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ラタナ
6,701
調律師🐮 × ピアニスト🐱
この時期はどうもピアノの弦が狂う。
キヨはぼんやりとそう思っては殴り書きが多い楽譜とともに床に倒れ込んだ。いつも座っている椅子にだらしなく足だけを乗せ、楽譜の1枚だけを引っ掴んで眺めていた。
Andante très expressifにTempo rubato·····、un poco mosso、そこからen animantが入ったと思えばdim. molto。そしてmorendo jusqu’à la fin。キヨははぁ、と大きく溜息を吐いては床に指をつけ鍵盤を叩くように指を動かす。
たん、たん、と無機質な音しか鳴らないがキヨの世界では音楽が奏でられていた。
「agiatoの方がしっくりくるんだけどな。」
ポツリ、そう呟いた言葉は誰かが拾うでもなく窓を叩く雨音に掻き消された。
「いや、ここはcalando·····か?」
「そこはcalmandoだろ。」
「うわっ、」
突然聞こえた別の声にキヨは引いた様な声をあげる。
「お前に呼ばれたから来たってのになんで引かれなきゃなんねぇんだよ。」
はぁーーー、とキヨよりも大きな溜息を吐いたその男はキヨが使っていたグランドピアノを容赦なく開ける。
「·····勝手に入ってこられてたらそりゃびっくりするだろ。」
「何回も呼び鈴鳴らしたっつーの。」
「···うっそだぁ、」
「Chi era che stava guardando “ serioso “ lo spartito??」
「·····はぁ、はいはい。È stata colpa mia。」
「ふっ、お前もまぁまぁ慣れてきたじゃん。」
「どっかの牛沢サンが時折使ってくるからですー。」
べー、と舌を出すもピアノの弦に釘付けな牛沢に届くわけもなく。
「·····うっしー。」
「んー?」
「今すっげぇスランプ状態でさ。何を弾いても納得いかねぇの。」
「·····月の光?」
「そう。」
「···俺はそれ弾く時、叶わない恋を思い浮かべてるな。」
「情景違うじゃん。」
「まぁな、よく言われる。」
「·····まぁ、使えんことはないかもね。」
「情景も大切だと思うけど、結局は”音”だからな。それが例え原曲と違った解釈であれど気持ちが乗っかって現れる音が同じなら分かんねぇだろ?笑」
はは、と自嘲気味に笑いながら弦を締めて行く牛沢をぼんやり眺めた。
「叶わない恋、ね。」
「俺の場合は『dolceだろそれ。』ってガッチさんに言われたんだけどな。」
「はは、言えてる。」
「レトルトには『languendoって書いてたっけ?』って言われる始末。」
「ッふはは!languendoはおもろいわ。普通に笑っちった。」
「おーい、馬鹿にすんな。」
「音になるならいいもんな?」
「ったく、お前のピアノの調律全部狂わせてやろうか。」
「えー、辞めてよ。」
そんな話をしながらもキヨは楽譜にペンを走らせた。
〖 pietoso 〗
「·····さて、出来た。キヨ、楽譜なんか貸して。」
「ごめん、その棚からテキトーに引っ張り出して。」
牛沢は言われた通りに棚から適当にひとつのファイルを引き出してはキヨの足を乱雑に退かし、椅子に腰を掛けてピアノには指を掛ける。
E···基、ミから始まるmaestosoが含まれたこの音。間違いない。
「···英雄ポロネーズ·····。」
キヨは思わず口から溢れ出た曲名に目を瞬いた。
跳ねるように、けれどもシルクのような滑らかさを含んだその音色たちはキヨを音楽の世界へ誘う。その音を出しているのはただのしがない調律師だと言うのに。ピアニストととして恥かと聞かれればキヨのプライドでは頷こうにも頷けなかっただろう。現に、引き込まれているのだから。
跳ねるように動く左手、激しくオクターブを奏でる右手。パラパラした細かい音にペダルを踏む絶妙なタイミング。そして何よりもmaestosoを忘れない指遣い。キヨはスランプだと自嘲した自分をこれこそ恥じるに値すると自覚した。
『 情景も大切だと思うけど、結局は”音”だからな。それが例え原曲と違った解釈であれど気持ちが乗っかって現れる音が同じなら分かんねぇだろ? 』
牛沢の言葉がはっきりと蘇る。
うっしーは今、何を考えているのか。
うっしーは今、何を思っているのか。
