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また降りだした弱い雨に、たちまちフロントガラスから見える景色が滲む。
「こういう雨、なんて呼ぶか知ってます?」
答えない壱道を無視して続ける。
「桜の時期に降ったりやんだりを繰り返す雨。花時雨(はなしぐれ)って言うんですって」
「そうか」一ミリの興味も示さない、声、表情。
飲み屋を出た瞬間から何かを考え込み、心ここに非ずの壱道の横で、うっかり芽生えかけた彼への感情が、降り重なる雨粒によって綺麗に洗い流されていくのを感じた。
「江崎の話、どう思います?」
つい先程まで二人がいた店、ブーケを見ながら琴子が聞く。
結局、グラスどころかボトルが空くまであの店で話を聞いた。仕事柄だろうか、雑談や蛇足が多い江崎の話をまとめると、彼は、ゲイである櫻井に誘われて、どうしようもなく酔った夜に体の関係を結んだと。
初めは興味本意で、そのうち絆されて、終いには情と快楽に溺れ、何度も体を重ねたと。
「ただそれだけですよ。誘ってきたくせに、こっちが面食らうほど彼は愛の言葉一つ呟かず、無心に体ばかり求めてきて、まあ淡白なものでした」そう言うと江崎は力なく微笑んだ。
「そして、先程も言いましたが、十一月から突然来なくなった。
連絡先も聞いていなかった。
プロムナードに電話すればそれまでなのでしょうが、彼が自分の意思で来ないのを、どうして責められるでしょう。
所詮店主と客、責任の取れない既婚者と、生粋の自由人。
店に来るのも来ないのも、私との関係を続けるもやめるも、全ては彼に選択権があるのです」
江崎は顔を上げた。
「私からはこれ以上のことは絞り出しても出ませんよ。彼の死は、悲しいし悔しいが、私は彼の生死に影響できるような存在ではない。
芸術家の暇潰しに振り回された、しがない飲み屋のオーナーってだけですよ」
「あの顔、何か隠しているようには見えなかったけど、どうですか」
ハンドルに手をつき雨で歪んでいく町のネオンを睨んでいた壱道がフッと息を吐きながら、シートにもたれ掛かった。
「まあ確かなことは、櫻井がもし“芸術家の暇潰し”で誰かと関係を持つような男ならそういう奴が続々出てくるはずだということだ」
それが突然来なくなった。
血だらけになった日を境に。
櫻井を傷つけたのは誰なのか。どんな理由で。
「もし江崎じゃないとすると」
「旦那を盗られた嫁か、夫婦を長く知る常連客か。あるいは異様な目付きを向けてきたあのボーイか」
「気づいていたんですか」
てっきり壱道は江崎に集中していたのだと思っていた。
「あれだけ殺気を出されればな」
壱道はブーケの入り口を見た。
「あいつに話を聞くなら、江崎がいないときの方が都合がいい。尾行し、ある程度、店から離れてたところで声を掛ける」
時計を見る。まだ十時過ぎだ。
「クローズまでまだ三時間もありますね」
「何時までのシフトかわからんからな。ここで見張る」
言いながら車を見回す。
「しかしお前の車は二十代女子らしからず、無駄にゴツいな」
「兄のなんですけど、ほとんど陸にいないので借りてるんです」
「木下誠は何の仕事をしている」
「海上保安官です」
「まあ、らしいといえばそれまでか。お前に愛車を貸すなんて、俺には気が知れないがな」
「どーいう意味ですか」
笑っている。どうやら店の中での壱道は、全てが演技だったわけではなさそうだ。
琴子は二人の距離に手応えを感じ、嬉しくなった。
暇なのか尚も琴子の車を物色している壱道が、ドリンクホルダに入れっぱなしだった未開封のカフェオレを指差す。
「ブラック以外のコーヒーは飲めるんだな」
言いながら欠伸を噛み殺している。
「少し寝てください。私がちゃんと見てますから」
「寝言は寝て言え、酔っぱらい」
「ビール一杯しか飲んでませんよ。とっくに覚めてます。壱道さんはボトル一本空けたじゃないですか」
「お前は酒に弱いと言ってただろ」
