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8月の猛暑の日中、秋田県内陸のポツリと孤立した山村の近くの山道を、1台の四輪駆動の乗用車が、なんとも乱暴な運転ぶりで走っていた。
運転席の薄茶色の髪の若い男が後部座席のやや年上の男に言う。
「もうじき着きますよ。銃の方は用意いいんですよね」
後部座席の無精ひげだらかの顔の男は、長方形の大きなケースを指差しながら答えた。
「ああ、散弾銃は持って来てる。弾丸もスラッグ弾てやつ含めてたっぷりあるぜ。熊に出くわしても何とかしてやるよ」
運転席の男は軽口をたたく。
「じゃあついでにウサギかなんか狩って、鍋とかやれませんかね?」
「ほんとに何も知らねえんだな。猟の期間は本州だとだいたい10月以降の秋から春先だけなんだよ。今回はあくまで護身用って事で警察の許可取ったんだ。熊が出たら守ってはやるが、それ以上の事は出来ねえぞ」
「ありゃりゃ、そうなんすか。ま、廃墟の映像が売れたら東京でうまい酒飲みましょうや」
「ま、前金はもらってるから、ボディガードは任せとけ。それにしても、廃墟の写真だの映像だのって、そんな物に需要があるのか?」
「あれ? 知りません? 廃墟を探検するって今ちょっとしたブームなんですぜ。軍艦島とか熱海のホテル跡とか」
「そういうものかねえ。お、ひょっとしてあれじゃねえのか?」
車の前方に小さな小屋のような物が見えていた。
車を降りた二人が近寄ると、外壁があちこちはがれて穴が開いた木造の小屋だった。傾いた入り口の戸を開けて中に入ると、床は土ぼこりで覆われ、脚が壊れた椅子が数脚倒れて転がっていた。
猟銃を肩にかけた男が茶髪の若い男に訊いた。
「こんなもんがネットで人気があんのか?」
茶髪の男は少し唇を歪めて答えた。
「いや、これはただの廃屋ですね。見所があるとすればこの奥ですよ。昔何かの鉱山があった所らしいんで」
小屋の奥、山の斜面に面した辺りに高さ3メートル、幅5メートルほどの大きな観音開きの扉があった。
遠目には頑丈そうに見えたが近くで見ると木製の表面はボロボロに朽ちていた。男たち二人がかりで蹴り飛ばすと、簡単にきしんで向こう側に向かって開いた。
茶髪の男はリュックから大型の手持ちビデオカメラを取り出した。カメラの上には強力なライトが付いていて、扉の奥の暗闇を照らした。
茶髪の男はビデオを撮りながら舌打ちした。
「何だこりゃ。狭苦しい横穴があるだけじゃん。壁の木枠もちっぽけだし、トロッコのレールもねえし。今回はハズレだな」
猟銃を抱えた男は坑内の岩壁にもたれかかって茶髪の男の様子を眺めていた。
「あんまり需要は無さそうかい?」
茶髪の男が苦虫をかみつぶした様な表情で返事をした。
「はあ、無駄足だったみたいすね。こりゃ廃墟って言うよりただの廃坑の穴だ。こんな物ネットに上げても閲覧数は取れねえでしょうね」
「そりゃ気の毒だったな。けど俺の仕事はあんたの護衛なんだから、金はちゃんと払ってもらうぜ」
「分かってますよ。東京に帰ったらすぐに残金振り込みますって。もう外に出ましょう」
二人の男は坑道の入り口である小屋を出て、車のドアを全て全開にした。車内にこもっていた熱い空気がゆるやかに周りに漏れ出した。茶髪の男が恨めしそうな口調でカンカン照りの空を見上げて言った。
「ちょっと停めてただけで熱気がこもってやがる。今年の暑さは異常っすよね」
猟銃を持った男はタバコを一服しながら答えた。
「俺はちょいちょい山登りとかしてるから、そこまでとは思わねえがな。とは言え、確かにこうも猛暑日が続くのは初めてだな。おや?」
猟銃を持った男は山の少し下の方を見て意外そうな声を出した。
「へえ、こんな山奥に村があるのか?」
茶髪の男はそちらの方を見もせず、車のエンジンをかけながら言った。
「ああ、年よりだらけの限界集落ってやつらしいですよ。よっしゃ、これなら車のエアコンかけても大丈夫そうだ。さっさとこんな僻地おさらばしましょうぜ」
その時、車の横の杉林から何かがこすれ合うような大きな音が響いて来た。茶髪の男は飛び上がって猟銃を持った男の側に駆け寄った。青い顔で訊いた。
「何かいる! 熊じゃないでしょうね?」
猟銃を持った男はタバコを足元に投げ捨て、散弾銃に弾丸を込めて音がする方向を見つめた。
樹木のかなり上の辺りで、何かの動物の頭が動いているのが見えた。二人の方に近づいて来る。銃床を肩にあてて後ろで震えている茶髪の男に言った。
「熊じゃなさそうだ。鹿か? それにしてはでか過ぎるが」
森の樹木の並びが切れている場所に、その動物は姿を現した。体のシルエットは鹿に似ていた。
青みがかった体表の毛皮には、三角のタイルでも張り付けたような茶色の毛の部分が一面に散らばり、角の形も異様だった。
目の上に一対、前方に突き出した鋭く細い角があり、そのすぐ後ろにはヘラジカの角の様な、平たく広がって細かく分岐したもう一対の角があった。
鼻面は先端に行くほど細く尖っていた。下あごの真下には明るい黄色の長いひげが垂れ下がっていた。
何よりも異様なのは、その大きさだった。その四足動物の頭頂は地面から5メートル以上の高さにある。
その巨大動物が一歩足を前に踏み出すごとに、ズンと鋭い振動が二人の男の足元に伝わって来た。
巨大な動物はまっすぐ二人の男の方に近づいて来る。猟銃を持った男は直感で危険を察し、散弾銃の銃口を巨獣の頭に向けた。
バンという発砲音がした。だが、巨獣はまるでそのタイミングを予想していたかのように身をひるがえし、横によけて、すさまじいスピードで二人の男にさらに近づいた。
猟銃を持つ男が2発目を撃とうとした時、その巨獣が口から茶色い液体を勢いよく吐き出した。その液体は猟銃を持つ男の顔にかかり、男は銃口を降ろしてあわてて顔を手でぬぐった。
「うわ! 何だこりゃ?」
ようやく目を垢られるようになった男がもう一度銃を構えようとした。だが、男は急に全身が震え始め、銃を手から取り落とし、膝から地面に崩れ落ちた。
そのまま前のめりに倒れ込んだ男の体を、茶髪の若い男が必死で揺さぶった。
「大丈夫ですか? どうしたんですよ? うわあ」
巨獣が頭部を地面近くに下げ、二人の男のすぐ側をぐるぐると円を描いて歩き回った。
茶髪の男は銃を拾う事もせず、もう一人の男の体にしがみつくように座り込み、ただ怯えて震えていた。やがて巨獣は急にくるりと体の向きを変え、森の中に戻って行った。
再び樹木がこすれる音が響き、辺りに沈黙が戻って来た。茶髪の男はおそるおそる身を起こし、猟銃を持っていた男の顔をさすりながら呼びかけた。その男は完全に意識を失っていて、前身がピクピクと痙攣していた。
「おい、生きてんすか? しっかりしてっくれよ。そうだ、救急車」
茶髪の男がズボンのポケットからスマホを取り出した。そして、信じられないという口調で叫んだ。
「圏外だと? 携帯もつながってねえのかよ、この辺は」
茶髪の男はもう一人の男の体を後ろから抱え上げて、汗まみれになりながら車の後部座席に押し込んだ。
運転席に座って震える手でエンジンをかけ、さっきもう一人の男が言っていた村を目指して走らせた。
渡研に調査依頼の電話がかかってきたのは、翌日の午前中だった。渡は固定電話の受話器を耳にあて、しばらく小さくうなずきながら聞いていた。不意に受話器を顔から離し、松田に向かって言った。
「松田君」
「はい、何でありましょうか?」
「自衛隊の衛星電話を借りる事は出来るか? もちろん携帯できるやつだ」
「はあ、渡研からの要請という事であれば簡単に申請は通るはずです」
「ではすぐに手配を頼む。今日中に入手したい」
渡は再び受話器を耳にあて、電話の相手に向かって言った。
「承知しました。明日の朝一番で現場に向かって出発します。資料は私のメールアドレスにもう送信済みなんですね。では、これで」
渡は自分の机の上のパソコンを操作し、画面を壁の大型スクリーンに映し出す準備を整えてから、研究室の全員に声をかけた。
「調査の依頼が来た。みんなスクリーンを見てくれ」
遠山、宮下、筒井、松田が一斉に壁のスクリーンに視線を向けた。渡が画像を映し出しながら説明を始めた。
「昨日の事だが、ネット動画の撮影のために秋田県の山奥に入り込んだ男性二人が巨大な動物に襲われたという話だ。うち一人は深夜に搬送された病院で死亡が確認された」
遠山が言う。
「山で動物に襲われたって、熊ですか?」
渡はあごひげをしごきながら答えた。
「無事だった方の男性は廃墟マニアの動画投稿者だそうでな。偶然作動していたビデオカメラに映像が映り込んでいた。これだ」
壁のスクリーンに鮮明だが位置が傾いた動画が映し出された。あの巨大な四足獣の姿が現れた。
「鹿ですかね? それにしては首が短いような」
筒井が画面を見つめながらつぶやいた。渡が言う。
「問題はそのサイズだ。生き残ったその男性によれば、体高、つまり頭の高さだな、それが5メートルはあったと言うんだ」
宮下が驚いて言う。
「体高がそんなに? だとしたら全長は倍はある事になりますよね? そんな巨大な鹿は世界中どこにもいないはず」
遠山がその画像を見ながらつぶやいた。
「これはもしかしてシバテリウムじゃないかな?」
松田が真剣な顔つきになって遠山に尋ねる。
「シバテリウム? ひょっとして絶滅したはずの古代生物とかでありますか?」
遠山が自分のパソコンからイラスト画像を壁のスクリーンに送った。渡も含めて他の全員が息を呑んだ。渡が重々しい声で言う。
「細かい部分はともかく、全体的には確かに似ているな」
遠山が説明を始めた。
「約500万年前から1万年前まで、この時期に棲息していたとされる大型草食動物だ。進化系統から言えば、現代のキリンの親戚と言ったところかな」
渡が口をはさんだ。
「1万年前? だとすると、現生人類ホモサピエンスと同じ時代に生きていたわけかね?」
遠山が答える。
「正確な棲息期間ははっきり分かっていないんです。ただ、サハラ砂漠の遺跡の壁画や古代メソポタミア文明の装飾品に、シバテリウムらしき動物を描いたのではないかと思われている物があります。だとしたら、今でも密かに生き残っていた個体がいるとしても不思議はない事になりますね」
筒井がシバテリウムのイラストの角を見つめながら言う。
