解す者は冬の手先として放たれた谷風に灰色の長衣を剥がされまいと手で抑えながら、久々に帰って来た我が家、我が安楽の地、全ての人間から最も遠い隠れ家の前で茫然としている。
滅多に人間の立ち寄ることのない峡谷の奥の奥、春には陽溜まりに花々が咲き乱れるが今は何もない広場の奥にマサカヴリの住処がある。長い隠遁生活を続けているマサカヴリがこの谷を離れることは滅多にない。飲食すら必要ない石のような生活も可能だが、マサカヴリは花を愛でることを嗜んでいた。時折人里に現れては身に修めた秘法を使って人々を癒し、代わりに花の種を買って、帰る。あるいは隠れる。
極力人を避けて生きてきたマサカヴリの家の前に、そのうえ扉を塞ぐ形で人間が倒れている。誰彼区別なく容赦のない冬の只中にあって一糸纏わぬ姿の少女が伸びている。
人間相手に限った話だが、直ぐに助けに駆けつけるほどマサカヴリは情に厚くなかった。油断させるための罠か、あるいはあの少女自体が生餌かもしれない、と考える程度には人間を信用していない。
周囲を眺め渡し、暫く悩み、それでも捨てて立ち去るほど非情にはなれず、そもそも塞がれた扉の外に居続けるわけにもいかないので、マサカヴリは警戒をより一層引き締めつつ、しかし大股で近づいて少女の尻をそっと蹴る。
少女は全身の筋肉が液状化しているかのように僅かに姿勢を変えるが何の反応もしない。死んでいるのだろうかと呼吸を確かめると確かに温かな吐息が手の甲に当たった。この寒空の中に居続けたにしては温かすぎるくらいだ。
マサカヴリはわざと少し乱暴に少女の細い肩を揺する。
「おい! 起きろ! ここはお前の褥じゃないぞ!」
マサカヴリの叱咤に応じ、夢から転がり出たようなあやふやな寝言を零し、少女は薄く目を開く。
「どちら様?」
「私のことは誰だっていいんだよ。勿論あんたのことも誰だっていい。さっさと起きて自分の家に帰れ」
「ごめんね」と謝りながらも少女の表情は凍り付いたように変わらない。「いくつか事情があって動きたくても動けないんだよ。お願いがあるんだけど……」
「動けない? 事情?」人間を好かない割に人間の肉体に関しては心得のあるマサカヴリは少し興味を惹かれる。少し躊躇いつつも尋ねる。「なんだよ。言ってみろ」
「まず第一にとても眠い」
マサカヴリは無理矢理少女の腕を掴み、立ち上がらせようとするが少女の体は完全に弛緩していて一切の抵抗を見せず、それ故にとても重く感じた。これこそが本当の動けない理由だとすぐに察する。
「第二を先に言いなよ」
少女は力なくだらしなく笑う。
「ずっと今まで長いこと体を動かすことのない生活をしてきたんだ」
マサカヴリはうんざりした様子で大袈裟に溜息をついた。
「あらかじめ言っておくけど、文句は言わせないからね」
マサカヴリは必死に繋ぎ止めていた長衣をあっさり脱いで、少女を包み込む。
その厚い衣の中から現れたマサカヴリは概ね人の形をしているが、頭から背中、尾にかけては蟹のようなざらついた外骨格に覆われている。背中には幾本もの棘が列柱廊の如く並んでいた。こめかみにももう一対の目玉があり、不揃いな牙がはみ出ている。一方腕と胴、足はどのような人間をも越えて人間らしく、陶器のように滑らかで粘土のように柔らかでしっとりとしている。
少女は熱いくらいの白い吐息をほうと吐き出して笑みを浮かべた。
「お姉さん、かっこいいね」
「私はマサカヴリ」と努めて平静に名乗る。「あんたは?」
「ドニャって呼んで」
マサカヴリは軟体生物のようなドニャの体を抱え上げて、すっかり冷えている家の中へと入る。人を招き入れるのは久々のことだった。人のために暖炉に火を入れるのは初めてのことだった。
