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自宅に一週間ぶりに帰宅した慶一朗がドアを開けて中に入った時、長期間人が不在だった部屋の澱んだような冷えたような空気を感じず、リビングのソファの前に歩いていくと、一瞬見逃してしまうような変化に気付く。
ソファに正対するように置いてあるテレビとテレビボード。そのボードには慶一朗が好きなSFドラマに出てくる敵のフィギュアが斜め45度に身体を向けながら整列しているのだが、いくつかのフィギュアが逆の斜め45度を向いて整列していたのだ。
一部だけの向きを変えるなど慶一朗がするはずもなく、あれと呟いて同じようにソファの前にやってきたリアムを振り返れば、フィギュアと同じように斜め45度の天井を見上げながら何やら聞き取りにくい言葉を口の中で転がす。
その様子からこれはリアムがしたことだと知った慶一朗だったが、逆を向いているフィギュアの数を数えた時、7体だったことからまさかと思いつつ今度は名前を呼んでその顔を見つめる。
「リアム?」
「・・・帰ってきた時に、気付くかなと思って・・・」
毎日一つずつ向きを変えていたと告白するリアムに珍しくぽかんと口を開けた慶一朗だったが、ああ、それで7体かと納得し、斜めを向きながら頷く愛嬌のある顔に小さく笑いかけるが、ふと当たり前のことに気付いて小首を傾げる。
あの夜、ここを飛び出す前に呆然としていたリアムに、ここにいたいのならばいればいいと言い残したのだが、あの時、己は家の鍵をかけることなく飛び出した。
あの夜以降、ここは今日まで鍵をかけていない不用心な家だったのか。
そう考えた時、今立っている場所から見える室内を見回すが、特に何かが無くなっているような気配もなく、さっき真っ先に違和感を覚えたフィギュアが7体逆を向いているという細やかな変化があるだけだった。
その疑問にリアムも気付いたのか、ああと微苦笑しつつ解答を教えてくれる。
「・・・玄関のボックスの上に置いてあったスペアキーを借りた」
お前が帰ってきたら返そうと思っていたんだと、ポケットからキーホルダーも何もついていないスペアキーを取り出して差し出したリアムの顔をまじまじと見つめた後、そのキーを受け取るために慶一朗が手を伸ばすが、己に向けて差し出されるキーを載せた分厚い、一度それを知ってしまえば手放すことなど出来ない温もりを持つ掌に手を重ねてスペアキーごと握りしめる。
「ケイ?」
「・・・お前が、持っていてくれ」
今まで双子の兄の総一朗以外にスペアキーを渡したいと思ったことはないし渡したことはないと伏し目がちに告げ、顔を上げた慶一朗の前では驚きに目を見張る愛嬌のある顔が見え、自然と沸き起こる感情のまま口角を持ち上げる。
突然の、本人からすれば理不尽極まりない別れの言葉を告げられ、毎日メッセージを送っても無視をしていた相手の家の鍵を使って入っていたが、腹癒せに何かを壊したり捨てたりするのではなく、ただフィギュアの向きを変えるという悪戯にもならない悪戯をするだけで、それが発覚した後はキーを返そうと思っていたと、人として当たり前の事を何ともない顔で行えるリアムという人の素直さや、一歩間違えればただの馬鹿とも取られかねない大きさにただ圧倒されてしまう。
その大きさがあるからさっきのように黙って抱きしめて一緒に帰ろうと手を差し伸べられるのだろうか。
己と比べられない人としての何かに打ちのめされそうになるが、驚きからじわじわと感じているらしい歓喜を顔に滲ませる様を間近で見守っていると、同じように口の両端が持ち上がり、大切にすると言って手の中の鍵ごと手を握りしめてくれる。
その笑顔と温もりが慶一朗の中に存在している名付けられない雑多な感情を一瞬で融解させたようで、膝から力が抜けそうになり、それに気付いたリアムの逞しい腕に支えられて無意識に安堵の息を溢す。
「ケイ、大丈夫か?」
「・・・・・・ルカがジープに乗った王子様と言っていたが・・・」