「じゃあ角の大きさも相当なものですよね? これで突き殺されたんですか、その犠牲者の男性」
渡が首を横に振って答える。
「死因は毒らしい。詳しい事はまだ不明だが、遺体に外傷は一切なかったそうだ」
宮下が怪訝そうな口調で言った。
「毒? この巨獣は毒を吐くんですか?」
「生存した方の男性の証言では口から毒液を吐いたそうだ。どんな種類の毒かはまだ不明だが、人間一人を簡単に殺せるほどの猛毒というなら、早急に対処が必要だ。これが今回の依頼内容だ。明日の朝8時に現場へ出発する。各自用意をしておくように」
各自は自分のデスクに向かいそれぞれの準備にかかった。研究室の窓の外は強烈な夏の太陽光が降り注ぎ、気温は既に35度に迫っていた。
翌朝、渡研の全員で羽田空港から秋田空港に向かって出発した。一時間ちょっとのフライトで空港に着き、手荷物を受け取って国内線ロビーの扉をくぐると、画用紙ほどの大きさの紙に「渡研究所ご一行様」と書かれた物を頭上に掲げている若い男がいた。
渡が側へ行って自分たちの事を告げると、きっちりと七三分けの髪形に半袖ワイシャツの若い男は名刺を差し出しながら名乗った。
「|矢島《やしま》村役場の職員で大竹と申します。秋田県警からの依頼で、渡研の皆さまをご案内するよう申し使って参りました」
「おお、そりゃ助かります。正直この土地には全く土地勘が無い者ばかりで」
「ご要望の6人乗りのバンもレンタカーを駐車場に置いてあります。では道案内をさせていただきます」
渡は道すがら打ち合わせをするため、大竹の運転する軽自動車の助手席に乗り、松田がバンを運転して他の渡研のメンバーを乗せて空港の駐車場を後にした。
渡は軽自動車の助手席でハンカチで汗をぬぐいながら大竹に話しかけた。
「いや、それにしても午前中から暑いですな。東北と言うからもっと涼しいかと思ってましたが」
大竹が苦笑しながら言った。
「はあ、関東や西日本から夏場に来る方はみんなそうおっしゃいます。この辺りも真夏は最高気温35度が珍しくないですよ。地球温暖化って物なんでしょうね。ひと昔前までは冷房用のエアコンがある家の方が珍しかったんですが」
「それで今回の現場の集落までは遠いのですか?」
「車で2時間というところです。鉄道や高速道路からも離れた、まあ、僻地ですね」
「住民の数はどのくらいですか?」
「現時点で203人です。と言っても、うち4人は村役場の出張所と警察の駐在所の人たちなので、実質的な人口は104世帯、199人ですね。ちなみに私も役場の出張所の職員です」
「こう言っては失礼かもしれんが、限界集落という感じですか?」
「はい。いやもう、それを通り越して消滅しつつある集落と言った方がいいでしょう。無人の廃村になるのは時間の問題です」
小一時間程、バンを後ろに従えて走ったところで大竹が渡に言った。
「そろそろ昼時ですから、この辺で昼食をお取りになりませんか? この先山道に入ると食堂もあまりありませんし」
「そうですな。腹ごしらえにしますか」
「何か食べたい物とかありますか?」
「こう毎日暑いと食欲が落ちてましてね。さっぱりした物が食べたいところですね」
「だったらいい店がすぐ近くにあります。そこへ行きましょう」
渡はスマホで後方のバンの松田に連絡を入れ、県道沿いの店に向かった。
そこは和風の外観の食堂だった。店の駐車場の車を停め、中に入ると冷房の効いた古風な壁と庶民的な感じのテーブル席が並んでいた。
大きなテーブルに6人で座り、メニューを手に取る。大竹が渡の隣でメニューの写真を指差しながら言った。
「これなんかお勧めですよ。暑さで食欲がない時は、この秋田名物が一番です」
写真には「二味せいろ」と書いてあり、大きな器の底に丸い竹細工のざるが敷いてあり、その上に茹でられたうどんが丸く盛りつけられていた。渡が目を輝かせた。
「ほう! つけ麺ならぬ、つけうどんと言うところですか?」
「稲庭(いなにわ)うどんと言ってこの辺りの名物です。夏場はこの食べ方に限りますよ」
「うん? つゆが二種類ありますな」
「一つが醤油、もう一つはゴマダレのつゆです。2種類の味付けが楽しめるわけで」
「おお、こりゃいい。私はこれにしよう」
そのやり取りを聞いていた渡研の他の全員が同じ物を選んだ。料理人用の白衣を着た年配の店主がやって来た。
「ご注文はお決まりですがあね?」
大竹も含めて全員が同じ注文をした。最後に松田が店主に訊いた。
「大盛りがあるんですよね。じゃあ、自分は大盛りを3枚ください」
店主は顔の前で手を横に振りながら言った。
「いやお客さん、うちの大盛りは正真正銘の大盛りだで、2枚にしときなされ」
「いえ、胃袋には自信がありますので、3枚」
「2枚で十分ですよ」
「いえ、そう言わずに3枚」
結局松田が店主を押し切った。二味せいろの盆が次々と運ばれて来た。松田の前には盆が3枚。店主が言う。
「どんぞ、あがってくなんせ」
それぞれうどんをすすり始めた面々は、感嘆の声を上げた。筒井が言う。
「わあ、このうどん、つるつるで食べやすい。それなのに腰があるう」
遠山が言った。
「このゴマダレのつゆ、味が深いな。他に何か入ってるのかな?」
大竹が解説する。
「クルミを擦って入れてあるんですよ」
松田は既に1枚目を平らげて、2枚目に取り掛かっていた。松田のざるに乗っているうどんの量は他の面々のそれの倍近かった。松田も感嘆の声を上げた。
「うまい、うまい。食欲がない時でも、これならいくらでも食べられる」
宮下が唖然とした表情で松田に訊いた。
「食欲がないのが、その状態なわけ?」
「自衛官は体が資本でありますから。食える時に食っておかないと。さあ、3枚目行くか」
食事を終え、それぞれ入り口のレジで代金を払う。最後に松田が支払いをしている時、店主が感心した顔で言った。
「それにしてもいい食いっぷりだったな、お客さんは。あんだけ旨そうに食べてくれると、作り甲斐があるってもんだ」
「大変おいしいうどんでした。是非また食べたいです」
「そうかね。せばな、ええ旅を」
それから1時間ほど車を走らせ、森林に囲まれた曲がりくねった山道を通って行った。
もうすぐ目的地という所で小さな川があり、コンクリート製の短い橋が見えて来た。赤い旗を手に持った作業服姿の中年の男が停車するよう合図した。
軽自動車の運転席のドアのウインドウを降ろした大竹が顔を出して声をかけた。
「ご苦労様です。重量制限は大丈夫だと思いますよ」
作業着の男は後ろのバンを見ながら訊いた。
「何か重い物は積んでないですよね?」
助手席の渡が首を横に振ると、作業着の男は道の端に寄り、旗を振って通行を促した。橋の入り口には急ごしらえらしい「時速30キロ以下」とペンキで書かれた標識が立ててあった。
言われた通り徐行速度で一台ずつ橋を渡る。渡が首を傾げながら大竹に尋ねた。
「何か橋に問題でも?」
大竹はため息をつきながら答えた。
「老朽化です。大型トラックのような重い車両が高速で橋を通過すると、橋桁が崩落するかもしれないという事で。もう3年前からああやって見張りをしているんです」
「3年前から? 橋を修理するなり架け替えすればいいのでは?」
「お恥ずかしい話なんですが、村役場の予算では財政的に無理なんですよ。うちの県だけじゃありません。全国各地の過疎地では、道路や橋の補修が満足に出来ていない所はたくさんあります」
「インフラの保守点検にも支障が出ているんですか?」
「はい。これから行く限界集落では、電線や水道管のメンテナンスも期限切れになっているんです。まだかろうじて使えてはいますが、数年先にはそれもどうなるか」
「電気や水道が止まったら大変じゃないですか。住民には高齢者も多いんでしょう?」
「と言うより、199人の住民全員が65歳以上の高齢者なんですよ。現役世代とその子どもたちはどんどん麓の町や市に引っ越してしまいましてね。今集落に残っているのは、移住をかたくなに拒んでいる人たちばかりで」
「移住? どこへ?」
「村の平野部に生活基盤となるインフラを集中させて、集合住宅も建てて、そこへ引っ越すようにお願いしてきたんです」
「いわゆるコンパクトシティ化というやつですか?」
「はい、その通りです。特に高齢の村民には、一か所に集まって暮らしてもらう方が行政サービスも行き届きやすくなります。今の様にあちこちに小規模な集落が点在していると、行政サービスのコストが高くなり過ぎるんです。さっきお話ししたインフラの維持も不可能になりかねない。私があの集落に常駐しているのは、住民に万一の事が起きた場合に備えるのと、麓のコンパクトシティへの移転を説得するためでもありまして」
「そうでしたか。それは大変なお仕事でしょうな」
「それに加えて今回の怪獣騒動ですからね。役場の人間はみんな頭を抱えていますよ」
ようやく問題の集落にたどり着いた時には、もう日が傾きかけていた。事件の現場を早く見たいと遠山が言うので、まずあの鉱山跡へ直行した。
警察がチョークで描いた犠牲者の倒れていた位置を示す線はまだ残っていた。遠山はゴム手袋を付けて、地面にしゃがみ込んだ。
「うん? 何だこれは?」
遠山が手袋をはめた手で何かを摘まみ上げた。それは小さな雀の死体だった。
「外傷はないな。天敵に襲われたのなら、死体のまま転がっているはずはないし。おや、そっちにも何か」
チョークの線から数メートル離れた所に小さなトカゲの死体がひっくり返った状態で腹を上に向けて転がっていた。遠山がトカゲの死体を摘まみ上げながらつぶやいた。
「尻尾が切れていない。これも不自然な死に方だな。原因は何だ?」
遠山は雀とトカゲの死体をそれぞれ透明なビニール袋に入れ、保冷剤の入ったボックスに収納した。筒井が心配そうな表情で遠山に言った。
「遠山先生、大丈夫なんですか? まさか、まだ毒がその辺に残っているとか?」
遠山は大きく息を吸って答えた。
「そういうわけでもないようだね。僕も君たちも体に異変はないようだし。だが気になると言えば気になるな」
鉱山小屋の跡を見ながら渡が大竹に訊いた。
「何の鉱山だったんですか?」
大竹が答える。
「銅の鉱石だったそうです。1970年代までは操業していまして、当時はこの集落も外から大勢人が来て、にぎわった時代もあったんですよ。もっとも小規模な鉱脈だったので産出量が減るのも早くて、さらに海外から安い銅が輸入されて、採算が取れなくなって1981年には閉山したそうです」
