テラーノベル
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本能寺の変を未然に防ぎ、織田信長の娘との婚姻まで決まった龍之介は、ようやく帰路につくことにした。
これまで世捨て人のように暮らしていた龍之介も、ついに時代の大きな流れへと漕ぎ出したのである。
本能寺の外へ出ると、日はすっかり高く昇っていた。境内には初夏の明るい日差しが降り注ぎ、木々の青葉を鮮やかに照らしている。
「中納言様、中納言様。しばし、お待ちください!」
門へ向かって歩いていた龍之介を、背後から呼び止める声がした。
振り返ると、森蘭丸がこちらへ駆け寄ってくるところだった。朝の光を受けたその姿は、やはり美しく、可愛らしい。龍之介は思わず、我が家の家臣に迎えたいものだと考えてしまった。
「何ですかな、蘭丸殿」
「嵐山のお屋敷まで、徒歩でお帰りになるおつもりですか?」
龍之介は本能寺へ来る際、明智光秀の軍勢から馬を借りていた。しかし、今はその馬もない。
本能寺から嵐山までは、徒歩で向かうには少々遠い。電車もなければ、バスもないこの時代、馬がなければ自らの足で歩くしかなかった。
「御館様より、中納言様を屋敷までお送りするよう命じられております。馬を一頭、それから失礼ながら、腕に覚えのある者を二名、護衛として付けさせていただきます。どうか、お使いくださいませ」
そう言って蘭丸が示した先には、立派な馬と二人の武士が控えていた。
本来ならば、龍之介に護衛など必要ない。洛中ではその剣の腕前を知らぬ者は少なく、また、これまでは世捨て人同然の公家と思われていたため、命を狙われる理由もなかった。襲ってくる者がいるとすれば、事情を知らぬ物取りか強盗くらいであろう。
とはいえ、織田信長は祝言前とはいえ、すでに義父となる人物である。その厚意を無下に断る理由もない。
「これはありがたい。安土様のお心遣い、謹んでお受けいたしましょう」
龍之介は丁寧に礼を述べ、馬と二人の護衛を借りて屋敷へ帰ることにした。
本能寺の門を出たところで、龍之介は周囲に目を配りながら静かに呼びかける。
「影鷹はおるか?」
「はっ、ここにおります」
声とともに、影鷹が道端へ音もなく姿を現した。
龍之介が本能寺の中にいる間も、影鷹は天井裏などからひそかに主人を警護していたのである。
突然現れた影鷹に対し、二人の護衛は瞬時に刀を抜いた。さすが信長が選んだ者たちだけあり、その反応には無駄がなく、すぐさま臨戦態勢を整えている。
「なるほど、なかなかの腕前ですな。ですが、ご安心召されよ。この者は影鷹と申して、それがしに仕える忍びにございます」
龍之介の言葉を聞き、二人は刀を鞘へ納めた。それから非礼を詫びるように、影鷹へ軽く頭を下げる。
「影鷹、屋敷までの案内を頼む」
「御意」
龍之介には、嵐山に自らの屋敷があるという記憶はあった。しかし、この世界へ転生してから、まだ一度も帰宅していない。屋敷までの詳しい道順までは分からなかったのである。
影鷹の先導に従い、龍之介たちは嵐山へ向かった。
しばらく馬に揺られて進むと、町の喧騒が次第に遠ざかり、やがて桂川の流れと緑深い山々が見えてきた。川面には陽光がきらきらと反射し、心地よい風が青葉を揺らしている。
龍之介の屋敷は、桂川を望む小高い丘の上に建っていた。
だが、その姿を目にした龍之介は、馬上で思わず目を丸くした。
世捨て人を装っていた公家の住まいにしては、あまりにも立派すぎる。屋敷は瓦葺きの二階建てで、屋根の両端には、なぜか金色の鯱まで載せられていた。
「閻魔ちゃん……これは、ちょっとおかしいじゃろう」
どう見ても、普通の公家屋敷ではない。小天守と呼んだほうがふさわしい外観である。
しかし、どことなく見覚えがあるような気もした。
