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男の持つナイフから滴る赤が、雨に打たれて路地裏のアスファルトに淡く広がっていく。ちひろは、その光景をうっとりと眺めていた。学校で浴びせられた汚水や、机に書きなぐられた黒いインクよりも、それはずっと清らかで、潔いものに見えた。
「壊したい、か。お前のようなガキに、その覚悟があるのか?」
男の声は低く、刃物のように鋭い。ちひろの細い喉元に、冷たい銀色の刃が添えられた。
普通なら腰を抜かす場面だ。けれど、ちひろは逃げなかった。むしろ、自らその刃に喉を押し当てるように、一歩踏み出した。
「……あるよ。だってもう、中身は空っぽなんだ」
ちひろは微笑んだ。それは今朝まで鏡の前で練習していた「愛されるための笑顔」ではない。心の底に沈んでいた憎悪と絶望が、結晶となって表面に浮き出てきたような、空虚で残酷な笑みだった。
男はしばらくちひろの瞳を覗き込んでいたが、やがてふっと、殺気を霧散させた。
「……面白い。拾ってやる。だが、ここから先は『人間』には戻れないぞ」
「最初から、人間扱いなんてされてないから」
ちひろは男の差し出した、血の匂いのする大きな手に、自らの白い、震える手を重ねた。その瞬間、彼の中で何かが「プツン」と音を立てて切れた。
翌日。ちひろはいつも通り登校した。
前髪には二つのヘアピン。首には黒いチョーカー。そして、いつもの「癒やし系」の微笑み。
「よお、病原菌。今日も生きてたのか」
健斗が、ニヤニヤしながらちひろの机を蹴った。取り巻きたちが一斉に囃し立てる。
ちひろは、ゆっくりと顔を上げた。
「おはよう、健斗くん。……ねえ、放課後、話があるんだ。屋上で待ってるね」
その声があまりに透き通っていたからか、健斗は一瞬たじろいだが、すぐに鼻で笑った。
「はっ、遺言でも残す気か? いいぜ、相手してやるよ」
放課後。夕闇が迫る屋上。
健斗が扉を開けると、そこには夕日に背を向けて立つちひろがいた。
「おい、何の用だ。早くしろよ」
「健斗くん。僕、昨日、素敵なものをもらったんだ」
ちひろは振り返った。その瞳は、夕日のせいだけではなく、異様な光を宿している。
彼は制服のポケットから、一振りのナイフを取り出した。昨夜の男から「餞別」として渡された、小ぶりだが恐ろしく研ぎ澄まされた鋼。
「……は? お前、何持って……」
健斗の顔から血の気が引く。
ちひろは、一歩、また一歩と近づいていく。その足取りは、ピアノの鍵盤を叩くように軽やかだった。
「僕を壊してくれて、ありがとう。おかげで、ようやく自由になれたよ」
「やめろ、来んな! 冗談だろ、おい!」
健斗が逃げようとした瞬間、ちひろの動きは「学校のいじめられっ子」のそれではなくなっていた。男に叩き込まれた、最短距離で急所を貫くための身のこなし。
「あはは……」
屋上に、短い悲鳴と、肉を裂く鈍い音が響いた。
返り血が、ちひろの白い頬を紅く染める。彼はそれを拭うこともせず、床に転がった健斗を見下ろして、心底楽しそうに声をあげて笑った。
夕立が降り始めた。
雨はちひろの頬の赤を流し、制服を重く濡らしていく。
「……ああ、あったかいな」
ちひろは空を見上げ、両手を広げた。
屋上の入り口には、いつの間にかあの黒いコートの男が立っていた。男は何も言わず、ただ顎をしゃくって、立ち去るよう促す。
ちひろは、もう一度だけ、自分がいた教室の方を振り返った。
そこにはもう、未練も、悲しみも、何一つ残っていない。
「さよなら、ちひろ」
彼は、自分自身の名前に別れを告げた。
ヘアピンを外し、雨の中に投げ捨てる。
少年の面影を残したまま、彼は静かに、闇の住人の背中を追って歩き出した。
もう二度と、鏡の前で笑顔を練習する必要はない。
これからは、この紅い雨の中で、本当の自分として生きていくのだから。