「鉱石の精錬はどうでした? この近くで銅を精錬していましたか?」
「いいえ、鉱石を掘り出して大館市に出荷するだけだったはずです。この付近で精錬をしていたという話は聞いた事がありません」
渡はあごひげをしごきながらつぶやいた。
「とすれば、鉱毒という事はないな。銅山なら川の水質汚染になるはずだ。精錬をやっていなかったなら亜硫酸ガスがこの辺りを汚染するはずもない。鉱山とは無関係だな」
日が暮れて来たため、一行は現場を離れて集落の中心部へ車で向かった。
大竹の軽自動車と後に続くバンは、やや大きな2階建ての建物に到着した。車から降りた渡研のメンバーは建物を見上げて感心した表情になった。筒井が大竹に言った。
「なんか、学校みたいな感じですね」
大竹は微笑みながら答えた。
「小学校だったんですよ、これ。何十年も前に廃校になった小学校の校舎を、村役場で宿泊施設に改装したんです。皆さんにはこの2階の部屋に滞在していただきます」
遠山が興味深そうに建物を見つめた。
「そういうの一時流行りましたよね。そういう狙いでしたか?」
大竹は小さなため息をついて言った。
「はい、ですが、空振りでした。うちの役場でも村おこしでいろいろ企画はしてきたんですが、どれもこれも上手くいきませんでした。特にこの集落は交通の便が悪すぎるんですかねえ」
辺りが暗闇に包まれる中、渡研のメンバーは大竹に案内されて校舎だった施設の2階に登った。
宿泊用スペースは大きな物がひとつ、中ぐらいの物がその両側にあり、内装は思いのほかしゃれた物だった。
カーペットの床にシングルベッドが大きな物で三つ、中ぐらいの物で二つ並んでいて、広々とした空間にソファやテーブルも備え付けられていた。
渡たちが荷物を部屋に運んでいると、建物の玄関から言い争う声が響いて来た。
渡たちがそこへ下りて行くと、この集落の住民らしき高齢の男3人が大竹に向かって怒鳴っていた。
「役場がまた余計な事すんじゃねえよ。なんで他所もんを引っ張り込んだ?」
大竹は困惑した顔で、つっかえながらなんとか説明をしようとしていた。
「あの人たちは、わざわざ東京から事件の調査をしに来てくださったんですよ。皆さんだって、その、あれです、その、あんな得体の知れない怪獣がうろうろしてたら心配でしょう?」
「それが余計なお世話だって言ってんだ。この集落の事は俺たちが自分で解決する。他所者の力は借りねえ」
「いや、そうおっしゃいますが、今回の件は住民の皆さんでどうこう出来るような話では……」
渡がその場に出て住民たちに話しかけた。
「私が調査隊の責任者の渡と言います。失礼ですが、こちらの住民の代表とか、そういう方でいらっしゃいますか?」
農作業用のつなぎの服を着た、大柄な白髪の男が怒鳴るような口調で答えた。
「自治会長の平田って者だ。明日になったら、とっとと東京に帰ってくれ。都会モンに用はねえ」
「いや、今日はもう暗いので、明日にもご挨拶に行くつもりだったんですが」
「そんな事を言ってんじゃねえ。僻地にゃ僻地の生活ってもんがあんだ。役場にとやかく言われる事自体、我慢ならねえのに、余所者に引っ掻き回されちゃたまらねえ。ここの住民があんたらに協力すると思うな、いいな」
そのまま平田という男は肩を怒らせて出て行った。大竹が申し訳なさそうに渡に言った。
「大変失礼な事を言ってしまって申し訳ありません」
渡はおだやかな笑みを顔に浮かべて答えた。
「いや、大竹さんが謝る事じゃない。確かに我々は、招かれざる客でしょうしね」
大竹が車で、元小学校だった宿泊施設を去った後、渡たちは男女交代で1階のシャワー施設で汗を流した。
筒井と宮下が先にシャワーを浴び、次いで渡、遠山、松田がシャワー室に入った。浴槽は無く、曇りガラスの仕切りがあるシャワースペースが三つ横に並んでいるだけだったが、昼間の暑さで体中汗だくになった体には水流が心地よかった。
半袖のTシャツにジャージのパンツというラフな、パジャマ兼用の服に着替えた5人は、使っていない宿泊部屋をミーティング用に使う事にして、そこに集まった。
部屋の窓を開け網戸にすると、涼しい風がかすかに吹き込んで来た。遠山がほっとした表情で、部屋に備え付けの内輪で胸元を扇ぎながらつぶやく。
「夜になるとさすがに気温は少し下がるみたいだな。山の中だし、いい具合だ」
松田が折り畳みのテーブルを床に広げて、2階の隅の小さなキッチンスペースの電子レンジで温めたコンビニ弁当を並べ始めた。松田が言った。
「いや、渡先生の言う通り、空港内の店でいろいろ買い込んでおいて正解でした。ここには昔風のよろず屋みたいな店が一軒あるだけで、それも夕方5時頃には閉まるとか」
渡は小型のクーラーボックスから缶入り飲料を取り出してテーブルに並べた。渡、遠山と筒井は缶ビールを手に取り、下戸の宮下と、いつ車を運転する事になるか分からない松田はジュースを選んだ。
皆で食事を終えると、遠山がパソコンに衛星電話のケーブルをつないでインターネットに接続し、資料映像をスクリーンに出しながら皆の意見を求めた。
「さて、みんなはどう思う? この巨大な獣が毒液を吐くのは間違いないようだが、今日回収した小動物の死骸は、例の事件の後に死んだと考える方が自然だ」
宮下が手帳のページを手繰りながら言う。
「県警に問い合わせたところ、現場検証をした係員は万一に備えて防護服を着ていたそうです。係員たちが引き上げた後じゃないでしょうか、あの小鳥やトカゲが死んだのは」
筒井がおそるおそる手を挙げて発言した。
「もしかして気化する毒じゃないんですか? 昔の地下鉄サリン事件とかも、液体で持ち込んで気化させたんですよね」
渡があごひげをしごきながら言った。
「可能性はあるな。松田君、明日一番で遠山君が採取した死骸を県警本部に運んでくれんか。先方には私から電話を入れておく」
松田がおおきくうなずくと、渡はじっと手の中のビール缶の表面を見つめ始めた。
「あれは麒麟(きりん)かもしれんな」
渡が急にそうつぶやいた。他の4人はそろって首を傾げた。遠山が言う。
「いや確かに進化系統上はキリンの仲間ではありますけど」
筒井も言う。
「そんなに首が長くはなかったと思いますけど、あのビデオ映像見る限りでは」
渡はかすかに笑いながらビール缶の表面の絵を皆に向けて言う。
「いや、そのキリンじゃない。古くから日本、中国に伝わる伝説の霊獣の方だ」
渡がもう一方の手の指先で缶の絵を指す。そのビール会社の社名の由来になった、その霊獣の絵が描いてあった。
それを見て全員が納得した口調になった。松田が言った。
「言われてみれば全体のシルエットは似ていますね。あのビデオに写っていたのは、これほど毛がふさふさした感じではなかったですが」
渡は缶の中身をぐいと飲み干して言葉を続けた。
「麒麟の姿形には様々な言い伝えがあって一定していない。時代によっても変わって来たようだ。遠山君、漢字の方の麒麟で画像を検索してみてくれ」
遠山が画像を検索すると無数のヒットがあった。青銅や陶器で作られた古い麒麟の像の画像を見て、筒井がつぶやいた。
「ああ、こっちなら確かにあのビデオに写っていた動物に見た目が近いですね。渡先生、どんなキャラなんですか、その霊獣としての麒麟って?」
「中国では天下が平和に統治されている時にだけ姿を現す、縁起のいい動物だとされていた。日本では非常に早いスピードで走る優れた動物のイメージが強いな。今では聞かなくなったが、まだ若いのに突出して優秀なスポーツ選手や芸術家の事を『麒麟児』と表現していた」
遠山が深く考え込んだ顔つきで言った。
「もしシバテリウムが定説よりずっと後の時代まで世界各地で生き残っていたとしたら、東アジアでは神秘化された可能性はありますね」
宮下が首を傾げながら言った。
「今頃になって再発見される事ってあり得るんでしょうか?」
遠山が答える。
「絶対無いとは言い切れないね。ジャイアントパンダは知っているだろう?」
「そりゃ世界中で知らない人の方が珍しいのでは?」
「だよね、でもそのジャイアントパンダの存在が学術的に確認されたのはそんなに昔じゃない。19世紀後半になってからだ」
「え? そうなんですか? 今はあんなに有名な動物が?」
「それまでは中国人の間でさえ、珍獣を通り越して謎の未確認生物みたいな扱いだったみたいだよ」
「えええ! 自然界にはまだまだ未発見の生物がいるかもしれないって事になりますね」
翌日は集落の村民に話を聞いて回る事にし、一同はそれぞれの部屋に入って早めに寝る事にした。
夜明け前、筒井は尿意を覚えて目を覚まし、そっと部屋を出て1階のトイレに入った。
「ううん、昨日の夜はちょっと飲み過ぎたかなあ?」
外の空気を吸おうと、まだ暗い玄関の外へ出て深呼吸した。その場所から800メートルほど離れた農地の端っこでガサガサと大きな音がした。
朝日が山の稜線から差し込み始め、うっすらとその姿が見えて来た。しばらくそれを見つめていた筒井の顔が段々青くなり、やおら走り出して2階の部屋に飛び込み、ベッドで寝ている宮下の体をゆさぶった。
「宮下さん、起きてください!」
眠そうな顔で宮下が上半身を起こした。
「どうかした? 筒井さん。まだ夜明け前なんじゃ?」
「出たんです!」
「出たって何が?」
「あれです、あの怪獣が、すぐ近くにいるんです」
宮下は勢いよくベッドから飛び出し、部屋の窓を開けてカーテンを大きく左右に押しのけた。
2階の窓からだとよく見えた。全長10メートルを超える巨大な獣の背が目に入った。頭を地面に近づけ何かを食べているように見えた。
宮下はベッドの下に置いていた肩掛けバッグを引きずり出し、中からホルスターに入った拳銃を取り出した。
拳銃をホルスターごとつかんで部屋の外へ走り出した。ドアを出る時筒井に大声で言う。
「先生たちを起こして来て。あたしが様子を見に行く」
宮下は拳銃の入ったホルスターを右手に持ったまま、玄関でスニーカーに履き替え、そのまま外へ飛び出した。さっき巨獣が見えた位置に向かって走った。
朝日はまだ山の稜線から登り切っていなかったが、薄明の下にさらにはっきりと巨獣の姿が見えて来た。
それはまさしく、あの廃墟ハンターのビデオカメラに映っていた体高5メートルを超える巨大生物だった。しきりに農地の土手に生えている何かの、背が高い植物をかみちぎって食べていた。