ドニャは多くを語りたがらなかったが、その熱を秘めた体はドニャよりも多くのことを知っており、マサカヴリが特別な手で触れて体に尋ねるとドニャよりも多くのことを教えてくれる。
ドニャが言うには大怪我をして重い障害を持ち、以来長い寝たきり生活をしていたが、奇跡的に障害を治癒できたものの体を動かすことはできなかった、とのことだ。マサカヴリにとってはどうでもいいことだが、それくらいのことではこうならない、と自信を持って言えた。それ以上の途方もない負担をこの体は受けたはずだ。とはいえ、マサカヴリ自身にもこのような状態の人間と巡り会ったことはないので知った風なことは言えない。
「こういうのを治してくれるってお姉さんの按摩の魔術の噂を聞いて来たんだよ」と寝台の中でドニャは宵の星のような期待の眼差しを向ける。
どうやって? とは尋ねなかった。興味もないし、本当のことを言いそうにもない。大方人を雇ったのだろう。何で裸だったのか、も聞くまい。
期待の視線は受け止めず、厄介な訪問者を厄介払いするために覚悟を決める。
「まず初めに言っておくけれど、私はあんたを治したいわけじゃない。あんたに出て行って欲しいから仕方なくあんたを治すんだ。おわかり?」
「あたしはお姉さんに出て行ってほしくないけどね」
「当たり前だよ!」
マサカヴリはその類稀な手業と崇高な魔術でもって、辛うじて形を保っているドニャの全身を解すが、これほど柔らかな体は触ったことがなかった。筋肉も骨も確かに揃っているが、触れば触るほど違和感が増す。まるで綿の詰まった人形を触っているかのようだ。まさか同族かとも思ったが、より丹念に調べれば血管も内臓も完璧に揃っている。ただただ奇妙に弱っているだけなのだ。
一通りの触診を終えて、揺らめく蝋燭の明かりの下、ドニャが初めて不安そうな表情を見せた。
「どう? 治せそうかい?」
不安にさせたのは表情ゆえだと気づき、マサカヴリは自省する。そして外骨格の表情を読み取るドニャに舌を巻く。
「ああ、身も心も完全に調整してやるよ。今までで一番の体になるのさ。そうしてあんたは私に感謝し、喜び勇んで出て行くわけだ」
ドニャは子供っぽい感嘆の声をあげて微笑む。
「じゃあ一生あたしの面倒を見ずに済むね」
「本当にね」
冷たい星々を引き連れた酷薄な夜が過ぎ去り、谷の奥にまで白い朝の先触れが届くまでずっとマサカヴリはドニャの体を丹念に丁寧に解し続けたが、結局ほとんど手応えが無いままだった。水の詰まった革袋を揉んでいるようだった。マサカヴリの神経よりも繊細なまじないがドニャの体の内に潜り込み、その状態の正体を探るが、限りなく異常無しに近い違和感を報告するばかりだった。
ドニャがうつらうつらとし、眼を蕩けさせ始めて、ようやくマサカヴリは大事なことを忘れていたことに気づく。
「すまん。人間は眠るんだったな。忘れてた」
ドニャが目をしばたたかせて答える。「いいよ。あたしも時々忘れるから。人間って本当に不便だよ。お姉さんは眠らないでいられるの?」
「ああ。眠ることもできるけど、基本的には寝ない。その寝台も使うのは久しぶりだし、普段は使わないから気にしなくていいぞ」
「それは良かった」本当に心配していたらしいことは表情から見て取れる。「それにしたってずっと起きていて、他に何かやることがあるのかい?」
「色々な。花の香りを嗅いだり、押し花を作ったり」
こういう風に自分のことを尋ねられるのは久しい。答えるのは初めてだ。当然だ。他者に近寄ることさえ滅多になく、人里を訪れた時には俯いて、人間をよく見ることすらしない。人に近づく時は薄目にするくらいの徹底ぶりなのだ。
マサカヴリはじっとドニャの眠たげな表情を見つめ、話を戻す。「さあ、じゃあもう寝ようか」