本当にお前は王子様だなと小さく笑って腕だけではなく体に寄り掛かると、当たり前の顔でしっかりと支えてくれる。
人に支えられる安心感に慶一朗が両手でリアムを抱きしめると、カギを握ったままの手も使って同じように両手で背中を抱きしめてくれる。
こんなにも優しい真っ直ぐな人を己は傷付けたのだと改めて気付くとただ申し訳なさに顔を上げられなくなるが、それに気付いたらしい手が両頬を挟んで視線をぶつけてくる。
「リアム・・・?」
「今、妙なことを考えなかったか?」
「・・・・・・」
リアムの的確な言葉に返す言葉を失ってしまい、左右に視線をさまよわせるとごつんという音とともに痛みが額に生まれ、思わずぎゅっと目を閉じてしまう。
「アウッ!」
「もう怒ってないし腹も立ってないけど、今考えたような事は認めたくないな」
一週間前に別れを告げられたことも己の中では理解できたことだが、またそこに向かおうとする思考は認めたくないと、珍しくにやりと笑みを浮かべた顔で見下ろされ、額に生まれた痛みを確かめるように手を宛がう。
「・・・だから、ちゃんと話をしよう」
店でも話をしようと言ったが、ちゃんとお前が抱えている恐怖について話をしようと目を細めながら提案され、逆らうつもりも無かったために素直に頷いた慶一朗は、過去の話もしなければならないかと緊張に掠れた声で問いかけるが、聞く準備は出来ているからお前が話したいと思えば話してくれ、無理なら無理に話す必要はないと慶一朗の意思を優先してくれる。
その優しさがじわりと体全体へと浸透し、それに逆らうことなど出来るはずもなく、ソファに座りたいと言えば勿論その言葉を優先してくれる。
この、誰に対しても優しい、まるで人畜無害なマッチョマンは、本当にどこまで優しいのかという皮肉な思いが不意に芽生えるが、今日までの一週間の己の態度を思い出してみろとどこかで誰かに言われた気がし、そんな皮肉も風船の空気が抜ける時のように音を立てて萎んでしまう。
ソファに座り、話し合う時の暗黙の了解のように向かい合う場所の床に直接座り込もうとするリアムを制し、肘置きに立てかけて置いたクッションを二度叩くとすぐさま意味を察した大きな身体が一週間前までは何も考えることも疑うことも無かった姿勢になった為、慶一朗が信頼している証のように分厚い胸板に背中を預けて天井を見上げる。
腹の上で重ねられる大きな手に手を重ね、背中だけではなく全身を包まれる安堵感に目を閉じると、一週間ちゃんと食事をしていたのかと、何はともあれ最も気にかかっていたのだろう疑問を口にされてゆっくりと首を横に振る。
「ルカやラシードも簡単な料理は出来るし、店で取っている料理もあったけど・・・」
正直な話、チーズやナッツ以外食べたいと思わなかったと答えると、重ねられていた手の順番が入れ替わり、指と指の間をきゅっと握りしめられる。
それに返すように手を返して掌を重ね合わせると、やんわりと同じように握りしめられる。
「そうか」
「・・・お前の料理が・・・当たり前だったから」
当たり前のことなど何一つないのに、すでに当たり前と思えるようになっていたと自嘲すると、当たり前に思ってくれていいんだと返され、無言で頭を上下させる。
「なあ、ケイ、世界は一人だって言ってたけど・・・」
今でもそう思うのかと控えめに問われ、一週間前なら間違いなくそうだと即答していただろうが、この間ルカやラシードの世話になり、実は見えない所でリアムにも支えられていたのだと気付いた今は即答は出来なくなっていた。
ただ、心の奥深くには自分の世界はやはりひとりだという強い思いが存在していて、その間で揺れているのが身体の緊張に出たのか、リアムが重ねていた手を両手で包んでくれる。
「今は少しマシになったけど、でも・・・」
やっぱり俺はひとりだとどうしても手放すことのできない思いを口にすると、うんとその思いを受け止めてくれる声が頭上に落ちてくる。
