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春。はじまりの風
大学の新歓のざわめきが、教室の空気を濁らせていた。
望月奏は、その隅にいた。
目立たないように、そっとそこにいた。
写真部。
カメラがあれば、言葉はいらないと思った。
誰かと向き合わなくても、シャッターひとつで感情を残せる。
「――あ、写真部、ここで合ってますか?」
その声が、風のように届いた。
ぱっと目を向けると、明るい茶色の髪に、無防備な笑顔の青年がいた。
「高槻遼です! 新入生です!」
笑っていた。
まぶしいくらいに、屈託なく。
「先輩ですよね? ……もしかして、望月奏さん?」
「……うん、そうだけど」
「やっぱり! 作品、ネットで見たことあります! “息をしてる写真”って感じで……俺、好きでした」
いきなりの言葉に、鼓動が速くなる。
「好き」なんて、軽いものだと思いたかった。
でも、その瞳はまっすぐで、嘘じゃないのがわかってしまった。
「……ありがとう」
それだけ言って、そっぽを向いた。
けど彼は、隣に来て、当たり前のように話し続けた。
「俺、カメラ全然詳しくないんですけど、写真は好きなんです」
「空とか、人とか……撮ると、なんか、心がすっきりする」
その言葉に、なぜだろう。
ふっと、自分の奥底にあるものが動いた気がした。
――この人とは、話してもいいかもしれない。
夏。距離は近づき、重なっていく
ふたりで写真を撮りに行くようになった。
遼はどこまでも無邪気で、無意識に心の中へ入ってくる。
「先輩の撮る風景って、なんか寂しそう」
「……寂しいよ、たぶん」
「でも、好き。……俺、寂しいものに惹かれるんですよね」
そんなふうに言って笑う彼の目は、どこか同じ匂いがした。
明るい仮面の裏に、誰にも見せない影があった。
夏の終わり、ふたりは花火を見に行った。
屋台の焼きそばを分け合って、川沿いの土手に座って、
夜空に上がる火の花を見上げて。
「先輩って、手とか……あったかそう」
「え?」
「ちょっとだけ、触ってみていいですか?」
小さな手が、そっと重なる。
どちらからも離さず、ただ静かに、重ねたままでいた。
鼓動が止まらなかった。
それが恋なのだと、気づいてしまった。
秋。告白と、狂いはじめる季節
秋の終わりに、遼は言った。
「俺、奏先輩のこと、好きです」
あまりにあっけなく、でも確かに真剣な声だった。
奏は言葉を失った。
けれど、心の中は、確かに震えていた。
「……僕も、遼のこと、好きだと思う」
やっとの思いでそう答えると、彼は、子供みたいに嬉しそうに笑った。
「……付き合ってくれますか?」
それに答えたのは、言葉じゃなくて、初めてのキスだった。
――柔らかく、震えるようなキス。
唇が触れ合う一瞬に、何かが溶けて、流れて、涙になった。
「……ごめん、怖くて」
「いいですよ。俺がちゃんと、ゆっくり待つから」
遼のその言葉が、どれほど救いだったか。
でも、それは、幸せな時間の終わりの始まりでもあった。
冬。すれ違いと崩壊
冬が来ると、遼はよく笑わなくなった。
スマホばかり見て、何かを隠しているようだった。
「遼、最近……なんか隠してない?」
「別に、なにも。……仕事がちょっと、忙しいだけ」
奏は、不安になった。
彼の笑顔が、少しずつ、嘘みたいに見えた。
そんなある夜、部室に置かれた遼のスマホに、通知が表示された。
“カズくん:昨日の夜、また来てほしかったのに”
見てしまった。
見たくなかった。
問い詰めることもできず、心がどんどん冷たくなっていく。
そして――決定的な夜。
「俺、ほんとはずっと不安だった」
「先輩、俺のこと……ほんとに、好き?」
「そんなの……ずっと、好きだったよ」
「だったら、どうしてこんなに寂しい?」
遼は泣いていた。
声を殺して、泣いていた。
「俺、先輩に抱きしめてほしかったのに……どんどん遠くなる。俺だけ、好きになって……」
その夜、遼は出て行った。
二度と、戻ってこなかった。
春。君のいない季節に
一年が経った。
桜がまた咲いていた。
あの春と同じように、花びらが舞っていた。
奏はひとりで、カメラを持っていた。
シャッターを切っても、何も映らなかった。
彼がいない世界は、色を失っていた。
スマホの中に残された、ふたりの写真。
笑っている彼と、少しだけ照れている自分。
“me me she”
あの歌を聴くたびに、胸が痛む。
「自分だけを見ていてほしかった」
「君の全部が、僕だけのものであってほしかった」
「でもそれは、わがままだったのかな」
遼は今、どこかで誰かと笑っているかもしれない。
自分のことなんて、もう思い出さないかもしれない。
でもそれでも――
君を愛した季節だけは、確かにここにあった。
エピローグ:遼の手紙(1年後)
春、奏宛てに一通の手紙が届く。
「奏先輩へ。
会いに行く勇気がなかったから、せめて言葉で伝えさせてください。
あのとき、ちゃんと向き合えなくて、ごめんなさい。
俺、奏先輩のこと、本当に、本当に好きでした。
離れても、忘れようとしても、忘れられなくて。
今でも、あなたの写真を見るたびに、胸が苦しくなる。
だけど、ちゃんと前を向いて生きてください。
あなたの撮る世界は、誰かの心を救えるから。
俺は、あの春を、絶対に忘れません。
――遼」
奏はその手紙を胸に、シャッターを切った。
レンズ越しに映ったのは、春の空と、吹き抜ける風。
その中に、かすかに遼の声が聴こえた気がした。
「先輩の写真って、息してるみたいですよね」
――春が、また来た。
終わり