テラーノベル
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あの日のことは、今でもはっきり覚えている。
空気が重くて、息が詰まりそうな夜だった。
街灯の光は弱く、路地裏はやけに暗くて、やけに静かだった。人通りも少なくて、ただ遠くの車の音だけがぼんやり響いていた。
俺は、ただ帰る途中だった。
何も特別なことはない、いつも通りの帰り道。コンビニで買ったペットボトルを片手に、ぼんやり歩いていただけ。
——そのときだった。
「……っ、やめてください!」
細い声が、暗がりから聞こえた。
反射的に、足が止まる。
聞こえないふりをすることもできた。関わらない方がいいって、頭のどこかではわかっていた。
けど、もう遅かった。
俺は、その声の方へ歩いていた。
曲がり角を一つ曲がると、そこにいた。
女の子と、男。
距離が近すぎた。いや、近いなんてもんじゃない。腕を掴まれて、逃げられないように押さえつけられていた。
「いいじゃねえか、さっきはあんなに——」
「違います、仕事はもう終わってて……!」
女の子の声は震えていた。
俺は一瞬、状況を理解できなかった。
ただ、嫌な空気だけははっきりとわかった。
「おい」
気づいたら、声を出していた。
男がこちらを振り向く。
「あ?」
「離したれや」
自分でも、なんでこんなこと言ったのかはわからない。
正義感とか、そういう立派なもんじゃない。ただ、見てられなかっただけだ。
「なんだお前、関係ねえだろ」
「関係なくても、見てもうたら終わりやろ」
俺はゆっくり近づいた。
心臓はうるさいくらい鳴っていた。正直、怖くなかったと言えば嘘になる。
けど、それ以上に、あの子の顔が頭から離れなかった。
「チッ……」
男は舌打ちして、女の子の腕を乱暴に離した。
「覚えてろよ」
そんな捨て台詞を残して、男は去っていった。
静寂が戻る。
女の子は、その場にへたり込んだ。
「……大丈夫か?」
俺が声をかけると、彼女は少し遅れて顔を上げた。
目が合った。
その目は、まだ怖さを引きずっていて、それでもどこかで安心したようにも見えた。
「……はい」
小さな声だった。
◇
「送るわ」
それが、俺の最初の言葉だった。
「え……」
「このまま一人で帰らせるんも、なんか気持ち悪いしな」
彼女は少し迷ったあと、静かに頷いた。
「……ありがとうございます」
歩き出す。
さっきまでの出来事が嘘みたいに、夜は静かだった。
しばらく、無言が続いた。
「……あの」
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「さっきは、本当にありがとうございました」
「気にせんでええよ」
「でも……あの人、たぶんまた来るかもしれなくて」
「……知り合いなん?」
少し間があった。
彼女は視線を落として、小さく言った。
「……お客さんです」
一瞬、意味がわからなかった。
「お客さん?」
「……僕、デリヘルで働いてるんです」
時間が、止まった気がした。
俺は、何も言えなかった。
彼女は、少しだけ苦笑した。
「引きましたよね」
「……いや」
正直、驚いたのは事実だ。
でも、それ以上に——
さっきの光景が頭に残っていた。
「さっきのやつ、あれ普通なん?」
「……いいえ」
彼女は首を横に振った。
「本当は、あんなことされるのはおかしいんです。でも……」
「でも?」
「たまに、いるんです。勘違いする人」
淡々と話すその声が、逆に重かった。
「仕事と、そうじゃない時間の区別がつかない人が」
俺は、何も言えなかった。
何を言っても軽くなりそうで、言葉が出てこなかった。
◇
それが、ほとけとの出会いだった。
名前を聞いたとき、少し驚いた。
「ほとけ……?」
「はい。本名です」
静かに笑った。
その笑い方は、どこか無理をしているようにも見えた。
それから、何度か会うようになった。
偶然じゃない。
俺が、あえて同じ時間に同じ道を通るようになっただけだ。
ほとけは、最初は戸惑っていた。
「なんで、またいるんですか?」
「たまたまや」
「嘘ですね」
すぐに見抜かれた。
でも、それ以上は何も言わなかった。
ただ、隣を歩くようになった。
少しずつ、会話も増えた。
彼女はよく話すわけじゃなかったけど、聞けばちゃんと答えてくれた。
過去のことは、あまり話さなかった。
でも、一度だけ言った。
「やめたいとは、思ってます」
その一言が、ずっと頭に残った。
◇
ある日。
また、あの男が現れた。
「よお」
あのときと同じ声。
同じ目。
ぞっとするような視線だった。
「……やめてください」
ほとけの声が、小さく震える。
「なんでだよ。金払ってんだろ?」
「もう関係ありません」
「関係あるだろ」
男は距離を詰める。
俺は、すぐに前に出た。
「またお前か」
「しつこいな」
「そっちやろ」
睨み合いになる。
空気が張り詰める。
「邪魔すんなよ」
「してるつもりやけど」
わざと軽く言う。
けど、内心は全然余裕なんかない。
「警察呼ぶか?」
その一言で、男の表情が変わった。
「……チッ」
舌打ちして、また去っていく。
完全に消えるまで、目を離さなかった。
◇
「……ありがとう」
ほとけが、小さく言った。
「気にすんな」
「でも、また来るかもしれないです」
「そのときはまた追い払うだけや」
俺はそう言った。
自然に出た言葉だった。
ほとけは少し驚いた顔をして、それから少しだけ笑った。
「……変な人ですね」
「自覚あるわ」
短い沈黙。
それから、彼女はぽつりと言った。
「僕、やめます」
「……何を?」
「その仕事」
まっすぐな目だった。
迷いは、なかった。
「ちゃんと、普通に生きたいです」
その言葉は、静かだったけど、強かった。
◇
それから、時間が少し経った。
ほとけは、本当に仕事を辞めた。
簡単じゃなかったはずだ。
でも、何も言わなかった。
ただ、前を向いていた。
今でも、あの夜のことは思い出す。
暗い路地。
震える声。
伸ばした手。
あのとき、もし立ち止まらなかったら。
もし見て見ぬふりをしていたら。
たぶん、今の俺たちはない。
隣を見る。
ほとけが、静かに歩いている。
「なあ」
「はい」
「もう、怖くないか」
少し考えてから、彼女は答えた。
「……少しだけ」
「そか」
「でも」
俺の方を見て、少しだけ笑う。
「今は、一人じゃないので」
その言葉に、うまく返事ができなかった。
ただ、小さく頷いた。
守るとか、そんな大それたことは言えない。
でも——
少なくとも、隣にいることはできる。
それでいいと思った。
あの夜から始まった関係は、まだ続いている。
静かで、不器用で、でも確かに続いている。
コメント
1件
うん、普通に良き((((