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運ばれてきたランチ握りに手を合わせてから、3人で食べ始める。
一人前5000円。
(やばい。俺、そんなに手持ちないぞ。お、奢ってくださるのだろうか)
ちらりと向かい側の席を盗み見る。
秋山は食べ慣れているのか、アワビもウニも大トロも、すべて同じ顔で食べている。
一方隣に座る林もまた、何を食べても味がしないのか、無感動に食べ続けている。
「それで?」
柔らかい少し霞んだ声を秋山が発すると、隣に座る林がビクッと跳ねた。
「どう?時庭展示場は」
秋山がそう言うと、林は空気が抜けた風船のようにほっとしたように縮んだ。
「まだ右も左もわからなくて」
「うん、そういうことじゃなくて」
秋山が真顔を上げる。
「篠崎マネージャーはどう?」
(いきなり核心をついた質問を……)
昨日押し倒してきた篠崎の顔を思い出す。
見下ろす視線。
硬い男の身体。
腹の奥が熱くなっていく。
(ダメだ!ダメダメ!)
目を瞑り、無理やり今朝送り出してくれた彼女の顔を思い出す。
(大丈夫。俺は、大丈夫だ。だってデキたし!昨日だって、無事にデキたし!)
「新谷くん?」
秋山が覗き込んでくる。
「えっと、厳しいけど、良い方だと思います!」
(………なんだ、良い方って)
自分の語彙力に呆れる。
(だって他に言いようが…)
「いやさ、気になってたんだ。君の前職を言った時の彼の顔、すごかったから」
どうすごかったのだろう。聞きたいような聞きたくないような…。
「たった1年間でそんな大手会社を辞めた理由を何回も聞かれたけど、答えなかった。それでよかったよね?」
……結果的には良かったかもしれない。
もし本当のことを知られて、腫物を触るように接されても困る。今なら彼の中では笑い話だ。
「何か厳しいこと、言われなかったかい?」
秋山が牡蠣を啜りながら言う。
「まあ、言われましたけど。誤解は解けたみたいで、今日はカタログを山のようにプレゼントしてくれました」
言うとチュルっと汁を吸い込み、秋山は笑った。
「彼はね、元は天賀谷展示場のマネージャーだったんだよ。部下もいっぱいいてさ、あの頃何人いたかな、林くん?」
言うと林が即座に答えた。
「10人です」
10人。今の人数の3倍以上だ。
そんなに営業がうろついているのも何か異様な気がした。
「でもハウスメーカーの営業なんてさ。クレーム業界だから。一つのクレームが尾を引き、ひどくなり、ついには裁判沙汰になるなんてことはザラでさ」
秋山は悲しそうに目を細めた。
「彼の目の前で部下が何人も辞めていった」
秋山はあっという間に食べ終わった皿を脇に避けて、肘をついた。
「新谷くんは、成約をもらってから家が建つのに、どれくらいの時間がかかるかわかるかい?」
「えっと、半年くらいですか?」
秋山は首を振る。
「10ヶ月。早くてね」
「そんなにかかるんですか!」
目を丸くする。
「そう。まず成約してから、一級建築士が出てきて、設計を始めるでしょ。週1回、2時間の時間をもらったとしても、部屋の間取りから、コンセントの位置、壁紙、照明、カーテンまで決まるのに、早くても3ヶ月かかる」
そうか。間取りを決めて終わりじゃないんだもんな。
由樹は頷く。
「それから材料の加工や準備に入る。注文住宅だからね。本注文を受けてからモノを作る。
それが運ばれてきて、いよいよ着工だけど」
テーブルについた手で手刀を作りながら話し続ける。
「地ならし、基礎工事で1ヶ月。建方が終わって上棟までが2ヶ月、それから完了までがさらに3ヶ月」
短い指が折られていく。
「ここまでどんなに早くても9ヶ月。それから今度は駐車場や物置、コンクリート塗装やカーポートなどの外構工事が入る。やっと竣工に入るときは10ヶ月はかかってるよ」
なるほど。順調に進んだとして、その期間なのだ。
「だからね、営業が辞めるときは、必ずといっていいほど、“誰かの家の途中”なんだよ」
秋山は小さい目を見開いた。
「これは僕の持論なんだけどね。営業が途中で抜けた家作りは上手くいかないよ。必ず失敗する。
当然だよね。お客様と一番たくさんの時間を過ごして、一番家づくりの夢をわかっているのは営業だもん。
その営業が抜けた打ち合わせも、着工も、建方も、うまくいくわけないよ」
そこまで言うと、また笑顔に戻って続ける。
「お客様の家作りが、失敗していくのを見ていたのはいつも篠崎だった。
どんなに引き継いだ彼が優秀でも、しょせんは後釜なんだよ。
お客様と一緒に夢を積み上げてきた担当営業には敵わない。
人一倍お客様を大切にしている篠崎のことだから、余計に許せなかったんじゃないかな」
(……人一倍お客様を大切にしている…か)
その目が優しく由樹を包む。
「彼を失望させないでくれよ。頼むね?」
「……はいっ!」
由樹は口を結んで大きく頷いた。
いつの間に支払いを済ませたのか、
「ごっつぉーさーん」
と女性店員に手を振って店を出る秋山に続いて、車に乗り込んだ。
各々シートベルトを装着したところで、秋山の電話が鳴った。
「はい。あ、どうも。セゾンエスペースの秋山です。あ、それ今日でしたっけ。すみません、今すぐ向かいます。ははは。大丈夫ですよ、はい。わかりましたー」
電話を切る。
「林くん、私を落合銀行本店まで置いてって。帰りは何とでもするから。
その後天賀谷展示場に寄って、新谷くんにマネージャーと管理事務所に挨拶させて、それで最後に時庭に送ってあげてね」
「はい、わかりました」
林がハンドルを握り頷く。
国道に出ると、秋山は思い出したように掌を拳で打った。
「そうだ。新谷くん」
小柄な秋山が、首を伸ばし、由樹の耳に口を寄せる。
「天賀谷展示場の紫雨(しぐれ)リーダーには気をつけてね?」
「紫雨リーダー?」
「うんそう」
由樹も声を潜めて聞くと、秋山はなぜか楽しそうにニコニコと笑っている。
「それはどういった意味で………」
「あ、ついた」
車は銀行の駐車場に入っていった。
「ここでいいよ、ありがとさん」
秋山は笑顔で降りると、林に向けて手を振った。
(紫雨リーダー?)
「じゃあ、行きます」
「あ、お願いします」
またぼそっと呟いた林に聞いてみることにした。
「紫雨リーダーってどんな方ですか?」
と、途端に斜め後ろから見てもわかるほど、顔が真っ赤に染まる。
「どんなって。すごい方ですよ。売上だけで見れば、マネージャー以上ですけど。あ、マネージャーって篠崎マネージャーじゃなくて、うちの室井マネージャーのことなんですけど」
急に饒舌になって話し始める。
「家に関しての知識とセンスに関しては篠崎マネージャーと同等だと思います。
室井マネージャーはもう少しで定年なので、彼が新しくマネージャーになるとみんな予想してます。それだけの実力と才能を持ち合わせた人です」
尚も真っ赤になって話し続ける先輩を見て、由樹は口を開けた。
(どうしちゃったの、この人)
「あ、会えばわかります!」
自分でも話しすぎたと思ったのか、それきり林は黙ってしまった。
由樹はマジェスタの心地よすぎるシートに身体を沈めた。
紫雨リーダー、か。
どんな人だろう。