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街は影を落とした。かつての学び舎も愛した街並みもすっかり変わり果て、今となっては見る影もない。廃墟と化した家々は主人の帰りを今なお待ち続けるかのように、風が戸を寂しげに鳴らしている。足元にはひび割れたアスファルトが広がり、ところどころに血のような錆が浮いていた。焼け焦げた肉のにおいと、湿った鉄の匂いが鼻についた。かすかに耳に届くのは、うめき声か、風の音か、終わらない悪夢の余韻のようだった。ふと空を見上げると、鬱屈とした灰色の雲が空を覆いつくし、その隙間を縫うようにして黒々とした不吉な塊がのっそりと浮かんでいる。冬の凍える風が容赦なく吹きつけ、チョンサンはブレザーのボタンを留めなおした。
この地を忌まわしき牢獄に変えたあの事件以来、世界の時が止まってしまったかのように思えた。民は永劫の流浪者となり、もはや安息の地はない。日は昇り、また沈む。だがその光はもはや生者のためにさしているのではない。風は吹けども、誰の頬を撫でるわけでもない。ただ朽ちた文明の残骸を嘲るように吹きすさぶだけだ。
韓国政府がヒョサン市に爆撃命令を下してからすでに四ヶ月が過ぎていた。街の外郭には有刺鉄線が張り巡らされ、その向こうには無人の監視塔が等間隔で立ち並び、カメラのレンズがゆっくりと動いている。外れに近づいたゾンビ達がセントリー・ガンによって蜂の巣にされる様子をチョンサンは何度も見た。夜になっても街灯が灯ることはなかった。水道の蛇口をひねれば空気が鳴るような音がしただけで、水は一滴も出ない。建物の壁には赤黒い血の跡がひからび、逃げ惑った者たちの痕跡を物語っている。政府が見捨てたこの場所は、今や誰も救いの手を差し伸べることはなかった。残ったのは、生臭い血の匂いと冷えきった空気だけだった。
あれほど憎んだはずのゾンビに噛まれたことが皮肉にも、この極限の状態でチョンサンを生かしている理由であった。傷をおえばすぐなおり、疲れもあまり感じない。不死身といえば聞こえはいいが、この腐った体は結構不便らしかった。寒さに弱く、ほとんどのゾンビは飢えを凌ぐため、冬季に差しかかると穴を掘り地中深くで眠りにつく。ただし、ウイルスが変異した新種の人間──つまりゾンビのなりそこない、所謂チョンサンやグィナムのような半ゾンビは例外のようで、電気がとめられた街でこの寒さにただ身一つで耐えなければならなかった。
そして、なによりこの身体をきつく締め上げるような飢餓が特にチョンサンを困らせた。内側から骨を軋ませ、あるいは皮膚の裏で爪を立てるような、暴力的な衝動。まるで空虚の中に巣食う、名を持たぬ獣だ。そしてこの獣はときおり彼の前に現れては、人を喰らえとわめきたてる。無視しようにも全く無駄だった。そいつはいつだって空腹の影にまぎれて、ふいに背後から忍び寄ってくる。いつか自分が自分ではなくなってしまうかもしれない。あのゾンビたちのように我を忘れ、仲間を忘れ、故郷を忘れ、ただ飢餓を恐れて機会人形のように歩き回る。それを「生きている」と言えるのか、チョンサンにはわからなかった。そして今日がその日かもしれない───そんなことを考えるたび、眠れなくなるのだ。
すっかり日が暮れたころ、雪がふり出した。空から落ちる白はまだ細く、街の闇に紛れるようにして静かに舞っていた。毎年この季節になると歓楽街は赤と緑の装飾が彩り、駅前には焼き菓子や金箔でおおわれた林檎などの数々のオーナメントで飾られたクリスマスツリーが佇んでいた。すっかり白服に衣替えした街でひとしきり遊んだ後、家に帰ればこれまた豪勢な食事が食卓に並んだ。軽く炙られたローストビーフやチキン、本格的なチゲ鍋にメレンゲドールの乗った大きなケーキ。無我夢中で料理をほおばり、母にはよく噛んで食べなさいと叱られたものだった。まるで昨日のことかのように光景が目に浮かぶ。今年もきっと、腹いっぱいにご馳走が食べられて、朝起きれば枕元にはプレゼントが置かれていて、昼になったらギョンスと雪合戦でもして、くたくたな体でうちに帰る。今年のクリスマスもいつもと変わらず過ごせるのだと、チョンサンは信じて疑わなかった。しかし眼下に広がるこの廃れきった街を見下ろせば、それがただの夢物語だったことに嫌でも気づかされる。朽ち果てた建物と雑草に覆われた道路が、過ぎ去った日々の面影を彷彿とさせた。
