コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
帰ってシャワーを浴び、林が作ったビーフシチューを平らげた紫雨は、今夜も当然のように身体を求めた。
林はされるがままにベッドに押し倒されながら、寝巻代わりにしているトレーナーを捲りあげ、臍の下を這っている紫雨の薄い唇を見下ろした。
自分だけではなく紫雨だって、大事な話は自分にしないでいる気がする。
彼はわがままで傍若無人な一方で、本当に言いたいことや、心底で感じている不満は林に伝えてこない。
心が通じてないのをお互いでわかっているのに、それでも毎晩体は合わせる。
いくら林の中に彼が入ってきても感情が流れてこない。その逆もしかりだ。
(いや……なんか……)
こちらを見上げた紫雨の視線が、あまりに無防備で不安げで、林は思わず息を止めた。
「――何考えてんだよ」
紫雨が口を開きながら、スウェットパンツの上に跨る。
「――いえ、何も」
「嘘つけ」
言いながら林の股間を指でなぞる。
「ため込んでないで言えって」
「――ため込んでるのは、紫雨さんで……しょ……」
刺激され声が途切れる。
「俺は毎日ちゃんと発散してるから」
言いながら紫雨がスウェットのゴムに手をかける。
「――そういう意味じゃないすよ」
「じゃあ、どういう意味?」
紫雨が躊躇なく林のモノを咥える。
「んん……」
足先に力が入り、シーツを爪が引っ掻く。
「―――きもちい?」
「……ッ」
頷く林に満足そうに眼で笑った紫雨はそれを手で包み、本格的に刺激し始めた。
(ああ、さっき、チャンスだったのに……)
膝辺りにあたる紫雨の股間が、硬く、熱い――。
もうこうなってしまうとダメだ。
自分も紫雨も、一時の快楽に、刹那の体温に、流されてしまう。
まるで互いの不安を払拭するように―――。
ヴーヴーヴー ヴーヴーヴー
紫雨の携帯電話が鳴る。
どちらからともなく寝室の壁時計を見上げた。
23時だ。客ではない。
「――誰だよ。ったく……」
紫雨は立ち上がった。
いつもならこんな電話に出る男ではないのだが、最近、老人ホームに入所している叔母の具合が悪いらしく、妹さんからは“いつでも連絡が取れる状態にしておいて”と言われているらしい。
妹さんはまだ、紫雨と叔母の過去を知らない。
きっと知ることはないのだろう。
紫雨が全力で隠し通すだろうから。
「―――知らねぇ番号だ」
その声に林も上半身を起こす。
「―――俺が出ますか?」
少し不安そうな顔を見て思わず言うと、紫雨は笑った。
「ガキじゃあるまいし」
言いながら通話ボタンを押して耳に当てる。
「もしもし」
すると―――。
『遅いよ。出んの。あー、もしかしてお楽しみ中だった?』
昼間聞いたばかりの声が、受話口から漏れてきた。
「なんで俺の番号知ってんの?」
紫雨が眉間に深い皺を寄せながら言う。
『篠崎さんに聞いた』
「―――あの野郎」
『そう怒んないでよ。いい情報はなるたけ早く伝えてあげた方がいいかと思ってさ』
牧村はケラケラと笑っている。
『昼間内覧したマンションさ、あんたに譲るわ。俺、もっといいとこ見つけたから』
「は?」
『契約書見てたらさー、実はそこのマンション、ベランダでの喫煙禁止だったのよ。俺、星を眺めながら煙草を吸うのが好きじゃん?』
「知らねぇよ」
『だからさ。いいや。譲る。明日あんたの方から中曽根さん?だっけ?に電話しておいてよ』
「あっそ。わかった」
『じゃ、突っ込むのか突っ込まれるのかわかんないけど、ヤリすぎないようにねー』
言うだけ言って電話は切れた。
紫雨は携帯電話を耳から外すと、その液晶を睨み「殺す…」とつぶやいた。
「あーでもよかったかー。あのマンション俺たちのもんだな」
言うと、紫雨はいつの間にかズボンとパンツをはきなおした林を睨んだ。
「おい。何着てんだよ」
「だって」
林はため息をつきながら、何も通知は来てないとわかっている自分の携帯電話を少しいじった。
「フルチンで待ってんのもバカみたいじゃないですか」
「――――」
言うと、紫雨は少し膨れた顔をしながら、林の隣に仰向けになった。
(自分だってそんな気なくなったくせに―――)
通常の状態に戻っている紫雨の下半身を横目で見ながら、林は枕の位置を整えた。
「紫雨さん」
「んー」
「あの部屋で、決めなくてはいけませんか?」
言ったとたん紫雨は体を起こしてこちらを覗き込んだ。
「あぁ?」
「―――もう少し、探してみませんか?」
「――――」
紫雨の口元がへの字に曲がる。
彼の機嫌を損ねることは初めからわかっていた。
しかし―――。
あの男――牧村に、住所も部屋番号も知られているのは嫌だ。
これから天賀谷展示場でしょっちゅう顔を合わせるならなおさらだ。
