チェックアウト後
赤目線
金属や木製のものが立てるけたたましい音。
彼の喚き声。
「…また塗り潰したの……?」
ゆっくりと虚ろなレンズがこちらを向いた。
そこに僕は写っているのだろうか。
「……来てもなにもないですよ、記者さん。」
「記事を書きたいんじゃないの。僕はあなたのことが心配なだけですよ。きんときさん。」
「…そうですか。」
辺りにはキャンバスや絵の具、筆やオイルなどいくつもの画材が散らばっている。
そんな中、異質に佇む真っ白なキャンバス。窓から差し込む光によって輝いて見えるそれは、色彩溢れるこのアトリエを切り取っているようだった。
「まだ…描けないんだ…」
「無理、なんだよ…筆を持ったらっ、どうしても思い出してしまう……あの色が、あの表情がっ、あの声がっ!花が…紫陽花が咲いて、なにもっ見えなくなる……」
僕も彼も記録するモノ。
でも、同じようで全く違う。
僕はレンズを覗き込んで間接的に世界を切り取ることしかできない。
だからこそ、彼のレンズを通して写し出される世界が何よりも美しかった。
「僕は好きだよ?きんときさんのレンズ越しの世界。」
「暖かくて、優しさや希望に溢れているのに、青い炎みたいに込み上げてくる怒り……自分に対してのね。」
「流石は記者さん。抽象的な感情でも言語化が上手だね。」
「でもね、もう俺のカメラは壊れてるんだ…買い被りだよ。」
不安定に立ち上がりながら真っ白なキャンバスに向かう。
手が震えている。
こんな姿になりながらも筆を持ち続ける彼は、あのホテルでみた水色に囚われているのだろう。僕には記録できなかった彼に、亡霊に取り憑かれている。
あの日、僕と繋がれていた彼はホテルに繋がれてしまった。
「また来るね、きんさん…」
ドアをノックする。
「様子見にきましたよー、きんときさん…って……なに、これ……?」
「いつも唐突だね、君は。」
「紫陽花だ…」
床一面を覆い尽くすほどの紫陽花。
その中央に置かれたキャンバスには記録されているそれは、まさしくあのホテルでみた儚くも鮮明な彼だった。
窓から差し込む光まで計算され、描かれた陰影。本当にそこに存在し、ただ眠っているだけのようにみえる。
やっぱりきんさんには到底敵わないや。
「すごい……」
「お得意の語彙力はどうしたの?」
「凄いっ!凄いよこれっ……なんで…」
「……思い出したんだ、彼が言ってくれた言葉を。」
ぽつりぽつりとあの日の出来事を語る。
その表情はとても穏やかだった。
「あのさ…記事、書いてくれない?」
「っもちろん!内容はなににする?あの有名画家が新作発表とか!?」
「いや……」
「俺をこの世界から消してほしい。」
そう僕に頼んだ彼は嬉しさが込み上げてくるように笑った。
青目線
色を失った俺にお似合いの傘を刺して、やがてやむ雨の下を歩く。
雨粒が流れるガラスに置かれた雑誌。
『とある画家が姿を消した。紫陽花の中、静かに瞳を閉じる彼をアトリエに置いて。』
そう文章が添えられた雑誌の表紙は、紛れもなく俺のアトリエだった場所なのにそうじゃなかった。
「俺も…ぶるっくの世界が好きだよ。」
透明なフィルム越しに虹を見上げる。
“彼”もみているだろうか。