「私は瞑れないと言ったでしょう」
珍しく言い返せずに、店と琴子を交互に見た。
「譲りませんよ。少しは役に立たせてください」
諦めたように弱く息を吐くと、シートを倒した。右腕を折って目の上に置く。
「何かあったらすぐ起こせよ」
「わかってます」
「車から出るときもな」
「はい」
「それから……」
言い終わらないうちに意識を失った。
こんなに疲れているのに。この人は。
ブーケの入り口に目を凝らす。若い女性が二人、新たに入っていく。そういえば今日は土曜日か。夜は始まったばかりだ。
どれくらい時間が経っただろうか。ほとんど変化のない飲み屋街を見ながら欠伸を噛み殺す。隣で寝ている先輩は、寝入ったときと同じ体勢で軽くイビキをかいている。
息を吐きながら周りを見回す。
車は駐車場脇のガードレールに頭から停まっている。三メートルほど下には幅の狭い川が流れている。他にも何台か車が停まっているが、両隣は空いていて、人気はない。
あれ。
今まで気がつかなかったが、バックワイパーで何かヒラヒラしている。何だろう。目を凝らす。A4ほどの大きさの紙が挟まっている。
と、突然後方から白く眩しい強い光が襲ってきた。背の高い車がハイビームでこちらを照らしている。
酔っ払いか?眩しさに手をかざしながら見ていると、どんどん距離が縮まっていく。
段差を乗り越えたのだろうか、一瞬、光の角度が代わり視界が開けた。白のアルファード。仙台ナンバー。運転手は……。
………まずい。
「壱道さん!起きて!!」
辛うじて見えた運転手は、不気味なピエロのマスクを被っていた。
起きたのか確認できないまま、車内が真っ白に照らされ視界を奪われる。
二人はシートベルトを締めていない。このままでは後方からの衝撃で、ハンドルに、フロントガラスに、体を強く打ち付けるか、もしくは車外に放り出されるかもしれない。寝ている壱道は防御しようがない。
琴子は咄嗟に壱道に跨がると、ヘッドレストに両腕を回し手首をがっちり掴んだ。眩しすぎて、アルファードとの距離がつかめない。
頭を屈めて構えた瞬間。
ドスン。覚悟していた衝撃より、ずっと弱い感覚だった。間違って追突したレベルだ。
顔をあげ確認すると、車はぴたりと後ろにつけたまま静止している。ここまで近づくと、ヘッドライトの明かりは車内に入らない。
不気味なピエロのマスクを被った人物がハンドルを握っている。男か女かわからない。
ズズズ。後ろから押されて車が動く。振り向くとイストのガードレールにぶつかっている。鈍い音を立てて、ガードレールとフロントバンパーが変形していく。
そうか。追突で潰すことではなく、川に落とすことが目的なのか。
ただ思いの外、ガードレールが頑丈で、鈍い音は続いているが、それ以上落ちない。この隙にサイドから抜け出して逃げた方がいいか。
生死を分ける選択に、額に汗が滲む。
考えていたら、急にアルファードがバックして離れた。またハイビームで目が眩む。
と、そのときいつ起きたのか壱道の足が、ルームミラーのレバーを蹴った。
真っ白な車内で、ヘッドレストの影になっている壱道の顔だけが辛うじて見える。ミラーを眩しそうに睨むと、足を開いてダッシュボードを踏みつけ、琴子を抱き締めた。
「来るぞ」
次の瞬間、さっきとは比べ物にならない衝撃が車を襲った。
だがまだガードレールは辛うじて耐えているのか、車の位置は変わっていない。その代わり、フロントガラスにヒビが入った。
次、同じ衝撃が来たら、ガードレールも車も無事とは限らない。
このまま車ごと落とされるより、勝負に出たほうがいいか。ドアを開け逃げれば、車はこちらを追ってくるかもしれない。そうしたら、頑丈なガードレールを乗り換え川沿いを逃げればーーーー。
車がまたバックする。琴子は起き上がると助手席に滑り込み、ドアを開け外に飛び出した。
「バカ!戻れ!」
壱道の声はアルファードの急激なアクセル操作により空回りしたタイヤの音にかき消された。
足がすくむ。