チョンサンがそんな昔の思い出にノスタルジックな気分で浸っていると、立ち上る白い煙が視界をよぎった。ずいぶん遠くに見えるがその根元には小さな光が点滅している。
「焚き火だ」
「なんだよ、急に」
とつぜん大声をだすな、と苛立った声を上げたのはグィナムだ。4ヶ月前まで殺し合った相手だが、今では腐れ縁で共に行動している。どこから持ち出したのか、ジャージの上から黒の厚手ダウンジャケットを着込みつまらなさそうに尋ねた。
「焚き火って?」
チョンサンは煙を指さした。
「生きてるひとがいるかもしれない。暖をとってるのかもしれないぞ」
グィナムはしばらく煙を見つめてから、鼻をひくつかせた。
「だからなんだってんだ。今更死に損ないに会ってどうする?俺たちを人間に戻してくれる魔法使いだとでも思ってるのか?」
「もしかしたら生き残ってる人の救援に来た国部隊かもしれない。行く価値はあるだろ」
「一度は見捨てられたんだろ。ならこれ以上期待したって無駄だ」
「じゃあ俺一人で行くから、グィナムはずっとここにいればいい」
「アッ、おい待てチョンサン、まだ話は終わってないぞ」
無視を決め込んでチョンサンが歩きだすと、グィナムは仕方なく煙をもう一度見てから、あとに続いてゆっくりと坂を下り始めた。途中、崩れかけた家の間を通り抜け、倒れた電柱や瓦礫が散乱する細い道を進んだ。しばらく無言で歩いていると、やがて見慣れた校門が見えてきた。門をくぐると、校庭はそこかしこにぼこぼことした大きな穴が空き、あたり1面に雑草が伸び広がっていた。腐った死骸の山があちらこちらで築かれており、腐肉に群がる蠅を手でのける。饐えた匂いが鼻をつき、チョンサンは顔を顰めた。ときおり穴の中から覗く死骸を避けつつ、校庭を横切り、玄関をくぐる。冬の夜の空気は鋭く冷たく、建物の中も外と変わらないほど寒い。割れた窓から吹き込む風が、かすかに衣服の隙間を刺す。月光が差し込む廊下は血がこびりつき、歩を進める度靴が不快な音を鳴らした。そうして階段を上りきると屋上へ続く重たい扉に手をかけ、軋む音を立てながら、それを押し開けた。
扉の向こうには、ひらけた夜空と、黒く沈んだ街が広がっている。コンクリートの屋上は薄く雪に覆われていたが、中央の焚き火は変わらず燃え続け、わずかに暖色の光が揺れていた。風に煽られ、ぱち、ぱちと乾いた音を立てている。薪は木材ではなく、壊れた机の脚か何かのようだった。
「……なんだよ、誰もいねえのか」
背後で唸るように言う男の口ぶりは荒いが、わずかに落単の色が混じっていた。しかし焚き火はついさっきまで誰かがいた証に他ならない。嗅覚に神経を集中させ、何者の仕業なのかを探ろうとしたが、煙のつよい匂いの前ではまるで役に立たたなかった。
誰が何のためにここで焚き火をしたのか。
人間の仕業か、それともゾンビの仕業だろうか。
きっと俺たちのような他の生存者を探していた焚き火に違いない。
それならなぜ、火をつけてからすぐに立ち去ったのか。
理由はなんにせよ、自分たちのような生き残りがいる事実に喜びを感じ、思わずグィナムの方を振り返る。
「………………なあ、何やってるんだ」
当のグィナムはというと、焚き火の前であぐらをかき、どこから持ち出したのか、呑気にもマシュマロを焼いていた。
「なにって、見たらわかんだろ。腹減ってんだよ。これも全部、おまえが生き残ってる人間がいるかもしれない、とかなんとか言って無駄に歩き回ったせいだ」
グィナムが勝手に着いてきたんだろ、とチョンサンは言うべきか悩んだ。グィナムはこんがり焼けた、いや焦げたというべきそれを串からむしり取り、口いっぱい頬張った。もぐもぐと目を閉じしばらく味わったと思うとそれもすぐに吐き出した。
「クソマズいな、食えたもんじゃねえ。ゴムみたいな食感なのにまるで味はボロ雑巾だ」
