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「よし」
林は自分を奮い立たせるように、ふうと息を吐いた。
「行くか!」
ここは「ブルルルン!」と派手な音を立ててエンジンをかけたかったが、ハイブリッドカーは静かに“オン“になった。
家に帰るという選択肢はなかった。
退職のことはまずは智花よりも先に父親に報告したかったし、できればその報告には、次の就職先もセットで伝えたかった。
最低でも職種くらいは決めておきたい。
紫雨に見透かされて少し悔しいが、もちろん公務員も視野には入れていた。
もともと大学時代は自分も父親と同じ役所の人間になると思っていた。
公務員に現役で受からなかった時のための腰かけだと思って受けた民間企業が、偶然セゾンエスペースで、そしてそこで偶然紫雨という人間に出会い、意識せずも魅了されて、そのまま公務員試験を受けることなく就職してしまった。
紫雨の言う通り、“問”があり“答”がある勉強は得意だ。
今から勉強したとして、今年の募集に間に合うだろうか。
もし間に合わなかったら、来年までバイトでもして―――。
民間の募集を見てみてもいいが、大企業は新卒採用が主であるため、受け入れ口がまず少ない。
資格もなく、営業経験しかないくせに、もう営業職は目指さないとなると、林の経歴を評価してくれる企業は少ない。
そこらへんの半端な中小企業に入るのは、嫌だ。
林は奥歯を噛み締めた。
せっかく新しい世界に飛び込むなら、高みを目指したい。
セゾンエスペースのマネージャーである紫雨と肩を並べても、見劣りしないような。
年収1000万プレーヤーの彼と、同等に物を言い合えるような。
彼に対しての劣等感を抱きながら、彼の愛情に、そして彼の恋人という立場に、日々不安を覚えながら生きていくのは、もう嫌だ。
それでも―――。
「まあ。一応見ておくか」
林はハローワークに向けてハンドルを切った。
◇◇◇◇◇
ハローワークは水曜日の朝だというのに、人々でごった返していた。
情報が印字されている冊子だけもらって帰ろうとしたら、若い事務職員が目を見開いた。
「あれ?Web閲覧していかないのですか?」
「え」
林は女性の向こうにある部屋を見た。
パソコンが20台ほど並んでいて、その前に、老若男女、さまざまな格好の人々が座っている。
「冊子の情報は毎週木曜日更新なので、最新のものではないですし、Webでしか見れない細かい情報もありますし。せっかく来ていただいたなら閲覧していただいたほうがいいと思いますよ」
番号札を渡されながら、簡単な説明を受け、林はその中の1台の前に座った。
「兄ちゃん、いいスーツ着てるな」
隣にいた作業着姿の、60代と思われる男性がこちらを振り返る。
「あ、ありがとうございます」
「こんないいスーツを着ている若い男も職探してんだから。俺たちに働く場所なんか回ってくるわけねぇわな」
吐き捨てるように言うと、彼は耳に挟んでいた鉛筆をパソコン台に叩きつけながら席を立った。
脇で見ていた先ほどの事務職員が苦笑いをする。
「気にしないでください。さあ、ここにカードの番号を打ち込んでください」
林は言われた通り番号を打ち込み、検索システムを起動させた。
条件。
【天賀谷市】
【正社員】
【資格不要】
【年収300万円~500万円】
【賞与あり】
休みは特に限定しなかった。
紫雨が水曜日が定休であるため、土日の休みにはこだわらない。
水曜日が定休の仕事なら一番都合はいいのだが、一般企業ではなかなかそうもない。
職種も絞らなかった。
絞らなかったが―――。
【営業職】を【チェックした職種を除く】にした。
32件。
「へえ」
思わず呟く。
結構あるものだ。
上から順にスクロールしてみていく。
〇訪問入浴作業員
〇金属プレス部品作業員
〇建物清掃作業員
〇木材加工作業員
〇車検整備作業員