もちろん、自分とではなく、紫雨と―――。
「お前、俺がせっかく勝ち取った部屋を要らないつうのか?」
「勝ち取ったも何も。あっちが勝手に譲っただけでしょ」
「いーじゃねえかよ。大窪町、天賀谷にも近いし、高速の入り口にも近いし!」
「それはありますけど―――家賃だってもう少し抑えたところの方がありがたいかなって思って」
林が言うと、
「お前には関係ないだろ」
紫雨も隣の枕に頭を沈めた。
「どうせ払うの、俺なんだし」
「―――」
言葉が出なかった。
紫雨は二人で住むマンションの家賃を、自分一人で払おうとしてるのか。
それって―――。
「はあ。ムキマラのせいで萎えた萎えた。寝ようぜ」
紫雨は林の返事も聞かずに、向こうを見て眠ってしまった。
「…………」
暗闇で一人、息を吐く。
仕事。
恋愛。
プライベート。
営業。
私生活。
人生。
人間関係。
自分を取り巻く全てのことがうまくいかない。
その上―――。
牧村の余裕綽々な顔が脳裏をちらつく。
あの男の介入で、事態が好転するのはあり得ない。
それどころか―――。
『篠崎さんは俺のことなんて、もうどうでもいいってことですよね』
涙ながらに語った新谷の声が脳裏に響く。
なんだかんだ、あの篠崎一筋の新谷に浮気をさせた男。
あんなに新谷を可愛がっている篠崎が、一時とはいえ彼を手放す決断をするほどに追い詰めた男。
そんな奴が紫雨に今、確実に近づいてきている。
―――いやだな。
山積みの問題を振り払うように軽く頭を振ると、林はきつく目を閉じた。
◆◆◆◆◆
隣に眠る林の呼吸が規則的になると、紫雨は振り返ってその寝顔を見た。
何か恐ろしい夢でも見ているのか、眉間に皺が寄っている。
手を伸ばし、人差し指と中指でその皺を伸ばす。
眉間の皺が取れたが、今度は前歯が軽く唇を噛み始めた。
「―――何をため込んでんだ、お前は」
言いながら前歯から唇を解放してやる。
赤くなったその唇を眺める。
林はめったに感情を表に出さない。
それは今に始まったことではない。入社した時からずっと、だ。
彼の感情が垣間見れるのは、怒ったときと焦ったとき。
だから林を怒らせてみたくなる。焦らせてみたくなる。
でもどちらの場合も、紫雨の思惑とは別に、林は呆れたようにため息をつくだけだった。
一年前、必死で岩瀬から自分を救ってくれた林は――。
叔母の老人ホームまで付き添ってくれて、自分の代わりに涙を流してくれた林は――。
一体どこに行ってしまったのだろう。
(こいつ、本当はもうとっくに俺のことなんか冷めてんじゃねえの?)
自分の予想が背筋を凍らせる。
根拠ならあった。
最近、会いに行くのも泊まりに行くのもいつも自分の方。
それどころか、話しかけるのも、何かに誘うのも、自分からだ。
ここ最近の林は、紫雨を避けているように思う。
かと思えば、何か話したそうに気配をうかがっていたりもする。
その何かが、例えば別れ話だったとしたら―――。
(……それならそれで)
紫雨は赤くなった唇を指で撫でた。
(ちゃんと言えよ。解放してやるから)
その唇に自分の唇を落とす。
「―――っ?!」
ぐっと手が紫雨の後頭部に回る。
舌が入ってくる。
「んんっ……!」
今まで彼からされたことのないような激しいキス。
舌の根元からかっさわれるような、腰が砕けるような――。
思わず腕を突っ張って上体を起こそうとすると、足が紫雨の華奢な体に巻き付いてきた。
頭を包まれている手はそのままに、もう一つの手が腰に回され、さらに引き寄せられる。
唇と舌を同時に吸われ、熱くて怠い痛みが走る。
「………林…っ」
荒い息でやっとのことで名前を呼ぶと、
「腰が砕けてるよ、子猫ちゃん?」
低い声がした。
驚いて体を突き飛ばすと、そこには牧村がニヤニヤと笑っていた。
◇◇◇◇◇
「――夢かい」
紫雨は上半身を起こしながら軽く頭を掻いた。
「紫雨さん。卵ですけど、卵焼きとスクランブルどっちがいいですか?」
林が昨日紫雨が投げ散らかしたバスタオルやら読みかけた新聞やらを片付けながら聞く。
「―――目玉、焼き」
言うと林は、
「醤油切らしてるんで、ダメです」
とこちらを睨んだ。
「じゃあ、卵焼き」
言うと林は小さく頷きながら台所に消えていった。
あいつが、牧村のように、ボールを投げれば打ち返してくるような男だったら、どんなに楽だったろう。
渾身の力を込めて振り被って投げても、キャッチャーのグローブに吸い込まれ、ボールだかストライクだかわからないままに消えていくのだ。
本当は、繋ぎ留めたい。
そばにいてほしい。
だからこそ、同棲を提案したのに――。
『あの部屋で決めなくてはいけませんか?』
昨夜の林の言葉が蘇る。
(もうこれ。マジでダメかもしんない……)
紫雨はため息をつくと、手で目を強く擦った。