巨獣の方が宮下の気配に気づいた。餌をはむのをやめ、ゆっくりと大きな足音をたてて宮下に向かって真っすぐに歩いて来た。
巨獣の顔がはっきりと分かるほど距離が詰まった。宮下はホルスターから拳銃を取り出し、遊底を後ろにスライドさせ、弾丸が装填されたのを確かめた。
そして宮下は拳銃を右手に持ち、その手を真上に上げて空に向かって発砲した。パーンという乾いた音がして、宙に向かって弾丸が飛び出した。
巨獣は驚いた風でもなく、しばらくその場に立っていた。宮下の背後から渡たちの大声が響いて来た。
「宮下君! 大丈夫か?」
その大声にやっと巨獣は反応し、くるりと背を向けて山の方へ猛然と走り出した。あっと言う間に拳銃の有効射程圏外になったため、宮下は拳銃を降ろし安全装置を掛けた。
渡たちが宮下の側へ着いた時には、もう巨獣ははるか遠くの森の中に姿を消していた。
朝日が昇り切った頃には渡たちは普段着に着替えて、あの巨獣がいた農地の土手に立っていた。
畑の中が荒らされた様子はなく、周りの土手に密集して生えている背の高い草がごっそり食いちぎられていた。
渡がしゃがんでその草の茎を見ながら遠山に訊いた。
「遠山君、これは何という種かね?」
遠山も目を細めてその植物の茎を見つめて答える。
「どうもイネ科の植物のようですね。でも食用の米ではないですね。僕も実物を見るのは初めての種だと思います」
そこへ軽自動車が近づいて来てクラクションを鳴らした。近くに車が停まり、なかから大竹が走って来た。宿泊施設の固定電話であらかじめ渡が連絡をしていたため、大急ぎで駆け付けて来たらしい。
「あの怪獣がいたんですか、ここに?」
大竹が息を切らしながら訊いた。渡がうなずいて説明し始める。
「夜明け直前に、偶然この筒井君が目撃したとの事だ。宮下君が拳銃で、ああ、彼女の本職は警視庁の警部補なんだが、威嚇射撃をしたら逃げ出したらしい」
「こんな人里近くに出るなんて。思っていたより危険が差し迫っているみたいですね」
遠山が土手に生えているあの植物を指差しながら大竹に尋ねた。
「大竹さん、あれは何という種類の植物か知ってますか? どうやら例の巨獣はこれを餌にしているらしいんです」
大竹は一目見ただけで「ああ!」と言って説明を始めた。
「いわゆる古代米です。地面に直まきで育つ陸稲です。以前に鑑定してもらった農業試験所の専門家によれば、野生種に近い、まあ、米の先祖みたいな物だと。実は黒いんで、黒米(こくまい)の一種ですね」
渡が周りの景色を見回しながら、眉間にしわを作って訊いた。
「今気づいたんだが、やけにその黒米があちこちに生えているようですが」
大竹が答える。
「はい、元々この土地には雑草として多かったようです。それが何年か前から、この集落の住民のみなさんがあちこちに植えるようになりまして。山際の辺りの土地にまでどっさり植えられてますよ」
筒井が穂先の身をまじまじと見つめながら言う。
「という事は食べられるんですか、これ? 古代米って健康にいいとかで、一部では人気あるらしいですよね」
大竹が苦笑しながら答えた。
「ははは、実は役場でも一度はそう考えまして。まあ、体験してもらうのが一番早いですね。その実を口に入れてみてください」
「いいんですか、勝手に?」
「まあ、植えていると言っても誰の所有という事もないので、かまいませんよ」
渡たちはその黒米の実をちぎって両手で揉み、中の米状の粒を取り出した。1個ずつ口に入れた。
たちまち渡たち全員の顔が歪んだ。大竹の目の前で吐き出すわけにもいかず、無理して呑み込む。その後も口の中に残る強烈な苦みに顔をしかめながら渡が言った。
「いや、これは何と言うか、変わった味ですな」
大竹が笑いながら言った。
「お気遣いは無用ですよ。食べられた物じゃないでしょう? まあ食用に出来ないかどうか、あらゆる手を試したんですが、とても売り物にはならないという結論になりましてね」
「でしょうな。では何故、ここの住民の方々はわざわざ植えているんですか?」
「私にはよく分からないんですが、虫よけになるとか言われた事があります。まあ、この集落の昔からの風習とか、そういう物なんでしょうね」
それから渡研は2班に分かれて村民に話を聞いて回る事になった。宮下と筒井、遠山と松田がペアになり集落を歩いて回った。
渡は大竹に、採取したサンプルとあの古代米を数本、県警に車で運んでもらうよう頼み、自分は集落の状況を観察しようとぶらぶらと舗装されていない道を歩いた。
集落の村民の、渡研の面々に対する態度は、これでもかという程冷淡そのものだった。
遠山と松田は何度も目の前で家の扉を大きな音を立てて閉められた。宮下と筒井は主に女性の村民に話しかけたが、一切返事すらしてもらえず足早に立ち去られた。
渡は集落の北側の奥に寺があるのに気づき、訪れてみる事にした。木製の塀に囲まれた古い本堂と大きな納屋がある寺で、その横の土地が広い墓地になっていた。
渡は墓地が二つの区画に分かれている事に気づいた。広い方はこの集落の住民たちの先祖代々の墓なのだろう。立派な造りの墓石が規則正しく並んでいた。
その半分ほどの広さの区画は、高さ50センチほどの小さな、間に合わせで作ったという感じの不揃いな形の墓石が、狭い感覚でひしめくように並んでいた。
造りは雑だが、墓石の隙間の地面には雑草はほとんど無かった。つい最近雑草が引き抜かれた跡もあり、よく手入れがされているように見えた。
寺の塀の向こうから作務衣を着た坊主頭の高齢の男性が、両手に箒と塵取りを持って出て来た。渡が反射的に頭を下げてあいさつすると、彼はにこやかな表情で墓地へ近づいて来た。
「おや、東京からいらした方々のお一人ですな。何か気になる物でもありますか? こんなボロ寺に」
渡は背筋を伸ばしてもう一度会釈し、彼に尋ねた。
「お邪魔しております。失礼ですが、このお寺の方ですか?」
「はい、ここの住職でございます。と言っても、ご覧の通りの貧乏寺ですがね、ははは」
渡は小さな墓地の区画の方を掌で示して訊いてみた。
「あちらの場所だけ墓石の位置とか、微妙に違うようですね。何か特別な人たちのお墓なんでしょうか?」
住職は手ぬぐいで剃り上げた頭の汗をぬぐいながら答えた。
「ああ、あそこは村民ではなかった人たちの墓石ですよ。昔この村に銅の鉱山があった事はご存じですか?」
「はい、役場の大竹さんから聞いております」
「戦前の時代から、1970年代頃まででしたかな。この村も鉱山に出稼ぎに来た人たちが大勢住んでいましてね。死後、ご遺骨を引き渡す親族が見つからなかった人たちのお墓なのですよ、あれが全部」
渡はそう言われて改めて小さな区画の墓石の方に視線をやり、その数の多さに驚いた。
「あんなに大勢の方が亡くなったと? 何があったんですか?」
「鉱山での事故ですよ。昔の鉱山はどこでもそうだったでしょうが、落盤、崩落、爆発事故、有毒ガスの発生、いろんな事故がよく起きていました。まあ数年に一度はここでも死人が出ていたそうです」
「そうでしたか。しかし遺骨の引き取り手がなかったとはどういう事情で?」
住職は灌漑深そうな表情になって答えた。
「こんな山奥の鉱山に住み込みで働きに来る方というのは、まあいろいろ訳ありの人が多かったんでしょうな。例えば前科者とか、夜逃げをした人とか。鉱山の経営会社に届け出ていた実家の住所や、時には名前まで、架空の物だったという事も多かったそうで。あの時代はそういう確認はいいかげんでしたからね。鉱山会社もその辺は見て見ぬふりだったんでしょうな、人手の確保が最優先でしたから」
「なるほど。でしたらここの元々の住民の皆さんにとっては素性の知れないよそ者だったわけですよね? 誰がこんなそれなりのお墓を作ってあげたんですか?」
「この集落は、平成の町村合併以前は一つの独立した村だったのですよ。当時の村民の意向で、行き場のないご遺骨を、せめてお墓に収めてやろうという事になったようです。当時は事故で死人が出ると、たとえ日雇いの労働者であろうと、会社がそれなりの見舞金を出してくれたそうです。先代の住職、つまり私の父親、から昔よく聞かされました」
渡はまた小さい方の区画の墓地に目をやり、感心した口調で住職に言った。
「雑草もほとんどない程よく手入れされていますね。住職さんも大変なお仕事ですな、あちらの手入れまでなさるとは」
「ああ、いえいえ」
住職は笑いながら右手を横に振った。
「あの区画は寺の土地を貸してはおりますが、手入れをしているのはここの住民の皆さんですよ」
「えっ?」
渡は小さく驚きの声を上げた。
「今でもそうなんですか? 今の住民にとっては縁もゆかりもないよそ者の墓でしょうに」
「まあそうですが、もう村民の習慣になっているんでしょうね。しょっちゅうかわるがわる住民の人たちがちょっとずつ手入れをしているんで、綺麗なもんです。おや、意外そうな顔をなさっていますな?」
「これは失礼。正直に言うと少し驚いています。失礼ついでに言うと、もっと閉鎖的でよそ者を受け付けない土地柄なのかと思っておりましたもので」
「ははは、今は高齢者ばかりですから、そう見えても仕方ないかもしれませんな」
笑いながらそう言った後、住職は真面目な表情になって言葉を続けた。
「都会の方には意外でしょうが、この村はよそ者には、むしろ寛大な土地柄なんですよ。この辺は豪雪地帯でしてね。冬場は村の男たちはあちこちに出稼ぎに行っていました。自分たちが見知らぬ土地でよそ者として何か月も暮らしてきたわけです」
「ああ、そういう事情でしたか」
「はい、昔のここの住人はよそ者扱いされるつらさを、誰よりもよく知っていたんでしょう。鉱山が軌道に乗ってからは出稼ぎに行く事は減りましたが、よその土地から働きに来て、短期間でもこの村に住んでいた人たちの事は暖かく受け入れていたそうです」
「なるほど、複雑な歴史があったんですね」
「全ては昔の話です。今となっては人口の流出が止まらず、いつまで集落が存続できるか? この寺も私の代で終わりでしょう。私にあの世からお迎えが来たら、廃寺になります」
「寂しい気もしますね。おっと、では私はそろそろ失礼します。研究員たちと合流する時間のようだ」
渡は住職に深く一礼してその場を後にした。