「あの時、お前も総一朗も電話に出なくて、誰も助けてくれないと思ってしまった」
その絶望のまま家に帰ってきたが、何もかもが信じられなくてジオラマも模型も壊してしまったことをぽつりぽつりと答えると、あの時は忙しくて電話に出られなかったと謝られ、お前が謝る事じゃないと苦笑する。
「大阪の家では一人だった」
寝ても覚めても体調が悪くて起き上がることが出来なくてもあの部屋では一人きりだったと、当時を思い出すと自然と体を震わせてしまい、それがリアムにも伝わったのか手を包む両手に力がこもる。
「あいつが病院に突然来た時、お前にも言ったけど今がいつなのか本当に分からなくなった」
過去に直結する人物の不意の出現に今を生きているはずの己がどこにいるのか、ここに立っている己は遥か昔に一人きりの部屋で寝転がっている時に夢想していた世界にいるのではないのかという、過去と現実と幻の世界が交差する世界の中で独りだったと呟いた時、そっと目元を覆うように大きな手が重ねられ、何だと問いかけるように首を傾げるが、目と手を覆う温もりに無意識に安堵の息が零れ落ちる。
「すぐに電話に気づけなくて悪かった」
「・・・良い」
ガキじゃないんだ、すぐに電話に出ないからと言って何も自分は一人だと思い込む必要はなかったはずだと、今振り返れば己の言動の反省点ばかり見えてくるが、そんな慶一朗の気持ちを受け止めた上で否定するような声が聞こえ、掌で覆われた下でキツく目を閉じる。
「ガキみたいなわがままを言ってくれて良い」
「・・・・・・」
どこまでも甘やかすような言葉に何も返せなかった慶一朗だったが、あんな風に好きなものを全て壊して独りだと嗤われて家を飛び出されるぐらいなら、どうして早く電話に出てくれないんだと言われる方がちゃんと向き合えると苦笑され、電話に出られなかった理由を説明しようにも弁解しようにも目の前にお前がいなければそれもできないとも続けられて納得した証に息を吐く。
「・・・逃げてばかり、だな」
「今回はそうだな」
今まで似たような状況になったことがあったのかは分からない、今回に限って言えば逃げた事になるが、今こうして戻ってきて少しでも落ち着いているのならばあの時逃げ出したことも無駄ではないのではないかと、どこまでも前向きに物事を捉えようとするリアムの言葉に素直に頷けず、でもと言い淀んだ時、たらればの話をしてどうすると、滅多に聞かない暗い声で問われてそっと目元を覆っていた手を掴んで斜め後ろの顔を見ようと上体を捻ると、そこには似つかわしくない暗く澱んだ笑みを浮かべる顔が見え、思わず身体ごと姿勢を入れ替えると、たらればの話で誰が救われるんだと同じ顔で笑われる。
「リアム・・・?」
「そう思わないか、ケイ?」
あの時ああすれば、こうすれば、あれだったらなど、今更変えようのない過去を思い悩んで今身動きが取れなくなるなんて馬鹿らしいと、笑顔の質を瞬間的に変えたリアムに、つい先ほど人畜無害のマッチョマンでお人好しで正直者と思ったリアムにも人には言わないだけで今のような暗い顔があるのではないかと気付き、あって当然だとも気付く。
幼い頃からこの国で遠縁の男性の世話になっていたと教えられたが、両親や祖母は今でもドイツに健在でレストランをしているのだ。
聞き齧った程度でも家族の仲の良さは分かる程だった。
ならば何故、その仲の良い家族の大切な一人息子を遠いこの国に幼い頃に一人で移住させたのか。
そこに何らかの重大な事情がなければなかなか考えられないことだった。
自分自身この国に来たのは日本の高校を卒業後だったが、それよりも年齢的に幼い頃に両親から離れて面識のなかった遠縁の男に世話になる、その不安や恐怖を一人異国の地でやり過ごさなければならなかったのだ。
己はルカとラシードに出会うまでは本当に心細くて、毎日総一朗に電話をかけて何とかやり過ごしていたが、リアムにはそんな存在がいたのだろうか。
