ようやくアレシオが授業に姿を見せた。今日の彼は「イングリッシュ・クラブ」でピアノを弾くでもなく、小一時間で会を早々終了させると「ちょっといいか」と俺を手招いた。
学校の門を出る。フィゲロア通りの北端は、これからエバンスへ向かう生徒、家路につく生徒で賑わっていた。チャイナタウンで仕事を終えた生徒が学校へ向かう。旧ソ連系のアルメニア人やロシア人が門から出て行く。道路の向こうで手を振るのは、前にクラスが一緒だったことのあるチェルノブイリ原発難民のウクライナ人だ。俯き歩くアレシオの丸い背中は、夕陽の中で人の行き交う風景に溶け込んでいる。
「リトル・トーキョーの方が近いのにな」とアレシオは言った。
「ホテルに女の子が少ないのが気になったらしい」
「引っ越してから言うのも何だけど、治安のいい場所じゃないぜ」
「こっち来て一ヶ月半なら、街の状況なんか分からないよな」
アレシオは立ち止まると、学校側の壁に寄りかかった。俺達を支える白いコンクリート製の歩道は、初めてこの国へ来た頃は異調に映ったが、今はすっかり目に馴染んだものになっている。
「ケンタ。実は、お前に相談したいことがあるんだよ」
ウクライナ人の乗った満席のオールズモービルに、さらに人が詰め込まれる。難民手当ての五百ドルでは、車まではなかなか買えない。車持ちの同じ方向の友達がいれば、頼んで乗せてもらうのが夕方のフィゲロア通りだ。
「実は、好きな人がいるんだ」とアレシオは言った。
いつかは、こんな日が来ると思っていた。それが、たまたま今日になったのだ。
「実は言わなかったけれど、俺もなんだよアレシオ」
彼は顔をこちらに向けた。
「お前の好きな人は、どこにいるんだ」
俺は首を小さく傾けて、眉をひそめた。
「どこって、この街に決まってるじゃないか」
「やっぱ、普通そうだよな」アレシオは白い舗道に俯いた。
「普通って、どういう意味だよ」
オールズモービルは左に傾きながら、黒い煙を吐き出して走り出し、サンセットの角を曲がって消えた。
「そのコは、どこにいるんだよ」
「ローマだ。いっそのこと帰国しちまうか、本当に迷ってる。くそっ、夜も眠れない」アレシオは地面を蹴った。
俺の両肩に乗っていた空気より重い気体が退いた。
「ライバルじゃなかったんだね」
「今、何て言った?」
「いや、何でもない。ただ、帰国したらお前の夢は全て消えるぞ。負けだと思う」