それは、龍之介が前世で夢に描いていた家に似ていたのである。
前世でも一戸建ての家を建てたことはあったが、ごく一般的な住宅にすぎなかった。本当は天守閣のような家に住んでみたいという夢があったものの、当然ながら、そこまでの金銭的余裕はなかった。天守閣に住むという夢は、生涯かなわなかったのである。
どうやら閻魔ちゃんは、その夢を遊び心たっぷりに再現したらしい。
「ただいま帰ったぞ」
龍之介が屋敷へ入ると、奥から二人の少女が姿を現した。
「お帰り、お兄ちゃん!」
「お帰りなさいませ、お兄様」
龍之介は、その場でわずかに固まった。
この時代にしては、二人ともどこか雰囲気がおかしい。
それもまた、閻魔ちゃんの遊び心なのだろう。二人はまるで、前世で見ていたアニメに登場する妹そのものだった。千葉●リカと司●深雪、とでも表現すれば分かりやすいだろうか。
実際には初対面のはずだが、転生した際にこの世界での記憶も与えられている。そのため、龍之介は二人を自分の妹として、何の問題もなく受け入れることができた。
(これが、ライトノベルさながらのご都合主義というものか……。閻魔ちゃん、ずいぶんと儂の趣味を反映させたものだな)
二人の名は、深雪と恵梨香。十六歳の双子である。
ただし、龍之介とは父親が異なるため、二人は帝の落とし胤ではなかった。
双子を忌み嫌う風習も残る時代ではあったが、藤原三上家では二人とも分け隔てなく、大切に育てられていた。
龍之介の母は御所で働いていた頃、帝の子を身ごもった。しかし、母は出自の身分が低かったため、その後、中流公家である藤原三上家へ嫁いだのである。
藤原三上家にとっても、帝の落とし胤を跡継ぎとして迎えることには大きな意味があった。そうして生まれた龍之介は三上家の世継ぎとなり、その後、義父と母との間に深雪と恵梨香が生まれたのだった。
屋敷へ到着すると、信長が付けた二人の護衛は役目を終え、そのまま本能寺へ戻っていった。
馬については、自由に使ってよいとのことだった。どうやら、明智光秀の謀反を防いだ礼として贈られたものらしい。赤みを帯びた美しい栗毛で、体つきも実に立派な馬だった。
龍之介には馬の良し悪しまでは分からなかったが、実は名の知られた名馬である。龍之介は馬を屋敷で働く下人に預け、自らは屋敷の中へ入った。
室内着に着替えて一息ついたところで、龍之介は妹たちを部屋へ呼んだ。
「二人に話しておくことがある。近く、儂は織田信長殿の御息女を娶ることとなった」
その言葉を聞いた瞬間、恵梨香が目を見開いた。
「武術ばかりで、女心など何も分からぬ朴念仁の兄上が、祝言を挙げるのですか!」
深雪もまた、信じられないといった顔で両手を胸元に寄せる。
「お兄様が……結婚なさるのですか!」
二人が驚いたのは、兄が妻を娶るという話だけではない。その相手が、織田信長の娘だという事実にも驚きを隠せずにいた。
「なぜ兄上が、元右大臣であられる織田信長様と、そのような御縁を……?」
恵梨香の問いに、龍之介は静かに二人を見据えた。
「時は来たのだ。世捨て人として過ごす日々は、これで終わりにする。これからは日本国のために働く時だ。鍛錬によって身につけた剣術、武術、そして陰陽道の力を使わねばならぬ時が来た。そなたたちも心しておくように。平和な世を築くため、儂は信長殿と縁を結ぶ」
穏やかに語りながらも、その眼差しには強い決意が宿っていた。
深雪と恵梨香は、兄の目にこれまでとは異なる光が宿ったことを見逃さなかった。
二人は顔を見合わせると、そろって、こくりとうなずく。そのまま静かに部屋を退出していった。
妹たちとの話を終えた龍之介は、もう一つ気になっていたものを確かめるため、部屋を出た。
閻魔ちゃんに頼み込んで用意してもらった、ウォシュレット付き洋式トイレである。
