渇いてヒリついた喉に
ひゅっと音を鳴らして
許された呼吸が流れ込んで肺を充たした。
突き上げた腕の先には
見慣れた自室の天井。
カーテンから揺れる陽光。
いつもの平穏な⋯朝の光景。
荒い呼吸と早鐘の様な動悸が
徐々に落ち着きを取り戻し
私は突き上げていた掌で顔を覆った。
真っ先に脳裏に浮かんだのは
祈りを捧げる美しき彼女と
血涙を溢れ流す彼女の姿だった。
ーマリア様⋯ー
「魔女め⋯」
何という悪夢だ。
汗でじっとりと湿ったシーツに不快感を覚え
重い躯を起こして
少し乱暴に剥がし取る。
そのままルームメイドの者が回収してくれる
籠に放り込んでしまおうかとも思ったが
その感情をぐっと抑え畳み入れた。
着替えを携えシャワールームへと
重い脚取りで
だが、誰にも見られぬ様にと速歩で向かう。
汗を吸って肌に纏わり付く服が
歩に併せて滑り気持ちが悪い。
シャワールームに辿り着くと
何時もの私とは思えぬ素行で服を脱ぎ捨て
猫脚のバスタブへとエプロンを潜る。
湯温を高めに、頭頂から浴びると
温め浄められていく心地良さに包まれて
漸く自分というものを取り戻した心地になった
壁に掛けられた鏡の湯煙を掌で拭い去る。
映るのは隈が更に深さを増した
酷い私の顔だ。
「⋯夢如きで、何だと言うのか」
鏡の自分に叱責するかの様に独り言ちた。
憶えているのは
薄紅色の五花の大樹
濃紺の民族衣装をした腹の立つ男
美しき結晶の彼女
嘲笑うかの如く
まるで人のするそれの様に
嘴の口角を持ち上げた闇に象られた存在
思い返すだけで
湯に温められている筈の背筋が凍てつく。
そして
最後に現れた
「あの幼子は、どうなったのであろう⋯?」
私ですら畏怖した闇から
庇う様に現れた小さな背中を思い出す。
いや
痴れた事を。
そう、あれは唯の夢。
疲れた私の一夜の幻に過ぎん。
ーどうなった所で関係ないー
そう考えを一掃してしまおうと
顔から滴り落ちる湯を掌で拭う。
開けた視界に私は目を疑った。
鏡にあの幼子が映り
私に何かを訴える様に
山吹色の双眸を真っ直ぐに向けている。
ギョッとしている内に鏡は湯煙に覆われ
急いでもう一度拭い去るが
そこには驚いた私の顔と
息を荒らげて肩を上下させる様子とを
映しているだけであった。
ーまだ寝惚けているのか、私はっ!ー
乱暴に顔を擦り湯を止めると
その勢いのまま躯を拭き上げ
持って来た制服の袖に身を通した。
カチリと胸元で
神聖な救いの鐘を象った装飾を着け留めると
気持ちが引き締まる。
たかが夢如きに
いつまでも構っていられる程
私は暇では無い筈だ。
鐘楼に登り大鐘を磨き上げ
忌々しい彼奴等を遇らい
その後も滞りなく授業を熟し
常々一貫とした昼食を摂り
放課後には生徒会室へと向かう。
「ロロ会長
最近は一段と公務に精を出されてますが
何だか顔色が少し悪い様な⋯
お疲れが出てるのでは?」
手渡した書類を受け取りながら
副会長が私の顔を覗き込む。
「それ、自分も思ってました。
奮励されてますが
何処か少し心ここに在らずと言いますか⋯」
ここぞとばかりに補佐も歩み寄り
副会長と肩を並べて
此方を心配そうに見遣ってくる。
「君達に心配される事では無い。
さっさと仕事に戻りたまえ。
まだ校長に提出せねばならない
企画案も出来上がっていないと言うのに。」
そうですかと露骨に肩を落とす二人の様子に
私は軽く溜息を吐くと
途中の書類から羽根ペンをスタンドに戻し
会長席を立つ。
「会長?何処へ?」
「⋯ちょっと疲れた。
紅茶でも煎れようかと思ってね。
君達も要るかね?」
この二人も憎たらしい魔法士とは言え
部下には変わりは無い。
心配させないのも
上に立つの者の務めとも言えよう。
「はい!ロロ会長!
でしたら僕達が煎れてきましょう!
お座りになってお待ちください!」
パタパタと2人分の足音が
遠ざかっていく。
椅子に座り直すと
静けさの中で不定期に響く
暖炉で薪の爆ぜる音が耳に心地良い。
確かに二人の言うとおり
私は自分で思ったより疲弊している。
あの悪夢を見てから
もう三日程だろうか?
一睡も出来ずにいた。
眠ればまたあの悪夢が⋯
等という幼稚な意味では断じて無い。
魔法士による魔法士の為の催しを企画せよ
我が校校長による提案の所為だ。
誰よりも魔法士を憎む私が
魔法士の為に⋯?
「実に皮肉な事だな⋯」
唯でさえ催し事に何の意気込みも無い私が
魔法士の為と言われても
更に意欲が沸く訳も無く
机上には何枚も書き直した書類が散乱し
悪戯にインクを消費している始末だ。
それは自室の机上も同じで
思い返すだけで溜め息が溢れる。
ー何もかも、燃やし尽くしてやりたいー
そんな不穏な妄想が脳裏を過ぎると等しくして
またパタパタと二人分の足音が近付いてくる。
コンコン!
「ロロ会長、只今戻りました。
たまたま寮母の方にお会いして
クッキーを頂いたので良ければ一緒に!」
カップを3つ乗せたトレーを持ったまま
軽やかに説明する副会長の後ろで
補佐が小ぶりなバスケットに
たっぷりと詰め込まれたポワラーヌを見せた。
「ご苦労。
ならば私も会った際には
礼を言わねばならないな」
副会長からカップを受け取ると
湯気と共に甘い香りが鼻を擽る。
「私は紅茶と言った筈だが⋯」
良く練られたカカオの芳醇な薫香と
ミルクの優しい香りが漂う。
「ロロ会長は
ミルクたっぷりココアです!
最近、ずっとお休みになってないのでしょ?
今日僕達は
濃いめのブラックコーヒーを頂きますので
どうか今夜は早めにお休み下さい!」
副会長と補佐がお互いに目配せをすると
私に察せよと言わんばかりに
意気込みを表す仕草を見せた。
ーこれだけ疲れていればー
「夢など見る間も無かろうな⋯」
いや、決して悪夢を気にしてなど無い。
「⋯?
今なにか仰いました?」
「独り言だ。
気にしないでくれたまえ。」
カップを一口啜る。
ほろ苦く甘い
優しい香りが咥内と鼻腔を満たしていき
先の書類への苛立ちが少し解されていく様だ。
一口一口と啜る度に
躯に温もりが浸透し拡がっていく。
「ロロ会長!
クッキーもとても美味し⋯
あれ?」
副会長と補佐が目にした光景は珍しいもので
二人は目を合わせると
安堵した様に微笑みあった。
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