「他に報告すべきことはないか」
狭間が唐突に言い出したのは、臨時会議が終わった直後だった。
昨夜、ピエロの事件と合わせて、続く不審火のことで日曜日だというのに徴収され、当直だった浜田や、内勤の浅倉を含め、全員が揃っているところで、狭間が声を荒げた。
「聞こえなかったのか。俺に言うべきことはないのかと聞いている」
壱道が、眉一つ動かさずに狭間を見据える。
「なんで自殺事件の追尾捜査ごときで命を狙われる?」
壱道の判断で昨夜は、琴子は車がレッカー車で運ばれていくのを見送った後、病院へ行きそのまま家に返された。
その後の調査は壱道と浜田が二人で行ったらしい。
上司である狭間への詳しい報告は、今朝方、不審火の調査で彼が出社してからだったため、朝からすこぶる機嫌が悪い。
「もしあのピエロが櫻井を殺した犯人で、警告文もそいつが書いたものであれば、車や紙を調べたところで、個人を特定する証拠は残っていないだろう。
もし残っているようであれば、櫻井のマンションであれだけ証拠を残さなかった犯人と同一人物とは考えにくい。
誰かはわからないが、それを追っている時間が惜しい」
というのが理由らしい。
文面に「桜」が出てきている以上、事件と無関係とは思えないのだが、とりあえずは壱道の判断に委ねることにした。
「事件の性質上、ガラの悪いところへも出入りしなければならないため、二課時代の腐れ縁の人間にも接触を余儀なくされています。
その中で、俺が出入りしているのが気に入らないと思っているやつもいます。
そいつらの仕業かと。櫻井の事件に直接の関係はないと思われます」
無表情のまま唇だけを動かす壱道を見る。
服は着替えているため、少なくとも家に帰る時間はあったようだ。
しかし濃い隈は消えていない。昨日は少しでも眠れただろうか。
「その話が事実なら、木下さんまでとばっちりを受けて、車は全損、身体だって、一歩間違えば取り返しのつかないことになっていたかもしれないんだぞ。その点についてはどう責任を感じている?」
眉間がヒクッと動く。
「責任とは」
「まさか何も感じていないのか。捜査一課に配属されたばかり新人の女の子を、捜査とは名ばかりの酒の席に連れていき、自分が危ない奴らに狙われていると知っていながら帰すことなく夜中まで同行させ、その暁に、彼女の車を破壊され、命まで危険に晒して、その責任は感じていないのかと聞いている」
壱道はしばし沈黙した。
「狭間課長、別に私は」
琴子が口を挟もうとするが、
「君は黙ってて」ピシャリと言い放ち、続ける。
「事件の関係者に話を聞くなら、日中、酒が入っていない席で行うべきだった。
危険だとわかっていたならお前は飲むべきではなかったし、同行させるのも、木下さん以外を指名すべきだった。もっと言えばーーー」
言い終わらないうちに壱道が軽く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「お前の責任の処遇は、追って連絡するから」
「承知しました。ですが」
壱道が顔を上げる。
「俺は木下のことを、“新人の女の子”と扱ってはいません。危険だからといって他のやつを連れて行く選択肢も俺にはありません」
「何だと。他のやつらじゃ役に立たないといいたいのか」
「どう取られても構いません」
「おい、やめとけ成瀬」
狭間の顔が怒りに紅潮していくのを見ながら小國が耳打ちした。
「俺への処分は何でもいいですが、約束の一週間が過ぎてからにしてください」
「成瀬、お前、誰に向かって何を言っているかわかっているのか」
わなわなと震えている。
「狭間課長ー!」
重い空気をうち破るような大きな声に、みんな一斉にそちらを向く。
「出ました!昨日の不審火の鑑識結果。やっぱり放火です」
そこには白衣姿の二階堂が、会議室のドアを開けて立っていた。
「火元はやはりペットボトルに入れられた灯油でした。台所のボイラー脇の外壁に仕掛けられていました。
放火は連続性があり、どんどんひどくなります。最近起こった小さなボヤも調べ直すべきです」
大きな声と気迫に押され、狭間が頷く。
「ああ、まあそうだな」
「ちなみに事件担当は決まっていますか。詳しい話をしたいので。
一年以内のボヤ騒ぎの資料全部そろえて、鑑識課に来てください。できるだけ急いで」