正午に宿泊施設に全員が集合する事になっていたので、渡は集落の中心部に向かって歩いた。渡の眉が何度も曇った。
「渡先生!」
松田の声が聞こえた。遠山と松田が小走りに駆け寄って来た。渡が訊いた。
「そっちはどうだった? 何か収穫はあったか?」
遠山と松田はそろってため息をつきながら答えた。遠山が言う。
「全然だめでした。誰も話すら聞いてくれなくて」
さらに歩いて宿泊施設が見えて来た頃、宮下と筒井が合流した。二人も全く収穫無しだと報告した。筒井が言う。
「もう取りつく島もないって感じで。お年寄りばかりで共通の話題もありませんし」
宿泊施設の玄関前に着いたところで、渡が振り返り、集落の風景を見回しながら眉間にしわをよせた。それに気づいた宮下が問いかけた。
「渡先生、何か気づいた事でもおありですか?」
渡は立ったままあごひげをしごきながら返事をした。
「うまく説明できんのだが、何か違和感があるんだ」
遠山が訊く。
「この集落の風景にですか」
「そうだ。私は地学の研究者だから、日本中あちこちの地質調査などで、いろんな山村、農村を歩き回った。だが、この集落は何かが違って見える」
「そうですか? 僕の目にはありふれた日本の農村風景に見えますが。具体的には何が違ってるんです?」
「いや、それが自分でもはっきりとは分からんのだよ。何かが違っているんだが、それが何なのか、どこがどう変わっているのか、はっきり分からない」
渡は首を傾げながら宿泊施設の中に入った。他のメンバーは特に何かを気にするでもなく、その後に続いた。
結局その日は午後も集落中を歩き回ったが、メンバーの誰も住民たちと会話らしい会話を交わす事すらできなかった。
翌日、午前中からまた同じペアの組み合わせで集落へ出かけた。宮下と筒井がある家の裏庭の前に差し掛かった時、宮下が急に立ち止まって縁側を見つめた。
その家の住人らしい老人が縁側にあぐらをかいて座って、猟銃の手入れをしているところだった。
宮下は思い切って老人に声をかけた。
「あら、いい銃をお持ちですね。もしかしてミロク製のライフルですか? その形だとAB3ハンターかしら」
老人は顔を上げ、ギロっとした目つきで宮下の顔を見た。そしてぶっきらぼうな口調で、初めて宮下に話しかけた。
「ねえちゃん、銃の事が分かんのか?」
宮下は精一杯の笑顔を作りながら言う。
「あたしの本職は警視庁の刑事なんです。研修でライフルの射撃訓練を受けた事も何度かありますんで」
「ほう、女が銃を扱える時代になったか。そりゃいいこった」
「いつからそのライフルをお持ちなんですか?」
「今年で10年目だ」
「ええ? まるで新品みたいに見えます。とてもよく手入れをなさっているんですね」
老人は少し表情をゆるめて、目にかすかな笑みを浮かべた。
「分かるか? じゃあ、もっと近くで見てみろや。そこの木戸から入って来な」
「いいんですか? じゃあ、お邪魔します」
宮下は瞳を輝かせ、戸惑っている筒井の手を引っ張って庭に入った。縁側に近寄ると、老人はライフル銃を両手で抱えて宮下の目の高さに持ち上げた。
「あんたの言う通りの銃だ。見た目は古臭いけんど、命中させやすいいい猟銃だ」
「ライフルをお持ちという事は、散弾銃の方も長い事所持なさってますよね?」
「そっちも名品持ってるぞ。2年前に買い替えたもんだが、見てみるか?」
「はい、是非」
「よっしゃちょっと待ってろ」
老人はライフル銃を縁側に板敷に置いて部屋の中に入って行った。筒井がライフル銃に人差し指で触れようとするのを、宮下が大声で止めた。
「ダメよ、筒井さん、触っちゃ」
「え? ちょっと表面に指先を、それだけなんですけど」
「猟銃は所有者以外の人間は指一本触れちゃいけないの。法律と規則でそう決まってるの。厳しいのよ、日本の銃規制は」
「ええ? そうなんですか?」
老人がもう1丁の銃を手にして縁側に戻って来る。老人は筒井に向かって言った。
「そっちのねえちゃんの言う通りだぞ。触っちゃなんねえ。同じ警察官なのに、そんな事もしらねえのか?」
筒井は顔を引きつらせて答えた。
「あ、いえ、あたしは警官じゃなくて、本職は新聞記者でして」
「だったらなお悪いべや」
老人は目は笑っていたが、険しい口調で筒井に言う。
「今どきの新聞記者ってのは、そんな事も知らねえ奴でも勤まるんか?」
「え? すいません、すいません。たまたま知らないだけど、あの、その」
筒井の慌てぶりに老人はとうとう笑い声を出した。
「いや別にそこまで謝らんでもいいべや。ほれ、これが今持っとる散弾銃だ」
その銃の銃身を支える部分には一面に変わった模様が描かれていた。たまに松田が着る自衛隊の迷彩服の表面のそれに似ていた。老人が自慢そうに言う。
「これもミロクってメーカーのカモっていう散弾銃だ」
筒井が銃を見つめながら訊いた。
「カモ? ああ鳥の鴨を狩るんですか?」
老人はさらに大声で笑って言う。
「カモフラージュの略でカモだ。ほれ、山の中でこういう表面の模様だと、風景に紛れて見えにくくなるだろ。野生の獲物は目ざといからな」
「なるほど。ライフルだけじゃなくて散弾銃も持ってるってすごいですね」
「いやそりゃ順番が逆だ。散弾銃を10年以上所持した経験があって初めて、ライフル銃の所持許可の申請ができるようになんだ。銃刀法って法律にはっきりそう書いてある。あんた、そんな事も知らねえのか?」
「きゃあ、すいません、すいません、不勉強ですいません」
根っからの気の弱さを全開にしている筒井を、笑いをこらえながら見ていた宮下が老人に訊いた。
「こちらの集落では、猟銃を所持している方は多いんですか?」
「昔は男はたいてい持っとった。今は俺も入れて10人ぐらいか」
「東北だとマタギって言うんですよね? もしかして、この集落はマタギの村だったとか?」
「いやいや」
老人は苦笑しながら首を横に振った。
「俺たちの猟は畑を荒らす害獣駆除とか、獲物を食うにしてもウサギとか、その程度のもんだ。マタギを名乗れるほどの本格的なもんじゃねえ。熊とかの大物を駆除する時は県の猟友会に頼むだよ。こんな年寄りばかりの村じゃ、大物は手に負えねえ」
宮下が興味津々という風な表情を作ってさらに訊いた。
「へえ。じゃあ、皆さん、今でも冬には山で猟をなさってるんですね?」
「いや、ここんとこはこの銃も宝の持ち腐れだ。もう3年近く誰も猟はやってねえ。害獣が来ねえからな」
「あら、それはどうしてですか?」
「そりゃ、あれが……」
そう言いかけて老人はあわてて口をつぐんだ。顔から笑いが消え、何かをごまかそうとする口調になって、両方の銃を持って立ち上がった。
「さあな、そりゃ山の動物に訊いてくれ。そろそろ買い物に行く時間だ。じゃあ、これでな」
老人は部屋に引っ込み、ぴしゃりと縁側を隔てる障子を閉めた。庭から道へ戻る時、宮下の瞳が鋭く光を放った。
その夜、渡研のメンバー全員が就寝様に使っていない宿泊施設の部屋に集まり、これまでに集まった情報を整理した。
渡りからその集落の歴史を聞かされたメンバーは一様に意外そうな声を発した。遠山が不満そうに言った。
「やれやれ、話しかけても返事もしてもらえない事が何度もあったのに、信じられませんね」
宮下が猟銃の件で住民の一人と交わした会話の説明をした。渡が感心した口調で言った。
「ほう、そういう共通の話題があったか。それは宮下君ならではの話だな」
宮下が真剣な表情になって皆に告げた。
「これはあたしの感覚的な意見なんですが。あの巨大生物は銃に慣れているんじゃないかと思います」
遠山が口にあてていたビール缶を思わず降ろして言った。
「え? 君の威嚇射撃で逃げ出したんじゃなかったか?」
「あたしは至近距離で見ていたから分かります。あの巨獣はあたしの撃った銃声にはほとんど反応しませんでした。逃げ去ったのは皆さんが大声を上げながら近寄って来たせいです。普通、野生動物は銃声を聞けばそれだけでパニックになるはず。銃声を聞き慣れている可能性が高いと思えるんです」
筒井がハッとした顔で言う。
「この集落では昔から男性はほとんどが猟銃を所有していると言ってましたよね、昼間のおじいさん」
松田がツマミのピーナツをかじりながら訊いた。
「ここの住民のみなさんは狩猟をするんですか?」
筒井が答えた。
「ああ、でも、ここ何年かは猟には出ていないとも言ってましたね。害獣が出なくなったからとか」
不意に渡が一段高い声を出した。
「害獣?」
そして渡はあぐらの自分の膝をポンと叩いて言った。
「それだ。それが私が抱いていた違和感だ。だからこの集落の農地が私の目には何か変に映っていたんだ」
遠山が怪訝そうな顔で渡に訊いた。
「どういう事ですか、渡先生? 前にも言いましたが、畑と森林ばかりの典型的な農村風景でしょう?」
渡があごひげをしごきながら応える。
「害獣除けの柵やネットがないんだ、ここの農地には。今の時代、田舎の農業地帯なら野生のシカやイノシシの侵入を防ぐための電流柵やフェンスがある方が普通だろう? 特に、ここのように山林にぐるりと囲まれている場所ならなおさらだ」
他の4人が一斉に「あっ!」と声を上げた。松田が言う。
「確かにそうです。自分も陸上自衛隊の災害救助で一度、山村に行った事がありますが、そういう仕掛けがあちこちにありました」
遠山が天井を見上げて記憶をたどりながら言った。
「言われてみれば、この集落のどこにも、そんな物を見た記憶がないですね。結構あちこち歩き回ったはずなのに」
筒井が遠山に訊いた。
「遠山先生、シバテリウムは草食動物なんですよね? 草食動物を恐れて、他の野生動物が近寄らないなんて事があり得ますか?」
遠山は大きくうなずきながら答えた。
「あれだけの巨体なら別に不思議はない。あんな巨大な獣がこの集落の周りを常にうろついているなら、熊でも警戒して近づかないだろう。この辺りの農地に害獣被害が出ないというのは、もしやそのせいか?」
宮下が瞳を鋭く光らせながら言う。
「ひょっとして、あの巨獣は以前には、ここの住民の害獣駆除の狩猟に同行していたんじゃないでしょうか? だから銃の発射音に慣れている」
渡がぼそりと言う。
「あの古代米が村中に植えられているのは、やつの餌を住民全員で栽培しているという事じゃないのか? シバテリウムがこの集落の農地を野生動物の食害から守り、住民たちは代わりにやつの好物の餌を提供する」