分かりきっていることだったが、ゾンビになってから人間のような生活を送ることは叶わなかった。味覚がまるっきり変わてしまったようで、野菜や果物は泥や土の味がする。チョコレートやキャンディを食べてもコンクリート壁を舐めているようだった。肉は食べれなくはないが生のものでなくては吐き気さえ催す。グィナムは腹が減れば気にせずゾンビたちの死骸を食べているようだったが、チョンサンは豚や鳥の肉で飢えをしのいだ。それも、日に日に喉を通らなかったが気にしないフリをしている。
元の生活は出来ないとわかっていても希望を捨てられない。人間に戻る方法はないかと模索しているが、4ヶ月たった今でも手がかりは掴めずじまいだ。
グィナムは短い舌打ちしたのち、突然立ち上がった。そして隅の方で横たわっていた生徒らしいゾンビの死体に近づいていき、躊躇なく包丁を振り下ろす。粘り気のある濁った水音がしばらく響き、何かを拾い上げるように手を動かしたのちに軽やかな足取りで戻ってきた。
「お、おいグィナム。ソレ、どうするつもりだ」
チョンサンの指さす先には手のひらに乗せられた2つの目玉があった。チョンサンの狼狽えながらも制止する声を無視し、グィナムはふたつを粗雑に串に通すとそのまま焚き火に近づけ炙ってみせた。パチパチと液体が弾ける音と共に自目がふくれてゆがみ、内部の濁りがぶくりと浮き上がる。炎に反射した液晶が橙色に映りなんとも不気味だ。グィナムが勢いよく目玉にかぶりつくと、中の汁が反対側から吹き出しチョンサンの一張羅にシミを作った。唇には薄いプラスチックのようなものが張り付き、チョンサンの脳はそれがなんなのか理解するのを拒んだ。グィナムは気にする素振りすら見せず、まるで舌の上に残った余韻を味わうかのように、ゆっくりと口を動かしていた。
「最悪だ…………」
もはや糾弾する気さえもがれてしまったチョンサンは目の前の、極悪非道な男をただ見守るしかなかった。
「これな、結構いけるんだよ。たしかに見た目はキモイけど、噛みごたえもあるし、しょっぱみがあって食べやすいんだぜ」
「もういい、説明するな」
頭を手で抑えてチョンサンはかぶりをふった。見ているだけで気分が悪いのに、食レポなんてされたらたまったもんじゃない。グィナムは口の端に着いたタレを舌で器用にすくい取ると、鼻を鳴らした。
「そうやって純粋ぶってるけどな、本当はお前だって人間の肉が食いたくて仕方ねぇんだろ。隠してるつもりでも、その物欲しげな顔見りゃすぐわかんだよ」
そう言うとグィナムはチョンサンの顎を掴み、そのグロテスクな物を無理やり口内に押し込もうとする。
「やっ、やめろ、離せよ。俺はお前と違うんだよ!お前一人で勝手に食べてればいいだろ」
グィナムはチョンサンの反応を見て満足げに口元を歪めた。
「おい、忘れたかイ・チョンサン?黙ってればつけ上がりやがって。俺がお前みたいなのを生かしてやってるのは、お前の苦しむ顔を見たいからだ。いつでも殺せるってことを忘れるなよ。この左目の傷も、野郎共の晩飯にさせられたことも絶対許さねぇ。人間ぶったって長続きしないさ。そうだ、俺が、お前も俺と同じ化け物だってことに気づかせてやる。ほら口開けろよ」
そうして2人はしばらくのあいだ、食え、嫌だ、食え、絶対嫌だ、と意味のない押し問答を繰り返した。そしてその押し問答はやがてエスカレートし、手をつけられなくなった。口悪い罵りあいから始まり、胸ぐらをつかんで殴る蹴る、近くのものを手当り次第なげまくる────浅ましい争いの決着が着く頃には焚き火の火はすっかり消え、あたりの空気は冷えきっていた。しんしんと小降りだった雪はいつしか勢いを増し、おおきな塊となり降り続けている。
「……そ、そろそろ勘弁してやるよ」
「それはこっちのセリフだ」
ガタガタ歯を震わせながら格好のつかないお決まりの捨て台詞を言い放ち、見るも無惨な姿になった2人はふらつく足で立ち上がる。世界一無意味な戦いに使用された哀れな椅子や机の破片をおしのけ、校内に続く扉に手をかける。しかしここで新たな問題が発生した。
「……開かない」
「ハア?」