「ああ、わかった。じゃあ解散!」
ホッとした様子の西塔、小國がこれ見よがし忙しそうに散っていく。
浅倉と浜田も目配せしながら席を立った。
次々と出ていくメンバーと目線を交わしながら二階堂が会議室に入ってくる。
「壱道。話がある。残れ」
小さくため息をついて琴子に言う。
「木下、車を回しておけ」
「あ、はい」
慌てて会議室を出た途端、後ろから二階堂の怒号が聞こえてきて、琴子は思わず走り出した。
二階堂が何について怒っているのかはわからない。だが、琴子は何もかもから逃げ出したい気分だった。
殺されそうになって初めてわかった。
殺人事件を追う恐ろしさを。
敵は“少なくとも一人は殺している人物”なのだ。自分も殺される可能性があるのだ。
怖じけづいたといえばそれまでだが、昨日、壱道に言われた
「お前は銃を握るべき人間じゃない」
という言葉も、ジャブのように効いていた。
さらに昨夜の攻防戦。
頭が真っ白になる琴子と、冷静に判断し行動できた壱道。
私は刑事に向いてないかもしれない。
琴子は滲み出そうな涙を拭うと、駐車場まで駆けていった。
「琴子ちゃん」
正面玄関で壱道を待っていると、現れたのは二階堂だった。
「昨日は大変だったみたいだね。大丈夫だった?」
その顔はいつもの彼に戻っていた。
「いえ、私は何も」
「そう?ならいいけど。俺には今日の琴子ちゃん、今にも辞表出しそうに見える」
「昨日の今日でさすかにそれはないですよ」
笑って見せるが、言葉が続かない。
なぜかこの人には取り繕えない。
察してか二階堂は空を見上げた。
「青柳さん、どうしてるかな?」
名前を聞いて、目の前が一瞬、暗転する。
心臓の鼓動が高くなる。何かが喉元まで上がってきて息ができない。
「どうして」
「あー、気にしないで」
二階堂は少々困った顔をした。
「まあ、俺も無駄に顔が広いからさ」
押し黙る琴子に二階堂が空気を変えるように言った。
「とにかく!もし行き詰まったならさ。
原点を振り返るのもいいんじゃない?捜査が一段落してからでもいいからさ、会ってみたらいいよ。大人になってから会ったことないんでしょ」
そうか。二階堂が知っていたから壱道も知っていたのか。
「そうすれば何かが開けることもあるよ。
俺だってそうだ。行き詰まったとき、ブレそうなときには原点を見るようにしている。
俺の場合はさ」
言いながら二カッと笑う。
「家族なんだけどね!」
ああ、そうか。結婚しているのか。
そういえば結婚してて当然の年齢だ。
「家族を守ることが、俺の原点。警察に居続ける理由なんだ」
二階堂の横で微笑む美人な奥さん、二人に挟まれた子どもを、勝手に想像する。良いパパなんだろうな。
「ーーー青柳さんと一緒にお仕事したことありますか」
「あるよ。本当に短い間だったけどね」
「そうなんですか。早期退職でしたよね。まだ五十代じゃなかったですか」
「んー、まあいろいろあったから」
「息子さんが逮捕されたり?」
二階堂の顔が曇る。
「まあ、あれはね、相手方に問題があったというかなんつーか。気の毒な話だったよ」
目を細めながら言う。
「それ、誰に聞いたの?」
「壱道さんに」
「ーーーへえ」
考え込むように顎を撫でると、二階堂はそそくさと手を振り踵を返した。
「じゃあね!あんまり溜め込みすぎんなよ、琴子ちゃん」
振り向くと噛み殺しもしない大あくびを顔中で発した壱道が立っていた。
「昨日のアルファードの件だが」
車に乗り込むが早いか壱道が口を開いた。
「ここから五キロほど離れた駅裏のドラッグストアカムラに乗り捨てられていた。
元々は、現場から500メートル離れたネットカフェ「アミーゴ」に駐車していたもので、鍵がついていたため盗まれたらしい。
駐車場に監視カメラはついていたが、録画機能が壊れていて、記録が一切残っていない。
ちなみに鑑識も入ったが、車の中から持ち主以外の指紋、体液、毛髪は検出されていない。
一応付近のコンビニエンスストア三軒の監視カメラの映像は見てみたが、問題の車両は映っていない。
犯人についてだが、今のところわからない。林が言っていたようにそっち絡みの人間かもしれないし、ブーケ関係のオーナー江崎とボーイの横山も怪しい。実行犯ではないが」
言いながらコピー用紙を渡される。
「わかる範囲でのボーイの情報だ。
殴り書きだが、読めるか?
