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夕方の音楽棟は、外よりも少しだけ涼しかった。窓を少し開けた視聴覚室の前、私はベンチに座って膝の上で手を組んだまま、静かに耳を澄ませていた。
扉の向こうから聴こえてくる。
生き生きとしたコードが交差し、時折彼の笑い声が混じる。
「……楽しそう」
ぽつりと呟くと、風がカーテンを揺らして頬に当たった。
私はこの時間が好き。
自分の仕事がひと段落したあとの、ほんの少しだけ空いた隙間。
その時間を「待つ」ために使える幸せ。
それが、ひなたくんであることは、何よりの理由だった。
視聴覚室の中の音がだんだん落ち着き、ドアが開く音がしたのは、それからしばらくしてからだった。
「おっ、あんずさん〜〜っ♪」
ひなたくんが明るい声で駆け寄ってくる。
陽に当たって少し汗ばんだ額をぬぐいながら、にこっと笑った。
「待っててくれたの? オレのために?」
「うん。ひなたくんと一緒に帰りたかったから」
その言葉に、ひなたくんはふにゃっと目を細めた。
「……うれしいなぁ。今日、結構長引くかもって思ってたんだけど、ちょっと早めに切り上げてもらっちゃった!」
「えっ……いいの?」
「うん。だって、あんずさんが外でひとりで待ってるって考えたら……早く会いたくなっちゃったもん」
少しだけ汗が残る制服の袖が、風に揺れた。
そのすぐ横で、ひなたくんは私の手をそっと握った。
「それにさ、最近、なかなかふたりきりで話せなかったから…」
「……うん、そうだね。私たち忙しかったし」
「だから今日は、絶対一緒に帰りたかったんだよ。オレのワガママ、叶えてくれてありがと!」
私は、ひなたくんの手の温かさを感じながら、そっと微笑んだ。
「……私のほうこそ。ひなたくんと一緒に帰る時間、ずっと楽しみにしてたよ」
校舎の外に出ると、もう陽は沈みかけていて、空は茜と紺のグラデーション。
ひなたくんは少しだけ歩幅を落とし、私に合わせてゆっくり歩いてくれた。
「ねえ、あんずさん。今日のサークルさ、新曲やったんだよ」
「うん、音、聴こえてた。すごく楽しそうだった」
「ほんと? あんずさん、耳いいなぁ〜。……今度、ふたりだけのときにも弾いてあげる」
「楽しみにしてるね」
「……ふたりだけのとき、って言ったけどさ」
ひなたくんが少しだけ照れくさそうに、横目でこちらを見た。
「オレ、あんずさんとふたりきりの時間、他の誰より大事にしてるんだ」
「……私もだよ」
「今日もさ、先輩たちやゆうたくんとわいわいやってる間、ずーっと頭の片隅に、あんずさんのことあったから」
「……ほんと?」
「うん。あんずさんが待ってくれてる、って思うだけで、ちょっとテンション上がったし。……今も、手、繋げて嬉しいし」
その言葉に、胸がじんわり温かくなる。
ふと、ひなたくんが立ち止まる。
道のわき、小さな公園のフェンスの前。
「ねえ、ちょっとだけ寄り道していい?」
「うん」
ふたりでベンチに座ると、ひなたくんは鞄を足元に置いて、私の手を再び握り直す。
「今度、サークルのライブあるんだ。少し先だけど、……来てくれる?」
「もちろん!予定、絶対空けておくよ」
「ふふっ、よかった。……あんずさんの前だと、なんでも言いたくなっちゃうんだよね」
「……それは、うれしいな」
「あんずさんだけには、どんな自分も見せたいって思うから。かっこわるくても、甘えてても」
そしてひなたくんは、そっと肩を寄せてくれた。
「好きだよ、あんずさん。今日も、待っててくれてありがとう」
「私も……ひなたくんが大好き」
夕方の空が、少しずつ夜に変わる。
静かな校舎と、公園と、ふたりきりの世界の中で――
あたたかな想いが、言葉より深く、静かに重なっていった。