ドアノブをガチャガチャとやるが扉は一向に開く気配はなかった。
「つまんねえイタズラはやめろよ。それともまだ殴られ足りないか?」
「ち、ちがう。ほんとに開かないんだ」
「……嘘だったら容赦しねえからな。さっさと代われグズ」
チョンサンを突き飛ばすと思い切り取っ手を引いた。歯を食いしばり、唸り声を漏らしながら体重をかけるがビクともしない。調子よく言った手前引くに引けないで、グィナムがしばらく扉に頑張っているあいだ、チョンサンはまじまじとそれを観察した。先ほどは気が付かなかったがドアの縁には薄い氷の層が築かれている。どうやら焚き火によって溶かされた雪が水となり、ドアの隙間に入り込み凍ってしまったようだ。文字通り押したり引いたりしてみたり、体温で氷を溶かしてみたり、二人同時に扉に体当たりしてみたりと様々考えられるだけの事はしたが、結局はすべて徒労に終わった。突如として極寒の地に放り出されたふたつのゾンビはすべをなくし、途方に暮れた。そして顔を見合せた。これはまずいんじゃないか、と。真冬の夜は氷点下を超え、雪は激しさを増し降り積もるばかりだ。どこかで暖を取らなければ、夜明けを迎える前に凍死してしまうだろう。半ばヤケになり、開けろ!ぶっ殺すぞ!と喚き散らしながらも扉を蹴り続けるグィナムを横目にチョンサンは屋上の柵から身を乗り出し地面を見た。真っ暗な闇に包まれ、底がみえぬ釜のようだ。側面をつたうパイプや、足をかけれそうな出っ張りも見えなくはないが、どれも凍りついていて使い物になりそうにない。グィナムがこれまで体を張って検証してくれた『屋上から落下してもゾンビは死なない』という結果こそあるが、こんな暗闇のなか自分から飛び降りる勇気はなかった。それに運悪く頭を打ってそのまま意識が戻らないなんてことになればそれこそ終わりだ。一概にゾンビといってもおよそ半分は人間の体であり、過信し無茶をすれば簡単に死んでしまうだろう。
「おい!チョンサン!お前も蹴れ!このクソ扉、ぶっ壊すまでやるぞ!」
グィナムはいまだ扉に全力の蹴りを入れ続けている。その姿はまるで執念の塊だ。いや、ただのバカかもしれない。
「ムリだって、少しは頭を使え。さっきからその扉全く動いてないだろ。それに、お前の足が砕けるのが先だ」
「黙れ!砕けたら砕けたでその破片で鍵でもなんでも作ってやる」
チョンサンは内心で「それなら先にお前の脳みそを削れよ」と毒づいたが、口には出さなかった。余計な口を挟めば、次に蹴られるのは自分の腹だ。
吐く息は白く、風は容赦なく体温を奪っていく。とうとう扉は開かなかった。無理に力を込めて試す気力さえ、今は残っていなかった。グィナムとチョンサンはこれ以上の体力を消耗させまいと物陰に身をひそめ、膝を抱え、うずくまっていた。
「クソ……お前が焚き火を見に行こうって言うから着いてきてやったらこのザマだ。」
凍傷の兆しが、指先とつま先をかすかに刺すように痛めつける。グィナムは胸ポケットからライターを取り出し着火を試みたが、ガス切れのようでかすかな火花が散り、かちかちといたずらに音が鳴るだけだった。ああ、クソったれ、と言い放つとそのまま外へ投げ捨てた。チョンサンはライターが放物線を描いて落ちていくのをぼんやりと目で追った。風に煽られて、金属が雪の中に沈む前に月光を一瞬だけ反射させる。
「このまま死ぬのかな」
「……おまえだけ勝手に死んでろ。おれはここで作戦を考える……」
そういうグィナムはというと、威勢だけはいいがそのまぶたはすでに閉じかかっており、意識を保つのもやっとというようだ。風がいよいよ強くなり、横殴りの雪が二人を激しく打ち付ける。顔に無数の雪の粒が刺さる痛みは二人を饒舌にさせるのに十分だった。
「…………なあ。あの時、なんで俺を助けたんだ」
「なんだよ、突然。死ぬ前に聞いておきたかったのか?」
「無駄口たたくな。お前を今からでも殺して食ってやっても構わないんだぜ」
グィナムが無理やり返事を催促すると、仕方なくチョンサンは話の続きを引き受けた。
「………勘違いするな、お前を助けたつもりはない。あれは……そう、爆発の盾に使っただけだ」