うっしーは今、何を眺めているのか。
うっしーは今、誰を考えているのか。
うっしーは今、何を感じているのか。
違う、うっしーは今、純粋に楽しんでいる。
この曲を、この楽譜を、この音を、この旋律を。何もかもを楽しんで弾いている。今のうっしーならmaestosoがあろうがなかろうがこの音を奏でたはずだ。うっしーにしか出せない唯一無二の音。
キヨはこの音が何よりも好きだった。心地よい木々の揺れる音よりも、焚き火が爆ぜる音よりも、安心する川の流れの音よりも、鳥の囀りよりも。一等好きなその音を今、楽しそうに奏でている。目の前の男が、楽しいという感情だけでこれだけの音を出している。キヨは深く感動した。昔から好きだったのだ。牛沢の音が、牛沢の音楽に対する姿勢が。牛沢の、その姿が。
「·····、うん、いい音。」
弾き終えた牛沢が頷きながらピアノを撫で、そう独り言る。
「ほら、いい音になったぞ。」
牛沢はキヨに向き直っては未だ寝転んだままのキヨを眺めた。
「·····はは、うん、いい音だよ。」
これ以上がないほど綺麗な音を聴かされてはモチベーションがあったとしても弾くのを躊躇ってしまうだろうに。そう、この馬鹿な英雄に教えないと。
「···でも、弾く気にはならないね。」
そう言ってのけたキヨに牛沢は眉を寄せた。
「何でだよ、弾いてくれねぇとお前の好みの音に近付けねぇだろ、」
あぁ、そういう所が。
「·····好きだよ。」
「···、本当かよ。ま、それならいいけど。」
牛沢は困ったように眉を下げて笑った。
「·····だからと言って弾かないままは許さねぇぞ。駄賃としてソレ聴かせろよ。」
「ウッワ、·····まぁ、うん。しゃーなしな。」
ピアノに軽く凭れ掛かりキヨの手元を覗き込む牛沢にキヨは苦笑しては楽譜をセットしてピアノに指を掛けた。
Andante très expressif。
ゆっくりと、とても表情豊かに。
月の光が反射する水面が漂うように。
AとF···基、ラとファから始まる音。
緩やかに流れる水のような清らかさを孕んだそのたったの2音で、キヨは、この男は、牛沢を虜にした。
伏せがちなその瞳は楽譜を見るでもなく、指を見るでもなく、何処を眺めているのか。
緩やかな光を灯したその瞳は、ピアノを、そして曲を通して誰を見ているのか。
優しく上がったその口角は、どのような情景を浮かべているのか。
恋人に触れるように優しく、けれども情熱的に動くその指は誰を想像しているのか。
牛沢はもはや酔ってしまいそうだった。本人が弾いたものでも、ここまで酔わなかったのに。”この男が奏でる”その事実だけで牛沢は泣きそうだった。心が締め付けられて、息の仕方さえも忘れてしまう。もう牛沢の目線は優雅に動く指には無かった。伏せがちな、でも確かな光をそこに灯した瞳しか見ていられなかった。もしも、誰かを思い浮かべているのなら、それは自分が良かった。『好きだよ』その言葉が俺に向けらていたのなら。
「·····充分好きだよ。」
「ッ、え?」
「え?」
キヨはキョトンとした顔を牛沢に向けた。
そこで我に返った。
「あぁ、ピアノな。いい音だろ?」
「ふは、うっしーが弾いてって言ったのに聴いてなかったわけ?」
「ちげぇよ、聴き入ってただけ。」
「それなら何より。」
「綺麗だよ。」
ほんのりと熱が薫る瞳を向けられたキヨは思わずピアノに目を落とした。
「ありがとう、うっしー。これで梅雨も乗り越えられそう。」
早口でそう言っては楽譜を仕舞って、ピアノを片付けた。そして最後に立ち上がって、牛沢を部屋から出そうと扉に向かおうとすれば後ろから手を握られる。
「····· ti amo。」
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コメント
1件
「月の光」を巡るやりとり、すごく好きです。牛沢が「叶わない恋を思い浮かべてる」と言ったのに対してキヨが「情景違うじゃん」と返す——解釈の違いを認めつつも「音になるならいい」で繋がる空気感が心地いい。そして何より、英雄ポロネーズを弾く牛沢にキヨが完全に引き込まれてしまう場面。調律師のくせに、って悔しがりながらも「一等好きな音」だと認めるところに、長年の信頼と敬意が滲んでる。ラストの〈ti amo〉がイタリア語なのも、二人だけの音楽言語みたいで胸に来ました。次、待ってます。