遠山が唖然とした表情で言った。
「シバテリウムと住民たちが共生してきた?」
渡がしきりにあごひげをしごきながら言った。
「あくまで推測に過ぎんが、もしそうなら共同生活と言った方が適切かもしれんな。外界から孤立した高齢者ばかりの集落の住民たちが、存在さえ確認されていない巨大生物と、人知れず緊密に協力して生きて来た。私たちはその平和な共同生活を脅かしに来た外敵という事になる。なるほど、それなら住民が我々に非協力的なはずだ」
翌日、渡はこれまでの方針を変更すると研究室のメンバーに告げた。この集落の住民たちとシバテリウムの関係を正面から質問して回る事にしたのだ。
村役場の大竹が県庁や県警との調整で走り回っていたため、渡は連絡役として宿泊施設に残り、今回は遠山と宮下、松田と筒井がペアになり、住民たちとの対話に出かけて行った。
松田と筒井が住宅の多い地区へ歩いて向かった。途中松田が道の両側に並ぶ古い家屋を見ながら言った。
「やっぱり空き家が多いようですね。それも長年放置されている感じです」
そう言われた筒井が、大きなガラス窓の扉が半開きになっている家屋の中をのぞき込んだ。
「うわ、ほんとだ。ほこりだらけ。この造りだと、昔は何かのお店だったのかな? 中に入ってみる?」
「いや、やめておいた方がいいですよ。持ち主はいるのかもしれないし、もしそこが大丈夫でも長年放置された空き家に安易に足を踏み入れるのは危険です。床が腐っていたり、野生動物が住み着いていたりしますから」
その地区の住民の井戸端会議の場所なのであろう、井戸こそないが、木製のベンチがいくつも置いてある開けた場所に二人が近づいて行くと、高齢の女性の住民が3人、話に興じていた。
女性たちはそろってジャージを着て、水筒で持参したお茶を飲みながら話していた。
「ノリコさんとこの息子夫婦は今年は帰って来んのかね? お孫さんの学校の夏休みまだ残っとるだろうに」
「もう何年もここには帰省してないよ。孫の受験の準備があると言うてなあ。夏休みも毎日塾に親が送り迎えせにゃならんそうだで」
「ありゃ? お孫さんてもうそんな年じゃったかいね? 受験て、大学? 就職?」
「んにゃ、中学受験だそうだで。まだ小学校の3年生だあ」
「そんな年から帰省も出来んほど忙しいかいね、都会の暮らしは大変だなや」
「いや、キミエさん、うちなんざもっと薄情だでや。孫が3人ともこんな遠い田舎に行きたくねえと言うとるだよ」
「アキコさんとこは確か、息子さん夫婦が仙台、娘さんと旦那さんが札幌じゃったかいね。そんなに時間かからんだろうに」
「今どきの子どもにとっちゃ、何もおもしれえ事がねえただの僻地なんじゃろうね、こんな村は。どっちの家も海外旅行に行くだで、こっちに帰省はせんと言うて来た」
「ありゃまあ、そっちの方がよっぽど遠いとこ行くんじゃないかね」
「もうどこの家でもそうじゃがいね、ここ10年ぐらいは。盆と正月にゃ街へ出て行った家族が戻って来て一緒に過ごしたなんて、もう昔話になってしもうだがね」
女性たちの会話が途切れたところを狙って筒井が歩み寄って声をかけた。
「あはようございます。みなさんでお茶会ですか?」
住民の女性たちは筒井に向かって会釈はしたが、顔にはあからさまに嫌そうな表情を浮かべて口をつぐんだ。
筒井は昨夜の渡の推測をストレートに彼女たちに告げてみた。3人の住民は一瞬顔色を変えたが、すぐに冷静な、というより何か諦めに満ちたような表情になった。
「ま、おおむねあの大学の先生の考えとる通りじゃな」
「いつ頃からあの大きな動物と付き合いをなさっているんですか?」
筒井の問いかけにノリコと呼ばれていた女性が答えた。
「3年半ほど前からだったかねえ?」
キミエと呼ばれていた女性が険しい顔で筒井に詰め寄った。
「あたしらみたいな僻地の田舎者は、動物との付き合い方まで都会の人間に指図されなきゃならんのかね?」
筒井があわてて愛想笑いを浮かべながら両手を振った。
「いえ、決してそんな意味じゃありません! ただ、あの巨大生物は危険である可能性が高いので」
最初の女性が感情のこもらない声で言う。
「山の生き物に危険でないもんなどおりゃせんよ。イノシシやシカだって本気で人間に襲いかかってきたら人死にが出る。昔は実際そういう事もあったそうだで。ウサギやキツネだって伝染病を持ち込む事もあるでな。あんたたちのような都会者にゃ分からんだろうがね」
松田が遠慮がちに口をはさむ。
「ですが、現に鉱山跡地で一人死者が出ています。用心するに越した事はないと思いますが」
女性は眉を吊り上げ鋭い口調で松田に言い返した。
「よそ者が勝手に入って来て、おおかた要らんちょっかいを出したんだろうよ。野生の生き物てのはね、人間がよけいな手出しをしなけりゃ、向こうから悪さはしてこないもんだ。あんたたちも余計な事はしないでくれや」
女性たちは水筒の口を閉じてベンチから立ち上がり、去って行こうとしていた。さっきの女性が松田と筒井に背を向けたまま、独り言のように言った。
「街に出て行った家族すら、盆にも正月にも寄りつかんような村だ、ここは。さびしい思いをしとる年寄りたちが、山の生き物を可愛がるぐらい好きにさせてくれんかねえ?」
筒井も松田ももう何も言えなくなった。女性たちがそれぞれの家に向かって去り、二人は顔を見合わせてため息をついて、その場を後にした。
その日の夕方、渡研の全員が宿舎に戻って来た。街から戻っていた大竹と渡と一緒に会議室として使っている宿泊スペースに集まって、4人の住民たちとの話の報告を聞いた。
「やっぱりそういう事か」
報告を聞き終わった渡が腕組みをして言った。
「そうなると厄介だな。あのネット動画投稿者に同行していた男性の死亡の方が例外的な出来事だった事になってしまう」
大竹が意外そうな顔で言った。
「僕はここに赴任して2年なんで、そんなに以前からの事とは知りませんでした。確かに、あの古代米がやたらと増えたのはちょうど3年半前からだったそうです」
その時、1階の宿泊施設の玄関辺りから大声が聞こえて来た。
「おおい、誰かいるかあ? 話しに来てやったぞ」
渡と大竹が降りて行くと、手に日本酒の一升瓶を持った大柄な白髪の男が立っていた。渡たちが集落に到着した日に怒鳴り込んで来た住民たちの一人で、自治会長の平田と名乗った男だった。
大竹が驚いて言う。
「平田さん、どうしたんですか急に?」
平田は一升瓶を頭の高さまで持ち上げて見せて答えた。
「今日は文句を言いに来たんでねえ。東京のお偉い先生とゆっくり話をしに来た。ちょうど福小町が一升瓶で手に入ったとこだしな。表に出て村をながめながら、飲むと最高だ。腹割って話をするにゃ、酒酌み交わしながらってのが、ここの習わしだで。どうだ、付き合うか?」
渡は快諾し、大竹も一緒に行くと言った。一升瓶をぶら下げた平田を先頭に、渡と大竹は宿泊施設の裏の斜面を登って行った。
5分ほど山の斜面を登り、岩がまるで丸いベンチのように斜面から突き出ている所に来た。平田がその岩の真ん中に腰を下ろし、二人にも座るようにと手で合図をした。
もう夕日が山の稜線に沈もうとしていた。夕日の光に包まれた集落の全景が見渡せた。大竹が驚いた口調で言った。
「こんな見晴らしのいい場所があったんですか。全然知らなかった」
平田は腰に下げた布の袋から平たい湯飲み茶わんを3個取り出しながら言った。
「ここの長年の住人だけが知ってる、取って置きの場所だ。さあ、まずはあいさつ替わりだ、飲め」
平田が湯飲みに日本酒をたっぷり注ぎ渡に渡した。渡は両手でそれを受け取った。二つ目の湯飲みに平田が酒を注ぎ始めると大竹があわてて言った。
「あ、僕は少しだけで」
平田はそれを無視して湯飲みの縁までなみなみと酒を注ぎ、押し付けるように大竹に手渡しながら言った。
「役場の勤務時間はもう終わっとるだろうが。おめえは若いんだから、ぐっと行け、ぐっと」
平田は自分の分の湯飲みに一気に酒をなみなみと注いで、それを目の高さに持ち上げた。
「そんじゃ、まずは一杯だ」
平田は湯飲み一杯の酒を一息で飲み干した。それを見た渡は、自分も湯飲みが逆さになるほど傾けて一気に飲み干した。渡がプハーッと息をついた。
「ほう、辛口ですな。これは旨い酒だ」
平田はにやりと笑って瓶の口を渡の前に差し出しながら言った。
「いい飲みっぷりだ。さ、もう一杯」
「はい、いただきます」
少しずつ暗くなっていく集落を見下ろしながら、平田が言う。
「ま、大学の先生ならもう気づいてんだろうが、あのでかい奴がこの村の近くで目撃されるようになったのは4年近く前だ。最初は俺たちも気味悪くてな。退治しようとして山狩りをした事もあった」
渡は今度はちびちびと湯飲みの酒を味わいながら平田に尋ねた。
「どういうきっかけで今のような付き合い方に?」
「別の狩りで独りで山に入った奴が斜面を転げ落ちて足の骨を折った事があった。普通なら救助隊が出るとこだが、あのでかい奴がそいつを背に乗せて学校まで運んで来た。今あんたたちが泊っている場所だ」
「そんな事があったんですか?」
「ああ、3年半前の事だ。人間に危害を加えないどころか仲間を助けたんだからな。で、よく様子を観察したらこの村に昔から生えてる古代米を食いに近くまで来てる事が分かった。どんな野生動物も縄張りにたんまり食い物がありゃ人間は襲わねえ。それで村に残った連中総出であの古代米をあちこちに植えた。あとは先生、あんたのお察し通りだ」
あまり酒が強くないのだろう、大竹がまだ一杯目の酒をちびちびとすすりながら平谷言った。
「どうしてそんな大事な話を僕にも役場にも教えてくれなかったんですか?」
平田は苦笑しながら答えた。
「こんな話が町場(まちば)に住んでる連中に知れ渡ったら、面白半分で見に来る奴らがわんさか出るだろうよ。俺たちはここの静かな暮らしが気に入っているから、ここに残ってんだ。それを邪魔されたくなかった」
「お気持ちは分かります。ですが、平田さんも気づいてるでしょう? ここの水道料金がずいぶん高くなったいる事に。この集落は村の中心部から遠すぎてインフラの維持が難しくなってきているんです」
「水なら裏山にいくつも湧き水がある。電気が停まるのなら灯油ランプがある。住人の食い物なら野菜と肉は村の畑と山の猟で何とかなる」
「そんなヤケになったような事をおっしゃらないでくださいよ」