「お姉さん。もう一つ人間のことを教えてあげる」と微笑むドニャは瞬きを繰り返している。
「知ってるよ。暗い方が眠れるんだろう? 今、蝋燭を消すから。暖炉はそのままでいいか?」
「そうじゃなくて、人間はお腹が空くんだよ」
ドニャの腹が唸る。
ドニャは優秀な魔法使いだった。食材を用意すれば手で触れることなく調理し、寝台から動くことなく花に水をやり、家の隅々まで綺麗に掃除した。そこまでしなくてもいい、とマサカヴリは遠慮したがドニャは喉が枯れるまで呪文を唱えた。七つの名高い言葉、五つの忘れられた言葉、三つの秘匿された言葉が互いに絡み合い、調べとなって響き、特別な意味が重なり合って数々の神秘の力を織り成した。
半月も経てばすっかりドニャは家事を取り仕切るようになり、体が動かないことが一切障害になっていなかった。しかしもちろんだからといってマサカヴリは約束した治癒を前にドニャを放り出したりはせず、真摯にその不可思議な症状の回復のために尽くした。
「考えてみれば」と日課の按摩をしながらマサカヴリは話す。「首から上はしっかり動いてるな」
マサカヴリに上体を支えられてようやく起き上がれているドニャは瞬きと視線で同意を示す。
「そういえばそうだね。もしもそうでなかったら魔法を使えなくなっちゃうしね」
「首から下の感覚が無いわけではないよな? 動かす力が無いってだけで」
これまでの診察と生活の中で分かっていたことだが尋ねた。神経には何も問題はないはずだ。
「うん。触られているのは分かるし、お腹が空いた時も分かるね。自分の体の中で起きていることは大体わかる」
「ふうん」マサカヴリは考えながらも手を動かし続ける。「というか私も魔法を使ってるからな」
「何の話だい?」
「首から上を動かしてないけど、今こうやって魔法を使ってるんだよ」
その指先にはマサカヴリの育てた花の蜜や月の陰る特別な季節にだけ採れる水を使った軟膏が塗りこめられており、その手つきは旧き神の擁した千手の内の一つから古の魔法使いが授かった業とされており、肉体の要所を把握しているのも秘密の体系的知識を活かした結果だ。
「言われてみればお姉さん、呪文を唱えていないね」ドニャが目を丸くして感嘆の溜息をつく。「体が動くようになったらお姉さんの魔術を教わってもいい?」
「いや、ドニャには無理だと思うけどね」
「そんなことないよ!」と意外とむきになる。その時、ドニャの小指がぴくりと動いたのをマサカヴリは見逃さなかった。「ちょっと! 聞いてんのかい? あたしはこれでも優秀な――」
「おい、今小指が動いたろ」
「小指なんてどうでもいいよ!」
「どうでもよくはないだろ。体が動いたんだぞ」
「え? 本当に?」
ドニャは顔を顰めて指に力を入れる。するとほんの少しだけ小指が震えた。
「よし、よし。よくやった。ようやく光明が見えてきたな」喜びの余りドニャの背中を叩くとぐにゃりと折れるように寝台に倒れてしまった。「あ、ごめん」
「ありがとう。お姉さん」と折れ曲がったままドニャは謝する。「それはそうとあたしにも按摩の魔術を教えてよ」
「教えるのは良いけど、全部修めようとすれば一生じゃ足りないぞ」
「その後は独学で頑張るからさ」
「あんたの一生だよ」
ドニャはまだ体の動かない内から按摩の魔術の知識面から学び始めた。見る見るうちに、マサカヴリの予想以上の速度で、ドニャは人間の肉体のあらゆる機能、生理、秘められた力を学び取った。
それと同時に連動するように体も回復していく。寝がえりを打てるようになり、体を動かせるようになり、一人で食事を取れるようになる。歩くのにも十分な筋力も取り戻し、歩行訓練を始める。
