と、そこに下里が来た。
「他の生徒はもう教室に戻らせたヨ。二人も戻りナ。ここは危ない」
珍しく真剣な下里。
快斗は椋の腕を離した。
二人は無言でその場をあとにしようと、歩き出した。
のだが、そうもいかなかった。
悲鳴が聞こえたのである。
その声は女子の声。中学年くらいの歳だろうか。
三人は振り返った。
下里は本心、二人を早く帰らせたかったのだが、一人でどうこうなるものでもないとわかっていた。
「なんだ、なにかあったのか?」
椋はひとりげに呟いたが、その場をじっと観察する二人からの返事はない。
と、運動場の木の上にぶら下がる女子を見つけた。
「あれ……!」
先程の強風で飛ばされ、掴まって降りられなくなったのだろう。
高さは約3m。常人の届く場所ではない。落ちても怪我は避けられない。最悪、打ちどころが悪いと死にも至る。
そしてなにより、木のすぐ側にヒトモノが飛んでいる。
先程から飛び位置を変えないヒトモノ。
じっと少女を見つめている。
「……やばい」
快斗は青ざめた。
どうすることもできぬ状況といえば、そうである。
ただ、やろうと思えば何通りだって策はあった。
ただ、その策はすべて、運動神経抜群の椋を必ず必要とするものであった。
それを椋に勧めるわけにもいかない。それこそ危険だ。
何かないか、と考えているうちに、視界の端の椋が動いた。
木刀はへし折れ、何の防備もないというのに、走り出した。
「おいお前!」
「椋クン!!」
椋は振り向きもせずに木へ向かって走った。
青髪が激しく揺れる。
さすがは椋、言うまでもなく速い。
木の前でぴょい、と軽く跳ね、少女の高さまでくると、落ちる寸前の少女を抱きとめる。
が、ヒトモノが羽ばたき、二人の体が大きく飛ばされる。
少女を抱えているため、受け身の取りづらい状況の椋は、遊具の鉄に強打し、どこからか血を出した。
それと同時に、パァンという破裂音の後、すぐにヒトモノの体から血が吹き出した。
運動場に倒れ込む、ヒトモノ。
下里と快斗はそれを避けながら椋のもとへ駆け寄った。
「大丈夫かィ?」
下里がしゃがみ込むと、少女が胸に飛び込んだ。
椋は顔についた血をパーカーの袖で拭い、顔を上げた。
目が冴えている。
「鼻血」
大した怪我ではないようだった。
少女も怯えてはいるものの、怪我はないようで、快斗はまず安堵。
しかし、まだ不審な点がある。
なぜ、急にヒトモノが倒れたのか。
振り返り見れば、息絶えた生物がそこにいた。
すると、ちらりと校門から誰かが入ってきているのが見えた。
警察の制服を着た、上背のある男だ。
右手には銃を構え、警戒してヒトモノを眺めている。
それからトコトコと足音を鳴らしてこちらへ来、
「怪我はないようでよかったです」
と一言言い、にこりともせずに細い目をヒトモノへ向けた。
身なりから、警察官であるようだった。
それからすぐにパトカーと救急車のサイレンを鳴らして運動場へ入ってきた。
下里は警察官へ事情聴取に付き合い、快斗は学校の先生や六年の生徒への対応。
少女は救急車で一応何事もないかの検査。
椋はといえば、鼻血の処理は保健室で済ませ、絶対に救急車に乗らなかった。
下里や快斗が無理強いしても、中山がしょうがなさそうに仲介した。
「中山先生がいうなら……」と二人も退いたが、なんの理由があるのだろうか。
椋は、救急車の車体を睨んでから顔を背けた。
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