「ヤケになる? そんな事じゃねえ。大竹さん、おめえ、この村がいつからあるか知ってるか?」
「確か江戸時代初期からですよね。もう400年近い歴史がある。あきらめきれないというお気持ちは理解していますが」
「いんや、何も理解しちゃいねえ。この村に電気が来たのは大正時代になってから、水道に至っちゃ戦後になってからだ。それまではこの村の住人たちはみんなそうやって生きて来たんだ。そっちの歴史の方がはるかに長い。俺たち先の無い年寄りで、そういう不便を承知の上でここに住み続けたいって連中だけが、今この集落に残ってる。役場がインフラを維持出来ねえってんなら、停めちまえばいいさ」
渡がおだやかな口調で平田に言う。
「麓のコンパクトシティにはどうしても引っ越したくないとお考えですか?」
平田は自分の湯飲みにまた酒を注ぎながら答えた。
「俺たちだって大竹さんの立場を理解していないわけじゃねえ。ああいう便利のいい場所に落ち着きたいって年寄りもいるだろうし、この村からだってそういう連中はとっくに引っ越しただろう?」
大竹が焦った口調で言う。
「はい、ですから今残っているみなさんにも移っていただきたいんです。人間いくつになっても新しい生き方は選べます。僕も役場もみなさんのためを思って……」
「それが、分かっちゃいねえって言ってんだ!」
平田は一瞬声を荒げ、酒を一口飲んで冷静な口調に戻った。
「なあ、大竹さん。俺たちみてえな先の短い年寄りの事を本当に思いやってくれてると言うのなら、選ばせるのは生き方じゃねえ。死に方だ」
「し、死に方?」
大竹が驚いて言葉を失った。渡が代わって問いかける。
「生まれ育った故郷で一生を終えたいという事ですか?」
「それもある。だが俺たちは町場にゃ住めねえ。ここの住人だって麓の町場へ出かける事はある。俺も月に2,3度は行く。そしてつくづく思うんだ。町場の暮らしには、何て言うか、人間臭さがねえ」
「人間臭さ?」
「たとえばだな、昔は町場でも、夕方に子どもが家に帰り始める時間になると、あちこちの家の台所からいろんな匂いが外に漏れてた。ああ、この家の今日の晩飯は焼き魚か、あっちの家はカレーライスか、そんな事を思いながら自分の家に向かってた。今じゃそんな匂いはどこの家からもして来ねえ」
「それは、確かに。最近の住宅は地方でも、換気扇がありますからね」
「それだけじゃねえぞ。ガキは走り回って遊んで汗まみれになるから側に寄って来ると臭い。けどそりゃあ元気がいい証拠だ。親になる世代の人間にとっちゃ必ず経験する匂いだ。犬や猫を飼ってる家からはそういう匂いがした。この村でも昔は牛や馬や豚を飼っている家も多かった。そういう家からはそういう匂いがしてた。臭い、悪臭と思うならそれまでだ。けどな、そういう匂いと無縁になった町場の暮らしは、そりゃ便利で快適かもしれねえが、俺たちみたいな昔の人間臭い生活を知っている人間にとっちゃ、張り合いがねえんだよ」
渡は思いがけない事を言われて茫然とした表情になった。
「今の住宅地は、都会も地方も、確かにそういう点では清潔になりました。それ自体はいい事のはずなんですが、そういう感じ方がありましたか。それは気づかなかった」
「この村が無人の廃村になるのはもうすぐ、20年ほどの事だろう。俺はもうちょうど80だ。今さら人間臭さがねえ町場に引っ越したって決して住み心地がいいとは感じねえだろう。だったら、今残ってる連中の中で最後まで生き残った奴が、この村の最期を見届けて自分もあの世に行く。そんな最後の生き方があってもいいじゃねえか」
すっかり陽が落ち、暗がりに点々と家の灯りがまたたく集落の風景を見下ろしながら渡が言う。
「この村の長い歴史に最後が来るなら自分たちで見届けたいというわけですか。何と言うか、それはそれでご立派な覚悟だと思います」
それを聞いた平田は、くすりと笑い声を立てて渡に言う。
「歴史? 覚悟? そんなご大層なもんじゃねえさ。あんた、俺よりは若いつっても、それなりの年だ。世の中の移り変わりはそれなりに見て来ただろう?」
「まあ、それはそれなりに……」
「俺が物心ついた頃はまだこの国中に太平洋戦争の傷跡が残ってた。あちこちの町の連中が着物やら掛け時計やらいろんな物を背負って農村に食い物と交換してくれと頭下げて頼みに来てた。この村にも大勢来た。けどそんな時代はすぐに終わり、高度成長の時代になると、町場には俺たちがそれまで見た事も聞いた事もなかった珍しい西洋の食い物があふれた」
平田は自分の湯飲みの酒を飲み干して、瓶を傾けて注ぎ、渡の湯飲みにもなみなみと注ぎ足した。
「明治時代に銅の鉱山が開かれる前は、ドカ雪が降り積もって農作業なんか出来ねえこの村の男はみんな遠くへ出稼ぎに行くしかなかった。鉱山があったから冬場も出稼ぎに行く必要はない時代になった。だが、その鉱山も閉鎖されると若い連中はどんどん町へ引っ越して行った。平野にそれなりの大きさの田んぼを持っている農家でも農業だけで食っていけない時代が来た。こんな米が作れねえ山里はなおさらだ。それでも、盆と正月にゃ出て行った若い連中が里帰りして来て、それなりのにぎわいもあった。いつしか、息子も娘も孫も寄り付きもしねえようになった」
平田は酒を口に運びながら星が瞬き始めた夜空を見上げた。
「1980年代の後半にゃバブル景気ってのがあったな。この村から出て行った若い奴らの中にゃ、その頃に大儲けしたとかで、でっけえ外車に乗って高級なスーツ着て、えれえ美人の嫁さん連れて帰省して来て親を驚かせたのもいた。けど90年代になるとバブルが弾けたとやらで景気のいい話はぱったり途絶え、その若いのも行方知れずになった。90年代の終わりにゃ日本中の銀行がバタバタつぶれた。金融危機とか言ったかな? この辺の高校卒の連中の憧れの就職先だった地方銀行もつぶれて無くなった。これ以上悪くなる事はねえだろうと思っていたら、2008年だったか、リーマンショックとか言うのが起こって、もっと悪くなった。世界恐慌の再来だとか言われて、秋田市内でさえ会社がたくさんつぶれた。2011年には東日本大震災。日本海側のこっちにゃ大した被害は出なかったが、原子力発電関係の仕事はごっそり減っちまった。そして過疎化だ、少子化だ、地球温暖化だとか、俺の年の人間にゃ空想科学小説の中の出来事としか思ってなかった事が、今では毎日のようにテレビで流れてる。大学の先生よ、あんたにとっちゃどうだった?」
「私もバブル崩壊以降の変化はよく覚えています。私も就職氷河期世代でしたから。今の仕事にありつけただけ、私は運が良かった。確かに驚くほど変わりましたね、世の中は」
「俺みてえなド田舎の百姓でさえ驚きの連続でとうていついて行けねえ、そんな移り変わりを見て来たんだ。この村の長い歴史? たったの400年じゃねえか、そんな物。たったの、だ」
「400年が、たったの、ですか?」
「おうよ。この村だって元はと言えば人っ子ひとり住んでねえ山の中の森だったはずだ。いつ頃からか、俺たちの先祖が木を切り倒し、開けた土地にして、畑を作って住み着いた。そして村になった。けどな、この日本の国の長い歴史の中じゃ400年なんて、なにほどのもんだ? もっと大げさに言やあ、人間と言うか人類の歴史は何十万年なんだろう? その中の400年なんて、あっという間の短い時間でしかないんじゃねえか?」
「人類の歴史に中で、ですか。それは確かにおっしゃる通りですな」
「そうだろう? だったらいつまでも過ぎた昔の栄華にしがみ付いてたって仕方ねえじゃねえか。たとえ水道も電気も止まっても、たかだか100年前の暮らしに戻るだけの事だ。いくら便利でも町場の暮らしで張り合いのねえ余生を送るより、この村の、自分たちのかけがえのない故郷の最後を見届けたい。そりゃ覚悟なんて格好のいいもんじゃねえよ。もう先がねえ俺たち年寄りの、最後に残った生き甲斐なんだ」
「まさに諸行無常ですね」
それまで黙って話を聞いていた大竹がぼそりとつぶやいた。
「よく住職さんが言っている言葉の意味が分かったような気がします。みなさんのためになると信じて疑わなかった、麓のコンパクトシティへの移住を勧めて来た役場の、そして僕の考えは間違っていたんでしょうか?」
平田はその問いかけに答えず、しかし穏やかな笑みを浮かべた顔を大竹に向けた。渡が大竹に言った。
「大竹さん、よそ者の私が言う事ではないかもしれないが、ここの住民のみなさんの願いが、本当に今のような話だとすれば、その願いに応えるのも行政の仕事かもしれませんよ」
大竹は手元の湯飲みに残った酒を一気に飲み干して、何か吹っ切れたような口調で言った。
「そうですね。何が本当にいい解決策なのか、もう一度、役場で話し合ってみます」
平田、大竹と別れ、渡は宿泊施設に戻った。だいぶ酒を飲んだはずだったが、平田に聞かされた話の内容が重かったためか、一向に良いが回って来なかった。
会議室として使っている部屋に渡が入ると、渡研の他の全員が座った渡を取り囲んだ。遠山が訊いた。
「あの人とどんな話をして来たんです? 住民の協力は得られそうですか?」
渡が話しあぐねていると、衛星電話の呼び出し音が鳴り、松田が電話に出た。松田の声が聞こえて来た。
「はい、お疲れ様です。あっ、それなら自分であります。はい、松田3等陸尉であります……青森駐屯地からですか? はい、はい。承知しました。渡教授にお伝えしておきます。はい、失礼」
衛星電話の受話器を置いた松田が渡の横に来た。
「渡先生、防衛省からの通知です。あの巨大生物は駆除の対象と決定したそうです」
「何だと? 自衛隊がここに来るという事かね」
渡が驚きの声を上げた。松田が言葉を続けた。
「第9師団所属の第9化学防護隊の車両が2台、明日午前9時頃にこちらに到着する予定との事です。決定の理由や詳細は、その時に隊長から説明があるとの事です。現時点では以上です」
渡はあごひげをしごき始めてつぶやいた。
「どういう訳だ? これは住民が納得せんぞ」
翌朝、2台の装甲車両が渡たちのいる宿泊施設の前にやって来た。渡研の全員と大竹が玄関先で出迎えた。その大きな6輪のタイヤの車両を見た松田が驚いて大声を上げた。
「化学防護車? どうしてこんな物が?」
車両のうち1台から戦闘用迷彩服を着た隊長が降りて来て渡研の一行に向かって大股で歩いて来た。松田が敬礼して隊長に行った。