不意に思い至った恋人の気持ちを思うとこの一週間の己の言動が本当に子供じみていたと改めて気付いて逃げ出したくなってしまうが、腰の上をゆるく抱きしめられていて身動きが取れなくなってしまう。
「ガキみたいなわがままを言っても、ちゃんと話し合って納得できれば前に進めるだろ?」
俺が好きになったお前はガキのような態度を取ったとしてもいつまでもそのままでいるとは思えない、変化のない関係は好きじゃないと思っていたが違うかと問われ、限界まで目を見張ってしまう。
「俺が異動することも文句を言いつつもそれに合わせて変わろうとしてくれた────だったら、お前の世界もいつまでも独りじゃない。ひとりきりの世界から飛び出しても良いと思わないか?」
「────!!」
周囲の変化を受け入れて柔軟に対応できる素晴らしい適応力を持っているお前なのに、世界はひとりというその意識を変えることができないのはどうしてだろうと素朴な疑問のように問われて見開いた目でリアムを見ると、慶一朗が好きな笑みを浮かべた愛嬌のある顔の笑みが深くなる。
「なあ、どうしてだ?」
「・・・わから、ない・・・」
「そうか・・・まあでも今すぐ意識を変えろなんて無理な話だな」
長い間その考えでずっとやってきたのだ、今すぐそれを変えろなんて無理な話だと、慶一朗の心的な負担を思ってか肩を竦めたリアムだったが、慶一朗の両頬を手で挟んだかと思うと、額を触れ合わせるように頭を持ち上げる。
「いつか、そうじゃないと思えるようになると良いな、ケイ」
「──!!」
お前の世界は今やひとりきりではない、周囲を見れば俺もいるしお前の大親友のルカやラシードもいる、職場に行けば数は少なくても確実にお前の味方になってくれるテイラーやバロウズがいる、だから突然やってきた男の事で全てを失うかのように思い込むなと優しく励まされ、頬に重ねられていた手の間から重力に従って顔を分厚い胸板に落下させる。
「・・・家に帰ってくれば俺もイチローもいる」
もう独りじゃないのだから、その考えに囚われて恐怖から逃げるのではなく、怖いのなら怖いと言って俺を頼ってくれると嬉しいとも続けられ、胸板に額を押し当ててきつく目を閉じ奥歯を噛み締める。
そうでもしなければ喉の奥まで迫り上がってきている感情を吐露してしまいそうで。
リアムならばそれすらも受け入れてくれるだろうが、それを素直に出す事は今の慶一朗にはまだ出来なかった。
ただ、今までとは違う事を示したいと本能が思っているのか、小さく鼻を啜るとやんわりと頭を抱きしめられ、額や髪に宥めるようなキスが何度もされる。
「確かにまだお前の世界はひとりかもしれない、でも振り返れば誰かがいる」
本当にお前がひとりきりな訳ではないと、慶一朗の中にゆっくり浸透する優しさで繰り返され、小さく頭を上下させると安堵したような息が頭上に降ってくる。
「リアム・・・」
「ん?」
小さく掠れる声で名を呼んで胸板から顔を上げると、いつもと変わらない穏やかな笑みで見つめ返されていて、羞恥を感じるよりも先に別の感情を覚えて今まで腹這いになっていた体の上に座るように起き上がると、何をするのかの疑問と好奇心が入り混じった目で見上げられる。
言葉にはまだ出来ないが有りっ丈の思いを込めて小さく広げた両手をリアムに向けると一瞬の驚きの後、見惚れるような笑みを浮かべて腹筋の要領で起き上がった後、慶一朗の広げられた手の間に体を押し込んで背後に倒れ込む。
「────おかえり、で合ってるか?」
リアムに抱きしめられる事は変わっていないが何かが確実に変化をした慶一朗に不安そうに日本語でお帰りと囁いたリアムは、首にしがみつくように腕を回しそこに伏せられた顔から再び鼻を啜るような音が聞こえたことに気づき、宥めるように背中を何度も撫でるのだった。
ソファで言葉もなくただ慶一朗の背中を撫で、そんなリアムの腕の中で今まで見せたことがない安堵の顔で慶一朗は目を閉じているが、以前とは何かが確実に変わった様子を、一列に並んだフィギュア達が斜め45度の角度で見守っているのだった。