「嘘だな」
その瞬間、チョンサンの表情がわずかに揺れたのをグィナムは見逃さなかった。
「お前みたいなお人好しに誰かを犠牲にしてまで生き残るなんてことできるわけないだろ」
「……………」
「いままで俺にしてきたことへの償いのつもりか?それとも、知った顔の死体を見たくなかっただけか?」
チョンサンは少し黙ったあと、ぽつりと漏らす。
「……理由なんて、ない。ただ、死ぬ必要はないと思った。それだけだ」
語尾だけが、かすかに震えた。それは寒さのせいか、後悔のせいか。なぜあの時グィナムに手を伸ばしたのか、チョンサンは自分でも分からないでいた。しかしどうしても追い詰められた自分の中で、彼を見捨てることができなかったのだ。
グィナムには何度も煩わさせられた。執拗に追いかけられて、殺されかけた。腹を蹴られた。首を絞められた。腕を噛まれた。片目を潰された。仲間を殺された。
助ける理由なんてこれっぽっちもないはずなのに。あのまま見殺しにしていれば良かったはずなのに、そうできなかったのは、グィナムと自分をどこか重ね合わせていたからなのかもしれない。
グィナムは目的のためには手段を選ばない男だった。自分が生き延びるためには無遠慮で他人を踏みつけ、その事を悪びれもしない。時にそれが彼の友人であろうとお構い無しだ。そのやり方にはもちろん賛成できないし、共感もしたくなかったが、チョンサンにはそんな自由な生き方が少しだけ羨ましく感じた。厄災が降りかかる前の日常、ヒョサン高校での彼の姿は典型的なヤンキーだった。関わりこそほとんどなかったが彼の話題は途切れることなく何度も仲間うちで上がった。あいつがタバコを吸ってるところを見ただとか、カツアゲされただとか、いじめで自殺者をだしたあの事件にも関わってるだとか、そのほとんどは聞いていられない内容だった。
他人を思いやる必要も、責任を感じる必要もなない。チョンサンはあんなふうに傍若無人にふるまえたらさぞ気持ちがいいだろうなと考えたこともあった。しかし、そんな彼は柄にもなくときおり寂しげな、何かを後悔しているような表情を見せた。何をそんなに思い詰めることがあるのかと尋ねれば、いずれもお前には関係ないと返ってきた。その時は、こいつにも人並みの悩みがあるのかと感心したものだ。
正反対のグィナムとチョンサンは互いを思いやる気持ちも、理解しようと、歩み寄ろうという意思も持ち合わせていない。そしてそれは4ヶ月前のあの日もそうだった。グィナムによってチョンサンは左の視界を奪われ、痛みに悶絶し悲痛な叫びを上げることしかできなかった。直後、2人の耳を劈くような爆撃音が鳴り響いた。政府が市民もろとも爆破させる気らしい。ついに長いようで短かった人生の終わりが来たのかと諦観する反面、最後にあの憎き男を懲らしめるチャンスだとも思った。憎しみとは最も強い行動力だ。悲鳴をあげる体を鞭打ち、床ではいつくばるグィナムを見下ろした。さあ炎にたたき落としてやる、そのいけ好かない面ともようやくおさらばだと向き合ったあの一瞬、チョンサンにはグィナムがゾンビでもいじめっ子でもない、ただの小さな子供に見えた。ただ死にたくないと、震える手にはナイフが握られている。実際は轟音に耳を塞ぎ蹲っているだけのはずだ。しかしチョンサンの目に映る彼はもう、強い男でも、忌々しい敵でもなかった。そこにいるのはただ1人の弱い人間だった。
「────いや、認めたくなかったんだ。あの時、俺とお前は似た者同士だと思った。お前はいつも強がってるばかりだけど、本当は死ぬのが怖くてたまらないんだろ。俺もそうだ。………おかしな話だよな。お前のことが大っ嫌いで、死んで欲しくて、殺してやろうと思ってたのにいざとなると助けちゃうんだ。でも、でもな……不思議と後悔してないんだ」
グィナムは長い間、何も言わなかった。 口を開くでもなく、ただ膝を立て、顎をそこに乗せ、焚き火の跡を見つめている。空は鈍色のまま、雪は容赦なく降り続けた。
風がいよいよ狂気じみてきた頃、グィナムがゆっくりと立ち上がった。何かを決心したように口を開く。
「ここから降りる」