(“作業員”ばっかり…)
期待はしていなかったものの、並ぶ字に頭がくらくらする。
もちろん作業員という仕事を馬鹿にしているわけではないが―――。
先ほどの名前も知らない初老の男に褒められたスーツを見下ろす。
それが汚い作業着に変わる自分を想像する。
その横に、紫雨の自分よりも3倍の値段はするスーツを着た紫雨の姿も置いてみる。
「―――ダメだ…」
やはり、自分が目指すのは公務員しかない。
国家一種でも、二種でも、今から猛勉強して……。
その決意を伝えれば、父親も賛同してくれる気がする。
立ち上がろうとしたとき、視界の端に、見覚えのある社名が入った。
【BE JUMP エフエム】
「あ」
思わず声が出た。
座り直し画面をスクロールする。
【職種 番組制作】
【形態 正社員】
【初任給 195,000円~】
【休日 シフト制】
【賞与 実績あり(年2回)】
『番組を作り、収録・編集するお仕事です。経験不問』
さらにスクロールする。
【募集 欠員補助 (1名)】
「――――」
画面を食い入るように見ている林に、先ほどの事務職員が話しかける。
「気になるものはありましたか?」
「あ、ええと。まあ」
「印刷してみましょうか」
こちらの返事も待たずに、印刷ボタンが押され、A4の紙に詳細が印字されてくる。
「ええと。募集が1名なので、もう決まっている可能性もあります。お調べしますのでカウンターへどうぞ」
導かれるままにカウンターに座る。
「あの、別に俺……」
「大丈夫ですよ。調べるだけなので」
言いながら女性が傍らにある受話器を上げる。
「あ、もしもし。ハローワークの片桐です」
林は思わず背筋を伸ばした。
「今、御社の募集を見てくださっている方がいて……。あ――え?」
淡々と業務をこなしていた女性が目を見開く。
「あ、えっと。聞いてみますけど……」
言いながら保留ボタンを押し、こちらを見上げる。
「あの、今すぐ来てほしいって」
「――――」
林は苦笑した。
「こちらの情報を何も聞かずに?そんなに切羽詰まってる会社なんですか?」
「いえ、そういう意味ではなく」
女性も困惑した顔で言った。
「今すぐ、助けに来てほしいそうです」
車を停めると、林はハンドルを握ったままその建物を見上げた。
「ここで合ってる、よな?」
ナビ画面をのぞき込み、また改めて建物を見上げる。
2階建ての木造建築。
黒くシックな建具に、金色のアイアン調の取っ手が付いた両開きのドア。
左右にガラス張りの大窓。
中に見えるバルーンカーテンとペンダントライト。
ブルーとホワイトのオーニング。
「どう見ても……喫茶店なんだけど」
しかし店名が書いてあるはずのオーニングの上にある看板には、間違いなく『BE JUMP エフエム』と書いてある。
林は恐る恐る車から降りると、そのドアを開けた。
カランカラン。
それこそ喫茶店を思わせるドアベルが鳴る。
一歩足を踏み入れると、挽き立てのコーヒーの匂いがした。
「君!面接の方?」
中にはスーツを着た男が一人、立っていた。
「あ、いえ、面接って言うわけじゃ……」
「おっそいよー!」
こちらの話もろくに聞いてもらえず、ぐいと中に手を引かれる。
「もう始まってんだから!」
「―――え?」
「早く早く」
ずるずると奥へ引きずられていく。
「あ、ちょっと!」
「しっ!」
奥にある個室の前で振り返った男が口元に人差し指を当てる。
「収録中!私語厳禁!!」
「はぁ!?」
ドアが開けられる。
そこには巨大なミキサーの前に座った、社長の和氣がいた。
防音のパッキンが付いているドアが、音もなく閉まる。
「――――」
私語厳禁と言われた手前、無言で会釈をした。
今日は長い髪を結わえていない。
肩甲骨あたりまである長髪をだらしなく垂らしている。
和氣は微笑みながら自分の脇のチェアを指さした。
他に術がなくそこに座ると、ガラスの向こうに、誰かがいるのが見えた。
(え。喪服?)