「出動、ご苦労さまです。自分が松田3尉であります」
隊長も敬礼を返して言った。
「事態の詳しい説明をする。渡教授はいらっしゃるか?」
「はい、この方です」
松田が渡を掌で示すと、隊長は渡の前に立ち一礼した。
「今回の作戦指揮官です。渡研の方全員に説明を聞いていただきたい」
渡りも軽く頭を下げ、大竹を指差して隊長に尋ねた。
「彼も同席させていただけますか? 村役場の職員で、この集落の世話役のような立場の方なので」
隊長は大竹に向かって軽く頭を下げて言った。
「地元の自治体の方なわけですね。むしろ同席していただきたい」
渡は宿泊施設の会議室スペースに体調を案内した。
部屋で全員が車座になって床に座り、隊長からの説明を聞いた。隊長は分厚い書類ファイルを繰りながら話し始めた。
「各方面に送っていただいたサンプル、資料を分析した結果、問題の巨大生物は毒物を口から吐いたものと判断されました。植物系アルカロイドが元になった物質で、サリンに近い性質があります。中枢神経を麻痺させ、わずか数分で脊椎動物を死亡させる事が可能です」
遠山が驚愕の表情を浮かべて訊き返した。
「そんな毒を持つ生物など私は聞いた事がありませんが」
「未知だった物質です。しかし原料は判明しています。この集落に生えている古代米のようなイネ科植物、あれに含まれているアルカロイドを体内で化学変換し毒に変えているのです」
松田が待ちきれないという口調で隊長に言う。
「と言っても、武装した装甲車両が必要なのですか? なぜそんなに急いで駆除する必要があるのですか?」
隊長はファイルの書類を次々とめくりあげながら答えた。
「この毒物は吐き出された時点では液体ですが、一定以上の温度では気化する事が判明しました。渡研が採集した事故現場での小動物の死骸は、気化した毒物を吸引したためと断定されました」
渡が大きく息をしながら訊く。
「その温度は何度なんです?」
「摂氏30度です。気温が30度以上になると急激に気化し、いわば毒ガスになります」
大竹が悲鳴のような甲高い声で言う。
「30度! この辺りでも連日気温が30度越えは当たり前だ。じゃあ、もしあの巨大生物が毒液を吐いて、その後気温が30度を越えたら……」
隊長は大きくうなずきながら言った。
「もしあの巨大生物が山を下りて人口密集地帯に出現し、そこで大量の毒液を吐き、そしてそれが気化したらどうなるか? もうお分かりですね? これが我々化学防護隊に出動命令が下った理由です」
物々しい自衛隊の装甲車両が集落に入って来た事は、あっという間に住民たちの間に知れ渡った。
化学防護隊の隊員たちはまず小型のプロペラが4対のドローンを飛ばし、シバテリウムの居場所の捜索を行った。
住民たちは最初は化学防護車を遠巻きに眺めているだけだったが、大竹が姿を現すと平田が数人の住民を連れて彼に詰め寄った。
住民たちの声が化学防護隊の隊員たちにも聞こえるほど大きくなっていった。
「あいつらどうする気だ? 俺たちの村のでかいのを殺すつもりか?」
「ねえ、あの車の上に乗ってんの、機関銃じゃないのかい? あんな物を使ったら……」
昼前にはさらに県警の機動隊が4台の大型バスで集落に到着し、住民たちを隔離するバリケードの設置を始めた。
やがてドローンがシバテリウムの姿を発見し、至近距離まで接近して周りを飛び回り、追って来るように挑発した。
それまで樹木の間に腹ばいに座り込んでいたシバテリウムは「グゥオー」といううなり声を上げ、その巨体を立ち上がらせた。
ドローンが空中を移動してシバテリウムを山林の外へ誘い出す。シバテリウムは速足で集落の中に入って来て、時折後ろ足で立ち上がってドローンに噛みつこうと試みたが、ドローンは巧みに高度を上げ攻撃を避けた。
シバテリウムは少しずつ集落の内部深くに入り込み、途中で急に進む方向を変え、寺に向かって重々しい足取りで進んだ。
双眼鏡でその様子を見張っていた化学防護隊の隊長が隊員に大声で命じた。
「全員乗車! 機関銃の使用を許可する」
2台の装甲化学防護車は重々しいエンジン音を立てて、ゆっくりと寺の方向へ走り始めた。
機動隊が設置した、ひし形が連なる形の金属製のバリケードの後方には集落の住民たちが詰め寄り、高さ1メートルほどのバリケードをはさんで抗議の叫び声を上げていた。
「やめろ! あいつはおとなしい動物なんだ。こっちが危害を加えなきゃ何もしねえ」
「やめさせておくれよ。ただ山ん中でひっそり暮らしてるだけの生き物じゃないかね」
機動隊員の一人が住民たちを説得しようと声をかけた。
「あれは毒を吐きます。人里に出て来たら大勢の犠牲者が出るかもしれないんです。理解してください」
平田がバリケードの上に上半身を乗り出して怒鳴った。
「そんなもん、町場の人間の一方的な都合でねえが! あいつに一体何の罪があるってんだ?」
2台の化学防護車は左右からシバテリウムに接近した。寺の塀の側まで来ていたシバテリウムは怒り狂った様子で、左側から近づく化学防護車に向かって突進し、口から毒液を吐きつけた。
化学防護車の表面に青黒い液体が降りかかる。気密構造になっている車内の隊員には影響はない。
元々細長い車の窓に防御版が降ろされ、屋根の上にあるノズルから泡状の洗浄液が噴き出して車体全体にしたたる。
その隙にさらに接近していたもう1台の化学防護車に気づいたシバテリウムは、頭を低く下げ角を振り立てた。
そのまま頭の前方にある鋭く尖った1対の角を化学防護車の車体の前部に突き立てた。
ガンと音が響き渡り、化学防護車の全体が大きく揺れる。だが角が装甲を突き破るには至らなかった。
車内で操縦士が隊長に指示を乞う。
「隊長、後退しますか?」
隊長は決然とした口調で答えた。
「前進しろ。エンジン全開。押し比べならパワーでは負けん。押し返せ!」
化学防護車のエンジン音がさらに大きくなり、計6輪のタイヤが地面をかきむしった。じわじわと車両が前に進み、シバテリウムの体を押し返す。
化学防護車とシバテリウムが正面から組み合っている隙を突いて、もう1台の化学防護車の屋根に設置されているM2重機関銃が内部からの遠隔操作で巨獣に狙いを定めた。
銃口が火を吹き、パパパパという乾いた音が響き空薬きょうが地面に散らばり落ちた。
弾丸はシバテリウムの胴体に横から命中し、赤い血しぶきが噴き出した。シバテリウムは「ギェー」と苦し気な叫びを上げて、角を突き立てていた車両から頭を離し、発砲した化学防護車に向かって走り出す。
巨獣と組み合っていた方の化学防護車も重機関銃を作動させ、反対側の胴体めがけて掃射した。
左右から機関銃の掃射を全身にくらった巨獣は、血で真っ赤に染まった体を奮い立たせ、寺から離れて必死の疾走を始めた。
2台の化学防護車が左右から追いすがり、機関銃の掃射を続ける。幅広い谷になっている、その端にたどり着いたところで、シバテリウムは力尽きた。
数メートルほどの高さの崖になっている地面の、その上からゆっくりと巨獣の体は枯れ谷の底に向かって落下して行った。
機動隊のバリケードの向こうから集落の住民たちの悲鳴が響き渡った。
化学防護車から自衛官たちが降車し、気密防護服を着た隊員二人がロープをつたって崖を降りて行った。
枯れ谷の底に降りた隊員たちがシバテリウムの体を調べ、その死亡を確認した。隊長が車内の無線機の端末を口の側へ持っていき宣言した。
「こちら化学防護隊緊急出動班、状況終了。目標は無力化された。繰り返す、目標は無力化された」
やがて2台の化学防護車は、巨獣の死体の処理を警察に任せ、集落から走り去って行った。
渡たちは一連の出来事を遠くからただ黙って見つめている事しか出来なかった。
機動隊がバリケードを仕舞い、住民たちは沈痛な表情でそれぞれの家に戻って行く。
その中の一人と渡の目が合った。それは平田だった。二人は何も言わず、平田はプイと目をそらし、背を向けて歩き去った。渡は黙ってその背中に頭を下げた。
その日の夕刻、渡たちは大竹に見送られてバンに乗って集落を後にした。松田が運転するバンの中で、真ん中の列の座席に座った遠山が誰に言うともなく、ポツリとつぶやいた。
「それにしても、何故だったんだろう?」
渡が不思議そうな表情で遠山に訊いた。
「何か不審な点でもあるのかね?」
「いえ、大した事じゃないんですが。なぜあのシバテリウムは山奥に逃げ込まずに向かって来たんだろうかと思って」
「餌場というか縄張りというか、それを守ろうとしたんじゃないのか?」
「ううん、それだけだったんでしょうか。いや、そうですね。今さらそんな事を考えても仕方ないか」
その夜、集落の住民たちがぞろぞろと寺に集まって来ていた。大竹が後始末のために麓の役場に向かって車で出発して事を見届けた男性が皆に告げた。
「大竹さんは今夜は戻って来んそうだ。もう大丈夫だで」
平田と寺の住職が寺の納屋の扉の鍵を外し、扉を大きく開け放った。中から体高1メートルほどの3匹の動物が走り出して来た。
その姿は角が無いシバテリウムだった。3匹はそれぞれ近くにいた住民たちにじゃれつき、住民たちはその頭や胴体を撫でた。住職が平田に言う。
「この子たちだけでも無事で良かった。だが山に放した方がいいでしょうな、こうなっては」
平田が寄って来たシバテリウムの子どもの頭を撫でながら答えた。
「そうだな、住職さん。ま、会いたくなったら俺たちが山に行けばいい。大人になるまで、近くにいるだろうしな」
平田はシバテリウムの子どもの首を抱いてその頭を集落の方へ向けながら言った。
「いいか、おめえら。よくこの光景を覚えておけや。あめえらのおっ母は死んじまったけんど、ここがおめえたちの生まれ故郷だ。ふるさとだ」
もう2匹の幼獣が平田に寄って来た。平田は愛おしそうにその体を撫でながら言う。
「大きくなってどこかに行っても、年に1回ぐらいはここに里帰りして来いや。まだ20年ぐらいは誰か生き残ってるだろうしな。俺たち全員がいなくなった後も、この村を忘れねえで帰って来い。嫁さんやだんなや、子どもを連れてな。もう寄り付きもしなくまっちまった、俺たちの子どもや孫たちの代わりにな」
夜の闇に包まれた集落に、「キィー」というシバテリウムの幼獣の甲高い鳴き声が響き渡った。
それはどこか物悲しく響いた。人々の記憶からさえ消え去ろうとしている村への挽歌(エレジー)であるかのように。