小さな笑いすら混じらない、平坦な口調だった。ここから降りるとは、屋上から紐なしバンジーでもするのか。
「降りるって、なにか案でも思いついたのか」
「いいや」
「まさか…………無理にきまってる。こんな吹雪の中でまともに着地出来るわけない…」
「俺がやるからお前は掴まってるだけでいい」
チョンサンが疑問を口にするより先に、グィナムの手が伸びた。突如として腕を掴まれ、引き寄せられる。力加減を間違えたら脱臼しかねない勢いで、肩がぐいと引かれた。視界がぐらりと揺れ、気づけば自分の足は地から離れていた。グィナムの両腕が、自分の背と膝の下をしっかりと支えている。
「えっ。お、おい。正気なのか」
「じゃあこのまま二人ともここで凍え死ぬか?」
「だからって────」
雪煙が巻き上がる。グィナムは膝を深く曲げ、迷いなく屋上の縁を蹴った。チョンサンの喉から叫びが出るよりも先に、風が全てをかき消した。
視界が歪む。耳鳴りとともに、世界がひっくり返る。
空と地面の境が曖昧になり、白と灰色がぐるぐると渦を巻く。
チョンサンの体は宙に浮き、重力に引かれながら凍った空気の中を引き裂くように落ちていった。
着地の直前、グィナムが体をひねり両足で地面をとらえ、全身の力で衝撃を受け止めた。 痛みに顔を歪めながらも、歯を食いしばり、そのまま雪の斜面を数メートル滑り落ちる。 膝が崩れそうになるのを耐え、腕を伸ばし、ようやく停止した。
しばらく、世界はただ風と雪の音だけだった。
呼吸は荒く、肺が凍りつきそうな冷気を吸い込みながらも、グィナムはゆっくりと立ち上がる。着地する時に強い衝撃を受け、折れてしまった足を引きずり、チョンサンを庇うため負傷した肩を強く押さえ、血が滲むのも構わない。ちらりとチョンサンに目をやり、小さく吐き捨てる。
「借りは返したからな」
それだけ言うと、また視線をそらし、何事もなかったように前を向いた。チョンサンは、ただ呆然と立ち尽くした。言葉にならない叫びが喉の奥で燻っていた。馬鹿だ馬鹿だとは思っていたがまさかここまでとは。
吹きすさぶ風の中、グィナムは黙って歩き出した。わずかに足を引きずる背中を、チョンサンはしばらく見つめていた。やがて、自分も足元の雪を踏みしめてそのあとを追う。
凍てつく夜風から逃れるため、無造作に開けた倉庫の扉から中へ滑り込んだ。校舎の中よりはあたたかいがそれでも指先はかじかみ、吐く息は白く煙る。ようやく一息つけるとチョンサンは大きなため息をついた。
「なんだか疲れたみたいだ」
「全部チョンサンのせいだからな」
「はは、なんだそれ。……ただ落っこちるなんて、バカじゃないのか。それも俺を、お姫様抱っこして。腕だって怪我してるだろ、俺を庇ったせいか?」
「いちいちうるせぇな。クソ、あのまま屋上に置いてけばよかった」
「バカ言うなよ。そんなことしたら今度は右の目を潰してたぞ」
「お前ってやつは本当にムカつく野郎だな。分かったからだまってろ」
とグィナムは言ったがその声には怒りの色はなく、むしろ笑っているようにも見えた。
「……ありがとな」
ぽつりと、チョンサンの口から無意識に言葉が出た。その言葉はグィナムに届いたかどうかは分からない。
倉庫の隅、埃っぽい毛布を半分に折り、壁にもたれるようにして二人は横になった。この寒さを少しでも和らげようと、自然と距離は近くなっていた。胸の動きに合わせて、鼓動が微かに伝わってくる。それは冬の夜に閉ざされた部屋の中で、唯一聞こえる音だ。あたたかく、柔らかく、生きているという確かな存在を告げていた。チョンサンは隣の男が今でも自分を殺したがっていることも、その手がすぐにでも自分の首を掴める距離にあることも、すべて承知の上で身を預けていた。グィナムは目を閉じたまま、何も言わない。やがて半月が雲の中から顔を出し、薄明かりが二人の輪郭を静かに浮かび上がらせる。
雪はもう降っていなかった。
人でもゾンビでもない、いびつな存在が肩を並べ互いのぬくもりに身を寄せていた。この寒い冬があければあたたかな春が来る。それまでもうすこし、このままでも悪くないな、とチョンサンは思った。