私服の女性1人に、ブラックフォーマルのスーツを着た女性が2人。
楽しそうに談笑している。
しかしその耳にはヘッドホンがつけられ、口元には卓上マイクが置かれている。
(ここ―――スタジオ?)
思わず見回す。
目の前には、学生時代放送室で見たような巨大なミキサーがあり、点灯、点滅を繰り返している。
隣にいた和氣が無言でヘッドホンを渡してくる。
促されるままそれを装着すると、今までほとんど聞こえなかった、ガラスの向こうの3人の声と、BGMのピアノクラシックが聞こえてくる。
『そうなんですよ。だから祭壇は、お客様のご要望にどこまでお応えできるか、をモットーに作っておりまして』
『ああ、これ、すごいですね。海みたい』
私服の女性が何か写真のようなものを見ながら言う。
『そうそう。この故人様はヨットが好きだったそうで。ですので海の波をイメージした花祭壇を作りました』
『見えます見えます。波しぶきに…!』
もう一人が違う写真を取り出す。
『こちらも素敵なんですよ』
『え…?これ祭壇なんですか?』
女性が目を見開く。
『ピンク色と白色の花がハート型に飾られていて、こんなこと言ってはあれなんですけど―――』
『結婚式みたいじゃありません?』
『そう!そうなんです!』
『実はこの旦那様、理由あって奥様と結婚式を挙げられなかったのがずっと心残りだったとおっしゃっていて。ですので、ご家族と相談して祭壇はウエディング仕様にしてみました』
『素敵ですねー』
3人の雑談のような、にぎやかな雰囲気で収録は進んでいく。
和氣が傍らにあったノートに何やらペンを走らせ、林に見せてきた。
『俺、BGMの選曲してるから、マイクの音量調節頼む』
(は?)
驚いた林にミキサーのつまみを指さして見せる。
【MIC1】【MIC2】【MIC3】と書かれた数字の上にオレンジ色のライトが点灯している。
その横に緑色から黄色、赤色のグラデーションになるように音量表示があって、そこが声量に合わせて上下している。
『だいたい黄色付近になるように。赤になるとうるさいから、つまみを下げて。笑うときとか注意ね』
和氣から追加のメモを渡される。
(いやいやいやいや……!)
林はその顔を見て口をパクパクさせた。
(こんな今日初めて来た素人に、収録の助手をさせるのか?)
しかし和氣はこちらを見てニヤッと笑うと、親指を突き出した。
「――――」
(……だめだ。この人、頭おかしい……)
こうなりゃやけだ。林はヘッドホンを直すと、3人の会話に集中した。
音の振り方からして、マイクは左から1番、2番、3番だ。
声量と滑舌の良さからみるに、1番がおそらくパーソナリティー。2,3番が葬式屋のスタッフ、というところだろうか。
1番の声がやはり一番よく響いて聞こえるのでつまみを少しだけ下げる。
3番がマイクから少し遠い。
少しだけ上げる。
『―――いや、本当に実際ありますからね』
マイク2の葬儀屋スタッフの女性が言う。
『ホリに青空を照射させていたんですけど、葬儀が始まって間もなく、白い雲がさあっと左右に溶けていって、快晴になったりとか……』
『え、それ、演出じゃないんですか?』
『違います!見間違えかと思ったら、何人もそう見えた人がいて……』
『へえ』
『ご家族がおっしゃるには、その故人様、いつもみんなの背中を押してくれるような方だったと。だから、自分が死んで悲しんでるんじゃないぞって、はっぱかけたんじゃないかって』
何やらスピリチュアル的な話になってきた。
隣に座る和氣は黙って会話を聞いていたが、小さく頷くと、マシンに違うCDを入れた。
