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福島県梨里(なしざと)村、千鐘(ちがね)山にかかる山守橋(やまもりばし)の上を、一人の男が歩いていた。
やせ細った足元はふらつき、汚いスニーカーを履いたつま先は右へ左へ交差する。
薄汚れた頬に、自らの爪でつけた掻き傷が、ミミズ腫れとなって膿んでいる。
腕にはそのみすぼらしい姿にはちぐはぐな、美しい花束が抱えられていた。
キショウブ。黄色く可憐なアヤメ科の花だ。
彼はその花束を大事そうに抱え、橋の中央までやっとのことで歩いてきた。
そこだけ切り取ってでたらめに嵌めたかのような、目に見えて新しいガードレール。
彼はしゃがみこみ、そっと花束を置いた。
背後を一台の軽自動車が通り過ぎる。
乗っていたカップルが、彼の異様な姿と、供えられた花束を見て、露骨に顔をしかめながら走り去っていく。
彼は車の存在なんか初めから気づかなかったように花束を見下ろし、そしてガードレールの下を流れる最神川を見下ろした。
――2024年6月19日、事故は起きた。
西方交通に勤めるバスの運転手、高橋司(71)の運転する長距離バスは、山守橋中央付近、左側のガードレールに追突し、そのまま32mの高さから落下した。
岩石にエンジンルームを打ち付けられたバスは爆破、直後に炎上。
運転手1名、乗客11名、全員死亡。
令和以降、国内で最悪の転落事故となった。
「……なんで」
男は掠れた声で、この高さでも聞こえる水のせせらぎに問いかけた。
「事故なんかで……」
鳥の囀ずりが聞こえる。
風に揺れる木の葉の音も。
「……なんで……」
男はガードレールにしがみ付いて、嗚咽を漏らした。
コポコポコポコポ
すぐさまその声は川のせせらぎがかき消していく。
ザッ ザッ ザッ ザッ ザッ
その音に紛れて、後ろから足音が聞こえてきた。
振り返ろうとしたその時、
『……ああ、よかった!』
正面から声がした。
そう。
正面だ。
ガードレールの向こう側。
その男は浮いていた。
『もう現れないかと諦めていたんですよ。よかった。見つかって』
男は言いながら満足そうににんまりと笑った。
「見つかった……だと?」
彼は男がなぜ浮いているのか。
そんなことはどうでもよかった。
それよりも男が言っている意味が気になった。
『やっと見つけました。あの人の死を心の底から悼む人。いやあ、いないのかと思って、焦りましたー』
男は胸を手で抑え、大袈裟に息を吐いて見せた。
『……助けてあげましょうか?あの人』
さらに男は笑いながらこちらを覗き込んだ。
「助ける……?それは生き返らせるという意味か?」
彼は男の青く光る目を見つめた。
『そうです。だってあの人が死んだのは――』
男は浮きながら、ガードレールを透過して彼の耳に唇を寄せた。