この世界での記憶には、厠の場所も含まれていた。しかし、肝心の設備を思い出そうとすると、なぜかその部分だけが霧に覆われたように曖昧だった。
廊下を奥へ進んでいくと、周囲の書院造とは明らかに不釣り合いな扉が現れた。
その横には、どう見ても指紋認証装置としか思えない黒い板が付いている。
「はい? これは……えっ?」
龍之介は戸惑ったものの、すぐに閻魔ちゃんの遊び心だと気づいた。
試しに右手の人差し指を認証部分へ当ててみる。
すると小さな作動音が鳴り、扉がひとりでに開いた。
その中には、龍之介が希望したウォシュレット付き洋式トイレと、清潔な洗面台が備えられていた。
「ふう……これで一安心じゃ」
異世界へ転生する際、意外と大きな問題となるのがトイレ事情である。
数ある希望の品の中に、ウォシュレット付き洋式トイレを入れておいて本当によかったと、龍之介は改めて実感した。
戦時中は野外で用を足すことなど当たり前だった。しかし、それ以上に、ウォシュレット付き洋式トイレへ慣れ親しんだ年月のほうが長い。今や龍之介も、すっかりウォシュレットの虜となっていた。
一度その快適さを知ってしまえば、手放せなくなる者は多い。海外の著名人が日本で購入し、自国へ持ち帰るという話も有名である。
龍之介にとって、ウォシュレット付き洋式トイレは単なる厠ではない。心と体を休める癒やしの空間であり、日々の生活に欠かせないものだった。
もっとも、戦国武将にも厠へ強いこだわりを持つ者はいた。
有名な話では、武田信玄の厠は水を流せる仕組みになっていたという。もちろん自動ではなく、小姓が水を流す仕組みだったらしいが、畳敷きの一室に便器が設けられていたと伝わっている。
伊達政宗が築いた仙台青葉城の厠も、書斎のような造りであったといわれている。いつの時代であろうと、落ち着いて用を足せる場所を求める人の心は変わらないのだろう。
続いて風呂を確認すると、屋敷の中には、この時代にふさわしい五右衛門風呂が設けられていた。
夕餉は、妹たちと下人が用意してくれた。
囲炉裏のある部屋に集まり、炭火の上で串に刺した鮎をじっくりと焼く。鮎の脂が炭へ落ちるたびに小さな炎が立ち上がり、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
鮎は、屋敷の眼下を流れる桂川で捕れたものである。丸々と太り、脂の乗った極上の鮎だった。
酒は、この時代に流通し始めたばかりの澄んだ清酒であった。
戦国時代の末期には、現在のものに近い透明な清酒の製法が確立されつつあった。それ以前は、白く濁った濁酒が主流だったのである。
龍之介は盃を傾け、澄んだ酒を喉へ流し込んだ。柔らかな香りと、すっきりとした味わいが口の中に広がる。
「京の都の酒は美味いのう……佐々木酒造か?」
前世の記憶から何気なく口にすると、恵梨香が呆れたように首をかしげた。
「何を今さら仰っているのですか。毎日のように飲んでいたではありませんか」
「お兄様、もう酔われたのですか? あまり飲みすぎないでくださいませ」
可愛らしい妹二人から、すかさず注意されてしまった。
炭火のはぜる音を聞きながら鮎を味わい、酒を飲み、家族と言葉を交わす。
こうして龍之介は、初めて帰った自らの屋敷で、穏やかな夕餉のひとときを過ごしたのであった。
コメント
1件
おお、ついに龍之介が自分の屋敷に帰ってきましたね!天守閣みたいな屋敷と、ウォシュレット付きトイレのギャップが面白すぎます(笑)閻魔ちゃんの遊び心、全方位に炸裂してますね。妹たちがアニメキャラ風なのも、前世の趣味が反映されててクスッとしました。囲炉裏で鮎を焼きながらの夕餉のシーン、すごく温かくてほっこりしました。龍之介が「これで一安心じゃ」とウォシュレットに安堵するところ、読んでて思わず「分かる!」って頷いちゃいました。