すごい勢いで前進してくる。逃げる暇もない。
死ぬ……。
襟首を掴まれ、車内に引きずり戻される。アルファードは開け放ったドアにぶつかり、勢いで大きく斜めに曲がった。
先程までの衝撃で弱ったガードレールがついに耐えられなくなり、車体は川に向けて、僅かに傾いた。
バックする。アルファードの右のライトが壊れたらしい。今までよりは眩しくなく、車体のフォルムも見える。同じく衝撃に耐えられなかったのだろう、運転席側の窓ガラスも割れている。相手も捨て身だ。
距離をとっている。次で落とす気か。
どうしていいのかわからない。
助手席に倒れこんだままの琴子はガタガタ震えていた。
「木下。死にたくなければしっかりしろ」
壱道が琴子を起こす。打ち付けたのか、よく見るとこめかみから血が出ている。
「お前、ルーフに上れ。俺が撃てと言ったら、相手の左ライトに向けてこれで撃て」
何かを手渡される。
「これで、撃つ?」
わからず聞き返す。
「俺を信じろ」
言うが早いか、壱道はフロントガラスのヒビ目掛けて思いっきり踵で蹴りあげた。数度繰り返すとガラスのヒビが広がり、人が抜けられるくらいの穴が空いた。
「行け!」
わからなかったが、ただ言われる通りに行動することが、唯一の恐怖心の捌け口だった。ボンネットに足をかけ、ルーフに登った。
降り続く雨で滑る。
足を肩幅に開き左足を軽く引く。
車の左のライトに標準を合わせるイメージで、両手を前に構える。
掌の中にあったのは、取り外したシフトノブだった。銀色に光り、掌に包まれると拳銃のように見えなくはない。だが当然弾は出ない。出るはずがない。
後方十メートルのところで車の動きが止まった。
「撃て!」
わざとらしく肘を曲げ、銃口を上に跳ねあげた。
ガシャン!
まるでシフトノブから銃弾が出たと錯覚するほど正確なタイミングで、アルファードの左ライトが割れた。
辛うじて残った、左のフォグランプの頼りない光のなかで、シフトノブを構えたままの琴子が雨の中に浮かび上がる。
「次は頭を狙え!」
どこからか声が響き、琴子は言われるがままに“銃口”をピエロに向けた。
と一瞬の間があったのち、またタイヤを空回りさせながら∪ターンし、駐車場を抜けてT字路を右折していった。
乱暴なエンジン音が遠ざからないうちに、すぐに声が聞こえてくる。
「成瀬だ。謎の車に襲われた。場所はーー」
いつの間にか車体の外にいた壱道が携帯電話片手に雨に打たれている。
「顔にはピエロのマスクを被っていたくせにナンバープレートを隠そうともしていなかった。盗難車の可能性もある。アルファードV、ホワイトパール。ナンバーは……」
足の力が抜け、ルーフにそのまま座り込む。
「広幡街道を東南に逃走。運転席側のドアガラスと両側フロントライトが割れている」壱道の声が遠くで聞こえる。
と、アルファードが停まっていたあたりに、何か落ちている。
琴子はルーフからスルスルと滑り落ちると、それによろめきながら近寄った。
拾い上げてみる。凹んで中身がこぼれたカフェオレの缶だった。琴子のパフォーマンスにタイミングを合わせて、ライト目掛けて壱道が投げたらしい。
雨の中、寝起きとは思えない俊敏さで電話している姿を振り返る。
震えが収まらない体と、滲んだ涙のせいで、ピントが定まらない。
格が違う。
リアワイパーでさきほどヒラヒラしていたもの。濡れて脆くなった紙を、破れないように慎重にワイパーから取る。
琴子は目を見開いた。
「怪我はないか」
電話を終えた壱道が琴子に駆け寄る。
「なんだ、それは」
Å4のコピー用紙に、ゴシック体の太字で打たれた文章だった。
《 散る桜 残る桜も 散る桜 》
「禅語か。下らない。警告のつもりか」
「櫻井を殺した犯人でしょうか」
黒い横髪から、雨の雫が落ちる。
「どうだかな」青白い壱道の顔を見ながら、この人は今夜も眠れないなと、妙に他人事のように思った。
急速に冷えていく体温に、先程から握っていたシフトノブがやけに温かく感じた。