しかしドニャの足はまるで関節一つ一つが別々の生き物になったかのように自由気ままに動いてしまい、歩くどころではなかった。
「あんた、直立二足歩行は初めてか?」
「うん、そうだよ」
冗談のつもりで言ったマサカヴリだが、ドニャの言葉は冗談ではないようだった。
「大怪我の前は?」
「直立二足歩行する前に大怪我したんだよ。だから歩き方教えてよ。まずどうするんだい? 右足の股関節を曲げて、膝も曲げて、着地と同時に腰を捻って。それまでの左足のそれぞれの関節の動きがよく分からないんだよ。あと、指で踏ん張る時の力の配分が難しくて……」ぽかんとして聞いているマサカヴリに気づいてドニャは怪訝な目を向ける。「どうかした?」
「どう動かしてるかなんて、そんなの分からん」
「嘘おっしゃいな。いつも歩いてるじゃないか。分からずに歩いているってのかい?」
「そうだよ。こういうのは繰り返し繰り返しして体で覚えるんだ」
どうしても納得しないドニャのために、マサカヴリは時間をかけて自分の歩き方を観察し、歩く時の関節の動かし方と力の配分を調べ上げた。念のために人里に降りて本物の人間の歩き方と違いがないことも確認した。
とはいえそれは何の障害もない平地での歩き方だ。結局体で覚える他ないはずだが、頑固な少女を練習と向き合わせるのには理屈が必要らしかった。
理論派にも程がある、と文句を言ったマサカヴリだが、実際にドニャは知識を得てからの方が上手く歩けるようになったのだった。
歩き、走り、跳んで宙返りをし、綺麗に着地できるようになってしまった。しかしドニャはさらにマサカヴリを驚かせることになる。自由自在に体を動かせるようになると、按摩の魔術の本格的な技術について練習をし始めたのだが、既にドニャに施したことのある魔術は会得しており、そのことを確認するだけに終わった。マサカヴリの知る残りの魔術を全て会得するのにも長い時間はいらなかった。
ドニャの為に買い集めた頑丈なだけでちぐはぐな旅装を身に着ける姿を見て、マサカヴリは心底寂しい気持ちになった。こんな風に思える日がやってくるとは思っていなかった。
「一生面倒を見てもらう予定だったんだがな」とマサカヴリは呟く。
春を迎えたマサカヴリの庭は色とりどりに咲き乱れ、馨しい香りが谷に満たされている。
「だからそんなにかかりはしないって言ったじゃないか」
ドニャは新品の革の背嚢の感触を確かめるように揺らし、清々しく青に染まる空を見上げる。すると数羽の赤褐色の鳥が飛び去って行く。
「あの鳥、たまに見かけたね」とドニャは呟く。
「緋鳥鴨だよ。小川の水辺に毎年巣を作るんだ。春にはああして旅立って、番いを作って帰ってくる」
「あたしと同じだね」
「番いが欲しいの?」
「旅の方だよ。ヴィリア海の夕景、白亜の巻雲都市、驚異の海海の中の海、アムゴニムの金剛樹。見てみたいものが沢山あるのさ」
ドニャが熱を込めて語るのに対し、マサカヴリの心の内は誰もに忘れられて色褪せた廃墟のように寒々しい。
だからといって引き留める気はない、が「旅をしたかったなんて聞いてなかった」と呟いてしまう。
「正確には、歩いて旅をしたかったんだよ」そう言うとドニャは真正面からマサカヴリの刺々した体を抱擁し、顔を埋めて擦りつける。幸い、前面は柔らかい。「本当にありがとう。一生の恩はいつか緋鳥鴨みたいに戻って来て返すからね」
「欲しいものなんてないから返さなくていいよ。その分、誰かをあんたの力で救ってやりな」
ドニャは清々しい笑みを浮かべて頷く。「うん。達者でね」
それだけ言い残すとドニャは振り返ることなく走り出し、勢いのまま飛び立った。
「歩けよ!」
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