流れていたピアノクラシックが少しずつフェイドダウンしていく。
代わりに、オルゴールが遠くから聞こえてきた。
(あ……これ……)
Kirocoの『未来』だ。
パーソナリティがガラスの向こうのこちらを一瞬振り返る。
和氣が頷く。
すると、
『葬儀ってもちろん、故人様を送るものでもあるのでしょうけど、一方で、遺された人が一歩前に進むためのものでもあるのかもしれませんね』
『本当におっしゃる通りで……』
スタッフが大きく頷く。
『良いお式というのは、故人様の死を悲しむだけのお式じゃないと、私は思うんですよね』
(あ……)
気づくと林の指は、その女性のつまみを少し上げていた。
『故人様に出会えたこと、ともに過ごせたことの喜びを噛みしめ合えるのが、いいお式だと、私たちは日々思っているんです』
「――――」
迂闊にも―――。
鼻の奥が痛くなった。
『泣きながらも、抱き合いながらも、みんなどこかで故人様を感じ、ホロッと笑えるような、そんなお式を、私たちは目指しています』
和氣が隣で手を上げる。
パーソナリティーが頷く。
『人の命は永遠ではない。出会いがあれば必ず別れが来る。それでも私たちは出会い、愛を慈しみ、生きていくのです。
今回はその悲しいはずのお別れを、故人様に会えた感謝と喜びに変える、素敵なお話の数々を、教えていただいたように感じます』
BGMが少し高くなる。
『本日は、ファミリー葬儀ハートフル、土屋さん、酒井さんにお話を伺いました。ありがとうございました』
『ありがとうございました』
『―――よき人生を。よき葬儀を。この時間は、ファミリー葬儀ハートフルの提供で、お送りしました』
BGMが高くなる。
隣の和氣が、ジェスチャーでマイクのつまみを下げろと合図してくる。
林は慌ててマイクを下げ、0にする。
と、パーソナリティーがヘッドホンを外し、それに倣ってスタッフ2人も外した。
ガラスの向こうで何か談笑している。
和氣は立ち上がり、スタジオのドアを開けた。
「はい!お疲れさまでしたー!」
「ありがとうございます!」
開いたドアから3人の声が聞こえてくる。
元気な4人の声が、先ほどのしんみりとした感動と、ヘッドホンから聞こえてくるBGMと、偉くちぐはぐに感じ、林は思わず口を開けた。
「職員がSpecialブレンドのコーヒーを準備してますんで、カウンターでどうぞー!」
和氣が促し、パーソナリティーの案内で3人はスタジオを出ていった。
(―――やっぱり、カフェだ。ここ……)
茫然と見送る林のヘッドホンを、ぐいと後ろからとると、和氣はこちらを見下ろして笑った。
「やぁ、助かったよ」
一気に現実に戻され、林は立ち上がった。
「あ、あの」
「急に制作の女の子が休みとるもんだから。全部俺がしなきゃいけなくなってさぁ。助手が必要だったんだよね。いやー、女の子って生理痛っていえばなんでも許されると思ってるからさー、やんなっちゃう」
和氣は一方的に話し始め、ドカッと隣の椅子に座ると、ヘッドホンで乱れた髪をシャカシャカと手櫛で溶かした。
「あ、あの俺、別に面接に来たわけではなくて、ハローワークの方が『なんか困ってるみたいだから…』って言う言葉に促されてきただけで、その――」
「林君、だよね。セゾンエスペースの林清司君!」
和氣は自分の足首をもう一つの膝に置きながら言った。
「よく、覚えてますね。フルネームで……」
「あったり前でしょー。人間を伝えるプロですからぁ?人間を覚えるのは得意なんですぅ」
言いながら和氣は、胡散臭い顔でニヤニヤ笑った。
「―――ところで、林君?君はどうしてハローワークなんかにいたのかな?」