名前は横山泰二。二十三歳。
以前は店の客の一人だったそうだ。
ハッテン場の林のように危ないやつらとの直接の付き合いはないがヤクの運び屋をしており、未成年の時は補導歴もある。
去年、ひょんなことから店のバイトを初め、今は少なくとも表向きは真面目に仕事をこなしているらしい。
土日は江崎がいない日中、ランチを提供しているらしく、9時から仕込みで一人で店にいる」
一通り話したところで、
「ときに」
と壱道はやっと琴子に向き直った。
「お前、平気か」
「何がですか」
「自慢じゃないが、俺は人が『何を考えているか』を当てるのは得意だが、『何を思っているか』を想像するのは苦手だ。ことさら女の感情には疎い」
言いながら掌で目を擦る。
「狭間にはああ言ったが、お前次第では事件の担当、変えてやらなくもない。どうする」
寝不足が重なっているためか、狭間や二階堂からも叱責され多少うんざりしているのか、壱道の目は落ち込み充血もひどい。
「壱道さんは、どうしてそんなに」
思わず口をついて出た言葉に口を塞ぐ。
「ごめんなさい。何を言ってるんだか」
「構わない。続けろ」
言いながらどこから出したのかわからない、缶を手渡し、自分のドリンクホルダにはブラックコーヒーを置いた。琴子のは温かいカフェオレだ。
それを両手に包むと顔を上げた。
「なぜ、壱道さんは命を危険に晒してまで、事件を追えるんですか」
言葉を飲み込むように、目線を一旦落としてから、壱道は弱く頭を振り、視線を琴子から外し、正面を向いた。
「俺は自分の命を投げ出してまで、正義を貫こうなどと、更々考えてない。そんな人格者でも偽善者でもない。」
ギリッと奥歯が擦れる音が聞こえるほど歯を食い縛る。
「ただ、彩られたあの部屋に入り、冷凍庫に入れられた食材や、タンスに入っていたイタリア行きのチケット、棒ガラスの注文表を見て、
こいつは、明日も来週も来年も、生きていくつもりだっただろうなと。
無理矢理書かされたファックスのサインも、遺言のような電話のメッセージも、自ら首にかけただろう縄も」
握った拳が震える。
「どんなに腸煮え返る思いだったろうと、胸糞が悪くなっただけだ」
無表情で淡白で冷静な壱道が初めて見せる強い感情。
二階堂が青柳の名前を持ち出したからだろうか。
封印したはずの“あの事件”の記憶が脳を掠める。
青柳もそういう思いであの事件を追ってくれていたのだろうか。
遠くを見つめる琴子に気づいて、壱道がため息をつく。
「お前、やはりもう」
「壱道さん。降りていいですか」
「ーーーああ。狭間には俺から言っておくから、この事件はーーー」
「今日は」
琴子はシートベルトを外しながら壱道の言葉を遮った。
「私が運転します」
真っ直ぐ壱道を見据えた。
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